マノマノ稲穂@manomano_farm
なんでも完璧にしようとするから疲れるのです。これって人間関係も同じで相手に完璧を求めるほど、自分の不完全さに苦しむのです。日本の「侘び寂び」がすべてを完璧にせず、あえて余白を残す美学であるように、生きることは自分の「不完全さを受け入れること」なのかなと。あ、おはようございます
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「振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない」
「だが忘れようとしても 眼を閉じると あの思い出が見えてくる 耳をふさぐと
あの日の喝采の音が 聞こえてくる。」寺山修司の詩です。
これらの言葉から人間の弱さが伝わってきます。
「振り向くな」というように過去を引きずっていては、いつまでも苦しみから逃れることはできません。
過ぎ去った幸せは戻りません。幸せな未来を作る礎は今にしかないのです。
苦しみからぬけ出すためにさぁ今、新しく開いたドアがあることに気づきましょう。
しりこ(作家しりこだま)@shiriko1971
「彫刻」は、余分をそぎ落として、像を完成させる。「人生」は、憎悪・嫉妬・後悔をそぎ落として、自分の最終形と成る。人生は彫像。僕は今、51歳。まだまだ完成されず未熟で子供だわ(笑)でも大人のフリしなくていい。等身大こそ、ありのままの自分像。
https://blog.goo.ne.jp/kanekuti3515/e/47866ebe1722af567f689e99160908de 【俳句の〝余白〟】より
梅雨前線が活発化した影響で、このところ毎日強い雨が降り続いている九州南部、その宮崎県えびの市での総雨量が1000㍉に達したという。その他各地でも昨年の西日本豪雨の総雨量を超えているそうです。そのため鹿児島、宮崎両県では計約52万世帯、計約110万人に避難指示がでたとも。昨年のブログでは3日から4日にかけては台風7号が山口県を通過したと書いていましたが、たいして被害はなかったみたい。
こうも次から次に災害に見舞われるのをみると、もうほどほどのところで収めてほしいと思います。それがどこであろうとも他人事とは思えませんから…どうぞ神様お願いしま~す!
さて、先日の兼題「夏薊」の句で、〈信じたる人の裏切り夏薊〉というのがありました。私はいいと思ったのに…ナンと一点も入らなかったんです。う~んなぜなんでしょうか。不思議!初心者の句とすれば、ほどほどに季語も効いているし、作者の気持ちもよく分かりますもの。だとすると、その分かりすぎるというところにこの句の欠点があるのかも。
俳句は575ですので、何もかも言おうとしてもとても言いきれません。狭すぎるんです。だから句の行間の空白に托して〝言わずに語る〟ことが大切。それができれば、俳句の描く世界をぐっと広くすることができるのです。そのためにはいかに不必要な言葉を省くか…即ちことばの無駄遣いをなくすということが第一なんです。そうすれば削ったところに空白が生まれて、そこに違った状景を加えることも、また、背景を広げることもできるんですよ。
この上掲の句の場合は、上五中七の中で〈裏切り〉というのが季語に対する重要な斡旋になっています。とするとこの言葉はそもそも〝約束や信義に反する行為〟をいうのですから、また、裏切るのは人(人の関わっている会社なども)に決まっていますから、〈信じたる人の〉を省いたとしても十分に意を伝えることができますよね。そうすると、8音も余白ができてしまい、それを埋めるのに初心者は四苦八苦することになるのです。俳句は短いから言いたいことが十分言い切れないと嘆いていた人が、〝この言葉は不要だから削って他の言葉で補って描写しましょう〟というと、今度はこの余白を持てあまして二進も三進もいかなくなり…最後にはギブアップしてしまうことも。というわけで、結局は言わずもがなのありきたりの言葉で埋めてしまうんです。
このように分かりきった言葉で埋めればすぐに五七五になりますし、一応俳句らしくもなります。でも、最初はそれでいいんです。そこから始めて徐々に省略を効かせることを学んでいけばいいと思います。もし最初から省略の効いた奥行きの深い句が詠めたとしたら、あなたは天才かもよ!
ではみなさん、上掲の句を「裏切り」と「夏薊」の取り合せで、残りを補って一句に完成させてみましょう。どんな句ができるかしら?楽しみですね。さあガンバッテ!
