一指李承憲@ILCHIjp
呼吸と共に虚空に満ちた天地のエネルギーを受け入れると、手足には天地の神秘的なエネルギーが流れ、目には光が輝き、胸には世界をヒーリングする平和なエネルギーが溢れます。虚空を迎え入れ虚空と一つになるとき、胸は天のように開け、心は太陽のように明るくなり、執着と愚かさが消えるのです。
Facebook石川 眞樹夫さん投稿記事
The core of SITH is that all problems, suffering are memories replaying in the
subconscious.
∞
セルフアイデンティティ ホ・オポノポノの中心は、「私たちを苦しめるあらゆる問題はすべて、自らが潜在意識の中で再生している記憶である。」と言う原理です。
平和
https://sasaki-aiki.com/article1_73.php 【【第73回】 無から有に】より
宇宙には今、数え切れないほどの星が見える。またそのひとつである地球には人や動物や植物などが生存している。しかし宇宙のはじめ、またそれ以前の大虚空には、天も地もなく、時間も空間もなく、何もなかった。その何もないところから、今のような無数の星、地球やその上に生物が存在しているのである。現代の科学でもまだ説明できない。摩訶不思議である。
開祖が一時過ごされていた大本教では、あらゆる物が無から生まれ、無から有に至るのに、四つの段階を経るという。つまり「無の無」「無の有」「有の無」「有の有」である。そして宇宙の成り立ちを、①大虚空。天も地もなく、時間も空間もない時代(「無の無」) ②一点のポチが現れる。それが次第に膨れ上がり一種の円形をつくる。そして霧よりも細かな2種類の清い正反対の気を放射し、この円形をくるむ。(「無」の「有」) ③この相反する霊素と体素が結ぶことによって新たに力素が生まれ、ここで初めて宇宙が動き出す。このとき一番最初の言霊「ス」が生じた。(「有」の「無」) ④言霊が満ちたときに一種の言霊のビッグバン的現象が起こり霊魂の元素、物質の元素がつくられた。(「有」の「有」)(*カッコ内の「無」「有」は筆者が分類)
出口王仁三郎の孫にあたる出口和明氏は、無から有に至るのに四つの段階を「設計図で家を建てる」ことを例にして分かりやすく説明されている。
「無」の「無」
「無」の「有」
「有」の「無」
「有」の「有」
何もしないが建てなければという必要性が無意識のうちにある 建てる決意をしたが、設計図無し 設計図あるが、家無し 家有り
これをイメージを主体とした合気道の稽古に当てはめてみると、
「無」の「無」
「無」の「有」
「有」の「無」
「有」の「有」
何もしないが、相手を倒す必要性が無意識のうちにある 倒す意志有って、動かないが、相手が倒れたイメージ(設計図)をもつ イメージ(設計図)の通り動く 相手がイメージ(設計図)通り倒れている
開祖の高弟である多田師範は『植芝盛平と合気道』(合気ニュース)の中で、「先生が本当に調子の良い時は、相手が前に立つと、相手の跳ね飛んでいる姿が眼前に浮かんで、次の瞬間、自動的に身体が動いて、今見たのと同じことが起きたといわれます。」と書かれている。以前は摩訶不思議でなんの事なのか全然分からなかったが、この「無」から「有」への四段階に当てはめて考えると分かるようである。
開祖は、「真空の気」が分からなければならないとよく言われていた。「真空の気」とは宇宙のエネルギーであろう。宇宙には何もなかったが、今はいろいろなものが生成されている。何もないようだが、必要なもの、希望するものの素因がある。一切のものが「無」から生まれてくる。そして四段階を経て出来上がる。新しい芸術も、科学の法則や物質も、文学の筋やアイディアも、そして合気道の技も宇宙にあったし、ある。それを「有」のカタチにするのがわれわれ人間のつとめであろう。
https://sasaki-aiki.com/article/?v=710&c=1【【第710回】 西田幾太郎の禅と合気道】より
合気道に入門した頃、合気道はどんなものなのかほとんど知らなかった。
今思い出すだけでも冷や汗ものであるが、例えば、合気道の技は凄いモノで、修業は大変だろうが、修業の暁には気合で敵を倒せるようになるのだろうとか、力をつかわなくともチョチョイガチョイと敵を投げたり、極めたりできるのだろうと思ったのである。勿論、これは稽古が進むにつれて、幻想であると分かった。
