https://www.rakutendo.com/karakotokai/home/kotoba-asobi.html 【ことば遊び】より
(一)「うらめしや~」
稽古会で行っている稽古の一つに、「おばけアプローチレッスン」というものがある。これは、AB二人の人が4~5メートルはなれて立ち、お互い目をつぶる。BがAに向かって両手をさしのべ、Aが――からだの勘覚で――近づいてゆくというものである。この時、Bは二通りのしかたで腕を出す。一つは手の甲を相手に向けて、もう一つは手の平を向けて、である。ではどちらが近づきやすいだろうか?
一般的には、掌(てのひら)を向けられた方が、距離が縮まる。ただまれに、邪気=「近づかないでえ」光線を(無意識で)発する人がいるので、そんな場合は「今晩のおかずはどうしようかな、とアレコレ考えてください」と指示を出すことにしている。
私たちは、手の平で握手をし、手の甲で「しっ、しっ」と犬を追い払う。実は、からだとことばを育む会が稽古の拠り所にしている内観技法では、〈表〉と〈裏〉という根元的な二つのからだの勘覚があり、肉体的な象徴が、表=面手(おもて)すなわち顔と手、裏=大地とふれる足の裏ととらえ、さらに手もこまかく見れば、甲が表、平が裏なのである。
高校の文化祭の定番、お化け屋敷には幽霊がつきものだが、誰もがおもいうかべるあの姿(額に三角巾、身に白い経帷子(きょうかたびら)をまとい、両手をゆらゆらと前に出して、「うらめしや~」と迫ってくる)は、江戸時代の絵師・円山応挙(まるやま・おうきょ 1733-1795年)が初めて描いたそうだが、とげられなかった己(おのれ)の欲望や深い恨みをあらわすには、まさに手の甲を向けるしかないだろう。
なぜなら、もの(者・物・霊)との関係性でいえば、〈裏〉は、つながる勘覚「わ」(漢字であらわせば、和・輪・環・我・倭)を生み、〈表〉はわかれる(和枯れる)勘覚「こ」(漢字であらわせば、個・孤・小・子・粉)を生むからである。掌を向けられて幽霊に抱きつかれては、たまったものではない。
では、お決まりの殺し文句は、「裏飯屋」=裏においしい飯屋がありますよ、だろうか。まさか。裏盲(めしい)+感嘆の「や」、つまり、あなたに裏切られてもう目がみえない。このままでは成仏(じょうぶつ)できない。この落とし前を、どうつけてくれるの――という悲痛な自我の叫びなのである。
内観技法は、肉眼を閉じて心眼でからだの勘覚を視覚的にとらえようとする技法だが、〈表〉の勘覚は白、〈裏〉の勘覚は黒と位置づけている(クレヨンのような色彩感覚で理解されると困るが)。いわば、〈表〉は生、〈裏〉は死の象徴である(ただし、死とはいっても、生を産む母胎としての死=“おおいなる生”といったほうがよいかもしれない)。
結婚式では、なぜ白いウエディングドレスを着るのか。葬式では、なぜ黒い喪服なのか。パトカーは、なぜ、上が白、下が黒く塗り分けられているのか。整体協会の創立者・野口晴哉(のぐち・はるちか 1911-1976年)は、テレビで相撲観戦をしていて、どちらが勝つか、言い当てたそうな、「腹が黒い方が勝つ」。別に浅黒い肌をした力士のことではない。からだの勘覚としてのはらが黒、死に勝る生はあるまい。
※
夏の朝、早起きをして虫取りに行く。ズック靴を朝露でぬらし、狭い山道を、近所の友達と前になり後になりながら、急(せ)く気持ちをおさえて歩いてゆく。
お目あては、くぬぎの木――樹液に、カブトムシやクワガタが、群れているのだ。いつか小走りになって木に駆けよる。「いたぞ!」見つけたもんの勝ちである。遊び仲間どうしでも、ここは競争だ。子ども時代の思い出・・・。
そこは、裏山だった。いつから「里山」という――耳にはここちよい――言葉に代わってしまったのだろう。人家のすぐ裏手にひかえていた。子ども達の遊び場だった。でも夕暮れがせまり、あたりが薄暗くなってくると、逃げるようにして家に帰らなければ、こわかった。
山姥(やまんば)や神隠しの話を、親から聞かされていたわけでもなければ、そんな知識を持ち合わせていたわけでもない。でも、気配が、雰囲気が、教えていたのだ。さらに奥には、人間が踏み入ってはいけない禁忌・聖域が、ひかえていることを。
