溶岩(らば)

http://kuuon.web.fc2.com/SEINOSIJIN/SEINOSIJIN.1521.html 【『金子兜太句集』】より抜粋

黒い桜島折れた銃床海を走り    

 〈鹿児島 八句〉と前書のある七句目の句。その八句は次。

緑の台地わが光背をなす五月

溶岩(らば)につづく緑野莫大なこの阻害

夕焼噴煙灰ふる地帯の朱の家族等

溶岩(らば)押し出す貧農のごと体歪め

溶岩(らば)真昼生者皮膚乾きかつ渇き

肉むく活火口ポケットに無意味な指

黒い桜島折れた銃床海を走り

林芙美子碑に

花は苦しと火口が保塁の少女期経て 

 自然と人間と社会と戦争と、そしてそれに対峙する自己と・・


https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7291199/ 【アラハバキ】

Facebook清水 友邦さん投稿記事

アラハバキ神は大和朝廷の文献である『記紀』および『風土記』などにはまったく登場しない出所が不明な謎の神とされています。

アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)の名前がついた神社が東北にいくつかあります。

宮城県大崎市岩出山の荒脛巾神社(アラハバキ神社)の地名は荒脛巾でバス停の名前も荒屋敷です。

武蔵一宮氷川神社でアラハバキ神は客人神(まろうどがみ)としてまつられています。

客人神とは神社の建つ前の地主神、つまり土着の神です。

アラハバキが現在のトルコのアナトリア半島の古代ヒッタイトの先住民ハッティ人(紀元前3千年-紀元前2千年)のハッティ語の鉄を意味するハパルキから来ているという説があります。

アラハバキ神を祀る津軽半島の洗磯崎神社は以前に荒覇吐(アラハバキ)神社と呼ばれていましたがそのご神体が鉄鉱石だといわれています。

荒覇吐の「荒(アラ)」は、山伏やタタラでは「鉄」を意味し、蛇はハハ、ハバとも呼ぶのでアラハバキ神は鉄の蛇ということになります。

大和朝廷と戦った蝦夷たちの刀は蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれ都に負けない優れた製鉄技術がエミシにありました。

蕨手刀は日本刀の元型と言われています。

『古事記』に製鉄を行った鍛冶の神として天津麻羅(あまつまら)が出て来ますが、神や命(カミ・ミコト)の尊称がもちいられずに呼び捨てにされています。

天津麻良はニギハヤヒが天磐船に乗って降下する時、お供した五人の中の一人であり、物部系氏族の祖神となっています。

また天津麻羅(あまつまら)は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同神とされています。

鍛治をあつかう氏族は天目一箇神を祖霊神として信仰しています。

宮城県多賀城市のアラハバキ神社(荒脛巾神社)の隣では鍛冶・製鉄の神天目一神を祀っていました。

「海部氏勘注系図」によると天目一箇神は滋賀県野洲の御上山に祀られている天之御影神(あめのみかげのみこと)と同一神で海部氏(アマべ)の祖先に当たります。

『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条には天目一箇神が女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)と天目一神との間の子と記されています。

道主日女命(みちぬしひめのみこと)は「海部氏勘注系図」で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻とされています。

伊勢神宮の荒祭宮は伊勢の地主神でアラハバキ神の姫神を祀っていると言われています。

別な文献では伊勢神宮の荒祭宮は瀬織津姫です。

ニギハヤヒと瀬織津姫は物部氏の祖神です。

整理すると、アラハバキ神は神武以前の蛇を象徴とする大物主=ニギハヤヒを祖先とする製鉄の技術を持っていた物部氏と関係が深い神だということがわかります。

神武天皇はたたら製鉄のタタラの名前を持っている大物主の娘と結婚しています。

製鉄集団は鉄を神として祀る風習がありました。東北には物部氏とたたら製鉄に関する痕跡が残されています。

製鉄技術を持っていた物部氏と縄文の末裔が混血したのが蝦夷です。

その末裔がアラハバキ神を氏神とした安倍氏です。

丹内山神社の神は滝ノ沢神社の敷地内にある滝に顕現したという文献があり丹内神社には早池峰山拝石が置かれています。

丹内山大神とは早池峰大神である瀬織津姫のことで丹内山神社は瀬織津姫を祀っていたのです。

丹内山大神を崇敬した藤原清衡の母は登美の長髄彦の兄アビヒコを先祖とする安倍氏の血を受け継いでいました。

アラハバキ神を祀る神社の多くに磐座があり、おそらく古代では岩の上で巫女が祭祀をおこなっていたと思います。

沖ノ島の岩上祭祀の最古の時代に鉄製品が祭祀品として使われていました。

鉄が入ってくると人々はその輝きに神の神聖さを感じたと思います。

アラハバキ神とは蛇を信仰していた縄文の人々と大陸から製鉄技術をもっていた人々と混血した神なのです。

岩手県北上市に藤原秀衡が先祖の霊を久那斗権現として祀った伝えられているクナト神を祀る久那斗神社があります。

茨城県の古社息栖神社(いきすじんじゃ)も岐の神(くなどのかみ)を祀っています。

岐の神(くなどのかみ)は辻の神(つじのかみ)塞の神(さいのかみ)道祖神の原型とされています。

諏訪地方では男性器と女性器を象徴していた縄文時代の石器が道祖神でした。

婚姻史研究の高群逸枝によるとクナドのクナは婚交の義でドは所、つまりクナドは女系集落の境のヒロバでの族外婚の場所を意味すると述べています。

クナドとは交通の要所で他の集落との交易や異性が出会い結びつく場所でもあったのです。

『日本書紀』で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って黄泉津平坂(よもつひらさか)で、投げた杖(古事記では禊をしたイザナギのふんどし)から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が生まれたとしています。黄泉津平坂(よもつひらさか)はあの世とこの世の境界でした。

