巡礼―そのオリジンの輝き

https://note.com/muratatu/n/n71af61dd3473 【黒田杏子第一句集『木の椅子』増補新装版 巡礼―そのオリジンの輝き】より

武良竜彦(むらたつひこ)

黒田杏子第一句集『木の椅子』増補新装版 巡礼―そのオリジンの輝き                                        

黒田杏子は、創作姿勢に少しでも違いがあると反目し合い、互いに交流もない風潮の強い俳句界にあって、自分が評価、敬愛する俳人や、必要とされる文化運動などを積極的に支援するだけではなく、各種の俳句文芸活動や運動などの推進役を買って出て、オープンな雰囲気の結社の運営と同時に、各種の公募俳句の選考委員を引き受け、有望な後輩の育成に垣根を超えて尽力し、現代俳句界を牽引している第一人者である。

加えて、個人的なことだが、石牟礼道子論をライフワークとしている私にとっては、黒田杏子は石牟礼道子全俳句集の出版を、藤原書店の藤原社長に強力に薦めた方として、尊敬している俳人でもある。それまで私は石牟礼道子が韻文も創作しているということを知らなかった。それは盲点だった。石牟礼文学を深く理解するためには、自分でも韻文創作を体験して置く必要があると発心し、私が俳句に向かい合う契機になった。

さらに石牟礼道子との関連で不思議な縁を感じている。

一九六〇年、首都東京を中心にした「安保条約」反対闘争の嵐が吹き荒れていた頃(六月十五日、樺美智子が命を落とした国会を取り巻くデモの中に黒田杏子の姿もあった)、その遥か西、九州の炭鉱の合理化をめぐって戦いが起きていた。「三井三池闘争」を筆頭とする労働争議である。炭鉱労働者たちは劣悪な職場環境、使い捨て的な理不尽な雇用制度、そして問答無用の首切りに長い間苦しめられていた。その中に飛び込み、労働者たちと共に住み、また自ら炭鉱労働者として働きつつ、この炭鉱村で政治、文化運動を展開した者たちがいた。その中心にいたのが詩人で思想家の谷川雁と森崎和江だった。その中にまだ無名時代の石牟礼道子もいた。そして三井三池炭鉱第一組合の子供達支援のため、黒田杏子先生は炭鉱住宅で一か月暮している。お互い無名の支援活動者として同じ場所にいたのである。黒田杏子の著書のいくつかにそのことが書かれていて、それ以来、黒田杏子という名前が私の中に刻まれていた。

俳句を作り、俳句評論を書くようになっても、私はまだ石牟礼道子論を書けないでいた。そんなとき、黒田杏子から突然、次の書状が私のもとに届けられたのだった。

「石牟礼道子のことを勉強しているそうですね。いつでもいいですから、そしてどんなことでもいいですから、何か書けたら『藍生』に寄稿してください」

そんな書状と俳誌であった。黒田杏子が主宰し発行している俳誌「藍生」で石牟礼道子特集が組まれている号であった。

俳誌に石牟礼道子論を書く……。

当時の私には俳句論として石牟礼道子論を書くという視点はなかった。それは文学論か社会評論の範疇で書かれることだと思い込んでいたのである。このときの黒田杏子の書状が、私が後に石牟礼道子俳句論を書く契機となったのである。

石牟礼道子が表現手段として、最後に俳句を選択するに至った道程を一筋の論立てとして、彼女の来歴と作品を論じるという方法なら、まとまった形にできるかも知れない。そう着想し、それまでの膨大なメモを抜き書き整理して「石牟礼道子俳句が問いかけるもの」という論考を書き上げた。その論考が現代俳句協会の「現代俳句評論賞」をいただく結果となった。続編を「俳壇」誌に書かせていだたき、現在その続きを「小熊座」にて連載中である。

すべて黒田杏子との不思議な縁によって起こったことだ。

この評論賞の選考委員の一人が、優れた文芸評論家で「藍生」同人の五十嵐秀彦である。数篇の応募評論の中で、私の石牟礼論を推挙されたのだという。表彰式の後の親睦会で五十嵐氏と直接お話をさせていただいた。

「今回の評論賞のことを話題にしたとき、黒田主宰が、武良さんは私と齋藤愼爾が推挙している有望な人ですよとおっしゃったのでびっくりして、武良さんは、黒田主宰や齋藤さんが推挙しているほどの方だったのだと知って、そんな方の論文を評論賞に推挙できて、私も鼻が高いですよ」とおっしゃった。それにはとても恐縮した。