社会科の地図帳には、日本海側は「裏日本」・太平洋側は「表日本」と表記されていた。裏は暗い、マイナスイメージ? 昭和三十年代からはじまる高度経済成長期、裏山はけずられて団地が造成され(スタジオジブリのアニメ『平成狸合戦(へいせいたぬきがっせん)ぽんぽこ』で描かれた世界である)、海辺の浦は埋め立てられて工業地帯に様変わりした。
人間と自然は一体である。私たちがからだの〈裏〉の勘覚を喪った時、自然からも“うら”が消滅していた。もう二度と元にもどることはない――子どもたちに海山のうらを伝えられなかったことに、私は立ちすくむ。
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物事には白黒がつけられるかもしれないが、私たちの人生は、そうもいくまい。詩人の宮沢賢治(みやざわ・けんじ 1896-1933)は、詩集『春と修羅(しゅら)』の「序」で、次のように語りかけている。
宮沢賢治『春と修羅』序
なぜ、青なのだろうか。漢字学者・白川静(しらかわ・しずか 1910-2006年)の指摘が、ひとつのヒントになるだろう。
「(青は)古くは黒から白までの中間の暗をいい」(『字訓』普及版p.55 平凡社)
そして、万葉仮名では、「こころ」に情の字をあてていた例もある、と何かの本で読んだ記憶がある。そう、私たちの心は、白-あたま-人間的悟性の世界と、黒-はら-動物的本能の世界の間で、日々、この瞬間にもゆれうごいているのである。
「地球は青かった」――宇宙船から地球を見た宇宙飛行士はこう発したが、私には(常識的には、海の青さであろうが)この地に生きる七十億の人間達が、せわしくせわしく生きながら発光させている、いとおしくもあわれな、生の光のように思える。
「ま」と「から」
ある朝、いつものトイレ掃除に入ると、スリッパが横を向いている。あなたなら、この後どうしますか? (1)足先で、ちょこちょこっと向きを変える、(2)スリッパをはいて、向きを変える、(3)腰を落とし、手で向きを変える。
白状すれば――普段の私なら(1)をしていたのを――その日ばかりは、何か“そぐわない気”がして、(3)で直していた。
その時、「手間(てま)をかける」というのは、こういうことか、と初めて腑に落ちた気がした。「かける」を漢字であらわすと、駈ける・掛ける・架けるetc.になる。A→Bへの空間的な移動、それにともなう時間の発生、そして事前事後の間の何らかの変容をさしているように思われる。空の間(ま)と時の間(ま)をもっとも用いるのは、(3)の動作だろう。
もちろん私とて、この用語の意味は知っていたが、「丁寧に」という言葉の置き換え、単なる比喩としての知識だった。大仰(おおぎょう)に聞こえるかもしれないが、初めてからだの勘覚として、言葉が身に染みたのだ。
からだとことばを育む会の活動を続けてきて、このところ間(ま)という言葉が大切ではないか、と思うようになってきた。何より、人間であり、人が生きる時間・空間であり、日本という文化共同“体”での世間(せけん)であり、そして手間である。
間(ま)
整体では、もの(者・物・霊)にふれる(「さわる」ではない)手のことを、愉気(ゆき)と称している。究極には、“いのちにふれる手”である。普段私たちは、ものから情報を得て識別するために、頭で手を操作している。それでは、いのちにふれられない。稽古会の稽古は、ひとことでいって、ふれるための技(わざ)と理(ことわり)の追究である。
では、どのようにすれば手で間を創れるのか?スポーツや武術・技芸では、「ひじをはれ」「ひざをぬけ」とよく言われる。これが肉体的な意味での――目に見えてわかりやすいという点では、〈表〉的な――間のとりかただろう。つまり、肩胛骨の中央と肘、手首をむすぶ三角形と、股関節、膝、足首をむすぶ三角形である。では、その〈裏〉付けは?
内観技法では、物質的な肉体を名(めい)、からだの勘覚を実(じつ)ととらえている。「名実ともに」という時の表現である。あくまでも勘覚が主であり、肉体は従であるとしている。では、からだの勘覚としての間とは?
