大洪水後のシュメール文明 ③

http://blog.livedoor.jp/melody87/archives/2525857.html 【大洪水後のシュメール文明】より

アヌとの対談とガルズについて

 地球の数日間に亘(わた)ってアヌとアンツは眠り、6日目にアヌはエンリルらと話をした。エンリルの誓いによって地球人が拭い去られ、再び増殖したこと、新たな金の採掘場と“二輪戦車の場所”、アヌンナキ同士の平和と武力衝突などについて、アヌは知った。

 そして、エンキがガルズの石板について話した。アヌはとても困惑した。「私は、そのような名前の密使を地球に送った覚えなど無い」エンキ、エンリルは困惑し、皆、首を傾げた。「ガルズのおかげで、ジウスドラと生命の種子が守られたのです」とエンキが言った。「ガルズのおかげで、私たちは地球に残ることができたのです。ニビルに戻ったら死ぬことになる、と言われたのです」とエンリルが言った。アヌは訝(いぶか)しげだった。「サイクルがかなり変わるので大混乱を引き起こすが、万能薬(ワイン)で治るのだ!」「では、ガルズは誰の密使だったのですか」と、エンキとエンリルが同時に尋ねた。「誰が地球人を助けることを望み、誰が私たちを地球にとどめたのですか」「“万物の創造主”の代わりにガルズが現れたのだわ」とニンフルサグが頷いた。「地球人の創造も運命付けられていた、と思わざるを得ないわ」しばらくの間、4人は黙っていた。「我々が宿命を定める間ずっと、運命の手がすべての歩みを導いたのだ!」とアヌが言った。「ならば、“万物の創造主”の御意思は明らかだ。地球と地球人にとって、我々は使者に過ぎない。地球は地球人のものであり、我々は彼らを維持し、発展させるように意図されたのだ。それが使命ならば、しかるべき行動を取りましょう!」とエンキが言った。そこで、次のように決定が下された。

a:人類の都市を設置し、その中の神聖な区域にアヌンナキの住まいを造る。

b:ニビルのように王権を確立し、王冠と笏(しゃく)を選ばれた人間に与える。

c:アヌンナキの言葉は彼によって伝えられ、労働と器用さを強化する。

d:司祭職を制定し、アヌンナキを気高い「神」として崇拝させる。

e:秘密の知識を教え、人類に文明を伝授する。

f:4つの区域を造り、3つは人類のため、1つは立ち入り禁止区域とする。

第1の地域(シュメール/エンリル)は昔のエディンであり、エンリルと彼の息子たちが支配する。

第2の地域(エジプト/エンキ)は“2つの峡谷の土地”で、エンキと彼の息子たちが支配する。

第3の地域(インド/イナンナ)は他の2つとは交流せず、隔絶地でイナンナに与えられる。

第4の地域(ティルム=シナイ半島)はアヌンナキだけの神聖な“二輪戦車の場所”の半島とする。

 このアヌとアンツが5日間眠り続けた話から、地球との生物学的周期がかなり異なることが解る。そして、このサイクルの変化は、ワインで治る。だから、ワインは西洋では重要視された。

 また、アダムゥとティアマトの創成、大洪水からの人類の救出の場面に続き、ここでも“万物の創造主”が登場している。アヌンナキは、宇宙創造の“万物の創造主”の御意思=宇宙の法則・宿命こそが唯一すべて、ということを知っているのである。だからこそ、ニビルの神殿で祀っていたわけである。

 そしてここで、人類に文明を伝授することが決定された。人類史では、農業の始まりがBC11000年、新石器時代の始まりがBC7500年、最初の文明開化がBC3800年であり、3600年前後の間隔で人類は段階的な発展を遂げている。ニビルの接近毎に、人類が消化しきれる程度の「知恵」が授けられたからである。シュメール文明開化後は、人類の自然な発展に任せたので、急激な文明の発展は見られない。というよりも、「神々」の助力により築いた文明レベルのものを、人類だけで達成することはなかなか困難だったのである。ジグラットなどを見ても、現在の技術ですら、完璧に建造することが困難なほど高度な「神々」の技術である。

地球のレイライン

 北極点を頂点とする正二十面体を地球に当てはめると、分割線の交点に新旧石器時代の遺跡が存在する。これは宇宙から地球を見た宇宙人でないとできない考え方であり、こういった地図を元に建設位置を決めている。

イナンナへの愛情

 決定が下されると、アヌはマルドゥクのことを尋ねた。「もう一度、彼に会わねばならぬ。ドゥムジとニンギシュジッダをニビルに招いたことで、マルドゥクの憤怒は私自身が招いたのかも知れぬ」とアヌは言った。彼は、マルドゥクへの刑罰を考え直すことを願った。アヌは、マルドゥクが海の向こうの土地にいることをエンリルから聞いた。

 その遠い土地へ行く前に、アヌ夫妻はエディンを視察した。エリドゥで、エンキが“メ”を独り占めしていることを、エンリルは不満として述べた。アヌは、“メ”を分かち合うよう、エンキに言った。

 ウヌグ・キ(ウルク)では、若いアヌンナキが挨拶に参上した。アヌはとりわけ、イナンナが気に入った。そして、その場所と自分たちが地球を視察するために使う船を、イナンナに持参金として与えることを宣言した。イナンナは喜んで、踊り歌い始めた。彼女のアヌへの讃歌は、やがて聖歌として口ずさまれることになった。

