永田耕衣の句

永田耕衣の句

 赤とんぼ死近き人を囲み行く

                           永田耕衣

抒情的な作品とも読めるが、そうではないだろう。むしろ私には、不吉な幻想光景のように思える。「死近き人」とは必ずしも老人のことではなくて、幼い子供と読むことも可能だ。いずれにしても、作者はその人の死の間近さを直覚したのであり、その人はなにも知らずに赤とんぼの群れ飛ぶ道を歩いている。空は大きな夕焼けだ。つげ義春の漫画の一場面にでも出てきそうなコワーい句である。永田耕衣は今年96歳の現役俳人。阪神大震災で家が全壊するという不幸に見舞われた。最近作に「枯草や住居(すまい)無くんば命熱し」がある。『冷位』所収。(清水哲男)

 秋は女寺から行方不明らし

                           永田耕衣

秋は女で、寺から行方不明になったのか。または、秋は女寺から行方不明になったのか。何とも不可解な人を食ったようないいまわしは、この作者独特の世界だ。作者は昨年(1995)の神戸大地震で罹災して話題となった俳壇の最長老。(井川博年)

 春の夜や後添が来し灯を洩らし

                           山口誓子

長い間やもめ暮らしだった近所の家に、珍しく遅くまで灯がともっている。再婚するという噂は耳にしていたが、どうやら噂は本当だったようだ。と、作者は納得し、微笑している。それでなくとも、春の夜には艶っぽい雰囲気がある。したがって、シチュエーション的にはいささか付き過ぎ、出来過ぎか……。永田耕衣に「春の夜や土につこりと寂しけれ」がある。むしろ、こちらの句にリアリティを感じるという読者も多いだろう。(清水哲男)

 雨蛙めんどうくさき余生かな

                           永田耕衣

耕衣、七十代後半の句。雨蛙の体の色は葉の上など緑のなかでは緑色をしているが、木の幹や地上に下りると途端に茶色に変色する。保護色の好例として、小学校の教室でしばしば引き合いに出されてきた。人間には保護色はないのだけれど、考えてみれば、状況に応じて態度を変えるなどしているわけで、心理的精神的な保護色はあると言わなければなるまい。ただし雨蛙が自然に体色を変えられるのとは違って、私たちの場合は、意志的にそれをする必要がある。そこが実になんとも「めんどうくさい」と感じることになる年代が「余生」だと、作者は述べている。きょとんとした雨蛙と、何もかもを面倒くさく感じはじめた俳人との取り合わせは、ペーソスの味を越えた不思議な明るい世界に通じているとも読める。「余生」を自覚するのは人それぞれのきっかけからだろうが、作者の場合はそんじょそこらの雨蛙に触発されての自覚であった。私などは「いつ死んでもおかしくない年齢」の自覚はあっても、どこかで「余生」とは認めたくない小賢しい気持ちのままに生きている。いずれ、作者のようにそんじょそこらの「何か」に、否応もなく「余生」を告知されるのであろう……。『殺祖』(1981)所収。(清水哲男)

 田にあれば桜の蕊がみな見ゆる

                           永田耕衣

桜の花びらが散ってしまうと、蕚(がく)にはしばらくの間、蕊(しべ)が残る。俳句では、この桜の蕊までをも追いかけて「桜蕊散る」と春の季語にしている。が、句の場合は満開の桜の蕊でなければならない。私たちが普通に花を見るときにも、花びらとともに蕊も見ているわけだが、誰も蕊まで見ているとは思っていない。実際には見えているのだけれど、花びらだけを見ているのだと思っている。花見という行為が遊びであり消費行動なので、いささかうがった言い方をしておくと、生産活動をつかさどる雄蘂や雌蘂に対しては、故意に盲目であろうとするからだろう。ところが、田は生産の場所である。ここで作者が田打ちをしているとは思えないが、田圃の畦道にでも立っているのか、あるいは空想なのか。ともかくも、田という場所を意識して、そこから満開の桜を見上げたときに、目に鮮やかなのは花びらではなくて蕊なのであった。つまり、新しい桜の姿を発見している。昔から「詩を作るより田を作れ」と言う。ならばと耕衣は「田を作って」から「詩を作った」のだと考えてもよいだろう。句は加えて、この国の「詩」の伝統的な主題が「花」であったことを、まざまざと想起させてもいるのである。『加古』(1934)所収。(清水哲男)

 よぼよぼの虻を看とらぬ地球哉

                           永田耕衣

小さなものと大きなものとを対比させたり衝突させたりして、そこにポエジーを発生させる技法は、詩一般にとって親しいものだ。それにしても、虻(あぶ)と地球とはケタ外れの大きさの違いである。しかも、死に瀕している虻とまだまだ盛んに命を燃やしている地球の、二者の勢いの差も甚だしい。だが、不思議なことに、この句の虻は地球よりもむしろ大きく見えている。いきなり「よぼよぼの虻」とクローズアップしているためでもあるが、考えてみて、私たちは地球を虻を見るようには見たことがないせいだと思った。つまり、ここで虻は限りなく具象的な物体であり、地球は限りなく抽象的なそれである。そこで、句の眼目は小さなものと大きなものとの対比だけではなくて、具体と抽象との対比にもずれ込んでいく。さらに作者は、地球という抽象的物体に「看とらぬ」という人間的な意志を持たせた。これで、ぐんと地球が小さく写る仕掛けだ。もちろん、作者はこのように順番を踏んで書いたのではなく、あくまでも一気呵成に詠んでいるわけだが、無粋に分析すると、こういうことだろう。この仕掛けのために、世界は少しも暗くない。「これでよし」と、すっきりとした明るいニヒリズムが感じ取れる。『殺佛』(1978)所収。(清水哲男)

 舎利舎利と枯草を行く女かな

                           永田耕衣

実景かもしれない。枯草原を女が歩いている。和服の裾が枯草に触れて、そのたびにかすかな音がする。しゃりしゃり、と。それを作者は「舎利舎利」と聞きなしているわけだが、若い読者には駄洒落としか思えないだろう。しかし、七十代も後半の作者は大真面目だ。この場合の「舎利」は火葬の後の骨のこと。晩年にさしかかったという自覚のある耕衣には、しごく素直にそう聞こえたのである。このとき女は幽霊のようであり、自分をあの世に誘う使者のようでもある。といって、暗い句ではない。むしろ、死を従容として受け入れようとする心が描いた「清澄な世界」とでも言うべきか。明晰なイリュージョン。私ももう少し歳を重ねることになったら、かくのごとき境地にあやかりたいものだ。ところで、幽霊とお化けとはどう違うのか。簡単に言うと、幽霊は「人」につき、お化けは「場所」につく。柳の下に出る幽霊は「場所」についているようだが、実は違う。あれは、誰にも見えるわけじゃない。とりつかれた人にだけしか見えないのだから、どうかご安心を(笑)。そろそろ柳の散る季節。寒がりの幽霊は、もう出なくなる。『殺佛』(1978)所収。(清水哲男)

 池の鯰逃げたる先で遊びけり

                           永田耕衣

わからない。と思えば、何もわからない句。客観写生句ではないからだ。でも、かと言って何かの事象の象徴句でもないし抽象句でもない。作者としては、ありのままに文字通りに、具象句として読んで欲しいのだと思う。他ならぬ私がそうなのだが、私たちはちょっと「わからない」句に出会うと、すぐに解釈したがってしまう。とにかく、理屈で解き明かそうとする。まるで病気のように、「わからない」自分が許せないのだ。だから、それこそ句を「遊べ」ない。耕衣句の多くは、そんな現代病をからかっているようにすら写る。鯰(なまず)が「逃げたる先」で、逃げたこともすっかり忘れちゃって、あっけらかんと遊んでいる。ただ、それだけのこと。いつまでもじくじくと過去にこだわらない(正確に言えば、こだわれない)鯰のありようを、作者は素朴に「いいな」と思い、その思いをそのまま読者に手渡してくれている。句に禅味があるのかどうかは知らないが、近ごろの私などには羨望に値する世界と写る。心弱き日に思い出すと、元気が出てきそうな一句だ。おっと、いけない。またぞろ悪い病気が顔を出しかけてきた……(笑)。『自選永田耕衣句集』(1980)所収。(清水哲男)