語呂合わせに聞こえるかもしれないが、からだは、から(空・殻・腔)+強調・断定の「だ」ではないだろうか。こういったからといって荒唐無稽な話ではなく、医学的には、頭蓋腔(ずがいこう)・胸腔(きょうこう)・腹腔(ふくこう)という三つの空間が存在する(だんご三兄弟!)。
内観技法では、それぞれ「意識」の間/「心情」の間/「気力」の間ととらえ――イメージとしては、PCのos・windowsならぬ四角形の窓(平面)/ピラミッドの形をした三角錐の鏡(立体)/欠くところなき光の玉(球)――この三つの間(あいだ)を調えることを旨としている。頭は〈表〉(例 「面白い」)、腹は〈裏〉(例 「腹黒い」)の勘覚の源ともいえるので、二つを映す胸の鏡・心鏡(しんきょう>心境)で、日々どのようにして表裏のバランスを保つか、の鍛錬になる。
具体的にいえば――内観に慣れていない人には分かりづらいと思うが――手でふれながら、胸においた心眼で、からだの勘覚の焦点=気力の“煮こごり”(<二凝り・凍り)と、はらの中央の原点をむすんで三角形をつくり、「かどがとれて、まるくはらにおさまる」まで待つ。
ただ、間は真(ま)に転換しうるが、魔にも陥りやすいという事は、重々(じゅうじゅう)こころしておかないといけない。
※
「和を以(もつ)て貴(とうと)しと為し・・・」(聖徳太子『憲法十七條』)とされた日本という文化共同“体”は、150年まえの明治維新と1945年の敗戦によって、おおきくそこなわれた。では、私たちは、〈裏〉から〈表〉へ、和から個にのりかえて、大和人(やまとびと)よりも一個人として自立しえたのだろうか。いや、昨今の政治状況・社会情勢をみれば、そんなことは言えまい。文化・歴史を担う主体としての自覚を欠き、かといって客体の勘覚を喪失して、根こぎにされたからだやことばが、この時空(じくう)を浮遊している。
ただ、大言壮語癖のある私は、伝教大師・最澄(さいちょう 766-822)が若き僧侶に向けて記したとされる文言を、自らの戒めにしたい。
「一隅(いちぐう)を守り、千里を照らす」
この言葉で思いおこすのは、近くのお好み焼きやのおばちゃんだ。北野天満宮のバス停の前で、「おもひで焼き」ののぼりをかかげて、四十年近く商売をしてきた。わずか三畳ほどの店、1個100円から特大でも480円。
実は去年の正月に、イギリスに留学した娘を訪ねて家族で旅行したことがあった。そのストレスからか、高校生の息子がアトピーが悪化し、いつもおいしく食べているおもひで焼きで元気になりたいと、私が代わりに買いに行った。
ひとしきり世間話にはながさいた後、「ここらあたりでおばちゃんのが一番おいしいと子どもが言ってるよ」と言うと、おばちゃんは喜んでくれたがすぐに真顔になって言った。
「わたしは外国に行ったことがない。ここで日本を守っている」
別に右翼でもなんでもない。普段、そんなことを話すような人ではない。朝は、店のまえを門(かど)掃きし、「欲ばらんと」数百円の粉もんを売って子どもを育ててきた。
私ははずかしかった。おまえは幸運にも何ヵ国か外国旅行ができたが、その体験を社会に還元しているのか?
「和を以て貴しと為す」&「個として立たむと欲す」
(二)「まじめ」
去る3月28日の朝日新聞朝刊に、前日の国会で行われた証人喚問についてのジャーナリスト・青木理(あおき・おさむ)氏の感想が載っていた。
「見ていた限り、佐川氏は一度もいすの背もたれに寄りかからず、いかにも真面目な官僚然としていた。ただ、発される言葉は国民や社会全体ではなく、政権と保身ばかり考えたものではないか」
私は青木氏のコメントに Yes! を投じるが――決してあげあしとりではなく――「真面目」という言葉に違和感を感じた。この当て字は、“真(ま=真理、真実)に面する顔、真からそむけない目”という意味で用いられてきたのではないか。私もテレビで観ていたが、彼の態度(からだ)は不真面目そのものだった。
確かに現代では、「真面目な良い生徒」とか「仕事ぶりは真面目だった」というように、目そのものではなく、ある様態を表現する場合に用いられることがほとんどだろう。では、真面目とはどのような目を持つことなのだろうか?