 この大神アヌに対するイナンナの讃歌が、後の聖歌となったが、さらに大神アヌの前で歌い踊る様は、岩戸に隠れた(天照)大神の前で歌い踊る天宇受売命(アメノウズメノミコト)の原型である。イナンナは愛と美の女神であるが、歌舞の女神でもある。シッパールが完成した時にも、彼女はアヌの前で歌い踊った。

錫(すず)と青銅の発見

 アヌ夫妻は海の向こうの南米の土地へと向かった。エンキとエンリル、ニヌルタ(アラム・ムル)、イシュクルが同行した。アヌに金の豊富さを印象付けるため、ニヌルタは内部が純金で覆われた住居をそこに建てていた。アヌは、何シャル採っても十分な金があることを確認した。また、ニヌルタは新しい金属がどのように石から抽出されるのか見せた。彼はそれをアナク(錫”すず”)アヌンナキ製、と呼んだ。そして、それを大量の銅と混ぜ合わせることで、強力な金属を考案したことも見せた。湖畔でその金属が採れる巨大な湖を、アヌは“アナクの湖(チチカカ湖)”と命名した。

 いまや、金属精錬はニヌルタが取り仕切っていた。彼が発見した錫(すず)は、ニビルには存在しない、あるいはごく微量しか存

在しないものであった。“アナクの湖”とは、チチカカ湖のことである。チチカカ湖に接するボリビアは、錫(すず)の一大産地である。

 また、錫(すず)と銅の合金は青銅である。これが“青銅の蛇(ネフシュタン)”に繋がる。蛇はヘブライ語でナハシュである。これには2つの別の意味がある。“秘密を知っている、あるいは秘密を解決する彼”という意味と“銅の彼”という意味である。エンキは鉱山で採掘をしており、ブズルとあだ名されていた。これは“秘密を解決する彼”と“金属鉱山の彼”を意味した。つまり、“蛇”はエンキを象徴しているのである。そこに「神々」の中の英雄ニヌルタが考案した青銅を合わせ、“青銅の蛇”という象徴ができたのである。

 ヘブライの民が荒野を40年間さ迷って毒蛇に咬まれた時、モーゼが青銅の蛇を掲げて、それを仰ぎ見た者は救われたという話があるが、その数字40はエンキの王位継承数字である。

■紀元前3760年頃

マルドゥクへの赦しと地球年の開始

 その頃、角がある巨大な獣(マンモス)が追われた地、北の土地から、マルドゥクがナブを連れてエンキとアヌの前に現れた。サルパニトは死んでいた。アヌはマルドゥクを強く抱き寄せた。「お前は十分罰を受けた」とアヌは言い、右手を彼の頭に置き、赦しを与えた。集まった皆は、黄金の場所、山の高地から平地へ降りて行った。そこに、ニヌルタが水平線にまで及ぶ新しい“二輪戦車の場所”を整えていた。アヌとアンツは金を積み込み、そこからニビルへと帰還した。「地球と地球人にどんな運命が意図されようと、為るがままに任せよ!知識に見合った天と地球の秘密を教え、正義の法と道徳的正しさを教え、立ち去るのだ!」と言い残して。

 悲しみに溢れた別れの沈黙を最初に破ったのは、マルドゥクだった。彼の言葉には怒りが込められていた。「この新しい“二輪戦車の場所(ナスカ平原:巨大な地上絵は発着場の目印)”は何なのですか。私の追放後、私の知識無しで何をしたのですか?」エンキが4つの地域についての決定を伝えると、マルドゥクの怒りは頂点に達した。「何故、ドゥムジの死を招いたイナンナに領地が与えられたのだ!」「決議を変えることはできない!」とエンキがマルドゥクに言った。

彼らはそれぞれの“空の船”でエディンと隣接する場所に戻った。トラブルを察したエンリルは、イシュクルに残るよう指示し、監視させた。アヌの訪問を記念して、新しい時間経過の数え方が導入された。ニビルのシャルではなく、地球の年(ねん)によって数えるのである。エンリルに捧げられた牡牛の時代に、地球年のカウントが始まった。

 アヌは地球を運命に任せ、成すべきことを成したら地球から立ち去るように指導者たちに命じたが、つまり現在「神々」は地球にいないということである。

 またマルドゥクはアヌから赦されたのにも関わらず、まったく反省の色が無く、指導者たちを責めるばかりであった。地球年は、BC3760年から始まった。つまり、アヌの最後の公式訪問がBC3760年だった、ということである。

第1の地域(メソポタミア)

