高校生の頃 修学旅行の車中で 友人に「電車に乗っているのは夢か現実かを証明できるか?」と議論を吹き掛け、うんざりされたことがあります。
脳はイメージしたことも、体験したことも 同じインパクトのある刺激として受け取ると言われます。
このことをアメリカで実験した例があります。
囚人から被検者を募り 目隠しをして手首に鋭利な刃物で切ったような刺激を与え(実際は傷なし)血が滴り落ちることを連想するよう 水滴をぽとぽと落とし続けると 全員死んでしまったという報告です。
オーストラリアで冷凍車に作業員二人が閉じ込められ 翌朝こちこちに凍った死体として発見されたというニュースが報じられました。
冷凍車には電源が入っておらず 庫内は常温であったにもかかわらず。
スポーツ選手がイメージトレーニングで実際のトレーニングより高い効果を上げることも知られています。
フラシィボ効果も一般に知られるところです。
唯識論では全ては 心の現れであると説きます。
自分の身体に現れる全ては、「心(スリーインワン的には 顕在意識、潜在意識、ボディ意識)」の現れともいえます。
では 霊現象も心の現れなのでしょうか?
脳の情報が 身体に顕れることを知りながら、そして実体験よりもイメージ体験の方が強力であることを知りながら潜在意識の表れが 霊現象として 身体に体現したとは
和多志にはどうしても 思えませんでした。
和多志の霊魂とは違う何かが 和多志とは違う意志をもって 肉体を乗っ取り(憑依)続けたと考えずにはおれません。しかもたくさんの意識体のおぞましい限りの働きかけを実感しました。
霊現象の中で受け取ったメッセージが幻影だということも 受け取ることはできませんでした。なぜなら 魂の呼応が伴うからです。
全ての現実はマトリックスに過ぎないことは知りながらも、潜在意識に眠る記憶を たとえ全て甦らしても それは和多志の個人的な情報(信じ込み)の集大成に過ぎないことを 知りながらも血の涙と吠える嘆きの故 その記憶を確認せずにはおれませんでした。
この矛盾をどのように捉えることができるのでしょう?
心は ころころ変わるもの・・・
つまり心・ハートは反応エネルギーであり 「選択の主体であるセルフ・魂」とは別のものと考えられるということなのでしょうか?
http://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12126120084.htm 【心ころころ】
思春期、和多志は生きる意味ばかり問い続けました。
ある理科の教師が 「命の営みはリトマス反応のようなものだよ」と言ってのけました。
その時はショックでしたが 今はわかる気がします。心は反応ですから。そしてエネルギーですから。
心と魂は違いますね~ 魂はセルフといわれる選択の主体・吾
心は「ころころ変わる連続的なエネルギーの流れ」であり現象世界への反応と言えそうです。
ニュートラルに生起する現象世界にどのように反応するかは千差万別です。(唯識論・一人一宇宙)心は吾が生み出すもの。想念とも言えます。
自分の思考パターン、セルフイメージ、感情、記憶、などなど~~
そしてこれらは 心のアンカー・人生脚本・ドライバーとなり自分を縛り続けます。
過去と未来に縛られ 今を生き難くします。心に操られないで心の主になりましょう。
心は吾ではないのだから。
【自分であるということ】
宇宙の有機的な相互作用はよく 人体に譬えられます。
目には目の役割があり排泄物には排泄物の役割があり それぞれの役割は 善悪を超えて 優劣を超えて 全体のバランスを保ちます。
然し「排泄物になんか なりたくない」と思っている方は多いのではないでしょうか?
にもかかわらず 排泄物の役割を生きているとき卑屈コンプレックスの罠に陥ってしまいます。
昔 結婚式に参列した時 新カップルへのはなむけの言葉として「胸のオシャレなハンカチではなく 足元の雑巾になる喜び」という話を聞いたことがあります。
雑巾は一見汚く、胸の飾りには決してなりません。然し穢れをふき取り、全てを浄化してゆきます。黙って耐える奉仕の心を象徴します。
言いかえれば愛するものの幸せを自らの幸せとする 喜びを生きる姿とも言えます。
ハンカチも雑巾も自らが選択する役割です。
唯識論では 全てのものは心の現れであると説きます。
雑巾であることもハンカチであることも 心の現れであるということです。
言いかえれば自分だと信じている通りに 自分が現れてくるとも言えます。
「自分だと信じている自分」は「自己イメージ」とも言いかえられます。
卑屈コンプレックスを超えるには 優劣に対する視点変更が大切だと言えます。
それにより 誤った自己イメージから解放されることにもなります。
優劣に対する視点変更は 「競争原理に従えば劣って見える人」が 「共生原理に従うと優れて見える人になる」そんな視点変更ともいえます。
また優も劣も自分の選択次第・好みの問題であることを知るとき 卑屈コンプレックスを超えることになります。
人が憂うと書いて優しい、優れていると読む優の字少ない力と書く劣の字 力を抜く、力まない、自然体とも読めます。
和多志には優は大人劣は子どものイメージがあります。
自己一致、自分を愛することがベースにあれば卑屈コンプレックスの罠にはまらずに済むのではないでしょうか?
【自分を見失う時】
「自分が変われば,世界が変わります。」良く聞く言葉です。
この考えだと、和多志が、腹立つ人の為に、セラピーを受けたら、相手が変わるって事ですよね?
半信半疑で、セッション受けたけど、相手は変わらないのです、「『周囲は自分の鏡』が本当なら、和多志が悪いのですね?」そんな声が聞こえてきそうです。
セラピーの世界では「過去と相手と客観的出来事を変えることができない」は鉄則です。
変えることができるのは自分だけ。
子ども時代に目の前で 母を交通事故で亡くした40代の男性を知っています。
「母を交通事故でなくする」なんて誰もが起きて欲しくない悲しい出来事です。
それ故に彼は新しい母の愛も拒絶、父も拒絶。閉じこもったままです。
然し「起きて欲しくなかった」とどれほど嘆いても 過去を変えることも 出来事を変えることも彼には不可能です。
では彼の人生は母の死とともに終わってしまうしかないのでしょうか?
新しい母の愛、父の愛を受け入れ、自分らしい人生を取り戻すことは不可能なのでしょうか?
どのようにすれば自分を取り戻すことができるのでしょう?
不慮の事故で愛するものを亡くした人は沢山います。しかしそんな痛みと悲しみが自分を育てるエネルギーに変えられていったケースを和多志は幾例も知っています。
何が違うのでしょう?
考えられるのは 潜在意識に閉じ込められた「母を助けることのできなかった自分への怒り」
「母を殺した世界への怒りと拒絶」もしかしたら双方かもしれません。
「かわいそうな自分」という被害者意識に凝り固まって バランスを取り続けてきたのではないでしょうか?
自分の痛みと怒りを観て 手放す勇気が必要です。
怒りは二次感情です。自分が「激しい痛みと嘆き」を瞬時に「怒り」に変え、「絶望」に変え
潜在意識に閉じ込めた事実を観る必要があります。
その時の「激しい痛みと嘆き」を顕在意識に昇らせ 「涙で浄化」する必要があります。
それから自分を許すことが始まります。
自分を許すことが世界を許すことになり 自分と和解することが世界と和解することになり、愛を取り戻すことになるのではないでしょうか?
「自分が変われば世界が変わる」・…世界は自分が引き寄せているもの、自分のエネルギーへの共鳴現象といえるのではないでしょうか?
セラピーは自分のエネルギーを本来の自分に引きもどす働きとも言えます。
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