内観技法では、三つの目を措定している(よく見ると、「真面目」という文字には、目が三つ含まれているではないか!)。
まず、頭の上心(じょうしん)にある肉眼。これは、ものを識別し、ものから情報を得るという、動物の目プラス、常識や科学の目である。からだの勘覚では、基本的に〈表〉になる。
次に、胸の中心(ちゅうしん)にある心眼。この目は、自己の内をみつめる内省の目であり、外に向けてはもの(者・物・霊)の――表面・物質ではなく、深層・本質という意味での――“こころ”を感じる目である。心眼は、上心の〈表〉・下心の〈裏〉のどちらも映す“合わせ鏡”になっている。
稽古会では、この心眼を鍛えることをメインにすえ、原則として目を閉じて稽古している。まぶたを開けていては、心眼が上に(脳へ)引きずられて本来の働きを失い、肉眼とかわらなくなってしまうからである。
それでは、第三の目とは――漫画『ゲゲゲの鬼太郎』に登場を願おう?!
ゲゲゲの鬼太郎
鬼太郎には、目が一つしかない。右目である。左には鬼太郎の父親・“目玉おやじ”がひそんでいて、鬼太郎のメンター(師)としての役をはたしている。妖怪の鬼太郎が、なぜ“こちらとあちらの世界”を往き来できるのか?それは、鬼太郎が――左目を失って――右目しか持っていないから、というのが私の仮説である。
現界(げんかい)を生、幽界(ゆうかい)を死(=生の母胎でもあるおおいなる世界)ととらえてみると、それぞれの象徴が太陽と月ではないだろうか。『古事記』に曰く、
「ここに(伊邪那伎命(いざなきのみこと))左の御目(みめ)を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月讀命(つくよみのみこと)。次に御鼻を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」(倉野憲司校注『古事記』岩波文庫 p.30)
内観技法では、からだの勘覚として、左目-右半身は〈表出〉を、右目-左半身は〈受容〉をあらわすととらえている。二つの勘覚世界は、首の一点で×(交差)している。ゲゲゲの鬼太郎は、左目をまさに表に出し、右目でこの世とあの世の二世を生きている(受容している)といえないだろうか。
『ゲゲゲ~』の作者・水木しげる(みずき・しげる 1922-2015年)が戦争体験を記した『水木しげるの娘に語るお父さんの戦記』 (河出文庫) を読むと、彼が壮絶な戦場体験を生き延びたことがうかがえる(左腕は失ってしまったが)。ニューギニアの戦地で文字どおり九死に一生をえたのは、水木のたぐいまれな生命力のたまものであったと言っても過言ではないだろう。妖怪=物の怪(け)の世界を漫画に描くことができたのは、彼の想像力&創造力が豊かであっただけでなく、この“からだ”が下地にあったと思われる。
私は鬼太郎の右目を、離眼(りがん)と名づけたい。この目は、人にあっては心眼よりさらに下へ、内へ、奥へはいった、はらの下心(かしん)中央に位置する気力の目である。その働きとは、自己そのものを相対化し、“世界は、肉眼で見ている(現に在ると思っている、実在を疑わない、科学という一つの近代のものさしで実測可能な)コレだけではない”ことを知らしめる。
能の大成者・世阿弥(ぜあみ 1363?-1443?年)が『花鏡(かきょう)』で説いた「離見(りけん)の見」とは、この離眼ではないだろうか。
【離見の見】
[資料](pdfファイル B5)
稽古会では心眼を鍛える稽古しかできていないが、これから試行錯誤しながら、離眼を探求したいと思っている。今はまだ、はらの中央(下心)と右目、視覚の対象(例えば、世阿弥のいう「見所」)の三点をむすんで三角形の間(ま)を創り――右目は開いて左目は閉じたまま――もの(者・物・霊)をはらにおさめることによって自己(自分の姿そのもの)を客体視できるのではないか、というおぼろげな推測の段階である。
※
何年か前、私は夢の中でイエス・キリストに会ったことがある。前後関係は覚えていないが、湖の岸辺でイエスが小舟に乗ろうとしている。弟子(?)が二人、船を出そうとしている。私がその場に立っている。イエスと目があった時――「この男には自我がない!」と私は驚愕(きょうがく)してしまった。
