Facebook Ayuka Mizoguchiさん投稿記事·
心理学もほんとうは理論ではなくて、100%体験ベースであるべきじゃないかと思うのです。
苦しい~というのはダイレクトな体験。そこに理論が入る余地はなく、じゃぁ、苦しみから抜け出すのも、そのままダイレクトに体験を見つめてみませんか?
ということで、禅と心理学♪
鈴木大拙の「心理学から見た禅」という講和がとっても面白い♪
実は4歳のころ、ある事情から新興宗教の施設で両親とともに身を寄せていた時期があり、そこで起きたことから、けっこうな宗教トラウマがあります。なので、宗教はなるべく避けて通ってきたのですが、昔から禅には非常に惹かれるものがありました。
人を食ったような問答や説教臭さがないのも好きでしたが、丸、三角、バツ、終わりみたいなシンプルな禅の芸術は眺めているだけで不思議と宇宙を感じたものです。
で、なぜこの講和が面白いのかと言うと、ちょっと長文ですが抜粋させてください。
「結局のところは、やはり、自分が出発点となり、合わせて帰着点となるのである。-中略- それで禅宗とは、どんなものかというと、これは哲学では断じてない、その基礎は心理学の上におかれているものと言って良い。この心理的体験というところに、禅の生命がある。これが禅の根本である」(禅とは何か? 鈴木大拙著)
ここで鈴木大拙が言う心理学とは、いわゆるフロイトやユング、アドラーのような理論ベースの心理学ではなく、心理的な体験を言っています。
同本によると、中国の仏教の歴史において「主知主義」、「形式主義」といえる理論や形式を大切にするものが非常に盛んであった頃、達磨がそれに反対して出てきたのが中国での禅の始まりという説があるそうです。
理論や形式ではなく、理論以外のところに人間生活のいきた原理をとらえなければならぬ・・・ということで、不立文字(真実は言葉では語れない)、教外別伝(理論の外に別に伝えること)が禅の主張となったそうです。
長々と書いてきましたが、こうやって見ると、ある意味、理論VS体験みたいなものだなぁと思うのです。
もちろん両方必要だと思いますが、最終的にどちらがより真実を掴めるか?と真剣に考えてみれば、明らかに体験のほうです。
真実とは言い換えれば、愛、受容、静けさ、純粋意識、いまここ、etcです。
では、愛を知るには、体験と理論とどちらが分かるのか?と考えれば、愛のしくみを理論で知ったところで、真の理解にはなりません。また、愛について100冊の本を読んでも、やっぱり分かり得ないでしょう。
でも、例えば無邪気な赤ちゃんの笑い声に触れたときにすべて理解できたり。これは体験的理解ですね。
では、体験的な理解を進めたいと思ったら、どうしたら良いか?
当然自分から始めるしかありません。他者の体験を深く掘っていくわけにはいかないですから。
自分が体験していることを見つめていく。これは実はノンデュアリティの「ダイレクトパス」そのもの。ダイレクトパスは、またの呼び名をダイレクトエクスペリエンス(直接な体験)ともいいます。
やっぱり、禅ってノンデュアリティだな♪
と、このままいくと非二元の話になりそうですが、こちらは癒し中心のブログなので、心の話をさせてください。
というのも、心のしくみ、心の苦しみ、といったものも理論ベースではなく、体験ベースで見ていくほうが良いなぁとつくづく思っているのです。
“今自分が苦しい”というのは直接体験ですよね。頭で自分は今苦しいのだろうか?と判断しているわけではないはずです。
その直接体験を理論という実体から離れたところに持って行かず、そのまま見ていくほうが、苦しみのありようがよく見えるからです。
ちなみに私は「気づきの問いかけ」というものを使って、自分やクライアントさんの心のありようを見ていきます。
多くのクライアントさんが、例えば、私が苦しいのは小さい頃のあの体験だと思います・・みたいなご自分の解釈をたくさん載せてきますが、最初はすべて無視いたします。
頭で見つけた原因は一見辻褄が合うのですが、ほんとうにそうかどうは分からないからです。というか、経験上半分は違っています。
そもそも苦しみって何?と考えれば、究極的には「幻想に深く入り込んでいる」状態です。
もちろん、幻想に深く入り込んでしまう理由自体は、実際に起きたこと、育った環境、他者からされたこと、またはしてもらえなかったことなどです。
ですが、それに対して自分がどう解釈し、どう世界や自分を見るようになり、どんな信念を持ち始めたか?というのは、“幻想”の部分なんです。
例えば私の場合、4歳の新宗教の施設で体験したことによって、ものすごく大きな愛の飢えと恐れ、そして自分や人生への決断を無意識下に作りあげていました。