その後も周りから合気道とは何々であるとよく聞くこともあった。その一つに「合気道は動く禅である」ということである。ヨーロッパでもよく言われていたようだし、これで合気道に入門した人も多いはずである。
「合気道は動く禅である」それほど理解に苦しむことではなかったし、ある程度そうかもしれないと思いながら稽古をしてきた。禅のお坊さんが坐禅をするというのは、体をつかうことで、それは合気道では形稽古で技の錬磨をすることであり、禅は座って考え、合気道は技の錬磨で考えるからであろうと思ったのである。
最近、また一寸禅に興味を持ち、禅と合気道の関係について本やインターネットなどを見たので、その関係を少しまとめてみたいと思う。
先ず、合気道の稽古をしていて、これは禅と共通するなと思われることに度々遭遇していたことである。合気道の稽古をしていると、合気道はパラドックスの連続であると驚かされる。稽古の節々でそれまでやっていたこと、考えてきたことを否定し、それまでの真逆を行わなければならなくなるのである。その真逆に踏み切れずにそれまでと同じようにやれば上達がないのである。そのパラドックスについては度々書いてきた。例えば、力はつけなければならないが力はうかわない。技を掛けて相手を倒すのではないが相手は倒れなければならない。ぶつかって、ぶつからない。動かさないで動かす。相手が一人の時は多人数と、多人数の時は一人と思う等などである。
これは禅問答のようだろう。これからもこのパラドックスは続くものと思っている。
次に禅は坐禅を組んで本来の自分、真の自分を探し求めると言われる。私自身は禅の修行をしたわけでもないし、坐禅を真剣に体験したわけでないので、禅はよく分からない。本やテレビなどで知る程度である。
最近、NHKテレビで西田幾太郎「善の研究」が放映されたのを見、そしてそのNHKテキストを購入して読み、この機会に禅を合気道に関係づけて考えてみることにした。西田幾太郎の『善の研究』や禅の書物を読んだわけではない。只NHKテレビのテキスト、それもそのテキストを書いた批評家(若松英輔東京工業大学教授)の解釈に則ったものであることをお断りする。
まず、西田幾太郎は、「禅は人格の実現である」と言っている。
これは合気道でも同じであるだろう。合気道はこれを知育・徳育・体育・常識の涵養及び真善美の探究とも言っている。知・徳・体・常識を育て、至真、至善、至美の人格をつくり上げるのが合気道の目的ということにもなると考える。
そのため禅では坐禅を組み思惟するが、合気道は技を練ることによって宇宙との一体化を図っていき、稽古の中や道場の外で思惟していくことになる。
尚、前出しの若松英輔教授によると、思惟するとは、こころの奥にあるもの、世にいういのちの営みという。また、思惟と同じような言葉に、「思考」と「思索」があり、「思考」は、俗にいう「あたま」で行うもの、「思索」はこころの営みという。
合気道と結び付けて解釈すると、思考の合気道は、形を覚え、力に頼る物質的稽古であり、思索の合気道は、魄の力ではなく心や念をつかう稽古であり、思惟の稽古は、真の心であり宇宙の意志と力である魂の合気道であると考える。
『善の研究』にある西田幾太郎の禅の「善」は、若松英輔教授によると「社会生活における“個”と、他社と共にある“個”は両立し得ます。この二つの“個”が共に開花することが、西田のいう“善”なのです」、そして「彼にとって“善”という。とは、“大いなる自己の開花であり、それに基づいて”行為“することなのです」という。
合気道では、地上天国や宇宙楽園の建設、万有万物の生成化育を乱さず、支援するのが善ということになろう。
西田幾太郎の『善の研究』を、一寸目を通しただけなので正しいかどうかは分からないが、禅はこれまで修業し思索してきた合気道とは大いに共通点があるが、違いもあるように思える。
私の印象としては、「個から出発して個を超えていこうとする」とか、禅は人間主体、自己主体であるあるようだ。西田幾太郎は宇宙を感じようと坐禅を組んでいたようだが、その宇宙の営みを感じようとはしたようだが、自分に取り入れるようなことまではしなかったようだ。それに対して、合気道の植芝盛平翁は宇宙の営みを身につけ宇宙と一体化し、神と交流し、顕幽神界を行き来され、そして万有万物の生成化育を助け、地上天国、宇宙楽園建設に励んでおられたのである。開祖は合気道の目的は、「宇宙の大虚空の修理固成」であると言われている。