そのとき、黒田杏子から句集をいただいていることと、自分が黒田杏子俳句論をまだ書けないでいるので、「ぜひ五十嵐さんが書いて範を示して、読ませていただけたら嬉しいのですが」というようなことを話した記憶がある。

事実、私は黒田杏子俳句論を書きあぐねていたのだ。

 剪りて挿す十薬樺美智子の日    四万六千日飢餓図絵の婆靴磨く

 蚊柱や癩者の影は窓に倚る     柳絮とぶ旅人として存へて

 白葱のひかりの棒をいま刻む     能面のくだけて月の港かな 
                      ※この句については後述する。

まつくらな那須野ヶ原の鉦叩       稲光一遍上人徒歩跣

など、収録句の深い求道的な精神性に裏打ちされた句や、優美にして繊細、かつ若々しい清新さ溢れる世界。「女性俳句」と一括りにされている世界とは一線を画す視座と表現方法の多様性。伝統的な作法を踏まえながらも、その枠を軽々と超えてしまうような自由な精神性を感じさせる作風。そんなことを論述しても、その奥底で黒田杏子俳句を支えている核を捉えたことにはならないような気がしていた。

私は句集の随所に現れる一遍上人や「遊行」という行為に寄せられる、自己投影された精神世界と、自分でもテーマを定めた「巡礼」行為を続けていること、その「巡礼」の契機となったのが、瀬戸内寂聴たちと訪れたインド行であり、そこで自分が育った那須時代の風土が結びつき、以降の自分の精神的な支柱となったというエピソードが気になっており、どうやら核心はその辺りにあるのではという思いでいたのだった。

後日、まだ黒田杏子俳句論を書けないでいる私の願いを、五十嵐氏が先行して叶えてくださった。題して、「灰燼に帰したる安堵―黒田杏子と一遍上人―」

二〇二〇年十一月刊行の「濫生」誌(創刊三十周年記念号)に発表。それを小冊子にしたものを五十嵐氏からご贈呈いただいた。その論考を読み、一遍上人の思想性を核とした圧巻の論述に瞠目されられた。やはり一遍上人との精神的な巡礼を核として述べれば、黒田杏子俳句論になったのだと得心した。なかでも最も核心部と私が思った箇所を、少し長くなるが、以下に摘録させていただく。

   ※

空也一遍道行女婦去年今年

空也上人は平安期の念仏勧進の超宗派の宗教家。その点では一遍の先翠格の人物で、彼自身空也を尊敬し、その遺跡市屋に道場を設け踊念仏を実施もしていた。権威主義的な仏教界とは異なる在野の信仰を進めたふたりの遊行聖。その遊行が「遊行女婦」と転じる。遊行女婦とは折口信夫のいう「うかれめ」である。あるいは「あるき巫女」でもある。谷川健一は『賤民の異神と芸能』(河出書房新杜)で次のように書いていた。《「アルキ白拍子」「アルキ御子」はどこかの目的地や終着点を目指すものではない。「歩く」こと自体が目的であった、と云っても差し支えない》《終わりなき旅の漂泊者たちは、人間を駆り立てるもっとも深い欲望に促され、旅に生き、旅に死んだのではなかったか》。「遊行女婦」という言葉。ここに静かに作者の思いが込められている。女性ゆえに受けたさまざまな理屈の通らない圧力もまた、作者の歩む力に転じてきたのではないか。一遍は女性を平等として時宗を引き連れて歩んだ。その思いを自分の支えとして歩んできた自分の道が、一遍の道につながっている。そう信じる作者がいるのだ。

春の月満ちて遊行者漂泊者

遊行者は同時に漂泊者だ。そこに山頭火もいた。放哉は道行とは言えなかっただろうが、心ならずも漂泊の日々となってしまった男だった。金子兜太はこう言った。(「定住漂泊」は体験を通しての私の発見であり、生き方のひとつの提案です。とどめがたき漂泊心を、定住者こそエネルギーに、バネにしろということです)。兜太の「定住漂泊」というのは今を生きる私たちへのひとつの提案であろう。漂泊の心を失うと、道だと思っていたものが単なる堂々巡りでしかなくなってしまう。精神の遊行者であってほしい。漂泊者であれ。そういう思いが作者にはあるのだ。