その目は――摩周湖のように――深く、湖面に写った顔の影のように、私の姿だけがうつっていたのだ。「わたしについてきなさい」、そう言われたら、私は何もかも捨てて――手に持っているものも、家族も何もかも――この人についていくだろう、と直感していた。
クリスチャンからは、「何をバカな!イエスは神の子だ」としかられそうだが、私は「人間は、ここまで達しうるのだ」と夢からさめた後、感慨にふけった。客観的に考えれば、キリストを描いた聖画の記憶と、その日の何らかの心的インパクトが合作した産物に過ぎないかもしれない。
でも私にとっては、目がすべてをものがたっていることを――いわば身体知として――了解(りょうげ)した体験だった。肉眼→心眼→離眼というのは、人間の成熟を表す三段階ではないだろうか。人はパンのみにて生くるにあらず。そして、死者とともに在る。
まじめに生きようと思う。
(2018/04/16 記)
附記:最近、マスメディアによく登場する政治家や芸能人に、左右の目の大きさが違う人が多いような気がする。からだの勘覚でいえば、〈受容〉と〈表出〉のアンバランスが原因であろうが、どちらの目を開いて(あるいは閉じて)“世界”を見ようとしているのか、くらべてみるのも面白いかもしれない。
ゲゲゲの鬼太郎は、生まれつき左目を失っていたが、戦国武将の伊達政宗(だて・まさむね)は、幼い頃に病気によって右目を失明したそうである。彼は〈表出〉の人となり、「独眼竜」(どくがんりゅう)と呼ばれた。
また、目の左右ではないが、劇作家&演出家&役者の野田秀樹(のだ・ひでき )氏は、舞台で集注すると、寄り目になるという興味深い体験をつづっている。
【役者の寄り目】
[資料](pdfファイル B5)
最後に、では、目の見えない人はどうなのか、という疑問が当然おこってくるだろう。私には正直わからないと言うしかない。他の知覚(特に聴覚)と心眼で補っているのでは、と推測するばかりだ。さらに、耳も聞こえない盲聾者(もうろうしゃ)のケースは?
思春期に、視覚と聴覚をすべて失った福島智(ふくしま・さとし)東京大学教授は、著書『ぼくの命は言葉とともにある』(致知出版社)の中で、次のように述べている。(同上書 pp.16-17)
「『光』と『音』を失った高校生のころ、私はいきなり自分が地球上から引きはがされ、この空間に投げ込まれたように感じた。自分一人が空間のすべてを覆い尽くしてしまうような、狭くて暗く静かな『世界』。
ここはどこだろう。(中略)私は限定のない暗黒の中で呻吟(しんぎん)していた。
美しい言葉に出会ったことがある。全盲ろうの状態になって失意のうちに学友たちのもとに戻ったとき、一人の友人が私の手のひらに指先で書いてくれた。
『しさくは きみの ために ある』
私が直面した過酷な運命を目(ま)の当たりにして、私に残されたもの、そして新たな意味を帯びて立ち現れたもの、すなわち『言葉と思索』の世界を、彼はさりげなく示してくれたのだった」
PS:目に関して、『古事記』に次のような一節があることを知った。
「また食物(をしもの)を大気都比売神(おおげつひめのかみ)に乞ひき。ここに大気都比売、鼻・口また尻より種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出(いだ)して、種々作り具(そな)へて、進(たてまつ)る時、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)その態(わざ)を立ち伺(うかが)ひて、穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るとおもひて、すなはちその大気都比売神を殺しき。かれ、殺さえし神の身に生(な)りし物は、頭(かしら)に蚕(こ)生り、二つの目に稲種(いなだね)生り、二つの耳に粟(あは)生り、鼻に小豆(あづき)生り、陰(ほと)に麦生り、尻に大豆(まめ)生りき。かれ、ここに神産巣日(かむむすひ)の御祖命(みおやのみこと)、これを取らしめて種(たね)と成したまひき」(『古事記』(上)講談社学術文庫 p.95)
豆屋としては、二つも豆が紹介されているのはうれしいが、〈表〉のなかの〈表〉である頭に、唯一、昆虫である蚕(かいこ)が載っているのは、衣=着ることの――人間にとっての――重要さを示していないだろうか。