合気道の植芝盛平翁の伝記『合気道開祖 植芝盛平伝』(講談社)に、「ところが実際には、開祖は日ごろ、禅にさほど興味を示さなかった。真に深い禅学・禅道についてはもちろん謙虚にその価値を認めていた」(234頁)とある。また開祖は「私の武産の合気は宗教から出てきたのかというとそうではない。真の武産から宗教を照らし、未完の宗教を完成へと導く案内である」(合気神髄 P115)と言われているのである。
植芝盛平大先生が何故禅にそれほど興味を示されなかったのかのお気持ちがよく分かる。
また、同書に、鈴木大拙師が道場を訪れ開祖に会われているという。そして禅と合気道とは自然に結びつくものであると合気道の感想を述べられた。
因みに、鈴木大拙師の禅は、「禅とは自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。言い換えれば、我々一人一人に本来備わっているすべての力を解き放つのだ、ということもできる」という。
やはり人格の実現ということになると思う。
禅と合気道は歴史が違うが、禅の世界には世界に大きな影響を与えたような著名人を数多く輩出している。近世以降でも、例えば、西田幾太郎、鈴木大拙、大森曹玄やアップルを創業したスティーブ・ジョブズや、著名なドキュメンタリー映画監督であるマイケル・ムーア、元巨人の川上哲治、京セラの稲盛和夫会長などは誰でも知っている。しかし合気道では、大先生がおられた頃は多くの産業界、政界、芸能界、スポーツ界等々多くの著名人が合気道に心酔したり、稽古をしておられたが、残念ながら、最近はその名を耳にしない。
個人の人格の実現を目指す禅の方々が世の中で活躍されているのに、神人同一化や宇宙との一体化を目指し宇宙天国・地上楽園建設の生成化育を目指す合気道にそのような人が出てこないのは残念である。大先生だけの合気道にしてしまわないようにしなければならない、というのが今回の結論である。
参考文献 NHKテキスト 2019.10月 「善の研究 西田幾太郎」
『合気道開祖 植芝盛平伝』(講談社)
Facebookマインドフルネス・トピックス 投稿記事 ·
現在、ビジネスマンを中心に話題になっているマインドフルネス。ストレスや不安と上手に付き合えるようになるといった効果が期待されていることから、Googleなどの企業が導入し、今では学校などの教育現場にも取り入れられています。
そんなマインドフルネスのルーツは、仏教の一形態である「禅」にあるということをご存知でしたか?禅については「お寺で坐るアレ…?」という漠然としたイメージですが、その正体はまだまだ知られていません。今回はそんな「禅」について、逗子の山里にある茅山荘の管理人で禅僧の藤田一照さんにお話しをお伺いしてきました。藤田さんは、禅が解消してくれる問題は、ストレスや不安などではなくもっと深いところにあると言います。それは一体なんなのか、禅の本来の目的について解き明かしたいと思います。
https://kencom.jp/articles/37035?fbclid=IwAR1ttMRkrvoJ4Covlm6IiZ5jVeutSublkBCfD1bCgeuUJCoBEG8bHTDx1FI 【健康でありたい…その願いを叶える禅の考え方とは?【禅僧・藤田一照さんインタビュー1】】より
KenCoM編集部
お話を伺った人:藤田一照さん
1954年、愛媛県生まれ。
灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。
院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。
33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導する。2005年に帰国し現在も、坐禅の研究・指導にあたっている。
現在、曹洞宗国際センター所長。 著作に『現代坐禅講義 – 只管打坐への道』、共著に『アップデートする仏教』、『安泰寺禅僧対談』、『禅の教室』、『青虫は一度溶けて蝶になる』など、訳書に『禅への鍵』、『法華経の省察』、『禅マインド ビギナーズ・マインド2』など。
坐禅って一体何か、どうやればいいのか
今の人たちは何かに寄りかかって生きている
――以前、坐禅体験会のようなものに参加したことがあるのですが、正直雑念だらけで難しいなぁと思ったんです。どうすればよいでしょうか?藤田さんは禅をどのように伝えているんですか?
