ルーツを探る

http://tokiwahaiku.blog.fc2.com/blog-entry-119.html 【連歌発祥の地 筑波山吟行】より

 晴天の五月の空の下、連歌発祥の地、筑波山に登って来ました!

なぜ筑波山が連歌発祥の地なのかというと、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と御火焼之老人(みひたきのおきな 稚き童という説も)がお互いに詠み合った最初の問答形式の連歌に詠み込まれたのが筑波山だったからです。

にいばりつくばをすぎていくよかねつる 日本武尊

 (新治、筑波を過ぎてから幾夜旅寝をしたことだろう)

かがなべてよにはここのよひにはとをかを 御火焼之老人

 (日数を数えると九泊十日でございます)

 最古の連歌撰集の書名は『菟玖波集』(二条良基編)です。また、和歌を「敷島の道」というのに対して、連歌を「筑波の道」と言います。芭蕉も『鹿島紀行』で、「和歌なくばあるべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。」(筑波山は、和歌や句を詠まないで通り過ぎるべきではない。まことに愛すべき山の姿であることだよ。)と筑波山のことを特別な山として扱っています。

 俳句のルーツをたどると、和歌→連歌→俳諧の連歌→俳句となります。筑波山は日本百名山の中では最も低い山ですが、韻文学史においては由緒ある誇るべき存在ですね。というわけで、俳句を嗜む私たちも、ぜひ筑波山に登って句を作ってみようということで、山頂目指すことになりました。

 まずは筑波山神社にお参りしました。筑波山神社は筑波山を御神体にしている神社でいつ頃創建されたのかもわからないくらい古い神社です。境内にはがまの油売りのおじさんがいたので声をかけましたが、「今日はもう終わり」と、去って行ってしまいました・・・。

 ケーブルカーに登って山頂近くまで行きました。色あざやかな山つつじが咲いていて、私たちの目を楽しませてくれました。

 この日はとても暑い日でしたが、山の上の木陰は涼しくてとても気持ちよかったです。

 昼食を食べて、女体山山頂を目指して出発しました!徒歩15分の登山道です。散歩する程度に考えていましたが、山の斜面はきつくて、麓から登らなくて本当に良かったと思いました。

 山頂の景色は最高でした!文明の力を借りて連歌発祥の地、制覇!!

 山を下ってからは少し買い物をして、「連歌発祥の地」と記された石碑を見に行きました。

 それから、芭蕉の弟子の服部嵐雪が詠んだ「雪は申さずまずむらさきのつくば山」の句碑を見学しました。側面に「是より山上」と刻まれた石です。天明二年(1782)に建てられました。

 俳句の意味は、「雪の富士山が美しいのはいうまでもないが、紫に霞みたなびく筑波山はまずもって格別な美しさだよ。」といった感じでしょうか。石碑の裏には「古叟嵐雪此山頭に紫の一字を得たるは、芙蓉峯(富士山)の雪にむかふておもひおこせし言の葉なるをや。(老翁嵐雪が筑波山に紫の一字を着想したのは、富士山の雪に対して想起した言葉であるということだ。)」と書いてありました。

 この碑文によれば、「西の富士」に対する「東の筑波山」として詠んだようです。そしてこの嵐雪の句がもとになって、筑波山を「紫の山」、「紫峰」とも言うようになったそうです。「筑波山=むらさきの山」という別名は、芭蕉の『鹿島紀行』に由来する由緒正しい呼称として、現代の茨城県人たちがもっと自慢してよいことではないでしょうか。

 石碑の文を考えたのは大島蓼太(1718~1787)という江戸の俳諧の先生です。蓼太は「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の句を作った人です。句碑建立に協力したのは龍ヶ崎の杉野翠兄(1754~1813)という人で、蓼太のお弟子さんです。翠兄は小林一茶とも交流のあった人で、たくさんの弟子を抱える俳諧の先生でもありました。

 しばらく石を見ていたら、もう日が西に傾きかけていました。強い西日によってくっきりと浮き彫りになった文字を見ながら、かつて筑波山に因んだ句を詠んだり、ここに石を建てたりした人たちのことを想像しました。

 過去の俳人たちについて思いを馳せる「時間の旅」が経験できて、とても楽しい筑波山吟行でした!