縄文時代の精霊信仰は弥生に移行するとクナト神やアラハバキ神となり古墳時代になると日本神話に登場する神へと置き換えられていったのです。

宮城県多賀城の荒脛巾(アラハバキ)神社(阿良波々岐明神社)は布の脛巾(はばき)の名前から足の神様として信仰されていますがここは大和朝廷の蝦夷征伐の拠点として造営された城柵があった場所です。

アラハバキ神の神社は全国に150社以上ありますがたいていは摂社、末社として小さな祠に祀られています。

東北の地は、大和朝廷以前の縄文時代にさかのぼるアニミズムの信仰の地でした。

蝦夷と呼ばれた東北の民は文化と神話を奪われ大和朝廷に同化して姿を消しました。

明治政府は天皇家の祖霊を最高神とする神社を頂点にした神道の中央集権を進めました。

名もなき氏神を祀(まつ)る小さな神社や祠や道祖神などは真っ先に廃止の対象となり姿を消しました。

アラハバキ神は神社の社格では最下層に置かれていました。

クナト神やアラハバキ神は大和朝廷以前の縄文から継続してきた土着の最高神だったので排除されず東北で延々と継続して残ったのです。

クナト神やアラハバキ神は大和朝廷の天孫神話の神に追いやられた先住民の神でした。


https://blog.goo.ne.jp/gozutennou/e/43fabd1a8935f5caca0aafec1bae0889【「スサノヲ」と「アラハバキ」】より

 現在、学問的には、オオクニヌシノミコトやヤマトタケルノミコトは何人もの神々の「集合体」と考えられているようです。わたしは最近思うのですが、「スサノヲ」は一個人の名前でななく、一族集団の名前ではないかと。高度な製鉄技術をもち、武器・農機具・はた織機などをつくることのできる「帰化人の集団」だったのではないかと。

 出雲の肥(ひ)の川、現在の斐伊川付近の須佐(スサ)の地に彼らは生活の拠点を置いていたと思われます。しかし、人口の増加により、より良質の鉄を求めて、各地に旅するようになったのではないでしょうか。良質の砂鉄のとれる関東の地に落ち着いた者たちが一族の先祖を敬い、豊饒を祈願したり、故郷を慕ったりしながら、氷川神社を造ったのではないでしょうか。

 しかし、関東の地には「先住民」たちがいました。帰化人「スサノヲ一族」が「先住民」たちと折り合いをつけるのは、その後ヤマト朝廷に敗れてやってくる同じ「先住民」系統の「出雲族」の場合とは違って、スムーズには行かなかったかもしれません。

 大宮の氷川神社の境内の片隅には「問客人神社」と「御嶽神社」があります。これは「先住民」の神「アラハバキ神」を祀った神社だった可能性があります。

「アラハバキ神」、「荒々しい蛇木神」という意味か、「現蛇木神」ということで「蛇木として現れているが本来は神」という意味かどうか分かりません。しかし、蛇の進化した龍の娘と結婚した、ビャクダンの山の神牛頭天王にも、アラハバキの基本精神が見られます。勿論オオクニヌシノミコトにも見られます。

 今は2010年の神無月。今年は9月20日頃まで熱波に悩まされました。熱中症で倒れ死亡する人のニュースも流れました。しかし、林の中に入ると熱波を感じることはありません。私個人としては、今年ほど林の力を感じたことはありません。

 東京のあきる野市では蛇を見つけたら連絡するシステムをつくっているようです。蛇は以前にも書きましたが「生態系の要」です。蛇の生息から、動植物の生育状況を把握することができるのです。

 関東の80歳以上の人たちは、林のことを「山」と呼んでいました。木々に満ちているところが「山」だったのです。東京には「久我山」「千歳烏山」というところがあります。辺りに小高い山はありません。かっては雑木林が広がっていた地域だったのです。

 今、わたしたちの生活に最も必要なのは、「山(林)」でしょう。そして、恵みを多くもたらす蛇の生息でしょう。わたしたちは、自分たちを「やまとみんぞく」と呼ぶことがあります。昔同様、インドの神をも受け入れる、大いなる和をもつ大和民族」でありたいですし、「山(林)」を大切にする「山門民族」「山徒民族」でありたいとも思います。


https://obtweb.typepad.jp/obt/2010/02/leyline.html 【レイラインハンティングvol.1 】より

……レイラインハンティング 日本編 vol.1 より一部抜粋……

第一章 【東北 巨石文化とアラハバキ信仰】

東北における巨石信仰の源流とは何だろう。

縄文から続く原始信仰が蝦夷に伝わり、蝦夷は民族神としてアラハバキを信仰した。アラハバキ神は巨石に降臨する。鉱山の神、 産鉄神でもあり、それは後に出雲の信仰にも通じていく。ストーンサークルや大石神ピラミッドに見られる巨石遺構などは、 そんなアラハバキ信仰の源流ともいえるだろう。

アラハバキ神が巨石に降り立つイメージは、そのまま神道にも取り入れられて今に続いている。神が降り立つ特別な岩、それを神道では 「磐座(いわくら)」と呼び、磐座そのものが御神体とされているケースも多い。

ゲーテは、地質に関する様々な論考を残しているが、とくに花崗岩を特別な存在と考えていた。それは、地球の創生の記憶を内に秘め、 宇宙へ向かって地球の意思を放出する一種の記憶装置で、花崗岩の上に人が位置したとき、その内部に秘められた「地球の記憶」 をリーディングできるのだという。そして、この北東北で生まれ育った宮沢賢治も、しばしば静かな月夜の晩に花崗岩盤の山に登り瞑想し、 そこで神から啓示を受けたような瞬間を体験した。賢治の代表的な絵画作品に「日輪と山」があるが、 あの宇宙へ向かって大地が食指を伸ばして宇宙の象徴たる太陽を捕らえようとしているかに見える光景は、 磐座の上で得たインスピレーションを表したものだったかもしれない。