坐禅をする時って、みんな「一生懸命頑張ります!」って、力んでやる人が多いんです。でも、そうやって体が緊張すると、脳に余計な刺激がいって、そのせいで妄想や雑念がとかが余計に湧いてくるわけです。禅においては、こうしたエゴの頑張りは困ったものになる。だから、僕は頑張らないためのワークショップをやるんです。例えば、僕はFacebookで「全国卵立て同好会」というグループに加わっていて、これは卵を立てた写真を送ると誰でも入会できるっていうものなんだけど(笑)。
生卵は力まないでバランスで立ちます。人間の体って体重の80パーセントが液体だと言われています。伸縮性のある皮袋の中に液体がたくさん溜まっていて、その中に内臓や骨が浮かんでいる。そういう柔らかいからだのイメージで、身心共に調った坐禅をすることを強調しています。「一生懸命」ではなく、「丁寧」がキーワードですね。
全国卵立て同好会
――卵を立たせることと、禅には何か関係があるんですか?
今の人たちってみんな何か寄りかかるものを探して、それに頼って自分を保とうとすることが多いのではないですか。自分の中にある力をフルに発揮して、自分の足で立たないで、外側にあるものに頼る。でも、卵ですら寄りかからずにまっすぐ立つことができるわけです。そこから学ぶことは多いと思うんですよ。
大人と書いて、禅では「ダイニン」と読みますが、これは「人間として成熟した、自立した人」という意味なんです。自分の足で立っている人です。僕らはだいたい「小人(ショウニン)」なんですよ。人間として未成熟なんですね。僕らは、図体だけは一人前かもしれませんが、まだ人間としては成就できていないんです。「頼るもの」や「寄りかかるもの」があるからです。禅では、何か頼るものを外に探し回るのではなく、自分の足で立つため(大人として生きるため)の力を自分の中に見つけなさいと言うんです。でもそれは、単に「頑張れ!」というのではありません。
失われてしまうものに頼らず、自分の足で立つことを学ぶ
――頼るもの。それはどういう意味でしょうか?
僕たちは、どういうわけか自分が信じられないので、何か外のものに寄りかかって、それで自分を支えようとしています。権威や制度とか地位、肩書、何かそういった外的なものに頼らないとだめだって、知らないうちに思い込まされているじゃないですか。例えば、学校があるのにさらに塾に行かなきゃいい学校に入れないとか。自分が持っている能力や美貌、若さ、健康なんかも、ちょっと条件が変わったり、時間が経てば、失われていくものなんです。でも、人間は寄りかかれるものがなくなると、また別のよりどころを探してしまう。こうしたことをずっと繰り返していないか。「寄りかかれることができるような確かなものなど、この世に一つもないぞ。」というのが仏教の基本的テーゼです。
昔なら、十代で結婚したり、家督を継いだり、一人前扱いされていたのに、今の二十歳代の人って、昔の人たちに比べたら、まだ精神的に未成熟な人が多いでしょう。独り立ちしたり、結婚するのも遅くなってきていますよね。だから、自立した大人になるということがだんだん遅くなっている傾向にあるんじゃないですか。これをどう考えるか、ですね。
必然的に、何かに頼らなければいけないという依存の時期が長く続くことになってしまうわけですよ。外見的に大人になっても、依然、何かに頼らなければ生きていけないんじゃないかという不安を感じる。それを自覚して、自分の足で立つんだっていう意識にシフトしていかないと、偉そうな顔していても、魂は未成熟なままかもしれない。ぼくは「こどな」って呼んでいるんですけど、大人と子どもの間の中間にいるような存在になっている。大人の恰好をしているけれど、中身は子どもっていうのが「こどな」ですね。
とはいえ、坐禅もマインドフルネスも魔法じゃない
――それでは、坐禅をすることで自立ができるようになるんですか?