https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_61.html 【連歌と俳諧と連句

第61巻 連歌集/俳諧集より】より

連歌

連歌は、長句(五七五)と短句(七七)との連続から成る韻文の一形態である。原則として二人以上で行ない、相互に創作と鑑賞とを即興的にくり返し、付き進めてゆく共同制作の文芸、つまり座の文芸であり、これには古く長い伝統がある。『日本書紀』に登場する日本武尊やまとたけるのみことと秉燭人ひともしびととの唱和や、『万葉集』巻八の尼と家持との唱和から端を発すると述べる説もある。前者は五七七と五七七の片歌による問答で、両方合わせて旋頭歌になる。また後者は二人で一首の和歌となる。連歌のことを「筑波の道」と称するのは、この『日本書紀』の「新治筑波にひはりつくばを過ぎて……」の問答によっている。後者のように二人で一首の歌をかけ合いのようにして即興的に唱和したものを単連歌というが、平安時代後期にはそれが盛んになり、さらに三句以上付け連ねてゆく鎖連歌(長連歌)へと進んでゆく。

 こうした鎖連歌が、鎌倉時代十三世紀初め頃には百句続ける百韻の形式に定着してゆき、以後南北朝・室町時代・江戸時代を通して連歌といえば、この百韻の形式が通例のものとなった。

 座の文芸である連歌には一定のルールがあり、それを式目という。また一座にはそれを統括する人物がおり、それを宗匠という。宗匠は連歌に熟達したベテランである。その宗匠を補佐し連歌の進行に気を配り、連歌を記録する者が執筆である。また一座の人々は連衆といっている。

 百韻の場合では、二つ折りにした懐紙を四枚用いる。初折しよおりの懐紙の表に八句、裏に十四句、二折にのおり・三折さんのおりの懐紙にはそれぞれ表に十四句、裏に十四句、名残折なごりのおりの懐紙の表に十四句、裏に八句を記し、初折の巻初には、張行ちようぎよう年月日や場所や賦物ふしものを書く。賦物は、もともとは百韻すべての句に詠み込むものだったが、後には発句のみに「賦何人連歌」、「賦山何連歌」などと記し、発句の中から一字をとって「何」に当てはめ、名称とした。

 連歌で一番はじめの句を発句という。発句は五七五の長句で、季語を詠みこみ切字を入れることが必要だが、何よりも百韻一巻を率いる重要なものだから、一句が独立した風格を持ち、余意余情が豊かなことが求められた。また一座の主賓が詠むことが多い。脇句は発句をついで七七の短句で、発句に打ち添えるように付け、体言止めが多い。脇は会を催した亭主が付けることが多い。第三は五七五の長句で発句と脇の世界を転じてゆくのがよいとされ、宗匠が詠み、以下連衆が順に詠んでゆき、一順した後は、出勝ちで付けてゆく。最後の句は挙句あげく(揚句)といい、その挙句のあとに句上くあげといって連衆名と句数を誌すことが多い。これが百韻一巻の構成である。

 ところで連歌のルールである式目には、指合さしあい・去嫌さりきらいなどのきまりがある。指合は式目の規定に違反している場合をいう。たとえば百韻に一句しか詠んではいけない鶯を二句詠んだりする場合である。また去嫌は連歌における詞と詞が指合にならぬように、同季や同字、あるいは類似した詞などが近づくのを去り嫌う規定である。

 連歌では月や花を詠みこむが、百韻では四花七月(八月)といい、花は各懐紙に一句ずつ、月は各折に一句ずつ詠まれる。また春・秋の句は三句から五句続けてよく、夏・冬の句は一句ないし二句を限度とする。季のない句は雑の句といい、適宜季の間に詠み、恋の句なども詠んで変化をもたせる。その他、光物ひかりもの・夜分やぶん・聳物そびきもの・降物ふりもの・山類さんるい・水辺すいへん・居所きよしよ・衣裳いしよう・植物うえもの・動物うごきもの・人倫じんりん・旅・名所・述懐じゆつかい・神祇じんぎ・釈教しやつきようなど多くの素材がつぎつぎに詠みこまれ、付合(前句と付句との関係)はたえず変化してゆく。はじめから一貫したテーマなどはなく、即興で予期せぬ付合が連続してゆくのである。