巨石遺構に使用されている岩はほとんどが花崗岩であり、元々花崗岩の岩盤の場所で、その露頭に手が加えられていることも多い。 花崗岩の中に含まれる石英(水晶)は、外部から衝撃や圧力が加わった際に、その力を特定の周波数の振動に変換する。 時計で用いられる水晶(クオーツ)発振はその特性を利用したものだが、花崗岩を用いた巨石遺構では、 特定の日の太陽の光が集中されることによってそれが一定の周波数の振動を生み出す。そして、 配置された巨石全体に共鳴を起こして電磁波や重力の変化を誘導する。それが、大地に眠る力を汲み出し、 あるいはそこにいる人間の意識を変性させる。そのようにも推測できる。

エジプトのピラミッドやストーンヘンジが、何故、わざわざ遠く離れた山から岩を切り出してきて、 それを砂漠や草原の真中に積み上げなければならなかったのか……それも花崗岩のそんな性質を考えれば納得できる。

元々、地霊の沸き立つ「聖地」に花崗岩を据え付けることで、より強く鮮明に地霊の雰囲気を感じることができるようになる…… 巨石遺構は、そのような「装置」ではなかったのか。

ところで、再び大湯ストーンサークルの万座に立ち戻って、万座-黒又山-上大石神ピラミッドラインを見直してみよう。 方位角50度を示すこのラインを万座ストーンサークルの西側に立って、その中心にある立石と黒又山の頂上が並ぶように仰ぎ見る。 するとその先、遙か彼方にかすんだ山並みが描くスカイラインが重なっているのがわかる。このスカイラインの一角が、 まさに上大石神ピラミッドなのだ。これは、この仰角のついた直線の先に位置する星座を指すのではないだろうか。

エジプトのギザピラミッド群を研究したグラハム・ハンコックは、 ピラミッド群の配置が紀元前1万500年前のオリオン座の形を映すもので、 そのときの春分の日の夜明けにオリオン座が正確に南中することを確かめた。同様に、黒又山とこれを軸にしたレイラインは、 ある時代の特定の星座を指し示しているのかもしれない。

●坂上田村麻呂の呪い●

三内丸山の文明は気候変化などによってその後衰退するが、三内丸山を築いた縄文人たちの末裔である蝦夷は今の北関東から東北、 北海道全域に渡って分布し、独立した立場を保っていた。

8世紀、西から勢力を伸張してきた大和朝廷が「東国」支配を目論んで蝦夷の天地に侵攻を開始する。ところが、蝦夷の抵抗は激しく、 送り込まれた朝廷の軍勢はことごとく敗走することになる。

そのまま、三内丸山から延々と続いてきた蝦夷の平和が続くかに見えた……。

9世紀、朝廷は最後の切り札として、武運の誉れ高い坂上田村麻呂を起用する。そして、長年抵抗を続けてきた蝦夷は、 あまりにもあっけなく、田村麻呂の前に平定されてしまう。

田村麻呂を征夷大将軍として起用したのは桓武天皇だった。桓武は平安京遷都に当たって風水や陰陽道を駆使し、 自らが死に追いやった実弟の早良親王の怨霊を封じたことでも知られるが、唐様の習俗や文化を積極的に取り入れて呪術政治を行った。 その桓武天皇の腹心であった田村麻呂は、当然、陰陽道にも精通していた。 ただし武人である彼は恒武のように徹底した陰陽師であったわけではなく、 実際的な力である武力と霊的あるいは心理的な力といえる陰陽道とをうまく使い分ける巧みな戦略家だった。

三内丸山の縄文精神を受け継ぐ蝦夷たちは人間と土地との結びつきを重要視していた。限りない恵みを与えてくれる大地に感謝し、 その大地と対話できる場所を聖地として祭っていた蝦夷たち。その蝦夷の聖地に楔を打ち込んで、 これを機能させなくすることでまず精神的なダメージを与え、 それで骨抜きになった蝦夷に対して武力攻撃で止めを刺すのが田村麻呂の戦略だった。

オーストラリアのアボリジナルは、聖地を結んで全土に網の目のように広がる「ソングライン」 という精神的ネットワークをイメージしていた。聖地と聖地を結ぶ一本のラインには、それぞれ固有の歌があてはまる。 歌にはライン上の地形や土地の資源などが織り込まれていて、初めて訪ねた土地でも、その歌さえ知っていれば、無事に旅を続けられた。 このソングラインが道路や鉄道の建設によって寸断されてしまうと、聖地は力を失い、土地そのものが死んでしまう。アボリジナルは、 長年受け継がれてきた精神遺産であるソングラインをずたずたにされて、まさに生きる屍となってしまった。

アボリジナルと同様に、蝦夷たちも聖地を結ぶネットワークを持っていた。それが、三内丸山をハブとするレイラインであり、 大湯-黒又山-上大石神ラインだったのだろう。蝦夷が東北に築き上げたソングライン同様のネットワークがうまく機能していれば、 大地は健康であり、大地と不可分である自分たちも健康であり続けられる。蝦夷は、そんな風に考えていたのかもしれない。

田村麻呂はそんな蝦夷の精神世界を逆手に取った。

今回の旅は、三内丸山遺跡を起点に大規模なスートンサークルを繋いで南西に大湯ストーンサークルまで辿り、大湯から北東へ黒又山、 上大石神ピラミッドを結ぶラインを辿った。さらに、上大石神から三内丸山へラインを引いてみる。上大石神と三内丸山を結ぶライン上には、 今のところ、顕著な遺跡や「聖地」は認められないが、三内丸山、大湯、上大石神を結ぶ三角形を見ると面白いことに気づく。 この北東北に絵かがれる三角形の内側に、その面積の大部分を占める形で、十和田湖がすっぽり収まっているのだ。