(三)「タテ・ヨコ」
三十代なかばの時、一年ほど熊野の山間(やまあい)で“仙人暮らし”をしていた。廃校になった小学校に一人住み、米や野菜をつくり、小説を書いていた。そんな折り、ある人から紹介されて、ヨガの“行者”に会いに行ったことがある。
彼は若き頃はクラシックの演奏家で、一方、酒浸りの生活を送っていたそうだが、ヨガに出会ってからは音楽とアルコールとは縁を切り、修行一筋の道を歩んできたという。私の住処(すみか)からさらに奥にはいった処にある彼の家からは、重畳(ちょうじょう)たる熊野の山並みが見え、壁際の本棚は、ヨガの原典らしき本や解説書で埋めつくされていた。
書斎に端座(たんざ)した彼は、しずかにヨガ三昧(ざんまい)のよろこびを語った・・・・今は、請(こ)われて大阪までヨガを教えに行き、生活の糧を得ているという。インドから高名な指導者が来たときは、通訳などもしている。音楽家時代に結婚した奥さんと二人暮らしなのだが、「来世はもう結婚などしない。今生(こんじょう)は、妻には申し訳ないと思っている」とほほえんだ。
実をいうと――帰りのバス便がなかったので――一晩泊めてもらおうと(内心)期待していたのだが、そんな話にはつゆならず、夕刻に近づいたとき、「妻に送らせましょう」という一言で会見はジ・エンドになった。
窓外に鳥の鳴き声しか聞こえない静まりかえった家の中で、その時、初めて奥さんが姿を見せ、私は彼女の運転する車で路線バスのある国道まで――短い雑談をかわしながら――一送ってもらったのだった。礼をいって車を降りた後、私はいたたまれない気持ちにしずんでいた。それは、彼女の表情やかもしだす雰囲気が、かぎりなく悲しみにみちていたからだ。
道を得た(と称する)人間の最も近くにいる人が幸せに感じられないのは、ナゼか・・・・。それは長い間、私にとっての疑問だった。
※
今なら、私はこう言える。
ヨガは、輪廻転生(りんねてんしょう)からの解脱(げだつ)を求める技(わざ)と理(ことわり)だからだ、と(カルチャーセンターやスポーツジムのヨガ教室は、そこまで求めていないだろうが)。この世で、他者とどのように関係を持って生きていくかは、本質的に問うことをしないのだ。スイカを皮から一心不乱に食べていたり、からだ中に釘をさして苦行に励む、インドの行者を映した写真集やテレビを思い出す。
一度、ハタ・ヨーガの指導者・成瀬雅春(なるせ・まさはる)氏の倍音声明(ばいおんしょうみょう)のワークショップ(WS)に参加したことがある。倍音声明とは、チベット密教の瞑想法の一つで、第1チャクラから第7チャクラへ下から上に向けて「タテ」に、それぞれ対応する母音「m・う・お・あ・え・い・n」を順に発声し、チャクラを開いていく技法である。WSでは、皆で輪になってチャント(唱和)を繰り返していた。
内観技法では、下から上へ・内から外へという気のベクトルは、からだの勘覚〈表〉にあたる。それに対して、上から下へ・外から内へという気のベクトルはからだの勘覚〈裏〉と位置づけ、日本文化の身体運用では――整体のみならず、武術や伝統芸能など――こちらに重きを置いていると捉えている。
からだの勘覚と母音との関係でいえば、内観技法では、はらに5つの調律点があると措定(そてい)し、それぞれ母音の「あ・い・う・え・お」に対応するとしている。【下図 参照】
はらと母音
試みに、「う・お・あ」と発音してみると、倍音声明と同じく下から上へ気は「タテ」に昇華するが、「え・い」では一転して左から右へ「ヨコ」に向かう。“気合いを入れる”時の「えい!」である。また、「あ・い・う・え・お」と五十音順に発声すると、反時計回りの渦ができる。これは北半球で水がつくる渦巻きと同じ向きだそうな。
この「タテ」の勘覚は、内観技法では“こし”から生まれたと捉えている。ヒトが四つ足動物から二本足で「立った」=ある線を「越した」、すなわち手が自由になり、脳が発達して、今日の――重力を脱して月まで届かんとする――文化・文明を築いた原動力である。一方、「ヨコ」とは、生きとし生けるものすべての母胎である大地=野原によこたわる勘覚、文字どおり“はら”である。生(ナマ)の、動物的な、生命力にほかならない。