 第1の地域のメソポタミアで、泥からレンガを作る方法を教え、都市を築かせた。その中で神聖な区域がアヌンナキに捧げられ、“神殿”と呼ばれるようになった。人類に継承順位が解るように、アヌンナキは数字による階級で讃えられた。ラガシュには、ニヌルタ(アラム・ムル)のための区域“ギルス”が建てられ、彼の“黒い空の鳥”が置かれた。彼の神殿住居は、“50の家”エニンヌと呼ばれた。シッパールにはウツの住居が建てられ、“輝く家”エバッバルと呼ばれた。ウツはそこから正義の法を発布した。シュルバクから近い場所アダブに、ニンフルサグの新しいセンターが造られ、そこにある彼女の住居は“救援と治療知識の家”と呼ばれ、地球人が形作られた方法の“メ”が保管された。ウリムにはナンナルの住居が建てられ、“王座の種子の家”と呼ばれた。イシュクルは山間地に戻り、彼の住居は“7つの嵐の家”と呼ばれた。イナンナはウヌグ・キの、アヌから贈られた家に住んだ。そして、マルドゥクとナブはエリドゥに住んだが、エディンに彼らの住居は無かった。

 こうしてウツは法に関わる。十戒が納められた契約の箱が最大でもウツの王位継承数字20年しか同じ場所に無かった。そして、神宮の御遷宮(ごせんぐう)が20年毎に行われたのも、御神体として契約の箱があったからで、それは太陽神ウツを暗示しているからに他ならない。だから、御遷宮で動くべきは、本来は内宮の御正宮だけなのである。

 内宮はウツの宮だから、転じてウチ=内の宮なのである。そして、宇治橋(うじばし)はウツの橋。そこに秦氏がイエスを重ね、契約の箱の贖(あがな)いの座に本物の十字架が安置された。

 またマルドゥク一派はエディンには住めなかった。イギギ、すなわち、サタンの原型の棟梁なので、エディンから追放された。

ニヌルタ(アラム・ムル)の栄光

 第1の地域のメソポタミアでは、アヌンナキが地球人に知識を教えた。工芸、農業、土木…。繁栄が土地を満たし、キ・エンギ、“威厳ある監視の土地”と呼ばれた。そして、地球人自身の都市を持たせることとなり、キシュ、“笏(しゃく)の都市”と呼ばれ、人類の王権が始まった。そこの聖別した土に、エンリルは“天空のように明るい物体”を埋め込んだ。そして、ニヌルタが最初の王を任命し、“強力な人”という称号を与えた。

 ニヌルタは、王権のための神聖な公式が記録された“メ”をもらうため、正装してエンキの下に赴いた。エンキは彼に50個の“メ”を与えた。キシュでは聖なるニサバが書くことを教え、イナンナ(ニンカシ)がビール作りを教えた。ニヌルタの指導により冶金(やきん)と鍛冶が広まり、車輪の付いた荷馬車が初めて人類により作られた。そして、正義の法と道徳的正しさがキシュに普及した。人々がニヌルタを讃える聖歌を作ったのも、キシュだった。彼の英雄譚(えいゆうたん)、“黒い鳥”を詠唱した。それは、ニヌルタの栄光の時代、射手座の時代だった。その間、イナンナは第三の地域の支配権を心待ちにしていた。

 “天空のように明るい物体”は不明だが、後にそれが王権のある土地の象徴となり、神器としては勾玉となった。よって本物の勾玉だけは皇居にあったのである。

 “強力な人”とは、シュメール王名表に因れば、ジュシュルである。このニヌルタの乗っていた乗り物“黒い鳥”が、太陽神の使いのカラスとなった。神社の御神事で弓が重要なのも、この英雄=軍神の星座が射手座であるからに他ならない。マルドゥク一派を追い払ったから、シンボルの弓は魔を払うのである。

 またニヌルタがエンキから“メ”をもらうために正装して臨んだのが、これが正式参拝の服装の元である。

シュメールの発展

 シュメールの主要都市ウルが、本格的に都市として拡張を始める。文字、法律、農耕、灌漑工事、航海術、天文学などの高度な文明を持ち合わせていた。シュメールは学校を設立し、二院制議会を考案し、法典の編纂を行った。1日24時間、1時間60分、1分60秒などの60進法や、現在世界中で知られている占星術の12星座も使い始めた。旧約聖書やギリシャ神話の洪水の話と箱船の話も、シュメール文学の叙事詩ギルガメッシュが基となっている。また古代文書による不動産販売の一覧には、住民の家の総面積は、70平方メートル以下(42畳程度)であったことが示されている。当時の人口は34,000人ほどだった。またシュメールには人形に魔術をかけて対象者を呪い殺すなど黒魔術などが横行し、それを法律で取り締まる程だった。

シュメール人の神

 メソポタミアの文化には、神の力に対する一般概念がある。それは神の力に対して人は屈服し、仕えなければならないということで、人々の意識をきっちりと固めるため、彼らの宗教は神に仕える者だけに対する宗教だった。いわゆる神に仕える者には食べ物、飲み物など毎日の食事や自分のステータスに合った良い衣類、儀式に関係なくネックレスなどで飾り立てられるなど、人生を円滑に過ごせることを保証した。

 シュメール人にとって、神に祈ることは生活の一部だった。寺院の儀式や維持には、たくさんの神官と使用人を必要とした。そして忠実な人々は毎日のように貢ぎ物をした。都市ウルクの公文書には、重要な4人の神々に捧げる毎日の食事が記述されている。それはパン250斤(きん)、タルト1000個、羊50頭、子羊8頭、牛2頭、子羊1匹などで、神々への捧げものは天の食べ物とされ、それらは1200人の神官および使用人に供給された。そして書記たちはシュメール人の希望を記録した。忠誠心、徳、確立された秩序に対する敬意と引き換えに、シュメール人は次の世界における永遠の命を望んだ。

