Facebook羽賀 ヒカルさん投功記事 【まっしろな自分】
受験を終えて、これから大学に進学する彼女は言いました。
「自分がわかんないんですよ。どんな性格か。長所も短所も。何をして良いのか…お先まっくら…、というか、お先まっしろ、なんです」と。
私は言いました。「むちゃくちゃ、いいじゃん、笑
自分の性格なんて、限定するもんじやないよ」
受験生でもなく、大学生でもない、何者でもない時期、というのは、そうそう人生には来ません。大学を卒業したら、社会人になります。
その後の人生では、会社員とか、肩書とか、資格とか、主婦とか、父親とか、常に「何者か」であらねばならない。
「何者でもない」ってのは「無限の可能性がある」ってこと。
実際、彼女はエネルギーを秘めているようにみえました。
現代社会では、何か知ったり、わかったり、何か得るのが、良い事のように思われていますが、果たして本当にそうなんでしょうか。
得た時に生じる苦しみもあります。
物質的なものを得て失うものもあるでしょう。
「結果でるのが良い事」「結果でないのは悪い事」そういう資本主義的な囚われが現代人にはあります。
結果を求めるのは大事と思うんですが、それによって一喜一憂しすぎんのは、何か違うでしょう。
2500年前から、お釈迦様が言うてるのも、そういうことで。
1800年前のローマ皇帝もそういうこと言ってます。
「空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない」哲人皇帝マルクス・アウレリウス
昨日のLIVEでも、資本主義の次に進む時という話しましたが、まずは、私たちの意識から。
「鎮魂(みたましずめ)」とは、資本主義の囚われを超えて、本来の私に立ち返ることも意味します。
明日の春分も何かの変わり目なんでしょう。ってことで、なんしか、今日は前夜祭LIVEします。
Facebook平沼 載彦さん投稿記事 【光と闇】
物事の本質をとらえることの大切さを改めて考えさせられると思います。
ご参考になさってください。
教授と学生による、光と闇についての対話です。
有名な高等研究所の大学教授が、学生たちにこの挑戦的な質問をしました。
「神は、存在するものすべてを創造しただろうか?」
一人の学生が勇敢にも答えました。「はい、そう思います」
教授は尋ねました。「神はすべてを創造したと言うのかね?」
学生は答えました。「はい、先生。神は確かにすべてを創造したと思います」
教授は答えました。「もし神がすべてを創造したというなら、神は悪も作り出したはずだ。そうなると、神を悪と考えることもできるわけだね」その学生は黙ってしまい、教授に対して答えられませんでした。
教授はキリスト教の信仰が作り話にすぎないことを証明したつもりになって、たいそう自慢げに満足そうに喜んでいました。
別の学生が手を挙げて言いました。「先生、質問してもよろしいでしょうか?」
教授は答えました。「もちろんいいとも」
学生は立ち上がって尋ねました。「先生、冷たさというのは存在するでしょうか?」
「何をわけのわからない質問をしているんだ。存在するに決まっているじゃないか。冷たさを知らないのか?」ほかの学生たちも、この学生の質問をあざ笑いました。
この学生は答えました。「先生。実際には冷たさというのは存在しません。物理学の法則によれば、私たちが冷たいと感じているものは、実際には熱がないことです。熱は、からだや物にエネルギーをもたせたり伝えたりすることなのです。 絶対零度(マイナス二七三℃)は、完全に熱のない状態です。そしてその温度では、すべてのものは不活性になり、反応もできなくなります。
冷たさというのは存在しません。この冷たさという言葉は、どれぐらい熱をもっていないかを感じる目安として作り出された言葉なのです」
その学生は続けました。「先生、闇は存在するでしょうか?」
教授は答えました。「もちろん存在するに決まっているだろう」
学生は答えました。「先生。あなたはまた間違えましたね。闇も存在しないのですよ。闇というのは、実際には光が存在しないことなのです。光を調べることはできますが、闇を調べることはできません。ごくわずかな光でも、闇の世界を壊し、照らし出すことができます。どのくらい暗いかをどうやって測れるのでしょう?実際には光がどれだけ存在するかを測っているのです。闇というのは、光が存在しないことを述べるために使われれる言葉なのです」