 あんぱんを落として見るや夏の土

                           永田耕衣

無意味といえば無意味。ナンセンスの極地。どこがよいのかと問われても、答えに窮する。だが、この句には確実に読者をホッとさせる力がある。それは、どなたも否定できないだろう。耕衣は第一句集『加古』(1934)の自跋で、「一句を得て空漠、二句を得て猶空漠たるが、われらの望むところ」と書いている。出発時からして、意味や知恵を俳句に求めなかったということだろう。さらに敷衍して考えれば、それでなくとも人は世俗的な意味や知恵のなかで生きてゆかねばならぬのに、さらに俳句で屋上屋を重ねるなど愚の骨頂ということのようだ。耕衣は終生、このニヒリズムを手放さなかった。しかし、空漠を生みだすのは、そう簡単なことではない。デタラメでは駄目なのだ。無意味は、常に意味を意識する宿命にあるからである。掲句にそくしていえば、キーは「落として見るや」だ。一つの意味は「試みに落としてみる」であり、もう一つの意味はうかつにも「落として」しまい、それから夏の土を「見る」だろう。この二つの意味が合体したときに、中七句は限りなく無意味に近い意味に転ずる。両方の意味が一瞬同時に読者の脳裏に明滅し、その効果で世俗の意味ははぎ取られてしまう。だから、おのずからホッとする……。「夏の土」の必然性は、他の季節の湿った土だと、乾いた空漠感を提出できないところにある。「あんぱん」がべちゃっとした土に落ちると、そのイメージに気を取られてしまい、中七が利かなくなるからだ。でも、この解釈には異論が出そうだなア(笑)。『人生』(1988)所収。(清水哲男)

 店の柿減らず老母へ買ひたるに

                           永田耕衣

好物なのだろう。母に食べてもらおうと、柿を求めた。老母のためだから、数はそんなに必要はないのだが、ちょっと多めに買った。いくつかは無駄になるとしても、母に差し出すときには、はなやかに見えるほうがよい。気持ちのご馳走だ。ところが買った後で、もう一度店先の柿の実の山を見てみると、少しも減った感じがしない。自分が買ったのに、その行為の痕跡もないのだ。せっかく「母へ買ひたるに」もかかわらず、これでは子としての母への思いが通じないじゃないか。バカみたいじゃないか。と、内心で深く作者は落胆している。この句は、我々の「プレゼント欲」の本質を突いている。老母へのプレゼントに下心などあるはずもないが、しかし、単純に喜んでほしいと思うのも手前勝手な「欲」には違いない。「欲」だから、できればその「欲」の成就を、あらかじめ保証してくれる何かが欲しい。このときに簡単なのは、自分が相手のために確かにある行為をしたという確かな痕跡を見ることだ。例えば、大富豪が恋人のために街中の花屋の花を買い占めてしまうのも、買い占めるときの気持ちは、自分の「欲」の成就を確信したいがためなのである。花を全部買い占めるのも柿を少し余分に買うのも、つまるところ「欲」の構造としては相似形だ。意地悪だろうか、私の読みは……。『驢啼集』(1952)所収。(清水哲男)

 天心にして脇見せり春の雁

                           永田耕衣

そろそろ、雁(かり)たちが北方に帰っていく季節である。季語「春の雁」は、北へと帰りはじめようとする雁のことを言う。だんだん、姿を消していく雁たち……。明るい春と別れの淋しさとを同時につかまえた季語で、人間界になぞらえれば「卒業」などに近い情趣がある。おそらく、日本語独特の表現だろう。よい季語だ。ちなみに「残る雁」の季語もあって、こちらは病気や怪我のためか、とにかく帰れない雁にわびしさを見た季語である。揚句は、帰るために、もう後戻りのできない「天心(中天)」にまで至っている雁の一羽が、ひょいと脇見をした様子を描いている。作者は、私たちが何となく想像している雁の北帰行の常識的なイメージを、それこそひょいとからかっているのだ。雁たちが一直線に真一文字に、ひたすら「天心(すなわち天子のような心持ち)」で北を目指しているというのが、おおかたのイメージだろう。もとより作者だとて、実際の飛行の様子は知らないわけだが、なかにはきっと「脇見」する奴だっているにちがいないと思った、そこがミソ。「脇見」は心の余裕の産物でもあるが、他方では「不安」のそれでもある。句では、後者と捉えたほうが面白い。ぱあっと北を目指して意気高く飛び上がったまではよいけれど、本当に「これでよかったのだろうか」と、周囲の仲間の表情を盗み見している図。言わでものことだけれど、揚句はたぶんに人間界への皮肉が意識されている。『吹毛集』(1955)所収。ちなみに「吹毛(すいもう)」とは「あらさがし」の意。(清水哲男)

 人生を空費して居る柳かな

                           永田耕衣

芽吹きが美しいので「柳」は春の季語。「♪柳青める日、ツバメが銀座に飛ぶよ、……」など、たくさんの春の流行歌にもなっている。さて、揚句。まさか柳に「人生」があろうはずもないから、すうっと読み下さないで、「空費して居る」で一度切る。すると、柳の姿に「人生を空費して居る」おのれの姿がダブル・イメージとなって映し出されてくる。しかし、そう簡単に句を割り切ってしまうのも面白くないよ。と、句それ自体が呼びかけているような気がする。では、次にすうっと読み下してみよう。すると今度は柳にも「人生」があることになる。どんな「人生」なのか。たとえば俗に「柳に風」と言ったりするが、これを皮肉に解釈すれば、平然と風を受け流せるのは、柳にはおのれを主張できるような確固とした主体的自立的「人生」がないからだと言える。何も主張しないのだから、どんな風当たりにも平気の平左でいられるのだ。こう読むと、「人生」の「空費」も捨てたものじゃない。むしろ最初から「空費」するしかない柳の「人生」のほうが、羨ましくさえ思えてくる。となって、結局は途中で切って読んでも読み下しても、テーマは同じところに収斂していく。「空費」全般の肯定だ。ここらへんが、俳句様式のマジックだろう。いわば曖昧さを「精密に表現してみせる」様式とでも言うべきか。簡単に言えば、作者が「そんな気がした」だけで、さしたる説得の努力もせずに、読者に有無を言わせないところが俳句にはある。「作るが勝ち」のところがある。こんな文芸は、他にはないだろう。『人生』所収。(清水哲男)

 秋立つや皆在ることに泪して

                           永田耕衣

耕衣の句だからといって、構えて読むことはないだろう。そのまま、素直にいただいておきたい。立秋のある八月は、旧盆もあり敗戦の日もある。多くの人が自然に死者を悼み、追慕する月だ。その八月の立秋を今年も迎えて、作者は家族友人知己の誰かれが「皆在ること」に「泪(なみだ)」するほどに感謝している。人生、これ以上の幸福が他にあるだろうか、と……。立秋とはいえ、もとより暦の上のことで、いまごろが暑さのピークだ。古来、俳人たちは立秋を詠むときに、そのかみの和歌の伝統を踏まえて、なんとか涼味を盛り込もうと腐心してきたけれど、掲句にはそういうところがまったく感じられない。無理をせずに、単に暦の上の一区切りとして捉え、むしろこの後にやってくる死者の季節へと気持ちを動かしている。動かしているからこその「泪して」なのだ。このあたりが、やはり耕衣ならではのユニークさであり、ひときわ異彩を放っていると言うべきか。例年のことながら、甲子園の高校野球大会が終わるころまでは、まだまだ暑さきびしい日がつづきます。読者諸兄姉におかれましては、くれぐれもご自愛ご専一にお過ごしくださいますように。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)