独り生れ独り過ぎゆく花篝

一遍の《独り生まれて独り死す》の言葉がこの一句に重く響く。夜桜と篝火が暗示する一層深い闇のイメージは、《出る息いる息をまたざる故に、当体の一念を臨終とさだむるなり。しかれば念々往生なり》とする死生観を思わせる。篝火が消えれば花は闇に消える。独り生まれ独り去りゆく自身であり、人々であるのだ。(略)

灰燼に帰したる安堵一遍忌

前句に続く句であり、そして作者の一遍句の中でも圧倒的に存在感のある句であろう。一遍上人立像が灰となった衝撃に対して、それを「灰燼に帰したる安堵」とした時、黒田杏子の一遍の精神を生きる覚悟を読者は知る。 「安堵」という言葉の深さと救済感に打たれる。遊行が安堵にほかならないことを知るのだ。

《法師のあとは跡なきを跡とす。跡をとどむるとはいかなる事ぞ。われ知らず)(「一遍上人語録」)

  ※

長い引用になったが見事な視座から論述し尽くされている。私に付言することはもう何もないと感服した。この論考は以後の黒田杏子俳句論のスタンダードとなるに違いない。

「巡礼」という行為には俗にいう「目的」などはない。生きることそのものと同様に、行為することに意義がある。目的を持って行為をし、ある事を成し遂げて結果を出す、という「近代」的合理主義に染まった現代人は、この行為自身が持つ純粋な価値を見失っている。行為とは生きることそのものであり、そこになんの目的も意味もない。意味はないが、その行為をするものにとっては生きているという価値を実感できること、そのものである。思えばとても自然な行為なのだが、傍目にはそのことをひたむきに成してしまう人の行為は、異様に見えてしまう。ひたむきな行為は前近代的には自然な行為だったのだ。それを異様と感じる者は、「近代」に毒されてしまっているのではないか。

黒田杏子が最初のインド行で掴んだ境地、そこから始まった「巡礼」についての思いの核にあるものも、この境地ではないのだろうか。敬愛する人、気がかりな人、気がかりな日本という風土、そこで生きる人たち、その在処へと憑かれたように巡ることをして止まない姿勢。

ここに第一句集『木の椅子』の巡礼・魂の道行きのオリジンの輝きがある。それは何も黒田杏子の「オリジナル」という意味ではない。五十嵐論文が見事に論証しているように、古来の、特に仏教思想の流れによって育まれた日本人の精神性の底流を貫き伝承されてきたものの一つなのである。オリジンとは、その民俗的な流れを自分流に再構築し得る独創性のことだ。

本題の句集『木の椅子』に入ろう。

『木の椅子』増補新装版と、それを特集した「藍生」誌上には、多数の俳人による黒田杏子俳句論が掲載されている。

その評価は次の三点に集約できるだろう。

一、求道的な精神性

二、表現方法の多様性

三、調べの大衆性

一の「求道的な精神性」については先述した五十嵐論考に詳述されているので、付言したいこと特にはない。

二の「表現方法の多様性」については付言しておきたいことがある。それはよく「作風がブレる」とか、「詠み方に一貫性がない」というようなマイナスの評価に繋がる傾向が俳句界には存在する。そのようなマイナス評価の在り方自身が、古い固定概念にしばられた信仰的な姿勢であることを、逆に黒田俳句が照らし出しているように思われる。多様性は時代を切り拓く新しさなのだ。精神の柔軟さと自由さの証明である。社会や俳句界を覆ってきた見えない枠(社会的な女性の地位の低さ、俳句界で女性俳句などという偏見の枠)を破る先駆者的な側面も持つ俳人なのであり、それらを黒田杏子は軽々と飛び越えてきた人である。それが表現の多様性という新しさに表れている。

三の「調べの大衆性」についても付言しておきたいことがある。「大衆性」は「わかり易さ」「通俗性」という意味合いで使われることばだ。だが黒田杏子俳句の「大衆性」は、「わかり易さ」「通俗性」にあるのではない。その証拠に黒田俳句は平明な言葉を用いて詠まれていても、通俗的に「わかり易い」訳ではない。わかり易いと思う人は、自分が「わかっている」ことの範囲内で「わかっている」に過ぎない。じっくり読めば、一見分かり易そうな句も、深淵な思念と詩心から立ち上げた独特の「難解さ」を帯びている。