坐禅は魔法じゃないから「やればすべてが上手くいく」というわけではないです。
正しく坐禅をするためには、その背景にある仏教の考え方をきちんと学ばなければ深まっていきません。それから、坐禅の土壌になっている日常生活もきちんと調えていく必要があります。坐禅するというのは、坐禅だけの問題じゃなく、人生まるごと全体に関わることなんです。
だから、坐禅が私の問題を都合よく解決してくれるかというと、そうではないんです。そういう考え方自体がすでに何かに寄りかかっているということになる。僕らは坐禅やマインドフルネスに、魔法的な力を自分勝手に期待しちゃうところがあります。仏教が大事にしている考え方で「縁起」というものがあります。それが起こるような諸条件が揃わなかったら、いくら頑張っても結果はついてこないということですね。
禅で考える”健康”とは
欲しい欲しいと手を出しても根本解決にはならない
――うーん…、難しいです(笑)。
多くの人は禅やマインドフルネスに魔法的な効果を求めていますよね。つまり、求めたら、それに見合うモノがうまく手に入るって、根拠もないのになんとなく期待しているわけですよ。こういうものが欲しいと思って、一生懸命に手を出して、そこに何か期待通りのものが落ちてくるような気がしている。
だけど、いくら欲しいと思ってもそれがやってこない時もある。もしかしたら、手を出すことが、欲しいものを遠ざけていることだってあるかもしれない。禅で大切にしているのは、ください、くださいって、物欲しそうに出している手をずっと逆に元の方にたどっていって、物足りたいと思っている自分自身の姿を深く観るということです。
くださいって手を出している人の手に、期待通りのものを置いてあげれば、そりゃ流行るかもしれませんが、でもそれは、根本的な解決じゃない。一時的に満足しても、また手を出し続けてしまうでしょうから。
坐禅をすること、悟りを求めることは生命力
――坐禅をしたいって考えることも、求め続けることになってしまうんですか?
手を差し出し続けさせているのは、「物足りようとする思い」なわけですよ。つまり、自分が物足りないから、もっとくださいって手を出すんでしょう?これは人間の欲望だからきりがない。
じゃあ、「悟りたい」とか「坐禅がしたい」というのも欲望ではないのかと聞かれると、それは違うと思います。そういったものは欲望ではなく、生命力と言えますね。僕らが欲望と呼ぶものよりも深いところからくる願い、です。
たとえば、植物は種をまいて条件が揃ったら芽が出て大きく成長していきますよね。あれを欲望と言いますか?欲望ではなくて、生命力ですよね。種の中に生命力があって、条件が揃うと小さな種から、何十年、何百年もかけて大きな木に育つ。これはすごい生命力じゃないですか。よくアスファルトを突き破ったり、レンガの隙間から、きれいに咲いてたりする花を見かけませんか?ああいう自発的なエネルギーって僕らの中にもあるんですよ。人間として花咲きたいという生命力の発露、これが人を自立させる力じゃないでしょうか。坐禅はそういう力の表現なんです。
自らの生命力を発揮することで健康になれる
この生命力っていうのは人間を健康にしているものなんです。それに働きかけないで栄養ドリンクとか、健康食品や器具に頼って、外側から健康になろうとしているなら、禅の考え方とは違います。
ないものを外から輸入するんじゃなくて、すでに十分に持っている自らの内的力にアクセスして、それを精一杯発揮しようとする態度が、健康的な態度ですし、それが本当の健康をもたらすのだと思います。この僕らが持ち合わせている生命力にアクセスする道が禅なのではないか、というのが僕の考えです。
「健康」って漢字の二文字に共通する「聿」は右手で筆を持ち、その筆がまっすぐ立てているという意味の象形文字なんですよ。これはさっきから話してきた「寄りかかっていないで自分の足ですくっと立っていること(自立)」と見事に通じていますよね。
「老病死」とどう向き合っていくか