両親とほとんど一緒に過ごせなかったため、見捨てられた感、不安、愛への飢え、一人でずっと過ごした孤独感などなどです。
ある意味4歳の子供が出来事から自然に持つ感情ですが、では、“見捨てられて孤独な私”というのが、私に関する真実か?と言えば、これは出来事から生まれたストーリーですね。
感情と体(脳、自律神経)を巻き込んだリアルなストーリーです。
ですが、4歳の私と会話しながらセラピー(マトリックス・リインプリンティング)をすることで、4歳の私は自分の決断、自分の思い、感情が単に身にまとってしまったものだと理解し、手放すことができます。
これはすべて受容の中で行われ、無理なく、自然に変化が起こせます。自然に起きるというのは非常に大きなポイントです。
というのも、自然に起きる=生命が動かしている、だからです。頭で無理やり納得させたものは、生命そのものには触れていません。
体験をありのままに見ていく良さは、それは生命の動きにダイレクトに触れ、そして生命(=本質)の働きによって癒されるからですね♪
”それ”は在る bot@o0690oo
苦しみとはつまり、抵抗である。目の前の人生で起きること、その事象が『これはこうあるべきだ』というあなたの理想と異なる時、そこに抵抗が生まれる。『これはこうあるべきなのに、そうなっていない』『これはこうなってほしいのに、そうならない』これが抵抗であり、抵抗とは苦しみである。
http://www6.plala.or.jp/maeda-masahide/7sougou-haiku.html【小学生の俳句がおもしろい!】より
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1、俳 句 の 魅 力
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俳句の魅力① - 感受性が育つ -
「子供に俳句づくりなんて、難しいのでは…」
そんなふうに思われがちである。
しかし私は、子供のつくった俳句こそおもしろいと思っている。
プロのつくった俳句にも負けない魅力が、子供たちの俳句にはあるのである。
例えば次の俳句は、うちのクラスの子供たちが、「つらら」を見てつくったものである。
冬の朝 車につららのあごひげだ
つららはね かいじゅうの歯にそっくりだ
子供ならではの感受性が、微笑ましく感じられる。
芭蕉も、「俳句は3尺ほどの小さい子供にさせなさい」と言っている。
子供たちは、俳句をつくる魔法の力をもっているのである。
こういった子供ならではの感受性を、大切に育てていきたい。
つららを見て何も感じずに通り過ぎるのと、「あごひげみたいだな」「かいじゅうのきばみたいだな」と感じるのでは、人生の豊かさが違ってくると思うのである。
俳句をつくることによって、どの子供たちにもそなわっている感受性の種を、意識化させていきたいと考えている。
俳句の魅力② - 言語感覚が豊かになる -
俳句には、「言語感覚が豊かになる」という魅力もある。
例えば日記を書く時、自分の書いた文を何度も見直す子供は、一体どのくらいいるであろうか。あまりいないのではないだろうか。
しかし、俳句なら、子供たちは自分のかいた俳句を何度も推敲する。
余分な言葉を切り取って素敵な言葉を付け足したり、頭とおしりを交換したりと、夢中になって言葉の工作をするのである。
何しろ、たった17音である。
推敲するのが面倒でない。
また、たった17音の中に自分の思いを表現しようとすると、いろいろな工夫をせずにはいられないのである。
俳句というと、きまりごとが多く、不自由な印象を受けがちである。
しかし私は、この17音という条件があることこそ、俳句の魅力だと考える。
原稿用紙を渡して、「さあ自由に思いを書いてごらん」と言ったからといって、自由な発想は生まれない。
17音という条件があるからこそ、子供たちは、その中で何とか自分の思いを表現しようと、様々な工夫をするのである。
そして、1つ1つの言葉にこだわり、言語感覚が豊かになっていくのである。
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1、俳 句 の 指 導
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(1) 七五調のリズムを味わう
子供たちに、俳句がもつリズムのよさを存分に味わわせたい。
それには、理屈抜きで、名句を繰り返し音読させるのが1番の方法だと思う。
暗唱させてしまうのもいいだろう。
暗唱しようと投げかけると、子供たちの音読へのやる気もアップする。