この場合の大衆性というのは、日本の「もの」「かたり」の伝統的な特性の体現なのである。ことばに蓄積され共有される文化的な「記憶」を、ことばの意味として「かたる」のではなく、韻律的な調べとして口誦すること、そのこと自身に「価値」があるという、日本語表現の伝統である。そのような言語表現の伝統があるから、俳句という短詩型の「言わないで言う」という表現形式に意義を見出す文化が成立しているのだ。そういう意味での歴史的文化の共有性としての「大衆性」が、黒田俳句にも脈打っているのだ。具体例は俳句の鑑賞のところで詳述する。個人的な主張の位相ではなく、集合的な認識として共有されている「もの」を「かたる」こと。これが「何も言わないで言う」という俳句的表現の特性の一つになっている。

齋藤愼爾は『木の椅子』増補新装版所収の論考で、

  能面のくだけて月の港かな

という、第三句集『一木一草』に所収されているこの句が、「奇蹟のような一句である。俳句表現史に屹立し、非の入り込む余地はない」句であるとして、岡本綺堂の『修善寺物語』の能面に纏わる物語との関連を指摘して、「あなたは今後、この句を超える俳句を作れないだろう」と黒田杏子に言ったというエピソードを踏まえて、次のように述べている。

   ※

(略)凛冽なる芸術家の精神において、黒田杏子氏は夜叉王と同じ気圏の住人というべきか。〈能面のくだけて月の港かな〉十七文字は戯曲一篇の内容を優に含有している。

ひとこと付言すれば、この句は黒田氏と『苦海浄土』、能『不知火』の巫女、石牟礼道子氏とのやがて訪れる運命的邂逅を予め暗示しているということだ。句には能面が破摧する響きが内蔵されていて、黙読しても、私たちにも聞こえるというのも、この句の魅力だ。(略)

   ※

そして次の三句はこの句に匹敵すると述べて、「能面」の句を「超える俳句は作れない」と言った「私の完敗である」と述べている。

まつくらな那須野ヶ原の鉦叩  狐火をみて命日を遊びけり   稲光一遍上人徒跣

そして句集『花下草上』に収められている次の句、涅槃図をあふるる月のひかりかな

が、唯一、「能面」の句に拮抗する、と付言している。

以下、『木の椅子』増補新装版から強い印象を受けた句を挙げて、鑑賞を試みよう。

 かもめ食堂空色の扉の冬籠       昼休みみじかくて草青みたり

 吊り革に立ち都鳥荒れにけり      かよひ路のわが橋いくつ都鳥

 半日の休暇をとれば地虫出づ      金柑を星のごと煮る霜夜かな

 蚊を打ってこのこと忘れ米を研ぐ    休診の父と来てをり崩れ簗

 夕桜藍甕くらく藍激す         短夜の金魚は己が鰭に棲む

 黄落は火よりもはげし一葉忌      丹頂が来る日輪の彼方より

 雪嶺へ身を反らすとき鶴の声     ダチュラ咲く水底に似て島の闇

日々の勤めを含む暮らしの一コマが平易な言葉で掬い上げられているが、その景と取り合わされる言葉が斬新でハッとさせられるほど鮮やかだ。季語が季節感で作品世界を包みこむ効果以上の、作者自身の精神性の表現になっていることが驚きだ。古典としての「うた」の文化的共有性と取り合わされて表現に厚みを与えているのだ。つまり日常詠が陥りがちな、ただの私的呟きではない次元へと見事に昇華されているということである。だから作品が決して古びることのない恒常的な「新しさ」を獲得しているのだ。

次の句などには日常性を超えた「巡礼者」的な精神性の深みを感じる。

  野にひかるものみな墓群冬の虹    石柱に句は一行の湖薄暑

  涅槃図やしづかにおろす旅鞄     供花ひさぐ婆の地べたに油照

  襤褸土にヒトをつつめり旱星     牛追の跫音沈む熱砂かな

  瓜を売る地に一燭を立てにけり    日盛りのをみなはさびし白行衣

 涅槃図の一隅あをし孔雀立つ     摩崖仏おほむらさきを放ちけり

『木の椅子』という句集名の由来は次の句に拠るのだろう。

  蟬しぐれ木椅子のどこか朽ちはじむ     父の世の木椅子一脚百千鳥

 木の椅子は常に自分に居場所を与えてくれるものであり、「巡礼」にでかけてはまた還り来る場所でもあり、そういう魂の活動と循環の末に朽ちゆくものでもある。自分の居場所には蟬しぐれを降り頻らせ、父の居場所には百千鳥の鳴き声を降らせている。伝統的な俳句表現では無常観の表現として詠まれて詠嘆的になる傾向があるが、黒田俳句では決して「嘆き節」にはしない矜持がある。