 連歌は鎌倉時代以降、南北朝の時代の救済きゆうせいや良基よしもと、さらに室町初期の七賢時代を経て、応仁の乱(一四六七~七七)後に活躍する宗祇そうぎによって大きく高度なものとして完成される。それは座の文芸でありながら和歌の世界にきわめて近い、抒情に富んだ幽玄の境地を示したものであった。たとえば、宗祇とその門下肖柏しようはく・宗長そうちようとの三吟による『水無瀬三吟百韻』(長享二年〈一四八八〉成立)などその純正連歌の典型と思われる。

 もっとも連歌は、このような高度なものばかりではなくきわめて庶民的なものでもあった。狂言『箕潜みかずき』『盗人ぬすびと連歌』『連歌毘沙門びしやもん』に登場する連歌好きの庶民たちの作品は、宗祇らのものとはよほど異なったものであったろう。連歌はそうした庶民たちをもまきこんで、国民的支持を得て隆盛したことは事実である。その後安土桃山時代にいたり紹巴じようはらのめざましい活躍をみるが、江戸時代には俳諧におされて形骸化してゆく。

 ところで連歌は現代でも行なわれている。九州の今井須佐すさ神社と大阪平野杭全くまた神社などのものがそれである。とくに唯一の連歌会所が現存する杭全神社では、昭和六十二年春研究者が中心となって連歌が再興され、現在に及んでいる。まず浜千代清宗匠の「平野連歌八則」を示してみよう。一、法楽の連歌を宗とすること。一、歌仙、世吉よよしのほか百韻もありたきこと。一、雅馴なる表現を基本とし、漢語・外来語もこれによって取捨あるべきこと。一、脇体言留、第三て留のこと。一、花は折に一、

但し、名残折は揚

句の前を定座とす

 月は面に一、

但し、名残折裏

はなくともよし

。一、同語五句去り、同季七句去りのこと。一、のの字、体言止め連続に配慮あるべきこと。一、春、秋、恋は三句を基準とすること、

但し、恋は二

句にてもよし

。以上八箇条だが、このうち歌仙は三十六句、世吉は四十四句で、後者は百韻のうち初折と名折の懐紙二枚を用いる形式である。現在杭全神社では世吉がもっとも多く作られている。三番目に示される「雅馴なる表現云々」は、連歌の特色で、風雅な和歌的世界の雅語があくまで重要視され、そこに現在行なわれている連句(後述)との極端な違いがある。具体的に「平成四年六月三十日」に張行された「賦朝何連歌」の十句までを示してみよう(杭全神社編『平野法楽連歌』和泉書院)。

かしこみてくぐる茅の輪の匂ひかな 紅夢

 風すがすがし梅雨のあとさき    正謹

立つ虹は峰を片へに彩なして    淑子

 入日ながむる内海の宿      隆志

大楠をねぐらの雀鎮まりし      佳

 落葉踏みしめ歩くつれづれ     勲

月見んとまだきに出でし路遥か   裕雄

 雁渡り来る空の深さよ       裕子

吹く風を秋と定めし人憶ふ     忠夫

 なほなほ書の尽くることなく    清

引用例からでも、現代の優美な連歌の世界が十分に堪能できよう。

俳諧

俳諧はいかい(「誹諧」とも書く)の語義は、中国の古辞書に「俳ハ戯ケ也、諧ハ和ハ也」とあり、「戯れ和する」意である。平安末期の藤原清輔きよすけは、歌学書『奥義抄』で俳諧の本質を即興性や機知性に求め、反正統・非理を重んじ、それを逆手にとって真実に迫ろうとする文芸だとした。そうした考えは江戸時代にいたっても引き継がれている。

