Facebook清水 友邦さん投稿記事
地球の磁場は呼吸のようにリズムをもっています。
南極からは螺旋状に正のエネルギーが流れ、北極はそのエネルギーを受け取ります。
約100万年ごとに地球の地磁気の極性は逆転し、岩石にはそれが刻印されています。
そして、岩石の結晶構造の組み合わせと、太陽と月惑星の位置によって、場のエネルギーの増減が起きるようになっている場所があります。
そのような聖地では、無意識の中から深い感情が湧き上がり、強い高揚感とリラックスが起きて、自我の境界が溶けだして自然と一体となる変性意識状態がおきやすくなります。
霊的な力を持った場所というのは、精霊を呼び出したり、メッセージやヴィジョンを受け取ったりするだけでなく、変性意識状態の中で偉大な精霊に偽りの自己を明け渡す、死と再生の場所でもありました。
特別な場所の石を正しく用いれば、霊的な力をあたえてくれる信仰が、世界中にあります。
シャーマンは、聖なる石に額を圧しつけてヴィジョンや夢見を行います。
旧約聖書のヤコブは石を枕に夢を見ました。
すると天国に通じる梯子に神と天使があらわれて、ヤコブに神託をくだしました。
ヤコブは枕にしていた石を記念碑として立て、神の家ベテルと名付けました。(創世記28章)岩石はヴィジョンや夢見を預言者にもたらしたのです。
神が宿る神聖な山の山頂には必ず磐座があります。巫女は磐座で神託をしていました。
石のくぼみに張られた水に思いが映し出される話や、霊が映し出される鏡岩伝説が、各地に伝わっています。
「岩も草木もみなものを言う(草木咸能言語)」時代が、かつての日本にもあったことが日本書紀に出てきます。
古事記神話のイザナギは、この世とあの世の境に千曳岩をたて道を塞ぎました。
そしてイザナミとイザナギは、千曳岩を挟んで会話しました。磐座は死者と生者の間の通信装置の役割を果たしたのです。
アメリカインディアンは、石の一つ一つが霊的な意味を持ち命を持っていると考えていました。
西洋社会で、神に話しかけるのは祈りですが、神がそれに答えて神の声が聞こえてくると、精神病とみなされます。
先住民のシャーマニズムの文化では、逆に精霊からの声を心の耳で聞き取れない者は精神が病んでいると考えます。
精霊は、今も人間に話かけていますが、現代人は病んでしまい自然界の声が聞こえなくなってしまったのです。
縄文の人々が祈りを捧げた時代の聖なる場所には、泉や岩、樹木が茂っているだけで、もともとお堂も鳥居も建ってはいませんでした。
神聖な場所に人工的な建造物はなかったのです。
巫女は、磐座の前で神託をしていましたが、戦いが頻繁に起きるようになるにつれて、男性原理が優位になり、だんだんと神の声は聞こえなくなりました。
そこで、鳥居を立てて結界を張り、鈴や琴を鳴らし、舞を舞って儀式をするようになり、その場所に風雨をしのぐ屋根をつけたのが神社のヤシロの始まりだったのです。
http://www.tochigi-edu.ed.jp/center/bunkazai/1341026.htm 【【根古谷台遺跡】(ねごやだいいせき)】より
●指定年月日 昭和63年5月17日指定 ●所在地宇都宮市上欠町字根古谷台
●アクセス方法
JR宇都宮駅より関東バス楡木車庫又は運転免許センター行き上欠下バス停下車徒歩10分
●公開状況 公開 史跡公園として公開
●所有者又は管理者 宇都宮市 ●公開画像
●文化財概要
本遺跡は、縄文時代前期の大規模な集落跡であり、昭和61・62年、宇都宮市営の霊園墓地建設に先立って発掘調査が実施された。その結果、広場の中心部に339基の墓壙(墓穴)群を配し、その周囲を多数の竪穴住居や長方形大型建物や方形建物、掘立柱建物などの特殊な建物跡群が環状に取り囲むという集落の姿が確認された。中でも15棟検出された長方形大型建物は、本遺跡を特徴付ける建物跡の一つであり、全長が14~24mといづれも長大であること、構造に規格性がみられることなど、この時期のものとしては他に類を見ないものであった。
また、竪穴住居についても長さ8mを越え6本の主柱と多くの炉を持ち、頻繁に建て替えられる非常に大型のものが多数検出されている。方形建物跡は、主柱4本を方形に配置し、外周を溝状に続く隅丸方形の柱穴列がめぐる。長方形大型建物と構造などが類似するが、大きさは通常の竪穴住居に相当する。この建物も長方形大型建物同様に、全国でこれまで発見されたことがなかった。
広場内の数多くの墓壙のうち、重要文化財に指定された石器を検出した7基の墓壙は、当時の個人の状況や埋葬姿勢などが明らかにする上で貴重な資料となっている。本遺跡は墓域周辺に特殊な構造と大きさを持つ建物群を配置しそれを頻繁に建て替えしている。また日常品の出土が少ないことなどから、非日常的な、例えば葬送儀礼などの集団祭祀を行った可能性も考えられる。なお、現在は「うつのみや遺跡の広場」として整備され、4棟の復元住居や資料館が置かれており、多くの見学者で賑わっている。