 色町や真昼しづかに猫の恋

                           永井荷風

荷風と色町は切り離すことができない。色町へ足繁くかよった者がとらえた真昼の深い静けさ。夜の脂粉ただよう活況にはまだ間があり、嵐(?)の前の静けさのごとく寝ぼけている町を徘徊していて、ふと、猫のさかる声が聞こえてきたのだろう。さかる猫の声の激しさはただごとではない。雄同士が争う声もこれまたすさまじい。色町の真昼時の恋する猫たちの時ならぬ争闘は、同じ町で今夜も人間たちが、ひそかにくりひろげる〈恋〉の熱い闘いの図を予兆するものでもある。正岡子規に「おそろしや石垣崩す猫の恋」という凄い句があるが、「そんなオーバーな!」と言い切ることはできない。永田耕衣には「恋猫の恋する猫で押し通す」という名句がある。祖父も曽祖父も俳人だった荷風は、二十歳のとき、俳句回覧紙「翠風集」に初めて俳句を発表した。そして生涯に七百句ほどを遺したと言われる。唯一の句集『荷風句集』(1948)がある。「当世風の新派俳句よりは俳諧古句の風流を慕い、江戸情趣の名残を終生追いもとめた荷風の句はたしかに古風、遊俳にひとしい自分流だった」(加藤郁乎『市井風流』)という評言は納得がいく。「行春やゆるむ鼻緒の日和下駄」「葉ざくらや人に知られぬ昼あそび」――荷風らしい、としか言いようのない春の秀句である。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)

 初夏のわれに飽かなき人あはれ

                           永田耕衣

この句、「飽く」を現代語的に解釈すると、飽きるの意味だから、われに飽きていない人が「あはれ」だという内容。こんな自分にも飽きないで付き合ってくれているねという、例えば糟糠の妻への愛情をひとつひねった表現かと思った。最初は。しかし、だとするとどうして「飽かざる」にしないのかと不思議に思ったのだった。自分なら「われに飽かざる人あはれ」にするのにと。耕衣は俳句の技法においては、どんなカードでも切れる人だ。系譜的には誓子門の「天狼」系というふうに知られているが、「寒雷」創刊号の巻頭二席もこの人だ。なんでも自在に出してこられる俳人が「飽かざる」にしない違和感が残った。納得が行かないので調べてみると、古語の「飽く」には肯定的に用いて「満足する」という意味がある。その意味で取ると「われに満足しない人があわれだ」という、前述とは逆の内容になる。こちらだと自分の気持ちを直截に相手にぶつけている句だ。こちらの方が作者の本意だろう。耕衣の仕掛けはまだある。「あはれ」には今の語意の「哀れ」の他に「しみじみと趣き深い」という意味もある。こうなると意味の組み合わせはますます何通りにも拡散していくようにも思える。「初夏」の働きは季節感よりも枕詞のように「われ」につながるだけだ。「おい、わかるかい、この句」と耕衣が言っている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)

 ひといきに葱ひん剥いた白さかな

                           柳家小三治

こういう句は、おそらく俳人には好かれないのだろう。しかし、いきなり「ひといきに」「ひん剥」く勢いと少々の乱暴ぶりは、気取りがなく率直で忘れがたい。しかもそれを「白さ」で受けたうまさ。たしかに葱の長くて白い部分は、ビーッと小気味よく一気にひん剥いてしまいたい衝動に駆られる。スピードと色彩に加えて、葱独特のあの香りがあたりにサッと広がる様子が感じられる。台所が生気をとり戻して、おいしい料理(今夜は鍋物でしょうか?)への期待がいやがうえにも高まるではないか。ある有名俳人に「・・・象牙のごとき葱を買ふ」と詠んだ句があるけれど、白さの比喩はともかく、象牙では硬すぎて噛み切れず、立派すぎてピンとこない。葱の名句は、やはり永田耕衣の「夢の世に葱を作りて寂しさよ」だと、私は決めこんでいる。掲出句には、高座における小三治のシャープで、悠揚として媚を売らず、ときに無愛想にも映る威勢のよさとも重なっているところが、きわめて興味をそそられる。ひといきにひん剥くような威勢と、際立った色彩と香りを高座に重ねて楽しみたい。小三治は「東京やなぎ句会」の創立メンバーで、俳号は土茶(どさ)。俳句についてこう語っている。「俳句ですか。うまくなるわけないよ。うまい人は初めからうまいの。長くやってるからってうまくはならないの。達者になるだけよ。(中略)これからの私は下手でいいから自分に正直な句を作ろうと考えています。ところが、これが難しいんだよね」。よおっくわかります。呵呵。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)

 いづかたも水行く途中春の暮

                           永田耕衣

春の暮といえば、春の夕暮れを意味し、暮の春といえば、晩春のことを意味します。この句はですから、春の夕暮れ時を詠んでいます。「いづかたも」を「どちらの方向へも」と読むなら、その日の夕暮れ時に、ぬるんだ水が、どちらの方向へも広がるように流れて行くと、この句を解釈することができます。その流れの悠揚さが、自然のおおきないとなみにしたがっており、「途中」の一語が、世の無常を示しているようにも読み取れます。あるいは、「いづかたも」を「だれも」と解釈すれば、だれでもが、内面にたえまなく流れ去るものを持ち、すべてのおこないや出来事は、命の果てへ到達する途中のことでしかないのだと、読みとることも出来ます。どちらの解釈をとるにしても、どこか達観した意識で、物事を見つめているように感じられます。春は卒業、入学試験、人事異動と、大切な区切り目を越えなければならない時期です。見事にその区切りを越えられた人はともかく、そうでなかった人も、たくさんいるはずです。しかし、どんなに気の滅入る結果でも、所詮は流れ行く水のように、「途中」の出来事でしかないのだと、この句に肩をたたかれたように感じても、かまわないと思うのです。『俳句観賞450番勝負』(2007・文芸春秋) 所載。(松下育男)

 馬鈴薯の顔で馬鈴薯堀り通す

                           永田耕衣

日本では、縄文時代からあったという里芋に比べると、歴史の浅い馬鈴薯(じゃがいも)だが、今や最もポピュラーな「いも」といえるのではないだろうか。馬鈴薯といえば北海道、原産地といわれるアンデス地方に気候が似ているのだというが、そういえば、インカの目覚め、とか、アンデスレッド、などという品種を見かけることがある。今ちょうど家にあった男爵を手にとってみる。産地は夕張、ごつごつとして、指に大地の乾いた土が付く。その馬鈴薯を掘り通す、しかも馬鈴薯の顔で。一途で力強い表現に惹かれながら、開拓民がジャガイモのすいとんを食べる、という話を何かで読んだことを思い出す。現在の北海道の豊かな実りにたどり着くまでの開拓者の苦労は、推して知るべしだろう。そう思うと、馬鈴薯というひとつの自然の産物の持つ力によって、この句から、人間の生き抜く力がいくばくかの悲しみを伴って迫ってくる。馬鈴薯の句、人間の句。『俳句歳時記 第四版 秋』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)