 また衣服に関して男性は街中ではカウナケスを着ていた。これは羊皮をスカートのように巻き付けるもので、季節や流行によるが腰からひざ、もしくは足首までの長さがあった。高官の妻たちは、カラフルで軽い衣服を着ていた。男性も女性もイヤリング、ブレスレット、ネックレスのような装飾品を身につけていた。現代の考古学者達は城壁都市の中で、金やターコイズの装飾品を複製化した偽物を発見した。人々は本物の装飾品が買えなかった場合、好んで偽物を買い、身につけていた。都市には商人や貿易を仕事にする人々の家があり、筆記者、石工、大工、そして奴隷の家はすべて寺院からほど近い距離にあった。シュメール人の金細工職人は金を彫刻し、はんだ付けする技術に熟達していた。

 またシュメールで契約取引という法律も作られ、貿易はより発達していった。円筒印章には模様が刻まれた彫刻が施され、商品の契約を締結する時は間違いのないように、円筒印章が刻印された粘土が確認される必要があった。粘土に刻印されたマークは取引の印とされた。

 こういったシュメールでは、奴隷や装飾品や仕事等による身分の差や経済的格差は、やがて人々の欲望を増大させていくことになる。

現代の楽器のルーツはシュメール

 アルメニア起源とされている楽器のドゥドゥクはシュメール文明の物であり、現在、トルコ、グルジア、ウクライナ、ブルガリア、ロシアにも分布している。一般にアルメニア圏ではドゥドゥク、アゼルバイジャン圏ではバラバンと呼称され、バラバンはトルコの分楽隊でも使われている。これはダブルリードの木管楽器で、ドゥドゥクは日本の篳篥(ひちりき)や中国の管子(グアンズ)の先祖にあたる管楽器でもあり、使用されている素材を比較すると篳篥は竹管、ドゥドゥクは木管であり、ドゥドゥクのリードは篳篥の約2倍の大きさになっている。篳篥が甲高く鋭い音であるのに対して、ドゥドゥクの音色は非常にまろやかでオーボエにも若干近い音色となっている。

 シュメールから東洋に流れたのが中国の管子(グアンズ)となり、そして中国の唐の時代から日本(400年頃)へ伝わり篳篥(ひちりき)となった。篳篥は8cmくらいの竹の筒で、中が漆で塗られている。またシュメールから西洋に流れ、後に変化した楽器が、オーボエ(1600年代)、ファゴット(1500年代~1800年代)となった。現在のイランを中心に成立していた古代ペルシアでは、ズルナという楽器になった。

各国のボードゲームのルーツはシュメール

 シュメールのウルでは、ウルの盤(Royal Game of Ur)と呼ばれるボードゲームが存在した。これが後にすごろく、将棋、囲碁など、世界各国のボードゲームの起源となる。

 ルールは4個の正四面体のサイコロを使って、「目が出たサイコロの数だけコマを進める」。頂点に白い印があれば1、なければ0、4つ振って判定する。二人がそれぞれ7個のコマを持ち、自分のコマを先にすべてゴールに出したら勝ち。これに加えて、やや複雑なルールが2つある。一つは、「花マークのマス」と「出口のマス」以外のマスには自分のコマを2つは置けない。もう一つは、相手のコマの上に自分のコマが来ると、相手のコマをはじき出すことができる。

・紀元前3500年頃にはウルの盤はエジプトに伝わり、セネトというボードゲームして伝わる。またインドにはチャトランガという名で伝わり、後の将棋やチェスの起源となる。チャトランガには二人制のものと四人制のものとが存在した。

・紀元前770年頃にはシルクロードを通って中国に伝わったものが、囲碁、雙陸(すごろく)、象棋(シャンチー)となった。

・395年以降の東ローマ帝国ではタブラとなった。

・600年代の日本に伝わったものが、盤双六(ばんすごろく)や将棋がと呼ばれた。

・700年代にはタイの将棋として知られるマークルックが、当時のスリランカを通じてドヴァーラヴァティー王国に将棋用の盤上遊戯ボードゲームとして伝えられ、それが現代のマークルックの祖となる。またロシアにはチャトランガから名前が変わったチャトランジが伝えられる。

・800年代には西ヨーロッパへチャトランジが伝わる。

・1600年代にはチャトランジが基となってチェスが生まれ、ヨーロッパ各地で娯楽として普及する。

シュメールは、現代のビールの起源

シュメール人がビールを飲んでいたということについては、紀元前3000年前後の「モニュマン・ブルー」と呼ばれる粘土板の記録が有名である。楔形文字でビール作りの様子が描かれており、これが一般に最古のビール作りの記録として知られている。現代のビール作りの原型は古代エジプトに見ることができるが、シュメールでのビール作りもほぼ同じである。

 まず大麦を水につけてしばらく置く。すると芽が出てきて、いわゆるモヤシができる。これがすなわち麦芽だが、これを乾燥させて粉々にし、表面を硬く、中は生のままに残した半焼けの「バッピル」と呼ばれるパンを焼く。こうして作った麦芽パンを千切って水に漬け、放置しておくことで、自然に発酵してビールができた。このビールを甕(かめ)に入れて、人々はその上澄みをストローで飲んでいた。ストローを使うのはビールの表面に浮いている麦粒をよけるためだった。

