Facebook相田 公弘さん投稿記事 「自分のヘソに指立てて」相田みつを
K君なあ あなたのなやみに 具体的に答えられるほど わたし自身迷い多くて 弱い人間ですから
K君ねえ・・・・・迷ったときには 原点に立ち返ってみることだ
原点とは自分の本心だ 自分の本心に聞いてみるんだよ
かねが欲しいのか 名誉が欲しいのか それとも女が欲しいのか いま、ここ、で
自分が一番欲しがっているもの 自分が求めているもの それは一体なんだ?
ギリギリ決着のところ 自分は一体何が欲しいのか?
と、自分のヘソに 自分の指をしっかり立てて 一切のかけ引きなしに 聞いてみることだ
そうすると 自分の本心が よく見えてくるから・・・・・
ただここで 一ツ注意しておくことはね 自分のヘソに指を立てる前に 正座でもあぐらでもいいから 背筋をピンとのばして 肩の力を抜き 腰ッ骨をしっかり立てること
つまり、姿勢を正すことだ 姿勢が悪いと雑念ばかり出てきて 本心が出てこないからね
これは 自分が迷ったときに いつでもやってきた 具体的なやり方です
どんな人に相談してもね ギリギリ決着の結論は 自分で出すしかないからです
(相田みつを著「しあわせはいつも」より)
https://sasurau-jun.hatenablog.com/entry/2021/08/19/183344 【私の俳句の原点】より
7月14日のブログで「私の映画の原点」を書いたが、今日は俳句について書いてみたい。
高校2年の時、担任の先生が結婚したので、歳の差のある若い奥さんをみるためにその先生の家に行こうということになった。家と言っても無住法師の「沙石集」のある由緒ある寺(名古屋市東区の長母寺)である。
長母寺と当時のクラスメイト(住職の右2人目が私)
奥さんを見るのが目的であり、とりあえず寺の中へ入ることにした。奥さんがお茶を出してくださり目的は達成したので、あとは矢田川の河川敷でソフトボールをして帰るつもりが、先生の提案により、折角なので一人一句ずつ俳句を作って発表することになった。
句会?(長母寺にて)
今は小学生でも授業で俳句を作るそうだが、季語も知らずその時は春だったので、春を入れてとにかく五七五になることだけを考え、生まれて初めて一句を作った。
春光に森羅万象輝けり
みんな五十歩百歩なので恥ずかしくもなく、他の人の句は忘れたが楽しい思い出である。これをきっかけに「おくのほそ道」を何度も読み返し、その後も俳句には興味を持ち続けているものの、自分にはとても俳句なんて作れるものではないと思い、還暦を迎えるまで作ったことはなかった。
俳句を作るようになった経緯は、また別の機会に書きたい。
https://mainichigahakken.net/hobby/article/post-2021.php 【「3歳で俳句を詠んだことが人生の原点」令和で注目!国文学者・中西進さんインタビュー】より
新元号「令和」は、それまでの元号のように中国の古典からではなく、日本最古の歌集、万葉集からの出典であることが大きな話題となりました。
初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして
気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ
梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き
蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かおら)す。
(梅花の宴、三十二首に先立ち記された大伴旅人の序文の一部)
新元号の考案者と目され、いま大注目を集めているのが、国文学者で万葉集研究の第一人者、中西進さん。90歳の現在も研究に力を注ぎ、講演に飛び回る中西さんに、そのパワーの源について伺いました。
3歳で俳句を詠んだことが、人生の原点
パワーの源と言われても、僕はずっと好きなことをやってきただけ。
ただ、国文学を好きになる環境はあったとは思いますね。
鉄道省に勤めていた父が俳句好きで、よく家庭俳句会をやっていたんですが、僕が3歳で初めて詠んだ句が、
ウメノキニ スズメマイニチ キテトマル
いつだったかこの話を俳人の故・金子兜太さんにしたら、「俳味があるね」と言われました。
和歌なら梅に鶯でしょ。
でも、雀にしたところがいいと。
「高く心を悟りて俗に帰るべし」という芭蕉の言葉がありますが、たった3歳の僕は俗に帰って、花を雀として反逆をしたわけね(笑)。
その空気の中にいると自然と言葉が体に染みてくる。
胎教と同じで、折に触れて俳句をやっていたら、小学6年生の時、大人の句会で最高点を取ってしまった。
いまでも僕はシャイでしょ(笑)、だから、披講(詩歌の会で詩歌を読み上げること)の時、なかなか自分だと名乗れなかったことを覚えています。
道は幾つもあると思えば、ストレスなんてなくなる
――万葉集にも、早くから興味を持っていらしたのですか?
