https://clubnature.naturum.ne.jp/e575046.html 【男体山雑記】より
男体山雑記少し前、奥日光・中禅寺湖菖蒲が浜キャンプ場記事で夕日に染まる男体山の写真を掲載しました。本日は、その男体山についての雑記を少しばかり。
江戸時代に描かれた男体山の表題は「日光山」となっています。じつは江戸当時まで一般的に日光山という呼び名で男体山、女峰山、太郎山の3つをひとまとめに呼んでいたようです。しかし、江戸の後期の享和元年(1801)5月3日の男体山の登山記録には、また別の名称が記されています。
山名は「黒髪山(くろかみやま)」。
登山したのは小野蘭山。彼の著した「遊毛記」に目を通すと“絶頂に古き矢の根、馬具、刀剣の類甚だ多し”と記されています。これを読んだだけでも、それまでの宗教登山としての男体山の姿が浮かび上がってくるようです。この黒髪山という名称は、なぜ黒髪なのか・・・ということがこれまでにも何度か議論されたようで、諸説あります。そのひとつは・・・
“山容が女性の髪を乱した如し”
に見えるからというもの。これが現在有力視される定説なのですが、さて・・・
歴史をさかのぼれば、男体山は仏教伝来後の中世から補陀落山(ふだらくさん)として東国の人々の信仰を集めていた聖域であり、ここに浄土観が結びついた場所で、当然のことながら山岳修験も盛んだった山です。頂に最初に立ったのは、下野の山岳修験者であった勝道上人。山が好きな方であれば、おそらく聞いたことがある名前だと思います。上人は天応2年(782年)の3月に、二度の失敗の後、ついに雪深い男体山の頂を極めるに至りました。上人、48歳のときのことです。
さて、よくよく古地理、風土記などに目をとおせば・・・他の多くの山も複数の名称を持っていることに気付くでしょう。これは山が見えるそれぞれの地域ごとに山を呼び習わしてきたためなのでしょう。たとえば赤城山なども、黒髪山あるいは黒保根山とよばれたりしています。この呼び名の大元は、日本の水神(雷神)である闇淤加美神(くらおかみのかみ)にあります。赤城山が雲を呼び里に雨の恵みをもたらすということから、周囲の農民らがそう呼んで信仰していたからです。
こうした事例は、山だけに(笑)探せばほかにもまだまだ山ほど見つかります。
もちろん、これは川も同様です。複数の地域を流れる河川は、地域ごとに呼び名が変わるのが古くは当たり前です。ですが・・・唯一特異な川があるんです。それは“天竜川”。ここだけは、上流から下流まで、天竜という名称で古代より統一されています。源流である諏訪湖にはよっぽど強大な宗教的・政治的権威を持った統治国家があったことをうかがわせる事例ではないでしょうか。
さて、こうしたことから考えて・・・男体山の別名である”黒髪山”は乱れた女の髪などではなく、日光の里人らが恵みの雨をもたらす聖なる山である故に闇淤加美神(くらおかみのかみ)が転じて「黒髪山」と呼ばれるようになった、としたほうが釈然とします。これはclubNatureの意見です。ところで漢字は、明治時代までは、かなりいい加減で、音を当て字する風に使われるのが茶飯事です。文豪の夏目漱石ですら、たとえばサンマを秋刀魚と記さずに三馬などと音でつづっていたほどです。漢字は近世まで音が合っていれば、それでよし、だったんです。
僕はまだ男体山に登ったことはありません。現在は登山道が整備されているけれど、どうせなら厳冬期の3月の雪深い中を勝道上人の足跡を追って、その並々ならぬ苦労を多少でも偲んでみたい気もします。
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