こしは父性的で、はらは母性的とも言えよう。どちらも人間にとって欠くべからざる身体感覚であるが、あえていえば、ヨガ(を産んだインド文化)に限らず西欧文化は、一般論としてこしを主・はらを従とするのに対して、日本文化は(近代以前の江戸時代までは)はらが主だったのではないだろうか。神は――天上の唯一神・絶対神ではなく――八百万(やおよろず)・山川草木(さんせんそうもく)にいまします。生者は死者=命(みこと)と共にこの地にある、解脱ではなく生命(命を生きる)を求める文化である。
評論家の加藤周一(かとう・しゅういち 1919-2008年)は、『日本文化における時間と空間』(岩波書店)の中で、時間的に「いま」・空間的に「ここ」に生きる日本人の共同性を日本文化の本質として指摘し、文学や絵画、建築などで具体的に検証している。
まず、文学における時間の表現:
「閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声
そこでは時間が停まっている。過去なく、未来なく、『今=ここ』に、全世界が集約される。
芭蕉はそこまで行った。俳人の誰もがそこまで行ったのではない。しかし誰もが『今=ここ』の印象に注意し、その時までのいきさつからは離れ、その後の成り行きも気にかけず、現在において自己完結的な印象の意味を、見定めようとしたのである。俳句は日本語の抒情詩の形式が歴史的に発展した最後の帰結である。今ではおそらく数十万の人々が俳句でその『心』を表現しようとしている。さればこそ数百万の発行部数をもつ大新聞にも読者の俳句の欄がある。そのことの背景は、おそらく彼らが、少なくともその心情の一面において、現在の瞬間に生きているということであろう。」(同上書 p.78)
続いて、建築における空間の表現:
「日本では宗教的建築でさえも、平屋または二階建てで、地表に沿って広がり、天へ向って伸びてゆくことはない。神社には塔がない。(中略)例外は仏教寺院の五重塔である。しかし第一に、仏教は外来宗教であり、五重塔は外来宗教の造形的表現の一つである仏塔の『日本化』である。第二に、中国には大雁塔のように高い仏塔もあるが、日本では層を五重または三重に限り、幅の広い廂(ひさし)をほとんど水平に四方に出して、垂直の線を隠した。日本化とは塔の非塔化である。多数作られた五重塔は、日本建築にも高さへの志向があったということを証言するのではなく、日本では宗教建築においてさえも天を指して上昇する傾向はなかった、あるいはきわめて弱かったということ、建築的空間を水平面に沿って構成する傾向こそがきわめて強かった、ということを証言するのである。」(同上書 pp.167-168)
それは何故なのか。列島、モンスーン気候、稲作、「単一」民族、帝国の周縁・・・さまざまな言葉がうかぶ。近代主義者の加藤周一は、農村共同体の「ムラ」意識に(個人の自由を抑圧するものとして否定的に)起源を求めている。そして、このような土壌から産まれた、歴史に対する責任&未来への洞察の欠如と、閉鎖的で多様性を認めない――武術でいうところの「居着いた」――大勢順応主義(コンフォルミズム)を断罪している。
いにしえの――と言っても百五十年前まで――“はら>こしの文化”に生きていた武士は、切腹して身の証(あかし)を立てた。そこには確かに(西洋人の目から見てグロテスクと言われようとも)、身体性があった。ひるがえって、現代の日本はどうであろうか。「原子力ムラ」の存在や「今だけ・オレだけ・金だけ」という言葉に象徴されるように、加藤が指弾した“日本的なあまりに日本的な”事例にみちみちている。
ただ――江戸時代と決定的に違うのは――共同体という身体性が欠落しているのだ。他者に共感する(まして共苦する)客体ではない。悪しき“本根(ほんね)”がむきだしなっている。かといって、西欧的な“立て前”(思想・信条といってもよい)で生きる主体でもない。他者との関係性の中で生きる喜びを喪(うしな)ったデラシネ(根無し草)たちが、我利我利亡者(ガリガリもうじゃ)となって貨幣を、国家を、観念を、むさぼっている。
※
先日、ビフィズス菌のサプリメントを、初めて買った。メディアで最近よく目にする、「初回限定、一週間分、何と500円」というアレである。実は飲んでお腹の具合をよくしようと思ったわけではなく、豆乳ヨーグルトを手作りでつくっているが、そこに(ヨーグルトは乳酸発酵。乳酸菌は小腸で活躍する)大腸で働いてくれるビフィズス菌を種菌として仕込んだら、ダブル菌効果!が期待できるのでは、ともくろんだのだ。