万葉集は中学3年の授業で習いましたが、特に感動した記憶はないんです。
別の意味で素晴らしい経験をしたのが、万葉集の最初の授業でした。
先生が授業の終わりに「質問はないか」だれも手を挙げないから「お前たちやる気はあるのか!」と怒った。
いちばん前の席に座っていた僕は自分が怒られている気になり、手を挙げた。
立ち上がりながら質問を考えたけれど、とうとう思い浮かばず、「万葉集には山部赤人(やまべのあかひと)や高市黒人(たけちのくろひと)など、色の名前がありますが、どういう人でしょう」と、歌には関係ない質問をした。
すると先生が、すぐさま「それは俺も知らない」と言った。
生徒に馬鹿にされると思わず「知らない」と言えたのは、自信があるから。
これは尊敬しましたね。
以後、「知らないは、分かるへの第一歩」が僕のモットーになりました。
万葉集を研究しようと決めたのは大学時代ですが、日々新しいことを発見するのが楽しくて、今日まで続けてきた。赤人は、万葉の時代の日本人の最高の倫理コード、「清く明るく直き心」を持った人のこと。
黒人は夜の神事に仕える人のこと。
これは、のちに調べて立てた僕の考えですが、こういうことが一つひとつ分かっていくと面白いでしょう。
ーー70年以上研究を続けてこられてスランプに陥ったことは?
面白くて続けてきたので、スランプもストレスもまったくなし(笑)。
僕が嫌いなことは強制されること。
戦中は自由のない少年時代を過ごしましたからね。
軍の学校に入る受験写真は、パンツ1枚。戦後でも大学に合格したら、体の全てを調べられた。
いまでは考えられないひどい話です。
戦後間もなく、大学受験の前に虫垂炎にかかり、麻酔もしないまま3カ所もおなかを切られ、1週間後に再手術をして生死の境を彷徨ったこともあります。
元軍医だというその先生は荒っぽくてね。
自分が失敗したことを分かっていたんじゃないかな。
僕が親に意地を張って、「先生。この入院費は、僕がアルバイトして払っていいでしょうか」と言ったら、破顔一笑、「いいでしょう!」と言いましたよ。
病臥してつらい思いをした、目的の上級学校に入れなかった。
起こってしまったことは、考えても仕方がない。
自分の描いていた道が閉ざされたとしても、ほかに幾つも道がある。
そう考えれば、スランプも、ストレスもなくなると思いますね。
ーー1964年に読売文学賞、70年に日本学士院賞を受賞された『万葉集の比較文学的研究』は、日本初の比較文学研究の本です。初めての道を切り開くときのご苦労は?
当時、日本にはまだ比較文学という考え方が一般的ではなかったので、本は賛否両論。
「2つのいすに腰掛けようとすると、間に落ちる」という英語のことわざがあるんですが、「中西は、いすの間に落ちるぞ」と言われたりね。
一方、いいこともあった。
それが、34歳で頂載した読売文学賞。
最年少受賞かなと思って調べたら、三島由紀夫さんが32歳の時に小説部門で受賞をしていた。
でも、研究部門では、いまのところ、まだ僕が最年少受賞です(笑)。
https://www.twcu.ac.jp/100th/event/kouenkai_10.html 【東京女子大学創立100周年記念 特別対話講演 96歳 寂聴さんとともに 瀬戸内 寂聴 VS 黒田 杏子】より
当日の様子を動画にてご覧いただけます。
→「96歳寂聴さんとともに 瀬戸内寂聴 VS 黒田杏子」(YouTube)
2018年9月28日、前日までの不安定な天候を吹き飛ばすかのようなさわやかな秋晴れの日、創立100周年にふさわしい、本学卒業生お二人の対話講演が実現しました。日本の小説・俳句の第一線で活躍中の瀬戸内寂聴さんと黒田杏子さんです。講堂は、多くの卒業生、一般の方々、本学学生や教職員で埋め尽くされました。休憩を挟んで3時間近い長丁場となりましたが、終始お二人の機智に富んだ軽妙なやり取りが繰り広げられました。
対話講演の冒頭、黒田さんは、野間文芸賞を受賞した寂聴さんの小説『場所』に収められている「西荻窪」をメリハリのある声で読み上げながら、寂聴さんが東京女子大学に進学されたきっかけとなるエピソードを紹介されました。徳島の女学校の廊下に貼ってあったポスターの美しいチャペルに心魅かれ、実際にこのキャンパスに足を運んだ時に「鉄柵のようなさりげない門は、半ば開いていて、誘いこむようななつかしい感じがした」そうです。これを聞いたとき、私は、ある新入生が言った「私は、東京女子大学に呼ばれた」という言葉を思い出しました。