 メソポタミアでは、それより以前から穀物栽培が発展していたため、シュメールのビール作りもとても進んでおり、多くの種類のビールが作られていた。また、収穫した穀物の約半分がビールの醸造に使われ、シュメール人は誰でも毎日ビールの配給を受けていた。国民は税金をビールで納めており、労働の報酬もビールが使われていて、生活に欠かせないものとなっていた。さらに紀元前3000年頃にあった第1ウル王朝の福祉制度では、貧困者1人につき1ガロンのビールを与えられることが決められていたという記録も残っている。

 古代シュメールでは「アマゲスティン」や「ニンカシ」と呼ばれるビールの女神が崇められていた。女性たちはビール作りと居酒屋でのビール販売に従事したが、この女性たちは「サブティエム」と呼ばれ、数多くの種類のビールを作っていた。この時代、女性は醸造に関して大きな権限を持っており、当時の詩や祈祷文にも繰り返し描かれている。

 古代メソポタミアでは、ビールの醸造を司る女神を「ニンカシ(イナンナ)」と呼んだ。ニンカシを讃える歌に、次のような一節がある。「ニンカシよ、あなたは樽からビールを注ぐ、チグリス、ユーフラテスの流れのように」これは樽のビールを別の容器へと移し替える様子を歌ったもので紀元前3000年頃、古代メソポタミアのシュメール遺跡より出土した粘土板(モニュマンブルー)に、ビールの醸造法がくさび形文字により記されており、これが”濾過(ろか)”に関する最古の記録と言われている。

 シュメール人は、多くの含蓄のあることわざを残しているが、下記のようなビールに関することわざもある。

He who drinks too much beer must drink water.

(ビールを飲みすぎる者は、水ばかり飲むことになる)。

The road is bad, beer is good.

いやなこと、それは(軍事のための)遠征。楽しいこと、それはビール。

イナンナの奸計(かんけい)

 ニヌルタ(アラム・ムル)が王権を手に入れた様子を見ていたイナンナは、エンキから“メ”を手に入れることを企んだ。彼女は自分の部屋女中ニンシュブルをエンキの下に送り、自分が訪問することを知らせた。これを聞いたエンキは大喜びで、高官イシムドに指示を与えた。

「乙女が一人きりで、我が都エリドゥに歩みを進めている。到着したら私の部屋に案内し、冷たい水を飲ませ、大麦のケーキにバターを添えて出すのだ。甘いワインを用意し、ビールを容器になみなみと注ぐのだ」

 イナンナが到着すると、イシムドが言われたように出迎えた。エンキは彼女に会うと、その美しさに圧倒された。イナンナは宝石で飾り立て、薄いドレスから体の線が透けて見えた。彼女がかがむと、エンキは彼女の外陰部に惚れ惚れした。2人はワインを飲み、ビール飲み競争をした。

「“メ”を見せて、“メ”を私の手に握らせて?」と戯(たわむ)れるようにイナンナはせがんだ。ビール飲み競争をしながら、エンキは7回、“メ”を握らせた。主権と王権、神殿での司祭権と筆記権の神聖な公式、愛の作法のためや交戦のための“メ”を、エンキはイナンナに渡した。音楽と歌のため、木工と金属と貴石(きせき)と、文明化した王国に必要な94の“メ”を、エンキはイナンナに渡した。

 イナンナは戦勝品をしっかりと握り締め、まどろんでいるエンキの下を抜け出した。そして、“空の船”まで急いで行き、舞い上がった。エンキはイシムドから起こされると、イナンナを捕まえるよう、イシムドに命じた。イナンナの住居があるウヌグ・キ(ウルク)に近付いたところで、イナンナの“空の船”はイシムドの乗ったエンキの“空の船”に阻止された。イナンナがエリドゥのエンキの下に連れ戻された時、“メ”は彼女の手元には無く、ニンシュブルが“アヌの家”に持って行った後だった。

 エンキは自分の権力とアヌの名において、“メ”を戻すよう命じ、自分の家に監禁した。これを聞いたエンリルがエリドゥにやって来た。

「私は当然の権利として“メ”を手に入れたの。エンキ自身が、私の手に乗せてくれたのよ!」とイナンナはエンリルに言った。エンキはやむなく、それが事実であることを認めた。

「最初の約束どおり、任期が完了したら、ウヌグ・キ(ウルク)に王権を渡す!」とエンリルは宣言した。

■紀元前3600年

 アヌンナキは、この牡羊座の時代の紀元前3600年頃に地球に戻ってきて長く滞在した時、ニビルの父権制度をもうけた。それは自分たち「男の神」を基本とする世界を造ったのである。シュメールのチグリス・ユーフラテス川流域一帯に数多くの神殿を建て、彼らの言語、文字、神殿都市など、ニビル的な理想にもとづく文化を地球にもたらした。

 そのころエジプトではシリウスの文化が栄えていた。シリウス人は、ナイル川流域に6次元の聖なる幾何学を表現する文化を築いた。紀元前3600年から1600年まで、シリウス人とニビル人はさまざまな科学技術をもたらし、人間たちと協力して想念を実現化していった。彼らは人間の創造性に驚嘆させられていた。