 椎茸の見給うは我が和服かな

                           永田耕衣

不思議な句だ。この椎茸はどこにある椎茸なのだろう。人工栽培のために木陰に並べられた椎や楢のほだ木のあちこちにむくむく生え出た椎茸なのか、それともお膳の上に甘辛く煮付けて出された椎茸なのか。丸太の椎茸なら和服を正面に見ているのかもしれないし、皿の中の椎茸なら見上げる視線なのかもしれない。どちらにしてもこの句の中心は椎茸と和服の関係で、椎茸が見ているのが和服を着た自分でなく、和服そのものという発想が面白い。しかもこれと対になって並んでいる句が、「椎茸を見給うは我が和服かな」と、助詞一字を変えるだけで主体と対象との関係を一瞬にして裏返しているのだから、更におかしさが増幅される。椎茸と和服の出会いをこんな風に俳句で創造できる自在な感性が素敵だ。そういえば耕衣翁はなまずが好きでよく句にしているが、椎茸のつるん、ぬめっとした感触はなまずの頭に似てはいないか。『永田耕衣句集』(2002)所収。(三宅やよい)

 人ごみに蝶の生るる彼岸かな

                           永田耕衣

季語で彼岸といえば春の彼岸をさすらしい。春の茫洋とした空気の中でこっちとあっちの世界はぐぐっと近くなるのだろう。掲句は耕衣が二十歳の頃「ホトトギス」に投句した作品だそうだ。処女作には作家の全てが含まれる。と言われるが初期のこの句にその後の耕衣の行き方が示されている。春のうららかな日を浴びて人ごみに生まれる蝶は、死者の生まれ変わりとも歩いている一人が変化した姿とも受けとめられる。夏石番矢の『現代俳句キーワード』によると「蝶はどうやら霊的存在の一時的に宿る移動手段と考えていたらしい。西洋では蝶に死者の霊魂を見ていた。」とある。そう思えば彼岸に蝶が生まれる場所に最も俗な「人ごみ」を想定することで、いま在ることがあの世に繋がってゆく生と死の連続性が感じられる。その点から言えばどことなく不思議な光を放つこの句を耕衣後期の作品に混ぜても違和感はないように思う。『永田耕衣句集』(2002)所収。(三宅やよい)

 蛍死す金平糖になりながら

                           中島砂穂

なんともはや奇想天外。世に蛍の句は多けれど、蛍の死をこんな風に詠んだ句にはまずお目にかかれない。蛍の醸し出すイメージは、恋に身を焼く蛍かな、のように自らの恋心を重ねたり、死んだ人の魂を託したりと思い入れたっぷりに使われてきたように思う。死んだ蛍を詠んだ句では永田耕衣の「死蛍に照らしをかける蛍かな」があるが、凄みがあり妖気溢れる蛍の光景である。掲句では、そんな蛍の見方をうっちゃって、息絶えて地面にぽたりぽたりと落ちた蛍が金平糖になってしまう。蛍が放っていた光が金平糖の突起になって固まってしまうなんて漫画チックな展開だ。掌にこぼす色とりどりの金平糖が闇を飛び回っていた蛍だと思えば、金平糖の甘さにほろと苦い哀感が隠し味として加わりそうだ。『熱気球』(2008)所収。(三宅やよい)

 江ノ島のガソリン臭き猫の恋

                           須藤 徹

今夜も近所の野良猫や飼い猫たちが入り乱れて悩ましい声で呼び合っている。まだ寒いじゃないか、と蒲団にもぐりつつ思うけど鳴き始める猫たちは本能で春を感知しているのだろう。「恋猫の恋する猫で押し通す」(永田耕衣)の句にあるようにひたすらに恋に打ち込む猫がいとおしくもあり、滑稽でもある。家に猫を飼う人達にとっては気が揉める時節の到来だろう。春浅き江の島に車を飛ばして押し寄せてくる若いカップル。その車の下に潜む恋猫。その見つけどころに、「ガソリン臭き」とかぶせたところに現実味が漂う。それでいて猫の恋がちょっぴり抒情的であるのは背景に潮の香りが広がるからか、その二つの匂いが入り混じって忘れ難い印象を残す。掲句が作られてから10数年経過した今、江の島のバイク族も車もめっきり少なくなったことだろう。恋も体当たりだった行動派からメールやパソコンで恋情をやりとりする若者たちへ。匂いもなくどこか無機質なその恋愛と猫の恋をだぶらせようとしても、もはや遠いかもしれない。『幻奏録』(1995)所収。(三宅やよい)

 手を容れて冷たくしたり春の空

                           永田耕衣

岸本尚毅さんの「手をつけて海のつめたき桜かな」と並べて鑑賞すると面白い。「したり」は能動。自分の手が空を冷たくするのだ。直感的に空よりも手の方が冷たいという比較を強調しているように思う。そして句の中には自分と春の空の二者が登場する。それに対して岸本さんの方は手と海と桜の三者が登場する。空間の奥行はこちらの方が構成的。耕衣作品は「春の空」を擬人化しているようにも見える。その分、文学臭が強いようでもある。『殺佛』(1978)所収。(今井 聖)

 口あれば口の辺深し秋の暮

                           永田耕衣

永田耕衣という名は、俳句に親しむより前の学生時代に、時折耳にしていました。夜の酒場で割箸の袋に耕衣の句を記されて、「これ、わかるか?」と問われたりして、わかるような、わからないような時間を、結構愉しんだおぼえがあります。なかでも、舞踏家・大野一雄氏の直筆舞踏原稿集『dessin』(小林東編/緑鯨社・1992)の中に、数回にわたって「手のひらというばけものや死の川」(「死の川」はママ、句集『闌位(らんい)』では「天の川」となっている)が、力強い黒マジックの筆跡で書かれていて、大野氏の舞踏作品の源流に耕衣の句があることが示されています。さて、掲句は昭和45年『闌位』(俳句評論社)に、「口在れば口辺に荒し秋の雨」と一緒に所収されています。「口の辺(へ)深し秋の暮」は、寡黙な人物の口の辺(へり)を鉛筆でデッサンしたような深みがあり、閉じている口の陰に奥行きを感じます。一方、「口辺に荒し秋の雨」は、饒舌な人物の口と口の周辺を映像化したような動きを感じます。夕暮には空間の静けさがあり、雨には音を伴うからでしょう。この二句は、芭蕉の「物いへば唇寒し秋の風」をふまえていると思います。これは、前書に「人の短(所)をいふ事なかれ。己が長(所)をとくなかれ」とあるように教訓的です。それに対して「口在れば」の二句は、口は閉じているか開いているか、静か動か、そのいずれかであることは確かなことで、教訓はなく即物的で、この三句のみの比較なら、耕衣に軍配を上げます。(小笠原高志)

 薪在り灰在り鳥の渡るかな

                           永田耕衣

作者自ら超時代性を掲げていたように、昔も今も変わらない、人の暮らしと渡り鳥です。ただし、都市生活者には薪も灰も無い方が多いでしょう。それでもガスを付けたり消したり、電熱器もonとoffをくり返します。不易流行の人と自然の営みを、さらりと明瞭に伝えています。永田耕衣は哲学的だ、禅的だと言われます。本人も、俳句が人生的、哲学的であることを理想としていました。私は、それを踏まえて耕衣の句には、明るくて飽きない実感があります。それは、歯切れのよさが明るい調べを 与えてくれ、意外で時に意味不明な言葉遣いが面白く、飽きさせないからです。たぶん、意味性に関して突き抜けている面があり、それが禅的な印象と重なるのかもしれません。ただし、耕衣の句のいくつかに共通する特質として、収支決算がプラスマイナス0、という点があります。掲句の薪は灰となり、鳥は来てまた還る。たとえば、「秋雨や我に施す我の在る」「恥かしや行きて還つて秋の暮」「強秋(こわあき)や我に残んの一死在り」「我熟す寂しさ熟す西日燦」「鰊そばうまい分だけ我は死す」。遊びの目的は、遊びそのものであると言ったのは『ホモ・ルーデンス』のホイジンガですが、それに倣って、俳句の目的は俳句そのものであって、つまり、俳句を作り、俳句を読むことだけであって、そこに 意味を見いだすことではないことを、いつも意味を追いかけてしまいがちな私は、耕衣から、きつく叱られるのであります。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 流星のそこからそこへ楽しきかな