写真は、〝白粉花〟(おしろいばな)、秋の季語です。昨日の美容院の駐車場に咲いていました。もう植物にも季節感が狂ってきているようで…なんだか恐ろしい気がします。
https://campingcarboy.hatenablog.com/entry/2019/02/07/222744【余白を読む美学】より
テレビで観たか、本で読んだか。俳句の話。 俳句とは「余白、静寂、余韻」の文学であるそうな 五、七、五
という限られた文字数のなかで、ひとつの作品を完結させなければならない俳句は、言葉を盛り込むよりも、言葉を切り捨てることによって世界を構築しなければならない。
だから、切り捨てられた言葉は、表に出た言葉の影に潜んで、じっとうずくまる。
すなわち、それが「余白」。「無」ではなく、それは「静寂を背負わされた言葉」なのである。西洋風にいえば、「残響(エコー)」 ということになろうか。
発せられた言葉が沈黙に吸い込まれながらも、遠い場所で、かすかに、いつまでも鳴り響く。「残響」には、すでに人間の発した言葉は残っていない。そのとき、それはもう「人間の言葉」とは異なる別次元のメッセージになっているのだ。すなわち、それが「余韻」。
俳句が「余白」を残すのは、連歌の流れを汲んでいるからだという。
同好の士が集まり、一人が発句を読むと、それを受けて、別人が発句に新しい句をつなげる。
たとえば、明智光秀が本能寺の変を起こす前に出席した連歌の会では、次のような俳句が読まれたという。
① ときは今、天(あめ)が下しる五月(さつき)かな (発句 光秀)
② 水上(みなかみ)まさる庭の夏山 (脇句 西坊)
③ 花落つる 流れの末を せきとめて (第三句 紹巴)
発句に歌われた情景を、二番手の読み手が自由に解釈し、その流れを組みながら、発句で歌われた世界を広げていく。その脇句を受けて、さらに次の人が、第三句、第四句と続けていく。
それはまるで上流から下流へと流れる川が、同じ水ながら、常に両岸の風景を変えていくのに似ている。
話はそれるが、歴史小説などを読むと、先の光秀の句には、信長を倒す意が込められていたという解釈が多い。つまり、「天下を取るのは今でしょ !! 」という決意が思わず発句に溢れ出たというわけだが、ま、これは余談。
話を戻すと、俳句が「余白」を持つのは、発句の後に「脇句」、「第三」、「第四句」 とつなげていく人たちの “想像力” を受け入れる余地をつくるためだ、というわけだ。
文学研究的にいうと、きっとそういうことなんだろう … とは思うけれど、そもそも「余白」こそ、日本文化の真髄ではなかろうか。
形にはならないが、「無」ではないもの。その “気配” を察することが、風雅を知る心。
その象徴的な例として、俳句を意識してもいいのかもしれない。考えてみれば、日本の文化というのは、すべてこの俳句のようなスタイルを取っているのではなかろうか。
たとえば、長谷川等伯の『松林図屏風』
霧に包まれた松林の情景を描いたものだが、はて、この松たちはいったいどこに生えているものなのか ?海岸なのか、山林なのか。それとも、広大な日本庭園の一角にあるものなのか。
すべては、文字通り “霧の中” 。そんなことはどうでもいいのである。
ここでは俳句と同じように、機能的には霧が「余白」となって、隠されたものの存在を鑑賞者の “心の目” に委ねていることを知るべきである。
絵から漂ってくるのは、大地を覆い尽くす「静寂」感。そして、いつまでも鳴り響いている「余韻」。「霧」という形をとった屏風絵の中の “余白” が、現実の松林の彼方(かなた)に広がる別の世界を暗示している。
「余白」が、なぜある種の感興を呼び覚ますのか ?そこには、「視点の移動」があるからだ。
つまり、目に見えるものを、そのまま眺めているだけでは、感興は生まれない。
「見えているもの」の奥に「余白」 を感じたとき、人は眺めているものの背後に隠された世界があることを知る。
「隠された世界」を感じた瞬間というのは、「表に見えているもの」が、別の何ものかに変わるときである。それが「視点の移動」。
これを、脳科学的にいうと、脳領域のTPJ(側頭頭骨接合部 = 大脳皮質の一領域)に変化が表れることを意味する(らしい … 詳しくは知らない)。
TPJ というのは、自他の区別と関わる重要な役割を担っていると脳の部位だといわれているが、眺めている対象が、それまで漫然と見ていたものと変わって見えてくるときというのは、このTPJ に変化が起こっているときだという。で、このTPJ の変化こそが、人間に「知的な喜び」をもたらすらしい。
そう考えると、俳句や長谷川等伯の『松林図屏風』のように、「余白」をたっぷり含んだ芸術形式というのは、人間に不断の「知的な喜び」をもたらせる文化だといえる。
感受性とは、物事のこの「余白」を読む心をいう。
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