アヌンナキの変装

 アヌンナキは地球を訪れるとき、さまざまな衣装を身にまとう。そうしなければ、人間の目には金属でできた爬虫類ロボットのように映ってしまうのである。彼らはよく鳥の仮面と大きな翼、ときにはかぎ爪までつけている。ワニやカエルや犬の顔をつける場合もある。アヌンナキは爬虫類の生命力と共鳴している。

 ニビル人は金属性の生物である。金属の実在であるアヌンナキは、爬虫類からクンダリーニの電磁的エネルギーを受け取っており、電磁気に基づく装置はすべて傍受できる。

アヌンナキとウラニウム

 ニビル王アヌは人間の次の成長段階は、都市文化だと感じていた。その形態が惑星レベルの意識につながっていくからである。都市文化を発達させるため、アヌの子孫には社会化が必要であった。つまり、それまでに存在した形態とは違うやり方で人間と関わることである。彼はこの段階にある人間を監視するために放射線を利用した。

 アヌのこの部分が、人間の内面における、都市に住み、縄張りを設定し、他人からお金を奪い、他人を支配したり利用したりすることを可能にさせる部分である。これは愛に満ちた共同体意識とか、与えるなどということではない。新しいレベルの複雑さを持つ生き方なので、それは大いなる体験を提供するが、必ずしも愛に満ちた体験になるとは限らないのは知っての通りである。

 アヌは、ニビルの軌道が太陽系を離れているあいだ、人間の成熟と発達の様子を監視し、影響力を及ぼすための装置として、ウラニウムを地中の大変深い場所に埋めた。それを1600年後、シリウス人であるアブラハムが神殿に届けることになる。アヌは先住民たちを指導して神殿/都市文化を築かせた。地球上でウラニウムに関して起こることはすべて、アヌが人間に全面的に接近を可能にしている。

 アヌの頭脳の中には監視装置のようなものもあり、それは人間の状態に波長を合わせられるようにアヌの脳に埋め込まれたインプラントのようなものである。人間がX線やCATスキャンでものを見るように、彼はスキャンしている。

■紀元前3500年頃

 スメル族のグループがメソポタミアでシュメール文明を築いた頃、日本では越の国(富山)を中心(首都)とした東アジア翡翠(ひすい)文化圏が形成されており、北アルプス立山の麓にある尖山(とがりやま:富山県立山町横江)は東アジアの首都の県庁所在地のような役割を果たしていた。

 尖山にはたくさんのラインが通っており、同時刻に鏡を使って太陽光を反射させ、モールス信号のようにそのライン上で光通信をしていた。ただし鏡といっても、新潟県や長野県の姫川で産出されたヒスイを磨き抜いて、鏡のように使った。

■紀元前3380年

バベルの塔

 マルドゥクはこの話を聞き、カンカンになった。「屈辱はもうごめんだ!」とマルドゥクはエンキに怒鳴った。マルドゥクは、エディンにマルドゥクのための神聖な都市をすぐに造るよう、エンリルに要求した。しかし、エンリルは聞く耳を持たなかったので、マルドゥクは宿命を己の手に握った。ウヌグ・キ(ウルク)が選ばれる前にアヌの到着のためにと考えられていた場所へ、ナブはサタンの元となったイギギとその子孫を呼び集めた。そこに、マルドゥクのための神聖な都市、“空の船”のための場所を築くために。

 彼の信奉者はそこに集まったが、建築資材となる石が無かった。マルドゥクは、代わりにレンガを作る方法を教えた。それを使って、頂上が天にも届くバベルの塔を造ろうと目論んだ。

 その計画を阻止するため、エンリルが現場へ急行し、マルドゥクを懐柔しようとした。しかし、エンリルは失敗した。「マルドゥクは許可されていない“天への門”を建てている。彼は地球人にそれを託しているのだ!」とエンリルは息子たちとその子孫に言った。「これが達成されれば、人類にできないことは無くなってしまう。この邪悪な計画は阻止せねばならない」とニヌルタが言い、全員、それに賛成した。

 ニブル・キ(ニップル)からエンリル一族がやって来たのは、夜のことだった。彼らは“空の船”から炎と硫黄を雨のように降らせ、塔と野営地全体を完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめした。その後すぐに、この指導者と信奉者たちを国外に追い散らすことをエンリルは決めた。それにより、彼らの意思疎通を混乱させ、一致団結を砕くために、エンリルは決定した。「今まで、地球人は1つの言語を喋っていた。たが、これ以降、私は彼らの言語を混乱させる!彼らは、お互いの言うことが解らなくなるのだ!」

 地球の年で数えて380年目に、この事件が起きた。エンリルは、それぞれの地域に異なる言語と文字を与え、一方が他方を理解できないようにした。

 ピラミッドから助け出されたマルドゥクはアヌから恩赦されたほどなので、彼が怒ることは間違っていた。しかし、彼は禁断の建物を建てようとした。聖書でいう“バベルの塔”である。聖書では東の方からシンアルの地に移動してきた人々がバベルの塔を建てたことになっている。そして、シンアルの地の王(英雄)はニムロデ(ニムロド)だった。

