しあわせ眼鏡

Facebook向後 善之さん投稿記事

「河合隼雄の幸福論」 河合隼雄 著 PHP研究所

この本は、1998年に刊行された「しあわせ眼鏡」を復刊したものです。「幸福論」という大意取るですが、「これこそが幸福だ!」と大上段に構えて断定するよくあるノウハウ本とは違います。河合さんが出会った様々な人たちからインスパイアされた考えを、あーでもないこーでもないと考えていく本です。

それにしても、河合さんはいろんな人に会い、いろんな本を読んでおられます。会った人は、井上ひさしさん(劇作家)、安藤忠雄さん(建築家)、中村桂子さん(生命科学者)、小林修三さん(国立民俗学博物館教授)、村田校長先生(桂坂小学校)、フルートの先生など。紹介された本は、「モモ(ミヒャエル・エンデ著)」、「大草原の小さな家(ローラインガルス・ワイルダー著)」、「子ども産みます(林寛子著)」、「おかあさん(シャーロット・ゾロトウ文、アニタ・ローベル絵)」、「白洲正子自伝」、「見えない暗闇(山田太一著)」、「台所のマリアさま(ルーマー・ゴッデン著)」、「学び その死と再生(佐藤学)」、「ボクシングに賭ける(脇浜義明著)」、「わが娘を愛せなかった大統領へ(パティ・デイビス著)」、「生きにくいこどもたち カウンセリング日誌から(岩宮恵子著)」、「旅する巨人(佐野眞一著)」、「家族と性(大庭みな子著)」、「わたしを束ねないで(新川和江著)」。

人物も本も、実にバラエティに富んでいます。しかも、心理の専門家や心理関係の本がほとんどないんですね。河合さんは、好奇心旺盛なフィールドワークの人だったのかもしれないなと思いました。

この本の中で根底に流れているのは、今言われている「幸福」が本当に幸福なのか?ということだと思います。

例えば、

「人間にとって「生涯学習」ということは不可欠のことだ。しかしそれは別に幸福になるためにしているのではない。(p.162)」

「幸福ということを第一にして、幸福になろうと努力すると、かえって失敗してしまうことが多いのではなかろうか。(p.162)」

「成功したり失敗したりを繰り返しつつ生きるのが人生ではなかろうか。幸福というのはそれにつきまとっている一種の副産物と考えておく方がいいだろう。(p.164)」

探すのをやめたとき、見つかることもよくある話で、フフッフ〜てな感じですね。

また、河合さんは、幸福はその背景には様々な感情があると言います。この発想は、河合さんが熱心に習われていたフルートはメロディーを奏でることはできても和音を出すことはできないというところから生まれました。和音を出せなくても和音を意識しながらフルートを吹くといい音が出るとのことです。

河合さんは、「音のない音に耳を傾ける態度が、他人を深く理解するのには必要であると思われる。(p.190)」と言います。

そして、この本は、次の文章で締めくくられています。

「幸福の絶頂にあるようなときでも、それに対して深い悲しみ、という支えがなかったら、それは浅薄なものになってしまう。幸福だけ、ということはない。もちろん、フルートの音しか一般の人には聞こえないのだが、それがよい音色であるためには、音のない音がそれを支えているように、幸福というものも、たとえ他人にはそれだけしか見えないにしても、それが厚みをもつためには、悲しみによって支えられていなくてはならない。(p.191)」

吉福伸逸さんも「悲しみの共同体」という考え方で、似たようなことを語っていました。一時期、河合さんと吉福さんは一緒にトランスパーソナル心理学の国際大会を主催したこともありますから、この辺りのことは、お二人で語り合ったのかもしれませんね。

http://shiika.sakura.ne.jp/daily_poem/2011-05-31-1082.html 【八番 しあわせ】より

ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 福田若之

雪見酒なんのかんのと幸せよ 星野椿

「しあわせになる」「しあわせを手に入れる」とは言うが、「しあわせが要る」とはふつう言うまい。いささか不思議な日本語ながら、「手に入れる」対象になるものなのであれば、「要る」と指示することも不可能ではないのかもしれない。そのようにして統辞法の上ではぎりぎり受け入れることが出来るにしても、この左句にはなお奇妙な焦燥感、感覚のねじれのようなものが付き纏っているようだ。

ひとつの理由としては、ここで表明されているのが「しあわせ」の欠損だからということもあるが、どうもそれだけではないらしい。そもそも「しあわせになる」「しあわせを手に入れる」というような定型的な表現の背後には、知的精神的なものであれ、金銭や名誉、異性の獲得を通じてのものであれ、心理的充足感にいたるプロセスへの信憑が感じられるのに対して、左句の「しあわせがどうしても要る」にはそのようなプロセスが見えない、もしくはプロセスへの感受性そのものがあらかじめ欠落しているかのように感じられる。それがこの句のねじれたような印象を生むのではないか。人はしかるべくプロセスを踏んで「しあわせになる」ことも、それを「手に入れる」ことも出来るに違いない。しかし、「しあわせがどうしても要る」という言表と「しあわせ」とを繋ぐ回路が存在するとはにわかに信じ難い。これは、単なる不幸とも異なる、我々の現在の「しあわせ」との乖離感を的確に表現したフレーズなのである。