http://inoues.net/ruins2/nekoya_iseki.html 【根子谷台遺跡 - //邪馬台国大研究//】より
宇都宮へ行った。後数日で東京を離れるので、今の内に東京周辺の遺跡や博物館を廻っておこうと思い、あちこち調べた。
なるべく日帰りで帰れる所を探していたら、宇都宮市にこの遺跡があった。ほかにも大谷遺跡や栃木県博物館もここにあるので、京浜東北線と新幹線を乗り継いでやってきた。
宇都宮市(うつのみやし)は、関東地方の北部、栃木県の中部に位置する都市で、同県の県庁所在地である。旧河内郡池辺郷。
河内郡(河内町、上河内町、上三川町)とともに宇河地区と呼ばれる。現在、この宇河地区内での自治体合併が進められている。人口は約46万人、工業製品出荷額・年間商品販売額ともに栃木県内第2位の小山市を大きく引き離して県内第1位であり、
1996年(平成 8年)4月1日、国から中核市に指定されている。北関東唯一の中核市であり、栃木県はもとより北関東を代表する経済・行政の中心都市である。
根子谷台遺跡宇都宮市上欠町にある縄文時代前期の関東最大級の遺跡。集落の中心にある円形広場からは、約300基の墓穴とその中から多くの副葬品が発見されたほか、長方形の大型建物跡がいくつも発見された。根古谷台遺跡は、霊園墓地造成に先立つ発掘調査で発見されたもので、縄文時代前期の大型建物を含む集落跡である。この集落跡は東西約300m、南北約150mの広がりを持ち、その中央の広場には墓壙(墓穴)と思われる 339の土壙が発見された。このうち7基の土壙から出土した石製耳飾4個、石製丸玉2個、石製小玉5個、石製管玉13個の装身具類と石匙(いしさじ)5個、石鏃3本が指定されている。
これらはいづれも土壙内から出土した。その状態は石製けつ状耳飾りが2個ずつ対になって、また石製丸玉・小玉が石製管玉と共に数個ずつ組み合って、それぞれ2基の土壙から出土するなど、装身具を装着したままの遺体埋葬の実態を示している。
また石器類についても副葬品的な性格が想定できる。石製けつ状耳飾りや石製丸玉などの石器類は、厳選された石材を用い高度な技術によって製作されたもので、ものによっては石製装身具の製作技法の一端を良くあらわしている。墓壙からの出土品が稀な縄文時代にあって、本指定品は、当時の装身具及び副葬品を納める実態を復元する上で重要であるとともに、縄文時代前期の石器の製作技術を良く示しており、極めて重要なものである。
遺跡公園の前に、こじんまりとした円墳があった。ここは縄文から古墳時代、そして現代までも脈々と続く墓域である。
<根古谷台遺跡>(ねごやだいいせき) 国指定史跡 指定年月日 昭63・5・17
所在地 : 宇都宮市上欠町字根古谷台
管理者 : 宇都宮市
時 期 : 縄文時代前期 : 史跡公園として公開
アクセス: JR宇都宮駅より関東バス楡木車庫又は運転免許センター行き上欠下バス停下車徒歩10分
本遺跡は、縄文時代前期の大規模な集落跡であり、昭和61・62年、宇都宮市営の霊園墓地建設に先立って発掘調査が実施された。その結果、広場の中心部に 339基の墓壙(墓穴)群を配し、その周囲を多数の竪穴住居や長方形大型建物や方形建物、掘立柱建物などの特殊な建物跡群が弧状に取り囲むという集落の姿が確認された。中でも15棟検出された長方形大型建物は、本遺跡を特徴付ける建物跡の一つであり、全長が 14~24mといづれも長大であること、構造に規格性がみられることなど、この時期のものとしては他に類を見ないものであった。また竪穴住居についても長さ8mを越え6本の主柱と多くの炉を持ち、頻繁に建て替えられる非常に大型のものが多数検出されている。方形建物跡は、主柱4本を方形に配置し、外周を溝状に続く隅丸方形の柱穴列がめぐる。長方形大型建物と構造などが類似するが、大きさは通常の竪穴住居に相当する。この建物も長方形大型建物同様全国でこれまで発見されたことがなかった。広場内の数多くの墓壙のうち、重要文化財に指定された石器を検出した7基の墓壙からは、当時の個人の状況や埋葬姿勢などが明らかにする上で貴重な資料となっている。本遺跡は墓域周辺に特殊な構造を持と大きさを持つ建物群を配置しそれを頻繁に建て替えしている。また日常品の出土が少ないことなどから、非日常的な、例えば葬送儀礼などの集団祭祀を行った可能性も考えられる。なお、現在は「うつのみや遺跡の広場」として整備され、4棟の復元住居や資料館が置かれており、多くの見学者で賑わっている。
復元された長方形大型建物(下)、と大型竪穴住居(上)。