効果のほどはさておき、一緒に送られてきたパンフに、こんな一節があった。「腸は食べ物の消化や吸収にとどまらず、ホルモン系・神経系・免疫系をそなえており、特に脳から独立した神経系は『第二の脳』と呼ばれている」
私はそれを読んで――言葉尻をとらえるつもりはないが――??に思った。第一と第二は、逆ではないか、と。つまり、人間の個体発生(受精卵が細胞分裂を始めて、まず)においても、生命の系統発生(単細胞生物から人類にいたる進化の歴史)においても、最初に腸がつくられ、脳は後からできたのであるから。人体は、ミミズ(腸+一本の神経で生きている、脳なし)が、基(もとい)なのだ。
この第一の腸脳(生命的な活動をになう)を、日本文化では「はら」と呼んできたのではないか。それに対して、第二の頭脳(人間的な活動をになう)は――時に揶揄(やゆ)の対象として――「当た間(ま)」「尾詰(おつ)む」などと言い表されてきたのではないだろうか。
私が子どものころ、「頭のいい人」「大学を出た学者さん」というのは、しばしば「世の中のことを何も分かってない、世間知らずの人間」という軽侮(けいぶ)のニュアンスをこめて、庶民は使っていたように思う。
では、こしは? 二つの脳をつなぐ、パイプである。稽古会では、これを心髄・真髄・神髄(しんずい)と名づけている。息や気、それに心眼の通り道である。現代人である我々は、近代以前の――たこ焼きに上から爪楊枝(つまようじ)を刺しても倒れない――「はらがすわった」“腸脳>頭脳スタイル”に戻るのは、不可能だろう。また、人権など無いに等しかった身分制社会を良しとすることもできない。
ただ――下から爪楊枝を刺すとたこ焼きはあっけなく倒れてしまう――「頭でっかち」な“唯脳・電脳生活”を脱して、タテ・ヨコ、〈表〉・〈裏〉のバランスが調った社会に世直しする道は、まだ残されているのではないか。すなわち、生命的であって人間的な、和でありつつ個として生きられる、〈分かち合う文化〉の創造である。殺戮(さつりく)の二十世紀から、共生の二十一世紀へ。
長崎 平和祈念像
長崎・平和祈念像
「ナナメ」
我が家の近くに、法輪寺(ほうりんじ)という臨済宗の寺院がある。別名「達磨寺(だるまでら)」、中国禅宗の開祖とされる達磨(ボーディダルマ)をまつり、毎年、節分にはだるまさんを求めて多くの参拝客でにぎわう。私も数年前、ひとつを買った。息子の高校受験のげんをかついだのだが、息子は第一志望の学校に落ちてしまった。次の大学受験では、目を入れられるよう、親バカで願っている。
だるまさん
「達磨大師はなぜ手足を失ってしまったか?」
伝説では、壁に向かって九(苦)年の間、坐禅を続けたため、両手足が腐ってしまったという。それでは死んでしまうではないか、とチャチャを入れたくなるが、私は“からだの勘覚”として、四肢がなくなったように感じられた――本人にも、周囲の人間にも――と推測している。
というのも、稽古会で行っている「だるまさんレッスン」では、同じような(決して「同じ」とは言わない)勘覚がおとずれることがあるからだ。
レッスンは、次のように行う。
結跏趺坐(けっかふざ)または半跏趺坐(はんかふざ)で足を組む(結跏の場合:左足を右太股の上に→右足を左太股の上に置く。半跏の場合:右足を左太股の上に置く)。右足の踵(かかと)が左の股関節(こかんせつ)に、左足の踵が右の股関節につながるものとする(実際には離れているが)。上体は、左右の掌(てのひら)の中央=鎮心(ちんしん)を同側の股関節にあてる(実際には触れられないので、下腹の左右にあてておく)。
このようにすると、下半身には右股関節→右膝→右踵・左股関節→左膝→左踵・右股関節という∞形のヨコの“気の筋道”が、上半身には右股関節→左の肩胛骨(けんこうこつ)中央→左肘→左手・左股関節→右の肩胛骨中央→右肘→右手・右股関節という同じくタテの“気の筋道”∞が生まれる。この時ポイントになるのが、肉体的には存在しないが背中(からだの勘覚としては〈裏〉)で交差している“気の筋交(すじか)い”である。
(略)
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