 ところで「俳諧」は、もともと「俳諧之連歌」の略称で、滑稽な連歌を意味している。連歌が純正になるに及んでその反措定として、法式もゆるめた俗なる「俳諧」が起ってくる。俳諧は、延文二年(一三五七)に完成をみた最初の連歌の准勅撰集『菟玖波つくば集』の「雑体連歌」の中に「俳諧」の部立があり、そのころから見られたものであろう。その俳諧が連歌から独立したジャンルになってくるのは十五世紀に入ってからで、俳諧の撰集として現在確認できるもっとも古いものは、明応八年(一四九九)成立の『竹馬狂吟集ちくばきようぎんしゆう』である。『竹馬狂吟集』は四季の発句と付合の部から成るが、縁語や掛詞を用い、卑猥な笑いや、おおらかな滑稽が中心をなしている。これよりほぼ四十年後の成立と思われる宗鑑編の『犬筑波いぬつくば集』(『誹諧連歌抄』ともいう)や、あるいは天文九年(一五四〇)成立の、伊勢の神官守武の俳諧の千句形式をはじめて確立させた『守武千句』なども、同様に室町時代のおおらかな笑いの精神にあふれている。

 俳諧は江戸時代に入ると、貞徳の指導による貞門時代を迎えるが、貞門時代には主として前句の事物(俳言)から、それに対応する事物(俳言)で応じて付ける「物付」の技法が中心となる。ついで宗因を中心とする談林時代には、前句の句意に応じて付句を付けてゆく「心付」の技法が多く用いられた。こうした俳諧の付方を、さらに前句から余情を感得して、余情で応ずるいわゆる「にほひ付」の技法によって高めたのが芭蕉である。貞門や談林の俳諧は、あくまでことばによる遊び、遊戯性を重視した。そうした言語遊戯的な俳諧を、和歌や連歌の高度な抒情性の豊かなものにまで高めたのが、芭蕉をはじめとする蕉門の人々である。もちろん俳諧では連歌とちがって日常卑近な用語や漢語、あるいは諺語など自由に用いている。そうした庶民的な素材を用いつつも、きわめて象徴的な完成度の高い韻文として、芭蕉らは俳諧を高めていったのである。

 ところで、貞門や談林の時代には、連歌時代と同じく百韻の形式が用いられた。それが芭蕉の時代になると三十六句連ねる歌仙の形式が一般化した。

 歌仙では懐紙二枚を用いる。初折の懐紙には表六句、裏に十二句書き、二枚目の名残の懐紙には表に十二句、裏に六句書くのを定法としている。発句・脇・第三はほとんど連歌の場合と変わらないが、賦物ふしものは普通には用いない。俳諧では月や花の句は出す場所が定められ、これを月花の定座じようざという。歌仙では二花三月で、初折の表五句目に月、裏八句目に月、同じく十一句目に花を出し、名残の折では表十一句目に月、裏五句目に花を詠みこむ。季を詠むのは連歌とほとんど同じだが、恋の句は蕉門ではかなり重視されている。俳諧の基本となるのは、連歌と同じ長短の前句と付句との関係で、次なる三句目は前々句(打越)とは全く関係がなく、すぐ前の付句に応じ二句を一つの結合単位として、次々に展開してゆく。はじめはおだやかに中頃は波瀾・曲節をもたせ、後半は軽快にさらりと終わる。いわゆる序・破・急の呼吸が求められる。俳諧のおもしろさは、連歌と同じく即興で予期せぬ出来ごとが連続することで、それを芭蕉は「たとえば歌仙は三十六歩也なり。一歩もあとへ帰る心なし。行ゆくにしたがひ、心の改あらたまるはただ先へ行心なればなり」(『三冊子』)と明解に述べている。

連句

連句という名称は、江戸時代にも発句と区別するために使われていた。しかし江戸時代には、俳諧之連歌つまり俳諧が一般的な用語であった。その俳諧は、明治二十年代になって正岡子規の革新運動により発句が俳句と称され、それにつれて俳諧も連句という用語が一般化した。それゆえ連句は、江戸時代以来の「俳諧」と、それに明治以後現代につづく「連句」とを含みこんだ名称となった。それに対し連歌はあくまで連歌であって、連句ということはまずない。

 連句は江戸時代では百韻・五十韻・世吉・歌仙などの形式があったが、現代のものでは歌仙がスタンダードで、さらに短い形式の胡蝶(二十四句・一花二月)、ソネット(十四句・一花一月)・居待(十八句・一花二月)・二十韻(二十句・一花二月)・蜉蝣かげろうダブルソネット(二十八句・二花二月)などの短い種々の形式のものが試みられている。現代の連句から『浅酌歌仙』(石川淳・丸谷才一・杉本秀太郎・大岡信作、集英社)から十句、『おしゃべり連句講座』(矢崎藍、日本放送出版協会)からソネットのうち八句を例示してみよう。