                           永田耕衣

出会いの絶景というは第一義上の事なり。これは、耕衣主宰『琴座』三百号(昭和50年)に掲げた俳句信条「陸沈の掟」十ヶ条の一つです。先週、10月26日(日曜)午前、私は神戸市兵庫区に滞在していました。この日の増俳は耕衣の「薪在り灰在り鳥の渡るかな」でしたが、神戸に来たからには何かしら故人の足跡を辿りたいと思っておりました。また、耕衣の句集を手に入れたいとも。持参した『永田耕衣五百句』の編者金子晉氏にお電話して著作を購入したい由を申し出ると、即座に 耕衣の愛弟子岡田巌氏のご住所と電話を紹介していただき、私はタクシーに乗り「そこからそこへ」「流星の」ごとく、岡田氏の自宅書斎に案内されました。書斎正面には、耕衣揮毫の「非佛」が太くでんと飾られていて、それは、井上有一の書に通底する自由闊達な動態です。耕衣は生前書画を多く描き、その遺作の大半は姫路文学館に収蔵されていますが、耕衣が愛蔵した何点かは師の遺志で岡田氏に託されていました。なかでも、耕衣が最も気に入って自宅書斎に飾っていた「ごって牛」の書画は、岡田氏預かりとなっておりました。二時間の滞在中、ありったけの書画を出して見せて下さった中で、いちばん最初に封を切って開いてくださった「ごって牛」には、「薪在り灰在り鳥の渡るかな」が揮毫されて いました。この日の増俳の句です。耕衣の書画に囲まれて二人、不思議な午後の西日に包まれておりました。「強秋(こわあき)ですね」と岡田氏。「強秋ですね」と私。尚、神戸に来るきっかけを作ってくださったのは、10月18日の余白句会あとの酒席で、阪神甲子園球場は「楽しきかな」と語ってくださった清水哲男さんです。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 少年を噛む歓喜あり塩蜻蛉

                           永田耕衣

塩蜻蛉が、少年の瑞々しい皮膚を噛む。少年の肉汁を内臓に取り込んだ塩蜻蛉は、それをエネルギーにして、生殖行動の歓喜に向かって飛び発つ。少年の肉体は、交尾後の産卵へと繋がっているが、少年はそれを知らない。一方、はじめてトンボに噛まれた少年は、噛まれる痛みを受苦します。噛まれた痕跡は、やがて消失しますが、噛まれた痛みは記憶として残り続けます。それは、自然界が授ける予防接種でもあるでしょう。ところで、大人になった少年は、甘噛みの歓喜に目覚めます。しばらく忘れていた 塩蜻蛉の記憶が、性の指南であったことを悟ったかどうかは定かではありません。掲句には、野球で言う先攻と後攻があるように思われます。表のあとには裏がある。噛む側が居れば、その後に、噛まれる側の人生が始まる。耕衣の「陸沈の掟」十ヶ条から二つ引きます。*「存在の根源を追尋すべき事。存在の根源はエロチシズムの根源なり。精気あるべき故に。」*「自他救済に出づべき事。先ず俳句は面白かるべし。奇想戦慄また命を延ぶに価す。即ち生存の歓喜を溶解するの力価を湛うべし。」これらの言からも、塩蜻蛉の歓喜は、エロチシズムとして少年の肉体に伝播し得たと読みました。尚、今年の「日本一行詩大賞特別賞」を受賞した清水昶氏の『俳句航海日誌』に、「耕せば永田耕衣の裏畑」があるこ とを、編者の一人久保隆氏から教わりました。ありがとうございました。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 人生の生暮れの秋深きかな

                           永田耕衣

掲句は、最晩年の句集『自人』(1995)所収。耕衣が、淡路阪神大震災に被災した年の刊行になります。「生暮れ」には「なまぐ(れ)」のルビがふられており、造語です。震災は、一月十七日未明に起きたので、その前年の秋の作、耕衣九十四歳の句でしょう。さて、この句をどのように読めばいいのか。「生暮れ」とは何か。耕衣の声に耳を傾けてみることにしました。「枯淡の境地に非ず。解脱を願はず。人が生きるということは、とことん生身でありつづけるということ。生身が人生の中に暮(ぼ っ)していくということ。その時、人生の秋の深さに出会える。存分に生身を生きることが、季節の粋を深く味わい尽くせる。」このような幻聴を聞きました。「陸沈の掟」十ヶ条から二つ引きます。*「卑俗性を尊重すべきこと。喫茶喫飯、脱糞放尿、睡眠男女の類は人間生活必定の最低辺なり。絶対遁れ得ず。故に可笑し。」*「俳句は人間なる事。俳句を作す者は俳人に非ず、マルマル人間なり。」この言を踏まえて「生暮れ」を考えると、生き物であることの本能と本性を本情をもって生き尽くすことではないかと思いました。それは、取り繕ったり、権威におもねたり、こびへつらったり腰巾着になって他人の褌で相撲を取る生き方とは正反対です。しかし、この、当たり前すぎる真っ当な生き方を貫くと人 間社会からスポイルされかねません。それでも、現代のマレビトである耕衣は、「生暮れ」を貫き、生身の肌から少年や女体や白桃、葱、寒鮒、天の川を取り込んで、奇想戦慄を与える言葉を編み出しました。自由自在です。『永田耕衣五百句』(1997)所収。(小笠原高志)

 水を釣つて帰る寒鮒釣一人

                           永田耕衣

言われてみれば、然り。私もこのようにして釣場を後にすることが多い。ただし、今まで一番多く釣ったのは、自分自身。正確に言うと、自分の袖。頭上の木の枝にもたくさん引っ掛けました。きちんと水を釣って帰って来られるようになったのは、釣を始めて十年近く経ってからです。つまり、掲句の釣り人はヘボに非ず、けっこうな腕前の持ち主でしょう。『吹毛集』(1955・耕衣55歳)所収で、上五は、「水を釣り」ではなく「水を釣つて」と字を余したところに釣師の徒労があらわれています。「水 を釣つて帰る」とは、格好のよい遊びの境地ですが、負け惜しみの気持ちものみ込んでいるでしょう。ただ、魚を釣り上げた時は、その手応えを喜ぶと同時に、命に対するちょっとした済まなさに針さされることもあります。その点、水を釣る釣り人は、初めは期待感を持って糸を垂らしますが、じれたり焦ったり、けっきょく、諦念をもって静かに竿を畳みます。それでも、ついにお目にかかれなかった「寒鮒」に遊んでもらいながら、澄明な時間を過ごすことができた。人と遊ぶ、生き物と遊ぶ、命の無い物と遊ぶ。この遊びの三態の中で、水や雲や石といった非生命と遊ぶ境地は、人生を寂しくさせないでしょう。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 池を出ることを寒鮒思ひけり