 “ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナンであった。クシュの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。彼の国は、最初シンアルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。”

 聖書によると、クシュはエジプトの領域だが、そこからニムロデがバベルのあるシンアルの地まで来たことになる。エジプトからこの地にやって来たのは、まさにマルドゥクである。そして、バベルの塔は実質、マルドゥクが建てたに等しいので、英雄ニムロデとはマルドゥクの象徴であると言える。ニムロデとはヘブライ語で“我々は反逆する”を意味しているが、それもマルドゥクであれば筋が通る。

 これに、ニヌルタによって最初に任命されたキシュの王の名が“強力な人”であった、ということも合わせて考えると、クシュはキシュに通じるので、このキシュの王“強力な人”を原型とし、マルドゥクのバベルの塔建造の話を合わせて聖書のニムロデの話が創作されたということである。

 このような“邪悪な建物と行い”を、エンリルとその一族は断固として許せなかった。嵐のようなミサイル攻撃により、塔と野営地全体を完膚なきまでに叩きのめし、言語もバラバラにするとは、よほど腹の虫が収まらなかったのである。これらの異なった言語は、エンリルがエンキに創作させた。インダス文明のサンスクリット語も、エンキが知恵を振り絞って創作したものである。

 言語で言うなら、このシュメールの文法を基に、互いが争わずに保てるように、創造の意識と共鳴するように創作されたのが日本語なのである。よって言霊が重要視されてきた。シュメール語も日本語も膠着語(接こうちゃくご:頭辞や接尾辞のような形態素を付着させることで、その単語の文の中での文法関係を示す)で、共に表音・表意の両方の意味を持っているのがその証拠である。

■紀元前3351年

イナンナの都市への王権移譲

 23人の王がキシュを統治し、408年間、“王権の都市”だった。割り当てられた任期が完了すると、予定通り、王権はウヌグ・キ(ウルク)に移譲され、“天国のように明るい物体”がキシュから移動された。その決定が人々に伝えられると、イナンナに賞賛の聖歌を贈った。

“キラキラとまばゆい“メ”のレディ。正義に適(かな)い、光を纏(まと)った、天国と地球に愛されし者。アヌの愛によって聖別され、敬愛を一身に集め、彼女は7度“メ”を獲得し、手に備えている。それらは王権のティアラに相応しく、高位の司祭職に相応しい。偉大なる“メ”のレディ、彼女はその守護者!”

 地球年の数えが始まって409年後、第1の地域の王権はウヌグ・キ(ウルク)に移された。その最初の王は、エアンナ神殿の高僧で、ウツの息子メシュキアガシェルだった。マルドゥクは“2つの峡谷の土地(エジプト)”へ行った。そして、第2の地域が設置されたら、その支配者になるつもりでいた。

■紀元前3114年

 この頃は、紀元前8239年から紀元前3114年まで続いた地球の第四の大周期の終わりの時期である。この頃から地球人の身長は1.5~2m程になり、寿命は70~80才になっていく。このように寿命が短くなってきているのは、それだけ人類の肉体的、心理的退廃と虚弱化を表している。

■紀元前3113年

ニンギシュジッダの旅立ち

 マルドゥクは長期不在後に“2つの峡谷の土地(エジプト)”に戻ると、支配者としてニンギシュジッダ(トト)がおり、彼は“崇高な神”となっていた。地球人を娶ったアヌンナキの子孫の助けを借りて、彼は国を監督し、かつてマルドゥクが計画したことは撤回されていた。「これはどういうことだ?!」とマルドゥクはニンギシュジッダに迫った。隠しておいたものを破壊したことで、マルドゥクはニンギシュジッダを責めた。ホロン(ホルス)を水の無い場所、砂漠に旅立たせたことについて責めた。「性的快楽も楽しめないような、果てしない場所にだと?!」彼らは大騒ぎを繰り広げ、激しい口喧嘩を始めた。「お前は俺の代理人に過ぎない。お前はずっと俺の居場所を奪ってきた。嫌なら、別の土地へ去れ!」350年間、彼らは言い争い、そのため土地は混乱し、兄弟の間で分割された。

 そして、とうとうエンキがニンギシュジッダに言った。「平和のために、他の土地へ旅立つのだ!」ニンギシュジッダ(トト)は海の向こうのアメリカ大陸の土地へ行くことにし、信奉者の一団と共に旅立った。その時は650地球年だったが、新しい土地で“翼のある蛇”ケツァルコアトルと呼ばれたニンギシュジッダ(トト)は、独自に新しい年数カウントのマヤ文明の暦を始めてしまった。つまり、ニンギシュジッダ(トト)が2012年の冬至で一区切りする暦を作ったのである。

  ニンギシュジッダ(トト)が初期のエジプトで“崇高な神”として崇拝されていたので、ニンギシュジッダ(トト)がピラミッドを双子山から3つにして、更に石棺も入れて“死と復活”を象徴するカバラとした。そのニンギシュジッダがアメリカ大陸へ渡り、ケツァルコアトルとして崇拝された。

 最初はオルメカ文明だった。アフリカの黒人そのものの石像が発掘されている。それが、ニンギシュジッダが連れて行った信奉者である。独自に新しい年数カウントを始めたのは、いわゆるマヤ暦であり、天才科学者ニンギシュジッダ(トト)の創った暦なので、2,012年からの大変動が預言できた。