岩かげに魚が澄みゐる紅葉かな  信

 笛をやめればすだく蟲の音    夷齋

一〇對〇以後は球場の月見にて 玩亭

 またも三里に灸すゑるべく   秀太郎

早立ちに關の手形を忘れたり    夷

 みぞれになつて痛む空き腹    信

一つ家に鎌とぐ音のおそろしく   秀

 米粒ほどの蚤に驚く       玩

金庫には後生だいじの血統書    信

 毛なみを撫でる指のしなやか   夷

ここには、文人が集まって一夕の歓をつくすといった清澄な世界が現代的な意識のもとに表現されているが、それは、先に示した杭全神社の伝統的な風雅をめざす連歌とは明らかに異なった世界のものだろう。

初しぐれ猿も小蓑をほしげなり     芭蕉

 くしゃみひとつを落とす杉谷       藍

ピクニックおべんとひろげる人もいて  知里

 ファーストキッスきょうはあげよう    ときよ

麻の葉の赤い帯しめちとおきやん    敏女

 青いギヤマンすかす月光        里

ノンポリも革マルもいま五十過ぎ     と

 終身雇用揺れて崩れて         女

芭蕉の発句で脇起しをしたものだが、まさに自由自在で、現代の風俗の色こい反映がみられよう。談林の総帥そうすい宗因も「古風・当風・中昔、上手は上手、下手は下手、いづれを是ゼと弁わきまへず、すいた事してあそぶにはしかじ。夢幻ユメマボロシの戯言ケゲン也なり」(『阿蘭陀丸二番船』)といっている。けだし至言しげんというべきであろう。 (雲英 末雄)


https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/3692518【海退や海進、鬼界カルデラ大噴火を生き残った逞しい縄文人】

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/36900684 【縄文遺跡と シュメール文明】

https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/36896660  【日本人のルーツと超古代文明】

https://kz-pe.com/japanese_origin/ 【日本人の起源:日本語とヘブライ語の類似性】より

日本語とヘブライ語

はじめに

オランダに旅行したときに、オランダ人は普通にドイツ語や英語やフランス語など複数の言葉を話す人が多いことにびっくりした。聞くとまあ似ているからねという。確かに、スペイン人とフランス人とイタリア人はそれぞれが自国の言葉で会話してもある程度は理解しあえるらしい。しかし、日本人は近隣の韓国人や中国人とそれぞれの言葉で会話しても全くのチンプンカンプンだ。なぜだろうと不思議に感じた。最近、大野晋著の日本語の期限を読むと、ここではタミル語との類似性を示している。トルコ語とも似ているような話がある。不思議だ。

杉原千畝の美談

2017年の夏にバルト三国を旅して、杉原千畝の記念館も訪問した。何千人というユダヤ人にビザを発行した美談は有名だろう。杉原千畝は本国から反対されても、人道的見地からビザを発行した。それも嘘ではない。でも、本当に日本国がユダヤ人を助けようとしなければ、彼らは日本には入国できなかっただろうし、入国しても、ドイツ国との同盟を重視すれば即監獄行きになったかもしれない。もしくは、文字通り2週間で出国を要請したらユダヤ人はどうしただろう。日本人とユダヤ人の間にはもっと深いところでの繋がりがあるような思いが強くなった。

日露戦争とユダヤ人

話は少し横道にそれるが、日本は日露戦争でロシアを負かした。しかし、日露戦争に勝利するには莫大な戦費調達が必要だった。そして、その資金調達を命じられた高橋是清は当時の2億ドルの資金調達に成功し、その軍資金で日本はロシアに勝つことができた。その軍資金を提供したのはジェイコブ・シフーというユダヤ系の資本家だ(出典)。なぜ、シフーは日本に莫大な資金を提供したのか?それは、ロシアがユダヤ人を迫害したからだ。日本がロシアの暴挙に立ち上がるのであれば、それを後押しすることでユダヤ人が助かると考えたという。日本の快挙の裏にはユダヤ人との繋がりがあった。