強大な水神が眠る湖として太古から信仰の対象とされてきた十和田湖は、巨石遺構を結ぶレイラインに囲まれると同時に、 岸辺にも巨石遺構が残っている。風水や陰陽道では、幾筋もの龍脈を流れてきた気が龍穴というポイントで集中する。 龍穴は池や湖であることが多いが、それは水が「気」を溜めてさらに増幅するコンデンサの役割を果たすとされるからだ。そして龍穴に溜まった 「気」は、龍=水神に象徴される。当然、太古の巨石信仰を受け継ぐ蝦夷にとって十和田湖はこの上ない聖地であった。

その十和田湖の中に突き出た中山半島。その根本に十和田神社がある。

巨木が立ち並ぶ暗い森の中に一筋の径がつけられている。両側は一見、自然の崖のようだが、 よく見るとむき出しの溶岩の岩盤に混じって、長い年月の間に木の根がからまって覆い隠された石垣が見える。それは、 かつてここにあった巨石遺構の痕跡だ。さらに両側から崖が迫った切り通しを抜けて行くと、 周囲の自然にどことなくそぐわない厳しい雰囲気の社が現れる。

この神社は、坂上田村麻呂によって創建された。坂上田村麻呂が東国に創建した神社は数多いが、 十和田神社はその中でもっとも蝦夷の勢力の奥深くに食い込んだ場所に位置している。しかもここは蝦夷にとっては、強大な「気」 が集中する巨大龍穴であり、最重要ともいえる聖地だった。坂上田村麻呂は、まさに蝦夷の聖域中の聖域に楔を打ち込んだのだ。

坂上田村麻呂が朝廷から東征の任を受ける前、この地を本拠とする蝦夷は、 アテルイというアラハバキ神を奉じるシャーマニスティックな指導者に率いられ、強大な勢力を誇っていた。坂上田村麻呂の前任者たちは、 ひたすら朝廷の強大な武力に頼り、力でアテルイ軍をねじ伏せようとした。ところが、数の上では半分以下、 ときには十分の一以下のアテルイ軍にことごとく敗退させられてしまう。そして、桓武天皇によって、 最後の切り札ともいえる坂上田村麻呂が派遣される。

坂上田村麻呂はただちに武力攻撃でアテルイ軍を攻略せよという朝廷の命令を当初無視して、まったく異なる方法をとる。それが、 蝦夷最大の聖地に対する霊的攻撃ともいえる十和田神社の創建だった。

大湯ストーンサークルから十和田神社は方位角22度45分の方向になる。このラインを十和田神社を超えてそのまま伸ばしていくと、 下北半島のつけ根で「石文」という地名の場所に行き当たる。ここでは「日本中央の碑」が出土している。

「日本中央の碑」は「壺の碑(つぼのいしぶみ)」として古くから和歌に詠まれてきたもので、 長く伝説上の架空の存在であると信じられてきた。平安時代の歌学書『袖中抄』には以下のように記されている。 「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、 石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。 其所をつぼと云也」。坂上田村麻呂が東国征伐の際に弓の端で「日本中央」と刻んだ石文を置いた。 その場所は蝦夷地奥のつぼであったという記述だ。

石文とは、今でも北東北に残る風習で、小石あるいは大型の置石に自分の意志や願いを込め、それを神殿や道祖神、 あるいは祭壇に当たる場所に置くというものだ。坂上田村麻呂がこの場所まで進軍したという記録はないが、 坂上田村麻呂に代わる者がこの石を置いたとすれば、ここに記された「日本中央」の文字は、「日本中央=朝廷がこの地の支配者である」 というメッセージであり、蝦夷の聖地に対する呪いであっただろう。

長い間、壺の碑は、千人の人間が引いて東北町にある千曳神社の地下に埋めたとされ、明治9年に明治天皇が北東北を巡幸した際に、 千曳神社の境内の発掘を命じたが、結局、発見されなかった。

昭和24年、千曳神社から東へ4㎞あまり隔たった東北町石文地区の山林内を歩いていた猟師が、 地面から突き出した不思議な立石を発見する。それを掘り起こしてみると、石の表面に「日本中央」の文字が刻み込まれていた。これが今に残る 「日本中央の碑」だ。ただ、この石碑は刻まれた文字が稚拙で、仮に伝説が伝えるように弓の端で刻んだにしてもまだお粗末なものに見える。 そんなこともあって、いまだにまともな研究対象にはされていない。

この石碑の真贋はともかく、 出土したとされる場所も伝説の残る千曳神社の場所も大湯と十和田湖という蝦夷の一大聖地を結んだライン上にあるという点に注目したい。

坂上田村麻呂は、まずは北東北の聖地の中でももっとも重要だった十和田湖に十和田神社という楔を打ち込んだ。 さらに蝦夷の領域の奥深く、十和田神社とも関係するラインの末端に「日本中央碑」という楔を打ち込んだ。これによって、 蝦夷のソングラインともいうべき聖地ネットワークが寸断されてしまった……。

それまで威勢を駆って都にまで攻め入ろうというほどだったアテルイ軍は、坂上田村麻呂が率いる軍勢に対して、突然劣勢となり、 各地で敗退し、ついには総崩れとなってしまう。そして、首領のアテルイは坂上田村麻呂に捕らえられ、都に送られて打ち首となる。

坂上田村麻呂以前の征夷大将軍たちがことごとくアテルイ軍に敗れ去ったのに、坂上田村麻呂軍は、 戦端を開いた途端にアテルイ軍を圧倒し、鮮やかに殲滅してしまう。その背景には、アテルイ軍の士気を阻喪させる心霊戦…… 心理戦の効果があった。陰陽道にも長けていた坂上田村麻呂の戦略に蝦夷は屈したといえるのではないだろうか。

だが、広い東北の地に広がる蝦夷が、坂上田村麻呂一代によって完全に殲滅され、朝廷色に塗りつぶされたわけではなかった。

時を置いて、蝦夷は復活してくる。中世には、それが藤原王朝として平泉に花開いた。

今でも東北を旅していると、土地の持つプリミティブな力=地霊の強さをはっきりと意識する。 坂上田村麻呂はある部分では蝦夷の地霊を支配し、改変してアテルイに勝利したが、 広大な東北地方全域まで地霊をコントロールすることは不可能だった。