俳句を音読していると、センスのいい子は俳句に合わせて手拍子を始める。
俳句には、自然に体でリズムを感じたくなる心地よいリズムがあるのである。
私は、この俳句の七五調のリズムを、音楽でいう「8(エイト)ビート」だと捉えている。
例えば、「古池や蛙飛び込む水の音」 を音読する。
大抵の人は「古池や」と言った後、無意識のうちに3泊の休符を入れるのではないだろうか。
5文字と3拍の休符で、合わせて8ビート。
この8ビートのリズムが、日本人にぴったり合うのである。
だから、私は子供に指導する際、多少の字余りや字足らずにこだわらない。
むしろ、音読した時のリズムのよさにこだわる。
子供たちには、自分の作った俳句を音読させている。
大切なのは、8ビートにうまくのっていることだと考える。
(2) 『自分だけの発見』を俳句に表す
はじめのうちは、17音でリズムよく俳句をつくることに夢中になり、それだけで満足する子供たち。
しかし、慣れてくるにつれ、よりよい俳句をつくりたいという願いを持つようになる。
では、よい俳句とは一体どんな俳句なのだろうか。
私は、「自分だけの発見」のある俳句が、よい俳句と言えるのではないかと考える。
~授業の風景①~
※ 先輩の教員に教えたもらった授業を参考にしての実践
子供たちに2つの俳句を見せて、「どっちがいい俳句だと思うか」問いかけた。
A 花火がね 夏の夜空にきれいだな
B 花火見る 弟の目が 赤青黄
最初は、大多数の子供たちが「Aの俳句の方がいい」と答えた。
しかし、理由を言い合う中で、Bの俳句を選んだ子の理由が、みんなの心を揺れ動かした。
その理由とは、
「Aの俳句には、当たり前のことばかり書いてあるよ」 というものである。
「当たり前」ってどういうことなのだろう。
みんなで「当たり前」だと思う言葉をさがしてみた。
「『夜』は当たり前、花火は夜に決まってる」
「『空』は当たり前、花火は空に決まってる」
「『夏』は当たり前、花火は夏に決まってる」
「『きれい』は当たり前、花火はきれいに決まってる」
と、どんどん当たり前の言葉が見つかっていった。
そうした「当たり前」の言葉を、次々に消していくと…、結局、Aの俳句は全部消えてしまったのである。
A 花火がね 夏の 夜空に きれいだな
反対に、Bの俳句を見てみる。
Bの俳句には、「当たり前」のことではなく「自分だけの発見」がかいてある。
そんな俳句は素敵である。
「よい俳句をつくりたいが、よい俳句とはどんな俳句なのだろう」と漠然としていたた子供たちに、俳句を見る視点が1つ定まったのである。
~授業の風景②~
「自分だけの発見」のある俳句。
そんな視点が定まってから、子供たちの俳句は少しずつ変わってきた。
しかし、「分かる」のと「できる」のは違う。
「自分だけの発見」を見つけるのは、なかなか難しいものである。
そこで、時には、穴埋め問題で遊ぶ時間を設けた。
穴埋めなら、誰もが手軽に楽しめる。
( ) くるりとパーマをかけている
( )の中に言葉を入れてみる。
「お父さん」「お母さん」と入れるようでは30点。
当たり前でつまらない。
ライオンが などと動物を入れるようなら80点。
なかなか面白い発想である。
ちなみに、この俳句は、全国学生俳句大会の入賞作品で、( )の中に入っていた言葉は、「ブロッコリー」である。
うちのクラスで出てきた傑作の答えは、「わらびがね」であった。
「ブロッコリー」「わらび」、どちらも、人じゃないところが面白い。
「ははーん」「なるほど」と思える作品である。
さて、次の問題。
正解例を聞くと、子供の感性に「ははーん」とうならされる。
① 雪だるま( )をつけて お友だち
② 秋の夜( ) 笛をふく
③ 夏休み たいくつそうな( )
④ 先生になりたがる( )夏休み
⑤ かしわもち 弟三つ 姉 ( )
<正解例>
①名前 ②しょうじの穴 ③ランドセル
④母 ⑤一つ
(⑤は、どんな数字を入れるかで、 兄弟関係が赤裸々に…)
~授業の風景③~
※ 参考文献
「保護者参観授業を持ち上げる国語科とっておきのネタ」 野口芳宏 横田経一郎 編著
この穴埋めクイズは、名句の鑑賞でも使える。
篠原梵の俳句を穴埋めクイズを使って鑑賞した。
葉桜の中の無数の( ) さわぐ (篠原梵)
子供たちは、まずリズムに着目して「2文字だぞ」ということに気づいた。
ぱっと思い浮かぶのは、「葉が」「実が」「 虫」 などの言葉である。
しかし、どれも当たり前の言葉だということに気づいていった。
名句なのだから、もっと素敵な言葉が入るはずだと考えたのである。
ちなみに、篠原梵の作品では、「空」 が入る。
そんな俳句を知った上で葉桜を眺めてみると、どうだろう。
本当に空がさわいでるように見えて、感動する。