  牛蛙野にゆるされてひとり旅

必ず死で終わる命の旅を終末観などでは詠まない。人間中心主義ではなく、生かされて「在る」という天の摂理への感謝と釣り合う自己肯定感と拮抗するような詠み方である。「ゆるされて」いるのは「野」という、その命が置かれた場所に他ならないのである。

『木の椅子』増補新装版にはインド行の「瑞鳥図」五十句が収録されている。その一部を以下に摘録する。

  入滅の図の朱を亂す遠き蟬     石刻む人にまひるの金鳳花

 炎天や枝うつりして瑞鳥圖     石窟を素足のすすむ花筐

 呼声の奥の呼声瓜喰めば      緑陰は深ししづかに孔雀老ゆ

仏教の聖地にこの身体で直に触れているというどこか高揚した思いが、逆に抑えた筆致で「巡礼」するかのように描かれている。「素足のすすむ」というような文化の中を、自分もまた「素足」で歩いているのだ。

以下の句は巡礼行として詠まれているわけではないが、作者の「行為する魂」の手触り、「巡礼性」を感じる。

  十二支みな闇に逃げこむ走馬燈

「逃げこむ」は通常の文脈だと「消えゆく」ではないか。それを自発的な行為のように「逃げこむ」と読んでいるのは、作者が走馬燈の十二支に擬えられた今を生きる命に共振しているからだ。そこから生きとし生けるものの、闇に生まれ闇に消える命の、このひとときの燈明を燃え立たせる。

  稲妻の緑釉を浴ぶ野の果に

 雷光の色合いを緑色の釉薬という硝子質で表現したのが斬新。下五の「野の果」とその色が呼応する。それが佇む孤高の精神の輝きでもあるかのようだ。

  芭蕉照らす月ゲルニカの女の顔

 スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の一九三七年に描いた、二十世紀を象徴するといわれる絵画「ゲルニカ」は都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。その中の「女の顔」にクローズアップしている。

それと月夜の風にゆらぐ芭蕉の葉。時空を超えた「巡礼」の句だろう。「芭蕉」から沖縄所縁の植物や織布を想起して沖縄戦の悲劇を思うことを、この句は許すかもしれない。

いずれにしろ、人間が犯してしまった罪、ジェノサイドの匂が立ち込める句である。原爆禍も、原発禍もその延長にある。

戦後の「水俣病」も日本人自身がそのジェノサイドの加害者でもあることを忘れてはならない。

  秋の蝶ちひさし真間の継橋も

「真間の継橋」とは千葉県市川市「真間」にあった継橋。

「かき絶えし真間の継橋踏み見れば隔てたる霞も晴れて迎へるがごと」〈千載・雑下〉の歌枕の地であり、ここは「真間手児奈」伝承の地でもある。

下総国葛飾に住んでいたという女性で、多くの男性の求婚にたえられず真間の海に入水自殺したという伝説である。

掲句はその悲劇を「秋の蝶ちひさし」と表現している。

ここには男性優位の価値観による女性の悲哀の歴史的「記憶」が刻まれている。日本の差別的な家長制度下で、女性は男性によって「選ばれる存在」であり、女性が自発的に「選ぶこと」ことなどできなかったが故の悲劇の歴史的「記憶」であろう。

先に黒田俳句の「調べの大衆性」という特性について触れたが、これはその地名という歴史的な記憶の中の「もの」を「かたる」詠法の代表的な句だろう。

日本の詩歌精神そのものによって、民衆の「記憶」から立ち上がる、一言では言えない「もの」を、言葉の韻律に乗せて語る「ものかたり」の俳句である。

注意して読んで欲しいのは、そこで言葉として表されていること自身に、近代文学観でいう「表現主題」というものはない、ということだ。そうやってその場所や、人の心の在処に立ち、詠うこと自身に「うた」として意義があり、それ以外の一切の「意味」などはないのである。それが日本古来の「うた」の伝統的精神であり、「調べの大衆性」というものだ。平易な言葉で詠まれているが、「わかりやすい」という次元の「大衆性」などではなく、日本の詩歌における「うた」の本質に疎い者にはとっては深淵な難解さを湛えている。この句はそういう意味で深く鑑賞されず、安易に「誤読」されないか案じている。

ホメロスの兵士佇む月の稲架

「ホメロス」という言葉から想起されるのは、古代ギリシャ(紀元前八世紀末)のアオイドス(吟遊詩人)であったということと、西洋文学最初期の二つの叙事詩『イーリアス』と『オデッセイア』の作者であるということだろう。