蝦夷のしたたかさは、太古から縄文そして中世へと脈々と受け継がれてきた巨石信仰=アラハバキ信仰に由来するのかもしれない。 巨石信仰と結びつくアラハバキは天空神であり漂泊神である。天の力と大地の力の両方に通じた神であり、巨石遺構の場所に降臨し、 レイラインを伝わって移動していく。そして、アテルイにアラハバキが憑依して絶大な指導力と運を手にしたように、 ある瞬間にその場にいる人間にとてつもない力をもたらす。たしかに坂上田村麻呂によって一つの重要なレイラインは封じられたが、 北東北の巨石信仰レイラインのチャンネルはそれだけではなかった。

中世東北にキラ星のように出現した藤原王朝もまたアラハバキを奉じていた。藤原王朝の基盤は、 後に津波で壊滅することになる十三湊を軸にした大陸との交易と、金の採掘だった。それが朝廷をも凌駕する巨万の富をもたらした。

竹内文書と同様、これも典型的な偽史にあげられる「外東日流外三郡誌」がある。そこには、古代、 津軽に朝廷を凌駕する東北王国があり、それもまたアラハバキ神を奉じ、十三湊を本拠としていたとされた。内容を全て信じることはできないが、 十三湊の繁栄やアラハバキ信仰の実体など、無視できない部分も多い。

大石神ピラミッドと三内丸山を結ぶレイラインをそのまま北西へ伸ばしていくと、まさに「外東日流外三郡誌」 に登場する聖地や大規模な巨石遺構がそこに並んでいるのが見て取れる。これは、坂上田村麻呂が封じたレイラインのまだその先に、 もしかしたら大陸につながっていく、さらに強力なレイラインが存在し、 それが後の藤原王朝の繁栄をもたらしたことを物語っているのではないだろうか。

ところで、その藤原王朝も信じがたい栄華を極め、強大な軍事力を誇りながら、鎌倉幕府によってあっけなく滅亡させられてしまう。 それは、坂上田村麻呂によって滅亡させられたアテルイの最後に驚くほど似ている。

押し寄せた潮が一気に引くように、忽然と姿をくらましてしまうかのように見える蝦夷。じつは、 彼らにとって北東北は自らの文明の中心ではなく、南に伸びた前衛の一部で、その本拠は遠く大陸に存在するのかもしれない。だとしたら、 世界のほかの地域の巨石文明ともその先で繋がっていたに違いない。


http://history-romance.com/archives/37 【ヤマタノオロチ伝説から紐解く古代出雲国の実態。たたら製鉄・ヒッタイト王国との関係】より

古事記や日本書紀で有名なヤマタノオロチ伝説。誰もが一度は聞いたことがある神話だと思いますが、この神話の解釈は様々で、この神話におけるヤマタノオロチという怪物は、古代の出雲国のたたら製鉄集団を指し、この神話とたたら製鉄の起源は現在のトルコ辺りで栄えたヒッタイト王国にまで遡れるという説があります。

今回はその説を順を追ってご紹介しましょう。

動画Verはこちら https://www.youtube.com/watch?v=8ljpfJ4dIqE&t=221s

ヤマタノオロチ伝説

まずは、古事記、日本書紀にある、ヤマタノオロチ伝説を簡単に振り返ります。

昔々、神代の時代、スサノオノミコトは高天原で暴れ回り、姉のアマテラスオオミカミを困らせました。

結局、高天原を追放されたスサノオは出雲国の斐伊川にやってきます。スサノオはそのまま川の上流へ向かうと、一人の娘を囲んで泣いている老父と老婆を発見し、泣いている理由を尋ねると、老夫婦はこう答えました。

「私たちには、8人の娘がいたのですが、ヤマタノオロチという怪物がやってきては、毎年娘たちを一人ずつ食べていったのです。そして今年もまたヤマタノオロチがやってくる時期がきたので、最後の娘である奇稲田姫をも食い殺されてしまうかと思うと悲しくて、涙が止まらないのです」。

スサノオがそのヤマタノオロチについて尋ねると、2人は続けてこう答えました。

「一つの胴体に8つの頭、8つの尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤であり、体にはコケやヒノキ、スギが生え、8つの谷と8つの丘にまたがるほど巨大で、その腹は、いつも血でただれている」

それを聞いてスサノオはこう切り出しました。

「あなたたちの娘をわしにくれるなら、ヤマタノオロチを退治してやろう」

老夫婦はその提案に困惑しつつも、娘の命のために了承したので、スサノオは退治の準備を始めます。

まず、嫁になった奇稲田姫の身を守るために、彼女を爪櫛の姿に変え、髪にさします。そして老夫婦に、「8回も繰り返して醸造した強い酒を造り、また、垣根を作り、その垣根に8つの門を作り、門ごとに8つの棚を置き、その棚ごとに酒を置いておくように」と指示をしました。

老夫婦は言われたとおりに準備し、ヤマタノオロチがやってくるのを待ちます。

そこにヤマタノオロチがすさまじい地響きを立てながらやってきて、そして、8つの門に、それぞれの頭を入れて、豪快な音をたてながら、酒を飲み始めました。すると、ヤマタノオロチは酔っ払い、眠りこけました。その時、スサノオは十拳剣でヤマタノオロチに切りかかり、体を切り刻み始めます。すると、なんと、尾から剣が出てきたのです。

無事、退治することに成功したスサノオはヤマタノオロチの体内から現れた剣を姉に献上し、その後、この剣は天叢雲剣、または草薙剣と呼ばれ、三種の神器の一つとして天皇家で受け継がれるようになります。