                           永田耕衣

寒鮒が池を出る方法は三つある。一つ目は、飛び跳ねて池辺りに出ることだが、これは自死である。二つ目は、青鷺のような大きな鳥に捕獲されることで、これも死ぬことになる。三つ目は、腕利きの釣り師にうまく釣り上げられることだ。この寒鮒の棲まいは、湖でも川でも海でもない池です。商業的な目的で作られた管理釣場に生きる鮒は、日々、鼻先にエサを突きつけられていて、食欲に関しては不感症になるくらいスレています。狡猾な釣り人とのかけひきに暮らしていますから、人間の浅知恵 くらいは学習しているはずで、少なくとも、この池の中で生き抜く能力では人知を凌駕しています。ところが今日、今まで見たことのない針の動きを目にしました。ふつうの針は、自然に漂っているように見せかけながら、しかし、釣り師の欲望は竿から糸、糸から針へと伝わってきて、それは、魚類特有の嗅覚で感知できます。ところが、この針にはそんな臭いがしない。まるで、水を釣りに来たような無欲な針である。寒鮒は、この針を目にして、釣り師の顔を見たくなったのではないでしょうか。スレているゆえに、天の邪鬼な性質(たち)なのです。さて、釣り師は、本当に水を釣りに来た無欲な御仁であったかどうかは定かではありませんが、寒鮒の口元を損なうことなくきれいに釣り上げました。その後 、リリースしたのか、自宅の水槽で飼うことにしたのか、鮒鮨にしたのか、これも定かではありません。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 寒鮒の口吸う泣きの男かな

                           永田耕衣

制作年代はバラバラですが、掲句を三連作の最後として位置づけてみました。最初が「水を釣つて帰る寒鮒釣一人」。次が「池を出ることを寒鮒思ひけり」。この二つの「静」から、序破急の「動」が始まります。釣り師が鮒を釣り上げる。その時、まれに相思相愛の糸が赤く染まることがある。針に傷ついた鮒の唇を、男は泣きながら吸っているのである。なぜ泣くのか。泣くとはどういうことなのか。笑いは、瞬間的な落差の結果生ずることが多いのに対して、涙は、時間の蓄積によって溜まった結果流れます。その時間には、苦痛や迷い、希望や落胆が入り交じっていますから、泣くことも、一つの意味や感情に限定されにくい絵巻物のような現れ方をします。釣り師は、寒鮒との長い駆け引きの中で糸を引かずとも、一途な思いを寄せてきました。それは、「水を釣つて帰る寒鮒釣一人」に表れています。では、鮒の方はどうでしょう。「池を出ることを寒鮒思ひけり」です。釣り師は、長い間その気配を感じ続けてきた一方で、寒鮒は、長きに渡る針の漂いに、この唇を託してもいいという決意をしたのではないでしょうか。釣り師と寒鮒が恋に陥り、男が接吻の涙を流す。しかし、ここは人と魚。口吸いは短く終えて、水槽に移さなくてはなりません。異種恋愛には制約が多く、過去には『人魚姫』の悲恋もありますが、この恋はいちおう成就されたようです。たぶん、寒鮒も涙を流していて、これは芭蕉の「行春や鳥啼魚の目は泪」以来の魚類の涙です。ただ、耕衣の後に芭蕉を読むと、ちょっとオトメチックですね。耕衣は激しいますらをぶりです。掲句を17歳の少年に読ませたら、「マジっすか?」と言われそう。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 冬の暮何の疲労ぞ鮒を飼ひ

                           永田耕衣

停滞しています。冬の暮は、季節の谷底です。植物は枯れ、動物の死骸は干からびて吹き溜まります。季節に感応しやすい作者は、どん底の時間を甘受しつつ、口まで吸って愛した鮒を飼うことに疲労を感じています。(「寒鮒の口吸う泣きの男かな」)。これは、二者の関係の絶頂は過ぎ、もう下降していく未来しかない時に生ずる疲労なのかもしれません。かたや、鮒はどう思っているのでしょう。あれほど強く求愛されてほだされて身を任せたものの、水槽生活はあまりに四角四面です。たしかに 、餌は安心して食べられます。水質も濾過装置がはたらいていて、常にきれいです。しかし、池の中にいた時のような、冒険したり、駆け引きに身を隠したり逃れたりした後にやってくる心地よい疲労がありません。鮒は、清潔で安全で豊かで、何ひとつ不安のない生活と引き換えに、ときめきを喪失したことを自覚しました。作者も、鮒の自覚を季節の谷の底で認識して、抜け出すことのできない疲労感に陥っています。なお、句集には他に「濁り鮒亡父母も共に潜り行く」「寒鮒の死にてぞ臭く匂ひけり」があります。生きている鮒は、生きるための新陳代謝をおこなっているので鮮度がいいのに対して、死んだ鮒は、生態系の中で分解される時、化学反応の臭気を発散します。耕衣は、生の新鮮さと死の化学 の両方を一方に偏らず、一方を美化することなく、公平な眼で写実しています。ここに、収支決算ゼロという耕衣の特質の一つを見いだします。数学的に言えば、左辺と右辺は等しいということになり、幸福と不幸、快楽と苦痛、それぞれのエントロピーもまた等しいということになるのでしょう。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 空を出て死にたる鳥や薄氷

                           永田耕衣

魚は水中に生き、哺乳類は地上に生きます。魚は水中から出ると死に、哺乳類は、クジラ・イルカの類を除けば水中では生きられません。掲句もその考え方でいいのかどうか。空を出たら、鳥は死ぬ。そんな、空の掟があるのでしょうか。その前に、空とは何か。空はどこから始まってどこで終わるのでしょう。うまく定義づけられません。無難に答えるなら、水中でも地表でもない空間ということになります。ところで、私が今いる二階の部屋は水中でも地表でもありませんが、空でもありません。たしかに、私が部屋を出て家を出て戻らなければ、死んでしまったと思われることもあるでしょう。掲句の鳥も、空を出て、鳥としての生活圏外に出てしまったから死んだのでしょ う。あるい は、生き物が死ぬということは、生活圏の外に出るということなのでしょう。当たり前ですね。ちょっと視点を変えます。掲句の鳥は、雀や鳩、鴉ではありません。雀は、電線を伝わる程度の飛躍力しかないし、21世紀に入って、伝書鳩はほぼ絶滅しているでしょう。都会の鴉は、サラリーマンのように郊外の森から都心に出勤するので、数十メートル上空を移動します。鴉は、黒い羽根に隠された逞しい筋肉で羽ばたき空を飛びますが、狡知を働かせた都市生活者として地に足をつけて生きています。雀も鳩も鴉も、都市民のおこぼれをいただいて生計を立てるパラサイトである以上、空の生き物とは言えません。たぶん、掲句の鳥は、人間の世界とは全く無関係に、自然の摂理の中で生きる鳥だと思い ます。雁や鴨、ツグミやヒワなどの渡り鳥が、薄氷が張っている湖畔で客死している姿です。作者は、旅に死す姿に、至上の生き様をみています。詩人の死もこうあるべきや否や。空はどこから空なのか、その境界は曖昧ですが、湖水と地表の境界に薄氷を張らせたところに、画家でもあった耕衣の絵心をみます。その心は、鳥の死骸の傍らで、薄氷には空が反射しています。ここまでが空、ここからが空。天と地の、鳥送りのレクイエムです。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 空蝉や触るも惜しき年埃

                           永田耕衣

空蝉という日本語には、雅ではかない情感があります。十七歳の光源氏が心魅かれた女性の名が空蝉でした。光源氏の夜の訪れを察して、薄衣を残して去った幻の女性です。耕衣の書斎には、自筆の書画のほかに小物、小道具、珍品が小さな博物館のように有機的かつ無造作に置かれていたと聞きました。句集では、掲句の前に「空蝉の埃除(と)らんと七年経つ」があるので、「年埃(ねんぼこり)」は、七年物です。合理主義者ならそれを、七年間放置されているゴミとみなして捨てます。年末の大掃除のときなら尚更でしょう。しかし、耕衣は「触るも惜しき」心を表明しています。蝉の抜け殻は脱皮後の抜け殻ですが、蝉がこれから生きていくためには、まったく必要のない廃棄物です。ところが、耕衣はそれを七年間書斎に置き、はじめのうちは抜け殻そのものの造形美を見ていたのが、見つづけるうちに埃が堆積してきた変化を楽しみはじめます。空蝉に堆積しつづける年埃は、砂時計が一粒ずつ落ちることによって時の経過を示すように、時間を可視化しています。拾ってきたセミの抜け殻をコレクションにしたがるのは子どもに多く、耕衣は、幼児性が抜けていないおじいちゃんであったこともしのばれます。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 餅膨れつつ美しき虚空かな