マヤの計数システムとツォルキン、長期暦

 マヤの計数システムは20進法であり、太陽神ウツの象徴数字20を使ってニンギシュジッダが始めた。一部例外はあるものの、マヤのシステムでは下から上に向かって20倍に増え

ていき、読む時は上から下に読む。数字の表記法としては3タイプあり、点と棒による方法(点が1で棒が5)、それより頻度の低い頭字体、更に頻度の低い全身体がある。

 太陽神の象徴“20”と救世主の象徴“13”を掛け合わせた日数260日を、マヤでは儀式と預言を司る最も重要な暦の単位としてツォルキンと言う。日には次に示すように、1つずつ名前が付けられている。1イミシュ→2イク→3アクバル…というように進んでいく。

 マヤ暦には様々な周期が存在する。

・7日:大地の神の周期。神の数字7。

・9日:夜の王。3×3の三神三界。

・13日:天界の神の周期。救世主は天界にいるということ。

・20日:ウィナル。太陽神ウツ。

・260日:ツォルキン。13×20=救世主×太陽神。

・360日:トゥン。2×9×20。

・364日:計算年。

・365日:ハーブ。

・18980日(52年):カレンダー・ラウンド。52×365、73×260。

・7200日:カトゥン。20×360。

・144000日:バクトゥン。20×7200、20×20×360。選ばれし14 万4千人。

・5125年:13×144000=救世主×選ばれし14万4 千人。

・25626年:5×5125=知恵×救世主×選ばれし14万4千人。地球の歳差運動。

 太陽年の1年である365日が定義されているのに、364日も存在するのはおかしいように思われる。しかし、“364”という数字は実は興味深い。それは、チチェン・イツァーにあるククルカンのピラミッドである。このピラミッドは四方に91段ずつ階段があるジグラットであり、合計364段で計算年の日数と一致する。そして、頂上のプラットフォームを加えて365となり、1ハーブ=1太陽年となる。また、91=7×13=神の数字×救世主の数字(どちらも素数)であり、更に、1~13までの和でもある。

 トランプも、1~13の数字の組が4組ということは、和91が4組と見なせ、それにジョーカーの1枚を加えて、カッバーラ的にこのピラミッドと同じ構造と見なせる。このように、トランプはカッバーラ的要素=魔術的要素を有するので、占いなどに使われるのである。つまり、そのカッバーラの創始者は、ニンギシュジッダと言える。

 さて、中でも特に長期暦と呼ばれているものがあり、それは次の周期である。

・20キン=1ウィナル。(20日)

・18ウィナル=1トゥン。(360日)

・20トゥン=1カトゥン。(7200日)

・20カトゥン=1バクトゥン。(144000日)

・13バクトゥン=1時代。(187万2千日=5125年)

・13バクトゥン5巡で26000年。

 太陽神の象徴“20”と救世主の象徴“13”が係数となっている。

 マヤ暦の基本構造は、5125年の長期暦と260日暦のツォルキンを合わせたものである。それを図に示す。升目(ますめ)1つが1カトゥン(7200日)、縦の1列で1バクトゥン(14万4000日)になる。左端のマヤ文字と升目(ますめ)の数字(点が1で棒が5)で260日暦が表示される。中央の13と1を中心として任意に上下左右対称の長方形を描くと、その四隅の升目の和は常に28となる。四隅のどこかに1(最小数)、13(最大数)、7(1と13の平均)を含むグループの升目(ますめ)に網を掛けると、二重螺旋のようになる。これはまさにDNAの二重螺旋であり、DNAはニンギシュジッダが操作した。つまり、このような仕掛けにより、誰が壮大な暦を作製したのか暗示しているのである。

 13バクトゥンの始点をグレゴリオ暦で換算すると、BC3114年になるという。シュメールでは、地球年はBC3760年から始まったことになっているので、ほぼそれと同時期であり、矛盾しない。

 また、長期暦の終了日は2012年12月21日である。この日(正確には1998年を中心として1980~2016年の36年間)は、天の川に帯状に伸びる暗い部分(マヤ語でシバルバー・ベ、「地下世界への暗い道」の意)と太陽が直列する。

 また、ワニもしくはジャガー(ヒキガエル)の口の中で、太陽が再生すると信じられており、次代の創世の日でもある。マヤ暦では、現在は4アハウのカトゥンであるが、「チラム・バラムの書」によると、この時代にククルカンという神が帰還するという。また、知識を記憶し、それを年代記の中に要約するカトゥンとされている。

 太陽の再生、ククルカンの帰還というのは、まさに救世主の降臨である。そして、これまでの知識を記憶して年代記の中に要約し、新たなる時代への道標とするカトゥンなのである。“年代記”というのも、シュメールに基づいている。ここでは、ニンギシュジッダがククルカンとされている。つまり、ニンギシュジッダ=ククルカン=ケツァルコアトルである。前述のチチェン・イツァーにあるククルカンのピラミッドのカッバーラは、まさしくニンギシュジッダのカッバーラに他ならない。ただし、実際にニンギシュジッダが帰還するのか、イエスが降臨するのか、それは「神」のみぞ知る。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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