その一方で、スサノオはクシナダヒメと共に、新しい住まいを探して、須賀の地に、宮殿を建て、たくさんの子どもに恵まれました。

ヤマタノオロチの正体

さて、ヤマタノオロチ伝説を振り返ってみましたが、この神話におけるヤマタノオロチは、一体、何を象徴しているのでしょうか。

様々な解釈がありますが、一般的な解釈は、出雲の斐伊川そのものがヤマタノオロチであり、氾濫を起こす水の神から、田んぼを守る神話であるというものです。

確かに、生贄に捧げられる寸前であった奇稲田姫の名前には、稲と田の漢字がありますし、ヤマタノオロチは蛇のようであり、ヘビは古くから水の神と考えられてきたので、妥当な解釈だと思われます。この解釈でいけば、スサノオは治水によって、農耕地を守った神ということになります。

一方で、ヤマタノオロチの真っ赤な目や、体に生えるスギとヒノキ、そして血でただれる腹が、炎を連想させたり、尾から剣が出ていることなどから、製鉄文化との関わりも指摘されています。実際に出雲は良質な砂鉄と森林資源に恵まれていることから、 日本古来の「たたら製鉄」が盛んな地域で、古代から近代にかけて、たくさんの刀剣が作られてきた場所でした。

この解釈でいけば、ヤマタノオロチは製鉄集団を指し、彼らが製鉄のために大量に森林伐採を行い、山の保水能力を失わせた結果、水源が命の農耕集団を困らせたという経緯を物語化したとも読み取れます。この解釈においても、スサノオは製鉄集団を統率することで水源を確保し、農耕地を守ったとみることができます。

また、日本における製鉄は弥生時代の後期から古墳時代に入ってからであるので、この古事記、日本書紀の物語は弥生時代後期以降、つまり三世紀以降の物語と考えられ、大和政権が誕生する前後の情勢が反映していると思われます。

つまり、この神話は出雲にいた製鉄集団と、それを服従させた大和王朝という当時の勢力関係を暗示しているという解釈もできるのです。

たたら製鉄の起源

そして更に興味深いのが、たたら製鉄の語源についてです。

「たたらといえば、ジブリ映画の『もののけ姫』に出てくる、たたらばを思い出す方も多いと思いますが、「たたら」の語源については定説はなく、確実なことはわかっていません。一説によれば、サンスクリット語で熱を意味する「タータラ」に由来すると言い、他には、「タタール族」に由来するという説もあります。

タタール人は北アジアのモンゴル高原とシベリアと、カザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動した遊牧民族で、古くから優れた製鉄技術を持っていたとされています。

タタール人の製鉄技術が朝鮮半島を経て日本に伝来した説もあり、実際にロシアのタタルスタン共和国の視察団が両者の関係を確認するために、2015年に島根県で現地調査をし、調査団の一人は「日本の侍の刀はタタール人が使った刃物と似ている」などと共通点を指摘しました。

参照:産経新聞「たたら製鉄とタタールとの関係研究へ タタルスタンから視察団」

もう一つ面白い点があります。

世界で初めて製鉄法を編み出したのは、紀元前1600年頃に現在のトルコのアジア部分を中心に帝国を築いたヒッタイト王国だと言われていますが、そのヒッタイトの神話にもヤマタノオロチの物語と酷似する箇所があります。

それは、イルヤンカというヘビの怪物がいて、英雄、フパシヤシュに退治されるという物語で、女神のイナラシュは盛大な酒宴を開き、イルヤンカを招いて、泥酔状態になったところを英雄、フパシヤシュが縛り上げ、倒すという話です。

酒を飲ませてヘビを倒すという点において、ヤマタノオロチの物語とよく似ていることが分かります。

また、英雄が人身御供にされた女性を救うために怪物と戦って倒し、その女性と結ばれるという展開は、ギリシャの有名な英雄神話から名をとって「ペルセウス・アンドロメダ型」といい、世界各地の英雄の物語にはとてもよくみられる話です。

以上のことを踏まえて考えてみると、製鉄技術とともにヤマトノオロチの神話のモチーフも、大陸側から伝えられたという可能性は十分にあると言えると思います。

ただ、出雲国風土記にはヤマトノオロチの物語はありません。

古事記と日本書紀が大和朝廷の歴史書であるのに対し、出雲国風土記は出雲の人によって書かれたものであることから、オロチ神話は大和王朝主導で書かれたもので、大和王朝が古代出雲を統治する上で、何らかの必要があって書かれた物語だと考えられます。

その一方で、被統治民である出雲の人々の精一杯の抵抗として、「出雲国風土記」では敢えてオロチ神話に触れなかったという可能性も捨てきれません。

また、出雲といえば、記紀の国譲り神話も有名ですが、その神話も出雲国風土記には出てきません。逆に、出雲国風土記の冒頭を飾る、国引き神話は古事記、日本書紀には出てきません。

他にも、出雲大社は注連縄の張られ方が一般的な神社と逆であったりと、様々な点において、大和王朝の文化に対抗しているような節が見られるので、古事記、日本書紀の記述に対抗するように出雲国風土記を記述したという可能性は高いと思われます。

このようにみてみると、オロチ神話においても出雲国と大和王朝の対立関係が浮き彫りになっているようにみえます。

その一方で、記紀の中で神々の物語を描いた上巻の3分の1が出雲に関わる神話が占めていたり、初代神武天皇が正妃に出雲神の事代主神の娘を選んでいたり、ヤマトの聖地である奈良の三輪山の麓にある大神神社では出雲の神、大物主神が祀られていたり、天皇家も出雲神を丁重に祀っていることがあったりと、大和政権と出雲の関係は一概に敵対しているとは言えず、表裏一体の関係といったほうが適切かもしれません。

神話がそのまま事実を表したものではないのは当然のことですが、考古学と照らし合わせてみてみると、歴史を反映している側面も多々あることが分かります。そういったアプローチでみてみると、この大和政権と古代出雲の関係も非常に興味深いものですが、掘り下げると長くなってしまうので、また別の機会に取り上げようと思います。