                           永田耕衣

今、目の前で餅がふくらみ始めています。真っ白な餅が少し茶色くこげ始めて美しい。熱々の焼きたてをいただくとき、口の中ではホクホクしながらほおばります。それが「虚空」の味わい。つまり、「虚空、虚空、虚空」とくり返し唱えると、「ホクホクホク」となるのです。嘘です。餅は、餅米を蒸してから、熱々のうちにペッタラ、ペッタラとつき始めますが、そのペッタラが、掲句の「虚空」のもとですね。ペッタラ、ペッタラと餅をついているとき、餅と餅の粒子の間に空気も一緒に入れ込ん でついているのです。うまい握り鮨は、米粒と米粒の間にほどよい空気が含まれているのだと言われますが、餅の場合は、ペッタラペッタラとつかれている間に、ナノサイズの空気の分子が餅と餅の間に入り込んで、それが、モチモチした食感となるわけです。それを強火で焼くと、ペッタラペッタラと入り込められていた空気が膨張し始め、虚空のホクホクしたうまみが造成されるわけです。掲句を改めて見直すと、「つつ」は、餅が膨らんだ状態にも見えてきます。耕衣ならばこんな仕掛けを楽しんだかな、と思いますが、以上の全て、私の妄想です。『永田耕衣五百句』(1990)所収。(小笠原高志)

 共に死ねぬ生心地有り裏見の梅

                           永田耕衣

阪神大震災に被災した春の句です。耕衣最終の第十六句集『自人』(1995)所収。この句集を制作中の1995年1月17日、震災によって版元の創文社では、活字棚が総崩れとなりました。創文社の岡田巌氏は、急きょ湯川書房を通じて東京の精興社に活版活字を依頼するために上京します。掲句は、「白梅や天没地没虚空没」とともに、精興社が活版印刷をしている途中に補追された句です。同年2月21日、耕衣は『自人』の<後記>を岡田氏に渡します。「ミズカラが人であり、オノズカラ人であることの恐ろしさ、その嬉しさを原始的に如何に言い開くか」。掲句の「生(なま)心地」は造語です。この語を「生身、生意気」に通じる、観念ではない生きものの本情ととります。「裏見の梅」も造語句といっていいでしょう。これは、実際にやってみました。梅の花を正面からではなく、花弁の裏側から見てみました。すると、花をつけている枝が、青空に向かって斜めに伸びていく姿を見ることができます。それは、手のひらではなく手の甲を見る所作であり、人を正面からではなく、後ろ姿を見送る所作に通じます。「裏見の梅」には、震災によって、目に見える物が反転したこと、また、死者の後ろ姿を天に向けて見送る鎮魂が込められているのでしょう。(小笠原高志)

 一歩在り百歩に到る桜かな

                           永田耕衣

句集では掲句の前に、「一歩をば痛感したり芹なずな」があります。春がやって来た実感です。今、「やって来た」と書きましたが、春はやって来るものであると同時に、こちらから一歩近づいていかなければ訪れるものではないという、当たり前の真実に気づかされます。若い頃なら、これを実存というのだななどと観念的に片づけていました。しかし、「痛感」という言葉は、身に起こる切実な情ですから、「芹なずな」に同化するほどの強い思い寄せがあります。掲句では、「一歩」 から出発して「百歩」に到っています。満開の花の盛りは、じつは、桜の側にあると同時に、見る側が作り出すのだという教訓を得ます。花見は座って見るばかりでなく、歩いて歩いて歩き尽くしてこそ、花が盛る、そんな、花と人との双方向的な対峙を教わりました。このおじいちゃんは、やはり、桜に対しても貪欲でした。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 いづかたも水行く途中春の暮

                           永田耕衣

春は、水行く季節でもあったのですね。雪解けの水は、山から谷へ、谷から里へ流れて行きます。樹木、草花、農作物は、根から水を吸います。昆虫も魚も鳥も動物たちも、水行く季節になると捕食と生殖活動を活発化させていき、体液の循環も盛んになるでしょう。動植物を支えている大気から地表、地下水まで、水行く水量は増していきます。それは、暖かくなってきたからです。温度が上がると水の分子の運動も活発になる。当たり前ですね。そんな暮春の候の句ですが、ここからは、二つの見解が可能です。一つ目は、中七で切って読む場合です。森羅万象の活動は、人も含めて全て「途中」なのだという見解で、水行きには終点がないということです。水は循環している から常に「途中」です。 二つ目は、中七で切らない場合です。そうすると、「春の暮」が句の主眼になってきて、冬を過ぎて暮春になったから、水行きは活発なんだという見解になります。どちらを選ぶかは、各人の好みになるでしょうが、句から驚きを得られるのは、前者です。なぜなら、無常観を「途中」という俗語で言い表しているからです。『永田耕衣五百句』(1999)所収。(小笠原高志)

 美しくかみなりひびく草葉かな

                           永田耕衣

雷鳴が響く。草葉は、一瞬輝く。もし、この読みの順番でいいのなら、一句の中に二つの雷を詠んでいることになります。雷は、光の後に音がとどいて完結するからです。ところで、「美しく」という抽象的な表現は、俳句ではふつう避けられます。では、なぜ掲句ではその使用が許されるのでしょうか。理由の一つは、雷は視覚と聴覚の両方を備えている点であり、もう一つは、掲句が天上と地上という広大な空間を詠んでいる点です。抽象表現なら、この異なる二つの性質を包含できるからでしょう。次に、中七は、なぜひらがな表記なのかを考えます。「かみなり」は、「雷、神鳴り、神也、上鳴り」など、掛詞を考えさせられて、読み手をしばらく立ち止まらせます。これに「ひびく」をつなげると、「上、鳴り、響く」という縁語的な読み方も可能になります。上五から、美しく烈しい雷鳴は、中七まで下りてきますが、「ひびく」は終止形なので、雷鳴の音はここで断 絶します。ここまでが、雷第一弾。しばらく、沈黙と暗黒が続いた後に、閃光は、草葉の鋭角的な一本一本を瞬時、輝かせます。これが、雷第二弾の始まり。やがて、雷鳴は、沈黙と暗黒が続いたしばらく後にとどきます。作者の第一句集から。『加古』(1934)所収。(小笠原高志)

 雲の峯通行人として眺む

                           永田耕衣

実景の句として読めます。「雲の峯」に「通行人」を連ねたところに意外性があります。凡庸な発想なら、「行人」や「旅人」としたくなるところですが、遠方上空に沸き立つ大自然と都市生活者を対置したところに、大と小、聖と俗、自然と人間の違いをくっきりと浮かび上がらせています。雄大な自然を形容する季語に、平凡な日常語をぶつけることによって、お互いが言葉の源義に立ち戻りはじめます。なお、この通行人の行動を、耕衣が目指した超時代性として読むことも可能です。すると、「雲の峯」という季節の標識を、季節の通行人が眺めて通り過ぎる意となり、実景は心象風景へと転化します。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)