こんな感動を大切にしたい。
~授業の風景④~
ただ「自分だけの発見を見つけましょう」とだけ言っているだけではいけない。
どういう目で見たら「自分だけの発見」を見つけられるのか、その着眼点の例を示してやることも大切である。
例えば、生き物を観察して俳句を作る際には、次のような着眼点を示した。
① 生き物の顔を観察してみる。
例 「水底を見てきた顔の小鴨かな 内藤丈草」
② 生き物の目で見てみる。
例 「鳥帰るところどころに寺の塔 森澄雄」
③ 生き物と話してみる
例 「青蛙おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介」
④ 生き物に変身してみる
例 「着膨れてなんだかめんどりの気分 正木ゆう子」
⑤ 生き物を人に例えてみる
例 「水馬のどこか侍ふうである 仁平勝」
その他にも、次のような着眼点を、名句と共に提示した。
⑥ 数字を使ってみる。
例 「仏壇に西瓜一個は多すぎる 雪我狂流」
⑦ 自分なりのオノマトペを使う。
例 「へろへろとワンタンすするクリスマス 秋元不死男」
⑧ せりふをそのまま俳句にする。
例 「渡り鳥見えますとメニュー渡さるる 今井聖」
⑨ リフレインを使う
例 「あめんぼと雨とあめんぼと雨と 藤田湘子」
次の俳句は、これらの着眼点を武器に、うちのクラスの子供たちたつくった俳句である。
かなへびが秋空ながめねむたそう (①生き物の顔を観察してみる)
バッタがねぼくを大きく見上げてる (②生き物の目で見てみる)
すすきのほこっちへおいでとゆれている (③生き物と話してみる)
スキーぐつはくとガシャガシャロボットだ (④生き物に変身してみる)
風ふいてすすきのおしゃべり始まった (⑤生き物を人に例えてみる)
遠足であせが百つぶ流れてく (⑥数字を使ってみる)
タラリラランおどる秋桜バレリーナ (⑦自分なりのオノマトペを使う)
ありくるなそのプチトマトぼくのもの (⑧せりふをそのまま俳句にする)
(3) 気持ちを書かずに気持ちを表す
夏休み石ころけとばしもう終わり (3年生)
上の俳句は、以前担任していた子供がつくった俳句である。
この俳句に、気持ちは書いてない。
しかし、「石ころけとばし」という言葉からどんな気持ちが想像できるか、子供たちに問いかけると、黒板がいっぱいで書ききれないほどの意見が出てきた。
子供たちは、黒板を見ながら、
「17音の中に、こんなにいっぱいの気持ちが詰まっているんだね」
と驚いていた。
たった17音の中から無限の想像が広がる、そんな俳句は素敵である。
マラソンで二位 ゆりの花わらってる
マラソンで二位 ゆりの花しおれてる
上の2つの俳句には、気持ちが書いてあるわけではない。
しかし、2つの俳句からは、それぞれ正反対の気持ちが伝わってくる。
その時の気持ちによって見えてくる景色は変わるのである。
(4) 友だちの俳句を鑑賞し合う
友だちの俳句を鑑賞し合うことも大切である。
うちのクラスでは、次のような手順で「句会」を催している。
まずは「投句」。自分のつくった俳句の中から自信作を選び、八つ切り画用紙を半分に切った短冊にかく。
次に「選句」、自分の心に響いた句を3句選ぶ。
披講係がそれを読み上げ、点をつける。
句会では、俳句を見る目が育ち、また、友だちから自分の句を選ばれることが励みになる。
ちなみに、句会の後には、短冊に名前と挿絵を書き加え、教室の掲示に使っている。
秋の句会では、川上弥生先生(富山県俳句連盟幹事・富山県現代俳句協会会長・読売新聞ジュニア俳句選者)が来られ、指導してくださった。
川上先生のエネルギー溢れる人柄で、子供たちはたちどころに川上先生のファンとなった。
中には「前田先生のかわりに毎日来てください」という子まで…。
また、川上先生は書道の先生でもあり、自分のつくった俳句を習字でかくという体験もさせてくださった。
その時にかいた習字を、いまだに床の間に飾ってあるという子供もいる。
とても貴重な体験となった。
選句 「どれにしようかな…」
句会 「選ばれるかな…、どきどき」
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3、お わ り に
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川上先生が子供たちに話をされた際、俳句で大切なこととして「感動」「発見」「共鳴」の3つを挙げられた。
「感動」「発見」「共鳴」、この3つが、子供たちの心を豊かにしてくれると、私は信じている。
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