伝承では「ホメロス」は盲目であったとされ、女神カリオペの子であるという説や私生児であったという説もあり確かなことは判っていない人格である。

いずれにしろこの句の場合、「うた」として重要な記憶は、神の系譜にも置かれる叙事詩を吟じる盲目の吟遊詩人であるということだ。

日本で言えば平家物語を「かたる」琵琶法師、門付けで過去の不幸の物語を三味線で「かたる」瞽女という盲目の「かたり手」の意味合いと拮抗する。

日本では盲目であることが、「ものかたり」の「かたり手」の必須条件のように受けとめられていた。

古代ギリシャでも吟遊詩人は儀礼的に盲目として扱われていたのである。

そしてその「うたう」能力は予知能力に通じ、予言者と呼ばれる者たちはみな盲目であった。

逆に言えば、古代ギリシャでも、日本でも社会で盲人が就けた数少ない職業が「うた」の語り手だったということでもある。

 この句では月夜の苅田に佇んでいるのは「ホメロス」ではなく、彼が「うたった」叙事詩の中の戦場いる「兵士」だ。

魂の巡礼者、黒田杏子がここで幻視しているのは、死と向かい合う、過去の、そして現在の魂たちの象徴ではないか。

この世の苦難の現場に立つ者たちの魂に寄り添う「巡礼者」の視座による表現ではないか。

因みに、作者はなぜ「稲架」という稲干場の心象を「兵士」に与えたのか、と問うてみよう。すると何か見えて来ないか。

大野林火が「稲架の道朝夕きよくなりにけり」と詠んだように、何か「きよらかな」空気で、深く傷ついた魂たちを包んでやりたかったのに違いない。

 ここに孤高の俳人精神である「巡礼者」としての吟遊詩人のような身上の投影があるように感じられる。     


Facebook若林俊彦さん投稿記事  戦後GHQが改悪した漢字シリーズ②

前回氣について書いたらすごく反響があったので少しずつ 少しずつじゃないと自分のものにできないでしょ 大事な話なので少しずついきます

さて、今日は「私」と「和多志」これもすごくいい話なのよ

アメリカが二度と日本が力を持たないために世界のリーダーとならないために 封じた言葉

一人称ワタシ タワシじゃないよ

昔の日本にはこんな素敵な言葉がありました「和多志」

長いって?書くの面倒? もーめんどくさがりやなんだから

でもでも 意味を知ったらびっくりします 素晴らしいから

「和多志」とは 多くの志を和す つまり多くの志 こんな活動がしたい あんな活動がしたい 平和活動したいとか? 教師になって素敵な人教育したいとか?色々あるじゃない

それをまとめる つまりね、自分、自分じゃないわけ だって人間って色んな人と

絡んで世の中ができてる みんなを応援するわけ だってみんなワタシなのよ

魂はネットワークのように 網の目のように繋がっているの だから決して一人じゃない

独立しているけど 繋がってみんなで一つ それが「和多志」なの

すごいでしょ これが大和の魂 日本人の心なわけ

ところがね こんな素晴らしい精神文化は 潰そうとなった

一致団結してすごい原動力になったらアメリカも困るわけ はい、そこで、この言葉なくそう

なんでよその人が勝手に 日本の言葉を変えるわけ?

はい、アメリカ様のお通り つまり支配のため 師従関係をきっちりさせようってこと

酷いよね で、「私」 みじかくていいでしょ?

でもここにトリックがある 私って字を分解すると のぎへん、収穫を表す

いいよね、収穫 いい言葉 そしてム ムは無し ええええええ で収穫無し

最悪やん 酷いよね でも逆に言うと とんでも無く力を持つ可能性を 認めていたわけ

評価の裏返し でも酷い これって誰かが仕組んでいる 陰謀論じゃないよ 現実に研究した上で 実行されたこと

日本は確かに敗戦したが 日本にも正義があった ちゃんとこれ以上制裁などすると

攻撃すると宣告していたとか 勝てば官軍 そんなものは勝てば日本だけ 悪者にされる

東京裁判、A級戦犯は処刑 でも勝った方は裁かれない だから他国の戦争の良し悪しを

一方的に報道するのも どうかと思います

今、和多志たちが言えることは 素晴らしい日本を 取り戻すこと そこを見ていきたいと思います

「和多志」 この感覚は素晴らしいという話でした

私って字を使うならいっそ、わたしって平仮名の方がいいかも

素敵って思えば「和多志」使ってください

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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