健康であっても、すべての生にはいずれ死が訪れる
ただ健康といっても、生命は必ず死に向かっていきますよね。どんな長い生命でも終わりがある。健康だからこそ、病気にもなるし、老いるし、死ねる。老病死は健康の敵じゃなくて、健康の証という風に考えたらどうでしょうか?健康のコンセプトの中には、病気になって死ぬってこともいれておかないといけないと思います。仏教的に言えば、病気とかを排除した健康観っていうのは非常に狭い。生と死を切り離した生命っていうのは不自然。どれだけ科学が進歩したとしても、必ず死は訪れる。寿命が100年から200年に延びるかもしれないけど、それって必ずしも幸せが増えるというわけじゃないです。
地位や権力など全てを失った後の人生観を持つ
若い時に自分が寄りかかっていた地位や権力、能力、お金って、いつか失われていくものです。けれども失ったあとも生きていかなければいけない。そうなると、そっちバージョンの人生観を持っていないとマイナスの人生になってしまいます。
あれもない、これもない、最後はないないづくしの負け戦の人生が出現してしまいます。でも、そんな最後に不幸せのどん底に落ちるような人生を生きる必要はありません。別な生き方をした方がいいに決まっています。
――なるほど。そのためには、自分が頼っているものがすべて失われた後の人生観を持つことが大切なんですね。
自分が寄りかかってきたものを失ったあとの人生観は、前もって準備しておいたほうが良いと思います。できたら、早いとこそっちの人生観に切り替えたらどうですかね。いずれは嫌でもそうなるんだし。平均寿命が今80歳といっても、それが自分に当てはまるかどうかなんて分からない。30歳でがんを宣告されて死ぬかもしれない。40歳で交通事故にあうかもしれない。そういうことが起こる確率はゼロじゃない。
だから、生きている時にそういったことも勘定にいれて人生の設計をする方が賢明です。でも、怯える必要はぜんぜんないですよ。生きているうちに、じっくり考えといた方が結局は明るく生きられると思います。
老病死との向き合い方を教えてくれるのが禅
――仏教によってそうした死生観と向き合えるようになるんですか?
例えば、あなたがすごく豪華なパーティへの招待券をもらったとしましょう。さあ、パーティを楽しむぞって、パーティ会場に行ったら、絶対に会いたくない人がそこに来ていた。僕らはどうするかっていうと、その人と会わないように、びくびくしながらそのパーティ会場を動き回るわけです。常にその人の動きをちらちら気にし続ける。これじゃあ、せっかくのパーティを心から楽しめないじゃないですか。自分としてはパーティを楽しもうとして、その人に会わないようにしているわけだけど、それ自体が楽しめない原因となっている。
でもね、その自分が会いたくないと思っている人は、本当はあなたのことを少しも気にしていないかもしれない。もしかしたら、仲直りしたがっているかもしれない。
この会いたくない人というのが、人生でいうところの「老病死」ってやつです。僕らはさまざまな手段を使って、それと出会わないように、極力避けるようにして生きている。だけど禅が説くのは、それとちゃんと出会っていく、向き合っていくということなんです。それについて悩むとか、見ないようにするのではなく、ちゃんと向き合ってそれを理解し、それと一緒にパーティを楽しめるようになることです。
――「老病死」と向き合うことで自分を自立させることができる、と。
禅は、その会いたくない人とちゃんと向き合って、理解することを勧めているんです。否認することをやめて、向き合うんです。なんで向き合うかというと、戦うためではなくて、相手をよく知るため。そうするとその人のことがより深く分かる。実は、自分と仲良くなりたがっていたとか、意外と悪いやつではなかったとか、恐れるような人じゃなかった、とかね。むしろ、ありがたい友人に思えてきたりする。
――坐禅をすることによって向き合うことができるようになるんですか?