最後に、その若い学生は教授に尋ねました。
「先生、悪は存在しますか?」今度はその教授はちょっとためらいながら答えました。
「もちろん、われわれは毎日悪を見ているじゃないか。人間に対する残酷なことが毎日のようにあるだろう。世界中どこでも多くの犯罪や暴力があるじゃないか。これらは明らかに悪以外の何ものでもない。」
これに対して、その学生は答えました。
「先生。悪は存在しないのです。少なくとも悪自身は存在することはありません。悪は、単に神がない状態に過ぎません。悪という言葉は、ちょうど闇や冷たさと同じように神のない状態を述べる言葉にすぎません。神は悪を作り出していません。悪は、人間が心の中に神の愛をもっていないときに起こる現象なのです。それは、熱がないときの冷たさ、光がないときの闇と同じようなものなのです」
教授はがっくりと座り込んでしまいました。
その若い学生の名前は、「アルバート・アインシュタイン」でした。
物事の本質をとらえることは本当に大切だと思います。
目の前の現実をいかに見て、考えて、行動するかで人生が決まります。
時代が大きく変動している今こそ、この世の本質を見失うことなく、宇宙や自然と一体化して生きていきたいものです。
Facebook小名木善行さん投稿記事
日本をかっこよく今日のねずブロは《彼を是し我を非し、我を是し彼を非す》です。
円錐は、真横から見たら三角で、真上から見たら円形です。
これを互いに「三角だ、円だ」と言い合うのは馬鹿げています。
それどころか、そんなつまらないことで、互いにどっちが正しいと感情的に対立しあい、闘争に発展し、ゲバルト(暴力)まで行わる。馬鹿な話です。
「三角だ、円だ」と言い合っている限り、永遠に真実にたどり着けないのです。。
続きはブログで
https://nezu3344.com/blog-entry-5543.html?fbclid=IwAR1E0wU4CT8rL2fBHrRrkbi_2jrV8z8XLIqwZAZGjJxXbedqe7T8GW5_kyo 【彼を是し我を非し、我を是し彼を非す】より
明日、3月21日の春分の日が、卯年の卯の月の卯の日であるということから、明日から世界が大きく変わる、といった話があります。
貨幣経済による資本主義が、いまや一部の富裕層による傲慢へと取って代わり、真の民主主義に向けて、経済体制そのものから世界がこれから変わるのだ、といった話もあります。
世界は変わると思います。
けれどそれは、10年前の日本や世界と、いまの日本や世界が大きく変わっているのと同様、実は、世界は常に変わり続けているのです。
泥棒にも三分の理という言葉がありますが、高市大臣を責める野党や朝日にしても、彼らにはそんな泥棒と同じ程度の理屈があるのだし、大量の食料を廃棄していながら、食糧不足だからコオロギを食べろというおかしな理屈もまかり通っています。
こんな日本に誰がした!と怒ることも必要でしょうけれど、より良い日本、明るい日本に向けて私達は一歩を踏み出していく必要があります。
聖徳太子の十七条憲法の第十条に、次の言葉があります。
ひとにはたれも こころあり 人皆有心 おのがこころに まもりあり 心各有執
かれをぜし われをひし 彼是則我非 われをぜし かれをひす 我是則彼非
われかならずも きよからず 我必非聖 かれかならずも ぐにあらず 彼必非愚
ぜひのことわり よくさだむべき 是非之理能可定 あひともに けんぐなり 相共賢愚
たまきのごとく はしはなし 如鐶无端
現代語に訳すと、次のようになります。
「人には誰にでも、思うところや心があります。そして心には、誰にでも何がしかの執着があります。 そんななかにあって、彼が正しくて、俺が間違っている、俺が正しくて、あいつが間違っているなどと言い合っても、自分が必ずしも聖(きよ)いわけではありませんし 彼がかならずしも、バカ者ということでもありません。だいたい何がただしくて、何が間違っているのかなど誰が定めるというのでしょうか。人は、ともにかしこくもあり、またおろかでもあるのです。結局のところ、良いも悪いも、正しいも正しくないも、 まるで環のように、端がないのです。」
要するに、何が正しくて、何が間違っているのかなど、互いにひとつの物事を別な角度から見ているだけのことでしかないのです。円錐は、真横から見たら三角で、真上から見たら円形です。これを互いに「三角だ、円だ」と言い合うのは馬鹿げています。