左句は、上のような一般的解釈でも充分面白いが、今年四月中旬という発表時期からすると、三月十一日以降の状況を背景にして書かれたと推定される。プロセスを消去した「しあわせ」の性急な要請は、従って制作の場に即して見れば、あまりにも大きな不幸を前にしての強迫的な感情の表出ということになる。加えて、震災と原発事故というファクターの読解への導入により、巧妙な言葉遊びの仕掛けが炙りだされるのもまた面白い。すなわち、原発事故の起こった土地の名をパラフレーズすれば「しあわせの島」であり、そこは皮肉にもいま最も「しあわせ」を欠損させている場所であるに違いない。そしてその「しあわせの島」の相対的な貧困と人口の稀薄さと距離(遠さ)が、富と人口を集中させた首都の「しあわせ」を支えるために、「どうしても要る」ものとされてきたのである。ちなみに、この国で二番目に富と人口を集中させた地域の「しあわせ」のためには、「しあわせの井戸」という名の別の土地が用意されている。

「ヒヤシンス」という季語にも心にくい仕掛けがある。三月から四月頃という花季のタイミングや、悲惨を際立たせる艶麗な花の美しさだけから斡旋されたわけではないのだ。花の名の由来となったギリシャ神話の美青年ヒュアキントスの逸話を踏まえたその花言葉は、「悲しみを超えた愛」。この句の文脈に置くと、祈りと皮肉が重なりあって見えてくるようだ。語調からしても上五「ヒヤ」と中七「しあ」の間で、iaの句頭韻となっており、「し」音が全体で三回繰り返されているのも効果的だろう。作者がどこまで意識していたかはともかく、一見したところの放胆さとは裏腹に、強烈な感情表現と文明批評のイロニーが多義的に錯綜する、精緻に作りこまれたテキストとして読める句なのである。

一方、右句の良さはあまり考えこんでいないところにある。正岡子規に、〈母の詞ことば自ら句になりて〉と前書した、

毎年よ彼岸の入に寒いのは

という句があるが、右句も「なんだかんだ言っても幸せだよね」というような、我々の誰でもが口にしてしまいそうな(してしまったことがある)紋切型のセリフに、「雪見酒」なる季語を添えて俳句に仕立ててしまっただけのことである。しかし、「幸せ」とはおそらく、このセリフ、雪見酒というこの振る舞いに、共々そなわった凡庸さを受け入れることと多分に重複する何事かであるとも思われ、凡庸さを飄々と引き受ける右句のたたずまいには、それはそれでたいへん心ひかれるものがある。ではあるけれど、比較した場合の優劣となると、これはもうあきらかに左勝なのではあるまいか。

季語 左=ヒヤシンス(春)/右=雪見(冬)

作者紹介

福田若之(ふくだ・わかゆき)

一九九一年生まれ。開成高校の俳句部で俳句をはじめる。現在、大学生。掲句は、「週刊俳句」第二〇八号(二〇一一年四月十七日号)より。

星野椿(ほしの・つばき)

一九三〇年生まれ。祖父は高濱虚子、母は星野立子。現在、「玉藻」主宰。掲句は、第四句集『雪見酒』(一九九八年 玉藻社)より。


Facebookごとう 孝二さん投稿記事「幸せは今ここにある」

目の前に1枚の紙があります。

あなたが紙の片面を「こちらが表」と定義するとき、同時に「裏」が生まれます。

あなたが「生」まれたとき、同時に「死」が生まれました。

あなたが何かを「美しい」と思ったとき、同時に「醜い」ものも頭の中に生まれました。

もし世界に「男性」がいなければ、自分が「女性」だとはわからない。

「善-悪」「強-弱」「左脳-右脳」「勝-負」「高-低」「出逢い-別れ」…

それらは別々のものではなく、すべてワンセットであり、 互いに支えあっている。

凍える寒さを経験した人は、日差しの暖かさを知っていて

病気を経験した人は、健康への感謝を知っていて

飢えを経験した人は、一膳のご飯の美味しさを知っていて

孤独を経験した人は、絆の大切さを知っていて

絶望を経験した者は、希望のありがたみをよく知っている。

でも自分の弱さを認められない人は、他人の弱さを受け入れることもできず

自分の弱さがわからなければ、自分の強さにも気づくことができないのです。

光が美しく輝くことを支えているのは「闇」であり、光が存在できるのは、闇がそこに在るからです。

あなたの光の部分を引き出すために、まず闇の部分を認めてみてください。

これは、闇を好きになれ、という意味ではありません。

好きになるのと、存在を認めるのとでは、まったく違う。

長所(光)と短所(闇)、両方あるからこそ、自分なんだと認めてあげること。

自分のダメなところ、カッコ悪いところは、素直に認めればいい。

そうやってプラスもマイナスも両方を受け入れ、それでよいのだと自分を許してあげると

心の余裕が生まれる。

心に余裕が生まれると、そのマイナスの欠点から魅力的な人間力がにじみ出てくる。

そうなれば、人はどんどん、活き活きと輝いてくるんだよ。

幸せはいつも今ここにあるより。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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