対話講演の前半は、寂聴さんの第一句集『ひとり』をテキストとして進められました。「私の俳句の先生」と寂聴さんの言う黒田さんが、85 句から選んだ7つの俳句を通して、作家、俳人、僧侶、社会活動家として生きてきた寂聴さんの96年間の人生を、実に魅力的に紹介されました。「句集『ひとり』は、寂聴さんの人生絵巻である」という黒田さんの言葉どおり、ここには、17文字に込めた思いが織りなす一人の女性の人生が、端的に表れていると思いました。なかでも、私には、「子を捨てしわれに母の日喪のごとく」が心に沁みました。目の前のステージでソファににこにこしながら掛けている寂聴さんの、心の奥深いところに存在し続ける複雑な思いが伝わる一句でした。対話の端々から、寂聴さんと黒田さんの長く深い友情を感じ取るとともに、お二人に共通する「日本語の表現者」としての深い見識を感じました。
後半は、黒田さんの巧みな会話術により、寂聴さんが思いのままに語られる形式で進められました。小説家として源氏物語を訳すことになったきっかけ、円地文子氏や川端康成氏とのエピソードなど貴重なお話を伺うことができました。寂聴さんの僧侶、文人として歩まれた人生の絵巻物に、満席の聴衆全員はただただ引き込まれるばかりでした。
寂聴さんは、お話の中で、「人は褒めて伸ばすのよ。人間褒めると力が出るの。ダメと言われるとダメ。できるだけいいところを探して褒めるの」と、何度かおっしゃいました。これは教育を任とするものにとって大切なご指摘でした。
また、学生時代のことにも触れ、「第2代学長の安井てつ先生が『あなたたちはキャフェテリアでお茶を飲んでみんなとおしゃべりして、それだけでも東京女子大に来たということは幸せなことなのよ』とおっしゃった。それを今日、この講堂に入ったときに思い出しました」と述べられました。そして、講堂に集まった人々に対し、「東京女子大学との縁を大事にしてほしい」と呼び掛けてくださいました。
今回、寂聴さんと黒田さんから発せられた数々の言葉は、創立100周年を迎え、次の100年を歩み始めた本学にとって、大変力強いメッセージとなりました。お二人をはじめとする本学の卒業生が国内外のさまざまな場面で活躍していますが、その原点が本学の学びであることを学長として誇りに思わされました。と同時に、東京女子大学に集う一人ひとりが何かの良き縁で繋がっていることを思い、本学の良き学びを、将来ここに集うであろう未来の学生たちへ繋いでいかなければならないという責任を感じました。
最後になりましたが、この記念特別対話講演を開催するにあたり、東京女子大学同窓会のご協力と、同窓会元副会長の依田勝子様に大変なご尽力をいただきました。末筆ながら厚く御礼申し上げます。
学長 茂里 一紘
瀬戸内 寂聴(せとうち・じゃくちょう)氏
1922年、徳島県生まれ。1943年、東京女子大学国語専攻部卒業。1973年、中尊寺で得度、法名「寂聴」。翌年、京都嵯峨に寂庵を結ぶ。1997年、文化功労者。2006年、文化勲章受章。2018年、第6回星野立子賞、朝日賞受賞。著作に『美は乱調にあり』のほか多数。『源氏物語』現代語訳。小説家としてあまたの賞を受賞。社会活動家としても知られる。
黒田 杏子(くろだ・ももこ)氏
1938年、東京都生まれ。1961年、東京女子大学文学部心理学科卒業。在学中、「白塔句会」で山口青邨に学ぶ。第一句集『木の椅子』で現代俳句女流賞、俳人協会新人賞。第三句集『一木一草』で俳人協会賞。2010年第一回桂信子賞。2011年句集『日光月光』で蛇笏賞受賞。著書に句集のほか『証言・昭和の俳句』(聞き手)など多数。俳誌「藍生」主宰。日本経済新聞俳壇選者。エッセイストとしても知られる。
https://www.youtube.com/watch?v=aYiwyqdp0zw
https://www.youtube.com/watch?v=fMfZKqA9uQM
http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/5729961.html 【ドナルド・キーン先生との出会いと別れ(黒田杏子・キーン誠己往復書簡❷)】より
(11月13日)往復書簡では俳人の黒田杏子さんはドナルド・キーンの死による喪失感と養子のキーン誠己さんが設立した記念財団への想いを託している。