それどころか、そんなつまらないことで、互いにどっちが正しいと感情的に対立しあい、闘争に発展し、ゲバルト(暴力)まで行わる。馬鹿な話です。
「三角だ、円だ」と言い合っている限り、永遠に真実にたどり着けないのです。
学校であれば、テストの答案に、正しい、間違っているは、これははっきりと存在します。
ただし、テストというのは、出題する側には、答えがあらかじめ明確に定まっています。
しかし実社会に、あらかじめ定まった正解はありません。
議論になれば、どちらが正しくて論理的かよりも、声の大きいほうが勝ったりするし、停まらなければならないはずの赤信号だって、みんなで渡ればこわくなかったりします。
いま騒がれている世界の金融支配にしたところで、もし、自分が金融マンなら、会社を儲けさせるのが仕事です。
それによって、戦争が起き、どれだけの人命が失われようが、会社にとっては儲かれば勝ちだし、会社を儲けさせた金融マンは当然高評価となって、特に海外企業の場合ですと、給料が劇的にあがり、人生の成功者となります。
刑事事件にしても、なるほど殺人を犯せば、刑法199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。」という条文によって、殺人罪に問われることになります。
けれど、娘を乱暴されて殺害された父親が、犯人を殺害することは是か非か。
このことをテーマにした東野圭吾の小説『さまよう刃』は、寺尾聰主演で同名で映画化されました。
衝撃作であったように思います。
そこまでシリアスな問題でなくても、日々目の前に立ちふさがるさまざまな問題や課題、あるいはいま世の中に起こっていることなど、それらすべては、学校のテストの答案用紙のように、「○かバツか」とか「正しいか間違っているか」など、実は《あえて言うなら》何の意味もないのです。
大切なことは、どちらが正しいかではなく、どちらもが正しいと主張していることを相互に「むすんだ」先にある。
正しい答えは、Aにあるのか、Bにあるのかではなく、AとBを結んだ先にあります。
A 顧客は画面の大きなテレビを求めている。
B 顧客は美しい映像のテレビを求めている。
C 顧客は価格の安いテレビを求めている。
どれが正しい答えでしょうか。どれが間違った答えでしょうか。
もし、会社の商品企画会議で、A案、B案、C案が、互いに自分だけが正しいと言い張り、互いを間違っている、愚かだと罵りあったら、それで良い商品はできるのでしょうか。
むしろこの三者を結び合わせることで、三者に共通することはなにかと考えてみる。
すると、顧客が求めているのは、もしかすると「手軽さと没入感」であるのかもしれないという仮説が成り立ちます。
そうであれば、音声の抜群にきれいなVRゴーグルで、4Kや8Kレベルの映像で低価格なモデルが新商品になるかもしれません。
要するに、あれが正しい、これが間違っているという議論は、多くの場合、学生どまりの思考でしかないのです。
大人であり、社会人であれば、異なる議論を結びつけて、より豊かで安全で安心して暮らせる明るい未来を開拓する。
それが、新しい時代に求められる姿勢です。世界はいま、大きく変わろうとしています。
こんにちの世界は、巨大な経済集団が、自分たちの利益のためにだけ公然と不正をはたらくものことが露呈した社会です。
不正競争なら、勝つのは寅さんでもなければ売電さんでもない。より悪質な者(たとえば中凶)が勝利者となります。目下その方向に世界は向かっている。
けれど、その勝利は、世界中から猛反発を被ることになります。なぜなら世界はバカではないからです。
そうすると、世界が求めるものは、「より悪質でないもの」、つまり不正の反対、つまり公正です。そして世界で唯一、歴史を通じて世界に対して公正であり続けた国は、日本だけです。
つまり、日本の時代が、すぐそこまでやってきています。
問題は、その日本に住む日本人が、ただただ「正しいか、間違っているのか」と、小学生の宿題プリントの採点の意識から、いまだ抜け出せていないこと。
いつまでも、小学生ではいられないのです。日本は、いま、本気で変わるときです。
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