スサノオ

また、オロチ神話の主人公のスサノオという神も謎が多いです。

スサノオの名前の一部の「スサ」や最初の宮の須賀宮の「スガ」という言葉は古来から鉄が採れる場所を意味し、「ス」や「サ」という言葉は古代朝鮮語では砂鉄を表わし、スサノオという名前はそこからの派生形ではないかという指摘もあります。

記紀において、スサノオが朝鮮半島の新羅に降り立つ場面があったり、記紀に伝わる新羅からの渡来人、または渡来神のアメノヒボコはスサノオと共通点が多く、同一視されることもあるほどで、アメノヒボコの名前もまた、槍もしくは矛という漢字があり、金属そのものを表わしていることが分かります。

このようにみてみると、神話を通して、スサノオと関連が深い出雲と、古代の朝鮮半島との間に何らかの関係性があったことを暗示しているようにも思えます。

スサノオの起源を朝鮮半島に求める説もあったり、それのみならず、シュメール文明にまで遡れるという大胆な説もありますが、スサノオに関しては、他にも興味深い点が多々ありますので、また別の機会に取り上げていこうと思います。

さて、今回はヤマトノオロチの神話を切口に出雲国やヒッタイト王国の話にまで展開しましたが、いかがでしたでしょうか。今回のことに関しても様々な解釈があると思いますので、ほかの面白い説などありましたら、コメントで共有していただけると幸いです。

それでは、今回も古代への旅にお付き合いいただき、ありがとうございました!


Facebook清水 友邦さん投稿記事

日本の神社に祀られている神は大きく天つ神と国つ神に分けることが出来ます。

国つ神は自然界の精霊や地霊、先住していた人々の祖先神です。

天つ神は高天原に生まれた神々を子孫とする氏族が祀る神です。

天つ神は天孫族と称し海(アマ)の彼方から渡ってきた神(渡来人)のことでもあります。

紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代の間に、海を渡って様々な地域から日本列島に渡来して来た人々がいました。

日本の弥生時代は天つ神と国つ神の二重構造になっています。

先に渡来してきた人々と、後から渡来してきた人々との間で勢力争いがあり、権力の正当性を腐心するために、国つ神が天つ神を詐称するということも起きたと思います。

『古事記』に製鉄を行った鍛冶の神として天津麻羅(あまつまら)が出て来ます。

天津麻羅(あまつまら)は天孫族ではないので神や命(カミ・ミコト)の尊称がもちいられずに呼び捨てにされています。

天津麻良はニギハヤヒが天磐船に乗って降下する時、お供した五人の中の一人であり、物部系氏族の祖神となっています。

また天津麻羅(あまつまら)は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同神とされ、天の岩屋戸に隠れた天照大神を導き出すため、伊斯許理度売命(いしこりどめ)とともに、八咫鏡を作り、「鉄鐸(さなぎ)」という鈴を作った神でもあります。

奈良県磯城郡田原本町の鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)は伊斯許理度売命(イシコリドメ)が中央に祀られていました。

伊斯許理度売命(いしこりどめ)は日本書紀では石凝戸辺(いしこりとべ)と書くので冶金を扱う部族の女性首長だったのでしょう。

古代は母系だったので女性がリーダーでしたが男性原理が強くなると女性はタタラ場から締め出されてしまいました。

アニメもののけ姫に出てくる工房集落『タタラ場』のエボシ御前はイシコリドメがモデルだったかもしれません。

鍛冶職人に信仰される神は金屋子神(かなやごかみ、かなやこかみ・金山姫)という女神で天目一箇神と同神とされています。

鍛治をあつかう氏族は天目一箇神を祖霊神として信仰して来ました。

宮城県多賀城市のアラハバキ神社(荒脛巾神社)の隣では、鍛冶・製鉄の神天目一神を祀っていました。

「海部氏勘注系図」によると天目一箇神は、滋賀県野洲の御上山に祀られている天之御影神(あめのみかげのみこと)と同一神で、海部氏(あまべ)の祖先に当たります。

『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条には、天目一箇神が女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)と天目一神との間の子と記されています。

道主日女命(みちぬしひめのみこと)は、「海部氏勘注系図」で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻とされています。

神武天皇は、大物主と勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)との間に生まれた娘を、皇后にしています。

奈良市最古の率川神社(いさがわじんじゃ)は、媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀っています。

日本書紀で媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)は、古事記で富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすずひめのみこと)別名が比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)といいます。

大阪府茨木市五十鈴町の溝咋神社は、母の富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめ)別名玉櫛姫(たまくしひめ)と娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)と父親の三島湟咋(みしまみぞくい)を祀っています。

日本書紀は事代主神が三島湟咋(みしまみぞくい)の姫のもとに通って媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んだとあります。

事代主神は製鉄氏族の賀茂氏の祖神で溝咋神社の近隣に鴨神社が鎮座しています。

鴨神社と溝咋神社の近くには弥生時代の集落跡である「東奈良遺跡」があり、そこでは銅鐸の生産が行われていました。

たたら製鉄は、5000年前のアナトリア先住民「ハッティ」を起源として鉄の道(アイアンロード)を通って、中央アジアから日本に来ました。たたらは、インドで熱をタタトル、モンゴル系部族のタタール(韃靼)は猛火をタターラと呼びます。そして、ヒンディー語で鋼をサケラーといい出雲で鋼をケラといいます。