 空蟬のかなたこなたも古来かな

                           永田耕衣

古語辞典によると、「空蝉」は「ウツシオミ=現臣」が転じた言葉です。よって、第一義はこの世の人という意味です。また、「空蝉の」は「世」にかかる枕詞で、「万葉集482」に「空蝉の世の事なればよそに見し山をや今はよすかと思はむ」があります。奈良時代には、はかないという意味は必ずしも持っていなかったけれど、平安時代以後は、蟬の脱け殻の意と解したので、はかないという意味になったといいます。以上、大野晋氏の解説によりました。これをふまえて掲句を読むと、二通りの読み方ができ そうです。一つ目は、「空蝉の」を枕詞として読みます。すると、枕詞の意味は考えないで読むことが常套なので、中七下五だけの意味になります。二つ目は、「空蝉」を蟬の脱け殻として即物的に読みます。すると、蟬の脱け殻は、古来から遍在しているという意味になります。それが無常観だととることもできますが、いずれも句を読みとった手応えが残りません。ただし、有季定型に納まっていて、中七以下「カ行音」と「ナ」音の韻律が調べを出しているので、口になじみやすい句になっています。何度も口ずさんでいると軽やかな気持ちにもなります。作意がどこにあるのかは不明ですが、軽みは確かです。「空蝉」は、実体として軽く、「かなた」「こなた」「古来」は、実体のない抽象語として、空っ ぽの軽さがあるからでしょうか。そういう遊びなのかもしれないし、まったく的外れなのかもしれません。なお、句集では掲句の前に「空蝉を出して来るなり高めにぞ」があり、これも意味不明です。意味不明だけど面白い。「天才バカボン」みたいなものか。なお、ここまで書き終えて、句集「後記」を読みました。「私は思った。彫刻、絵画、文学でさえ、超秀作というものは、論理思考を優に超越して、真実<在って無き>魅力を窮極とするものだ。ソレはソノ魅力が<虚空的>であるが故である、というのが現在私の生涯的決断である。」『泥ん』(1992)所収。(小笠原高志)

 歳月の胸をこおろぎ蹴り尽す

                           永田耕衣

第11句集『物質』(1974)所収です。「あとがき」に、書名の由来が記されています。「精神とて即物質に過ぎぬ(略)身心即物質(略)私という物質から不法にも跳ね出た瓦礫の数数、約六百句は、ここマル三年間の無茶苦茶行を証す赤裸裸に過ぎない。」一元論に徹しています。耕衣は、f-MRIの発明によって、脳を臓器として即物的にとらえることを 可能にした脳科学の見方を先見していたのかもしれません。さて、掲句の「歳月の胸」は、お初にお目にかかる比喩です。これを人体 から即物的にみると、胸には胸筋の起伏があり、肋骨には凹凸が、乳房にはふくらみがあります。今年六月に亡くなった文化人類学・言語学の西江雅之先生は、世界は濃淡と凹凸だけで出来ているとよく話されていましたが、「歳月の胸」も同様に、地表の凹凸のことのように思われます。そんな地表を「こおろぎ」が「蹴り尽す」。ここから、「蹴る」という動詞に論点を移します。蹴る直前の地表Pは、こおろぎにとって未来ですが、蹴った直後の地表Pは、こおろぎにとって過去です。では、こおろぎの現在はどこに在るのか。それは、こおろぎの身体=物質=動体です。ところで、俳句を作るうえでは「こおろぎ」という秋の季語を必要としますが、耕衣が、「存在の根源を追尋すべき事」と言っている俳句信条を ふまえると、さらに敷衍(ふえん)できるでしょう。物質としての動物(人間)は、つねに目の前の地表Pに未来として向き合い、それを現在化すること(蹴ること、即ち行動すること)によって地表Pを過去にしていきます。つまり、「歳月の胸」を「蹴り尽す」行動の連続は、現在から未来を「踏み」、その未来を「蹴って」過去を創ることです。「蹴り尽す」直前には未来を「踏みだす」実存があり、その時「胸」の内側に鼓動を感じとれるかもしれません。(小笠原高志)

 寒鯉を抱き余してぬれざる人

                           永田耕衣

不条理です。高校時代に背伸びをして読んだカミュの『シーシュポンスの神話』に、こんな記述がありました。「川に飛び込むが、濡れないことを不条理という」。『異邦人』のムルソーの心理を説明している箇所でしょうが、当時は全く理解できませんでした。しかし、身の回りで時に起こる不条理な事象を見、聞くにつれ、今はカミュの不条理が腑に落ちます。さて、掲句では、寒鯉を抱いているのにぬれない人が存在することを書いているのだから、不条理です。訳がわかりません。ところが、句集では次に「亡母なり動の寒鯉抱きしむる」があったので、句意がはっきりしました。「ぬれざる人」は「亡母」のことでした。ならば寒鯉は、生前も死後も母を深く慕っている息子耕衣その人でしょう。寒鯉のように、生臭く濡れている自身を母は死んだ今でも抱きしめにやってきてくれる。三途の川の向こうは、濡れるということがないのでしょう。あの世という形而上学には、涙や汗の質感がないのかもしれません。句集には「掛布団二枚の今後夢は捨てじ」もあり、母に抱かれる夢を見ているのかもしれのせん。となれば、掲句を不条理とするのは間違いで、夢幻とすべきでしょう。『非佛』(1970)所収。(小笠原高志)

 少年や六十年後の春の如し

                           永田耕衣

耕衣、七十二歳頃の句です。現実を反転させてみると、時に奇想が生まれる一例です。前後を入れ換えることによって、句が屹立しています。老人が少年を見れば、ふつうなら六十年前の自分を思うでしょう。私も昔は少年だったと懐かしむ。しかし、これでは凡庸な嘆きです。72-60=12といった単なる引き算になってしまって、詩が成り立ちません。人生の時間には、詩的な時間もあるはずです。俳句はそのための方法です。掲句では、「少年や」の切れに注目します。目の前の少年は十二歳くらい。それは、七十二歳の私とは違う。しかし、私にも十二歳の時があった。今、その年頃を目の前にして、まぶしいくらいに思い出す、人生の春。一方、少年は私を見る。それは、六十年後の少年である。その時、少年は、老人の瞳の中に映っている少年の姿を見いだす。そして、自分は、人生の春という季節に生きていることを学びとる。少年は、人生における少年という位置を知り、老人は、少年の姿を受けとめることによって、その瞳と少年の瞳の間に六十年という歳月があることを差し示す。このとき、十二歳の春も七十二歳の春も、同じ春に生きています。人生に身を委ねるよりも、季節に身を委ねる。耕衣だから、そんな、季語の霊性と超時代性を読みます。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)

 木にも在る白桃を手に独り行く

                           永田耕衣

白桃は、エロティシズムの象徴です。これを手に独り行くとき、その足どりは浮かれているのか、それとも忍び歩きなのか。上五と中七では、白桃が存在している場所が違います。「木にも在る」白桃は、その花が結実して種を内包しています。枝にたわむ果肉は、虫鳥猿に食べられて、ポトリと落ちた種は地中に潜み、やがて新しい命の芽を生むこともあるでしょう。一方、「手に」持たれた白桃は、果肉を人間に食われ、種は、ゴミ収集車に運ばれて処分されます。「私が手にしている白桃は既に死んでいる 」。これを自覚しているゆえ、「独り行く」その歩みは浮かれてはいないようです。句集では、掲句の次に「白桃の肌に入口無く死ねり」があるからです。枝からもぎ取られた白桃は、自然界の循環の輪から切り離された「入口無」き存在でしょう。あらためて掲句を読むと、死を抱えて行くということは、単独な道行きなのだということがわかります。その足どりは、人さまざまでしょうが、浮かれ歩きではなさそうです。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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