坐禅するというのは、とりもなおさずそれをやることなんです。戦うでもなく逃げるでもなく、自己と世界が親しく触れあっているということが、坐禅の中で自ずと起きています。別に、さあ、これから向き合うぞって、身構えたり、力む必要はありません。ただ坐禅していれば、自ずとそうなっています。そして、それを深く味わっていけばいい。
もちろん生物だから痛いのは嫌だし、苦しみは避けたいっていうのはあります。でもだからといって、老いや病を避けて、それから逃げて健康を手に入れようとしても、それはしょせん手に入らないものなんですよ。生の中に老病死はセットになって組み込まれていますからね。だから、健康のコンセプトの中に、老いも病いも死ぬこともきちんと勘定にいれることで、健康幻想に振り回されないことです。人が悩むのは、間違った思考の中だけです。根拠のない考えや不安に引き回されるのを止めて、振り回されなくてもいい自分を育てること。禅はそういうかたちで、問題を解決するというよりも、解消することを目指しています。
――なるほど。不安から逃げ回らずに向き合うことで、問題の解消をするのが禅なんですね。
「マインドフルネス瞑想をすれば、きっと何かしら問題を解決してくれる」
そう考えている方は多いのかもしれません。ですが藤田さんが教えてくれた禅の考え方は、自分自身の生命力にアクセスして、外のものに頼らずに自立することが大切だということでした。禅に興味を持たれた方はぜひ一度、自分が何かに寄りかかって生きていないか見つめなおしてみてはいかがでしょうか。寄りかかりなく自分の足で立っていることが健康の原義なのですから。
(取材・文・撮影:KenCoM編集部)
Facebook相田 公弘さん投稿記事·
「苦」の本質は、「自分が思いどおりにしたいのに、それが叶わないこと」と釈迦は見抜いていました。
自分の思いどおりにならない場合、西洋的な価値観では、人の何倍も努力をして、自分の思いが実現するまで頑張りなさいと教え込みました。
現代の日本の教育は、ほとんどがそこに立脚しています。
しかし、体をこわしたり、精神を病む人が多くなり、自分の人生が何のために存在するかが
分らないという人も増えてきました。
人は抜きん出なければならない、上に上がらなければならないと思い込まされているということに、そろそろ気がついたほうがいいかもしれません。
人は、何のためにこの世に生まれてきたかというと、喜ばれる存在になること、
人間の間で、人の間で喜ばれる存在になること、そのためにこの世に生を受けました。
思いどおりにならないことが目の前にある場合に、西洋文明的な解決方法とは別の方法があります。
それは、「思い」そのものをもたないこと。
悩み・苦しみとは、「思い」を持っていて、その思いどおりにならないことを、思い通りにしようと思うから生ずるのです。
従って、悩み・苦しみは、受け容れた瞬間から消滅するのです。
生まれること、老いること、病むこと、死ぬことも、そのまま受け容れる。
そうすると、悩み・苦しみから遠ざかることができます。
悩み・苦しみを持たなくて済むことができます。
宇宙に、地球に、すべてを委ねている人、静かに淡々と暮らしている人ほど、悩み・苦しみは少ないのです。
釈迦が言った「受け容れることで楽になる」ということは、突き詰めていくと、感謝するところまでいくということになるのではないでしょうか。
今、置かれている状況そのものが、実はありがたさに満ちているのではないでしょうか。
目に見えること、耳が聞こえること、呼吸ができること、食べることができること、自分の足で歩けること、話ができること。
ありとあらゆることを全部、受け容れた瞬間から、感謝になるのではないでしょうか。
小林正観
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