このことから、たたら製鉄法はインド経由できたとも、いわれています。

火のことを〈ホ〉と呼び、製鉄で火を起こす火鑽臼(ひきりうす)のくぼみを〈ホト〉といいました。

神武皇后のホトタタライススキ姫(富登多多良伊須須岐姫)のホトとは女性器のことです。

炉を熱して砂鉄を溶かし、炉からドロドロの真っ赤な鉄を流すことを〈ホト〉を突くといいます。

たたら製鉄は〈マラ〉と呼ばれる鍛冶師が巧みな技術で〈ホト〉を突いて生まれた和鉄という子宝をイシコリドメという産婆が取り出すという比喩になっています。

古代の天皇家は、タタラの技術を持っていた物部系氏族から皇后を迎えていました。

製鉄集団は鉄を神として祀る風習がありました。

東北には物部氏とたたら製鉄に関する痕跡が残されています。

アラハバキ神は、大和朝廷の文献である『記紀』および『風土記』などにはまったく登場しない、出所が不明な謎の神とされています。

アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)の名前がついた神社が東北にいくつかあります。

宮城県大崎市岩出山の荒脛巾神社(アラハバキ神社)の地名は、荒脛巾でバス停の名前も荒屋敷です。

武蔵一宮氷川神社でアラハバキ神は客人神(まろうどがみ)としてまつられています。

客人神とは神社の建つ前の地主神、つまり土着の神です。

アラハバキが、現在のトルコのアナトリア半島の古代ヒッタイトの先住民ハッティ人(紀元前3千年-紀元前2千年)のハッティ語の鉄を意味するハパルキから来ているという説があります。

アラハバキ神を祀る津軽半島の洗磯崎神社は以前に荒覇吐(アラハバキ)神社と呼ばれていましたが、そのご神体が鉄鉱石だといわれています。

荒覇吐の「荒(アラ)」は、山伏やタタラでは「鉄」を意味し、蛇はハハ、ハバとも呼ぶのでアラハバキ神は鉄の蛇ということになります。

大和朝廷と戦った蝦夷(エミシ)たちの刀は蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれ都に負けない優れた製鉄技術が蝦夷(エミシ)にありました。

蝦夷(エミシ)鍛冶の蕨手刀は日本刀の元型と言われています。

アラハバキ神を氏神としていたのが蝦夷の安倍氏です。

『陸奥話記』には、安倍貞任の与党賊徒のなかに、藤原経清、とともに物部惟正という名が出てきます。

製鉄技術を持っていた物部氏と縄文の末裔が混血したのが蝦夷なのでしょう。

安倍氏はニギハヤヒを祖先とする登美の長髄彦の兄アビヒコを先祖としています。

丹内山神社の神は、滝ノ沢神社の敷地内にある滝に顕現したという文献があり丹内神社には早池峰山拝石が置かれています。

丹内山大神とは早池峰大神である瀬織津姫のことで、丹内山神社は瀬織津姫を祀っていたのです。

丹内山大神を崇敬した藤原清衡の母は安倍氏の血を受け継いでいました。

アラハバキ神を祀る神社の多くに磐座があり、おそらく古代では岩の上で巫女が祭祀をおこなっていたと思います。

沖ノ島の岩上祭祀の最古の時代に鉄製品が祭祀品として使われていました。

鉄が入ってくると人々はその輝きに神の神聖さを感じたと思います。

アラハバキ神とは、蛇を信仰していた縄文の人々と、大陸から製鉄技術をもっていた人々と、混血した神なのかもしれません。

岩手県北上市に藤原秀衡が先祖の霊を久那斗権現として祀った伝えられているクナト神を祀る久那斗神社があります。

初代藤原氏の母方は安倍氏で先祖はニギハヤヒに繋がります。

茨城県の古社息栖神社(いきすじんじゃ)も岐の神(くなどのかみ)を祀っています。

息栖神社の伝承では鹿島、香取の神を先導して出雲の神からの国譲りに成功したとされています。

出雲大社から徒歩約10分のところに、出雲大社の境外末社として岐の神(くなどのかみ)を祀る出雲井神社があります。

縄文から継続してきた聖地に祀られていた岐の神(くなどのかみ)は後から来た渡来の神に追い払われたのでしょう。

諏訪地方では縄文時代の遺跡から男性器と女性器を象徴していた棒や石皿や丸石などが出土していますが、諏訪信仰ではミシャグチ神と呼ばれ、ご神体として奉られています。

縄文時代の石器が、後に道祖神や賽の神、クナドの神になったのではないかといわれています。

婚姻史研究の高群逸枝によると、クナドのクナは婚交の義でドは所、つまりクナドは女系集落の境のヒロバでの族外婚の場所を意味すると述べています。

クナドとは交通の要所で他の集落との交易や異性が出会い結びつく場所でもあったのです。

キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史』によるとアイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰という話も伝わっています。

岐の神(くなどのかみ)は辻の神(つじのかみ)、塞の神(さいのかみ)、道祖神の原型とされています。

『日本書紀』で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って黄泉津平坂(よもつひらさか)で、投げた杖(古事記では禊をしたイザナギのふんどし)から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が生まれたとしています。

黄泉津平坂(よもつひらさか)はあの世とこの世の境界でした。

縄文時代の精霊信仰は弥生に移行するとクナト神やアラハバキ神となり、古墳時代になると日本神話に登場する祖霊神へと置き換えられていったのでしょう。

宮城県多賀城の荒脛巾(アラハバキ)神社(阿良波々岐明神社)は布の脛巾(はばき)の名前から足の神様として信仰されていますが、ここは大和朝廷の蝦夷征伐の拠点として造営された城柵があった場所です。

アラハバキ神の神社は、全国に150社以上ありますが、たいていは摂社、末社として小さな祠に祀られています。

権力構造が変わり本来の祭神が、後からきた神にその座を奪われる例は世界中にみられます。

東北の地は、大和朝廷以前の縄文時代にさかのぼるアニミズムの信仰の地でした。

蝦夷と呼ばれた東北の民は文化と神話を奪われ、大和朝廷に同化して姿を消しました。

明治政府は、天皇家の祖霊を最高神とする神社を頂点にした神道の中央集権を進めました。

名もなき氏神を祀(まつ)る小さな神社や祠や道祖神などは、真っ先に廃止の対象となり姿を消しました。

アラハバキ神は神社の社格では最下層に置かれていました。

クナト神やアラハバキ神は、大和朝廷成立以前の先住の人々に信仰されていた神だったので、天孫神話の神に追い払われましたが、完全に消し去ることは出来なかったので、痕跡が今日まで残されたのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000