ドナルド・キーンとキーン誠己(キーン画像❶)
いつもふたりで(2014.04 中谷一義撮影)
(第5信~未来への遺産~黒田)
(ドナルド・キーンの死) 2019年2月初めに誤嚥性肺炎で再び入院したドナルド・キーンは、2019年2月24日早朝、96歳で死去した。誠己さんはマスコミ各社の取材に応じ「知り合ってから12年と3カ月。長いようで短く、短いようで長かった。普通の親子以上の、密度の濃い親子でした」と述べた。「お別れの会」は4月10日午後、東京・青山葬儀所で開かれ、冷たい雨の中1500人が参列した。
『キーン先生の「お別れの会」も実に愉しく忘れられない時間。「日本の皆さまに感謝」というメッセージ。一幹のしだれ桜が印象的な祭壇の両側に大型スクリーン。そこに先生憧れのかのプリマドンナ、マリア・カラスの映像と共に永遠の歌声も流れたのでした。紋付袴姿の喪主キーン誠己さんの謝辞に感動しなかった参会者はおられません。コロンビア大学の愛弟子の方々も男性女性、世界中から参列。見事な日本語に圧倒されました』
(記念財団の設立) キーン誠己さんは今年5月、父の業績を顕彰する一般財団法人「ドナルド・キーン記念財団」を設立した。
『記念財団もスタート。その理事に加えていただきました。世界に門戸を開き、自由平等かつ創造的なその活動の場が、キーン先生の神聖な書斎を事務所として出発。この発想が実に素晴らしい。先生の遺された世界は厖大(ぼうだい)。私は先生が独自の眼で蒐められた書画骨董・焼物などの公開をとりわけたのしみにしています。講演をされ、交流を深められた記録が日本中に映像・音声共に保存されているはず。財団としてその全記録をまとめられ、「ドナルド・キーンの日本」(仮題)とでもして公開できたら・・・と希っています』
『日本中で実践されたライブ講演と交流の記録こそ「未来への遺産」であり、私たち日本人にとっての「玉手箱」。英訳をつけられれば「世界遺産」です。日本文化の伝道師ドナルド・キーン先生記念のこの財団の活動に、私は日本中の方々、とりわけ未来を拓く若い方々が心を寄せられ、共に活動してくださることを確信、期待しております』
(第6信~地を這うように~誠己)
『父はもらった手紙、特に作家たちの書簡は大切にしてコロンビア大学の東アジア図書館に寄贈しました。それは1000通近くあり昨秋オリジナルを特別に見せてもらいましたが、谷崎、川端、三島、安部(公房)、司馬(遼太郎)、大江健三郎、小田(実)と目も眩むほどでした。言うまでもなくすべてが手書きで、特に三島からの100通以上の手紙は量も質も圧倒的な迫力でした』
手紙や葉書を書きポストに自ら投函すること、郵便局に行くことも大好きでした。ドナルド・キーンにとっては好き嫌いの対象というよりも日常生活の最重要の行動でもあったようです。誠己さんはいつか「ドナルド・キーンと手紙展」と題して手紙や写真を展示する企画展の開催を思い描いておられるとか。
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ドナルド・キーン・センター柏崎の記念公演に臨むキーン誠己さん(高木治恵撮影 2013.09.29)
『ドナルド・キーン記念財団がささやかながらようやく船出しました。(黒田)先生にも理事になっていただき、父は喜んでいるに違いありません。設立の一番の理由は、遺族として父の思いを直接反映できる組織があるべきと考えたからです。すでにあるコロンビア大学のドナルド・キーン日本文化センターやドナルド・キーン・センター柏崎、東京都北区中央図書館など関連機関と協力し合い、あるべき姿を模索してまいります』
『父は自らの業績を、天才的努力を積み重ねて成し遂げた人でした。きっと私にも地道に地を這うように、できる範囲で皆様の助言や協力のもと、小さくとも愛される財団に育てなさいといっているように思います』
誠己さんは「未来への遺産」、「世界遺産」、「ドナルド・キーンの日本」と夢は大きく『頑張りましょう』と黒田さんへの第6信をしめくくった。『頑張りましょう』は父が時として口にした言葉とか。そして「往復書簡」の最後を『父から発せられるとそこはかとない明るいユーモアが漂っていて大好きでした』との一文で飾った。
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