市の職員とおぼしき人が建物群をチェツクしていた。上の1号大型建物の解説を読んでいたら「古代の日本で一番大きい建物」とあったので、青森の三内丸山とどっちが大きいか質問してみたが、「いゃー、あっちのほうが大きいんじゃないですかねぇ」とはっきりしない。1991年現在日本最大の平面面積を持つ復元建物とあるので、「1991年なら三内丸山の大型建物はもう発見されてますよね。そしたらホンマにこれが一番おおきいんかなぁ。」と追い打ちをかけると、もうかんべんしてくれ、わしゃそんなことは知らんよ、とでもいいたげに、そそくさとどっかへ行ってしまった。どうやら彼は、学芸員の仕事ではなくて、単に建物の具合を調査していただけのようだった。管理室で聞いても、この遺跡のパンフ一つなかったし、これだけ整備するのなら、有料でもCOPYでもいいから、なにか解説資料を置いといて欲しかった。
墓穴があった場所。並べてある石は墓穴があった位置を示す。それぞれの墓穴は盛り土はなく、ただいくつかの石が穴の上に載せられているだけであった。
毎年5月には西側斜面を可憐なニッコウキスゲが埋めつくし、この期間に「キスゲ祭り」も行われている。
「うつのみや遺跡の広場」は宇都宮市の第2墓園(聖山公園)が造成された上欠町の台地上にある。この台地は、以前から古墳時代の遺跡として確認されており、墓園造成にあたって記録保存を目的とした発掘調査が実施(昭和57年~62年)された。しかし、昭和61年に予想もしなかった縄文前期の大集落跡が発見されたため、当初の墓園計画の一部を変更し、同地を「根古谷台遺跡」と称して現状保存されることになった。
昭和62年11月、根古谷台遺跡の恒久的保存を決定するとともに、その積極的な活用を図るために同遺跡の隣接地を含め史跡公園「うつのみや遺跡の広場」として3か年計画で整備された。この遺跡の広場は、キャッチフレーズを「よみがえる太古」とし、その整備の重点は日本最大規模(1号長方形大型建物)を誇る復元建物と、埋葬の諸形態などを展示した資料館の2つとして、平成3年3月開園した。その間、根古谷台遺跡は国の史跡に指定(昭和63年5月17日)されただけでなく、装飾品などの一部の出土品も国の重要文化財に指定(平成2年6月29日)された。
「うつのみや遺跡の広場」
■開園時間 午前9時~午後5時(11 月1日~3月31日 午後4時30分まで)、ただし入園は閉園30分前まで
■休園日 月曜日(この日が休日の場合はその翌日)
祝日の翌日(土・日・祝日の場合は開園)年末・年始(12月29日~1月3日)
■所在地 宇都宮市上欠町151-1
■交通 自家用車=鹿沼ICより約10分
バス=関東バス楡木車庫又は運転免許センター行き「上欠下」バス停留所下車徒歩約10分
■入園料 無料
根子谷台遺跡・資料館
遺跡は「聖山公園」という広大な墓苑のなかにある。武子川と姿川という二つの小さな川に挟まれた丘の上で、東北本線と東北自動車道にはさまれた、宇都宮市のはずれである。墓苑の造成工事のおりに、このエリアの一部にかなり大きな縄文時代の集落の跡地遺跡が発見された。発掘当時の宇都宮市長の声、「墓地はほかに求めることができるが、遺跡はほかにもとめることができない」ということばが、資料館に残されている。資料館は、ここにあった長方形大型建物を模している。
発掘調査の結果、この遺跡の幾つかの特徴が明らかになった。
1.遺跡中央の広場の中心部分を避けてその周囲に多くの墓穴がつくられており、その数は合計339基にも達していること。
2.この墓穴群のある広場のまわりに、広場を囲むように多くの竪穴住居(27棟)や長方形の大型建物(15棟)などが建てられていたこと。長方形大型建物は幅が約10メートル、長さが約24メートル、高さが約9メートルにも達し、遺跡発掘当時では日本最大の縄文建物遺跡といわれたこと。
3.しかも、その長方形大型建物には、そこで生活をしたという痕跡がまったくなく、炉の跡などもないこと。
4.さらに、この大型建物は墓穴のある広場の周囲の決まった位置に長編を広場に向けて建てられており、何回も建て直された形跡があること。
5.また、竪穴住居についても、柱が6本からなる巨大なもので、一つの棟のなかに数多くの炉の跡が発見されている。
このほか、8本の柱が円形に配置されたと考えられる建物跡も発見されている。
この長岡百穴にも行ってみたかったが時間がなかった。この周辺はバスの便が少なくて移動ばかりに時間を費やした。
根古谷台遺跡土壙出土品( ねごやだいいせきどこうしゅつどひん )縄文時代前期 重要文化財(考古資料)
「・抉状耳飾・管玉・丸玉・小玉」 国指定史跡「根古谷台遺跡」から出土。縄文時代前期 宇都宮市教育委員会
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