ヘブライ語とは

古代ヘブライ語で書かれた最古の書物は聖書(いわゆる旧約聖書)である。一方、現代ヘブライ語は、1800年の時を経て復活したイスラエルの公用語としてのヘブライ語である。また、ヘブライ語は「ヘブライ文字」を持っている。22のアレフベートという子音だ。ヘブライ文字は基本的に子音で記載し、母音は省略するという。例えて言えばNHNGと書いてNIHONGOと読むようなものだ。ただし、母音もあり、日本語と同じく5つだ。下は、ヘブライ語の子音と母音を日本語に対応した図表だ(出典)。ヘブライ文字が日本語のカタカナと妙に一致していると指摘されている。

ヘブライ語と日本語の類似性

日本語で日常的に使われている言葉でも、その語源がよく分からない言葉がある。次の表は、ヘブライ語と日本語の類似性を示すものだ(出典)。ちょっとこじつけではないかと思うものもあるが、これほど多くの類似性をこじつけだけでは説明できない気がする。はっけよい、のこった、ありがとう、すけべい、ぐる、わるなど日常口語で使う言葉などいっぱいありすぎて怖い。

君が代の俗説

君が代は日本の国歌である。2020年の東京オリンピック・パラリンピックでも君が代が斉唱されることが期待される。でも、そんな君が代の歌詞に違和感を感じたことはないでしょうか?「日本国の国歌。「天皇の治世」を奉祝する歌であり、「祝福を受ける人の寿命」を歌う和歌を元にしている。」という説明がある。その通りだと思う。下の図は、君が代の歌詞をヘブライ語と考えた時の意味だという(出典)。これもこじつけなのだろうか。

まとめ

先に、日本人の祖先はブリヤート人かと書いた(ブログ)。日本人の祖先は多くの外来人だったのだろう。でも、その歴史観を持つと、日本人とヘブライ人の奇妙な一致も何か意味があるような気もする。日本の歴史と世界の歴史は一連のものだろう。遺伝子の研究が進んでいて古代イスラエルと縄文人のDNAの類似性なども研究されるだろう。また、工学が進歩すれば、正確な歴史の事実があきらかになっていくと期待する。


https://kz-pe.com/origin-3/ 【縄文人がシュメール人で十支族の末裔が日本に戻ったのか。言語は左脳と右脳の機能分化によるものか。】より

はじめに

これまで一年以上ブログで投稿していて、もやもや感のあるのがシュメール人と日本人の関係と、なぜホモサピエンスだけが言語を操って高度な文化を築くことができたのかという点だ。この2つはまだまだ結論は出ていないが、個人的な仮説の範囲だけど、文字として記録しておきたいと思う。

仮説1-1:縄文人が中東に逃げたのがシュメール人ではないか。

参考1:鬼界カルデラの大噴火が7300年前に起きる(出典)。

参考2:シュメールは紀元前5500年から4000年の間突如発生(出典)

参考3:紀元前5500年から4500年の線帯文土器文化(Linear Pottery culture:LBK)(出典)

参考4:スリランカのシンハラ語と日本語の類似性(出典)

仮説:今から7300年前に発生した鬼界カルデラの大噴火を受けて、当時の縄文人は船で生き残りをかけて逃避したのではないか。あるグループは西に向かい中国の揚子江周辺に逃れたのではないか。そして、さらに西に向かいスリランカなどを経由して、メソポタミアン地方にシュメール人として移住したのではないか(参考)。

今後:シュメール人は実は縄文人ではないかという考え方は珍しいものではない。しかし、これが本当なのかどうかを言語の面、土器の面、DNAの面、文化の面から総合的に調べてみることはできないものか。

仮説1-2:シュメール人の末裔がイスラエルの十支族ではないか。

参考1:シュメール人はメソポタミアンの地で平和な世界を築き、シュメール人による支配は紀元前2004年にバビロニア人が支配するまでの2,000年弱の間続いた。ウバイド族と呼ばれる初期の人々は、農耕や牧畜、織物の作成、大工や陶器の製作、さらにはビールを楽しむなど、文明の発展に大きく貢献した(出典)。

参考2:アブラハムはメソポタミアの都市国家ウルで生まれ、母はシュメール人であった。メソポタミアでは遊牧民をヘブル人(ヒブル人)と言っていた。後にユダヤ人がヘブル人(ヘブライ人)と呼ばれるようになる(出典)。

参考3:ユダヤ人はイサクの子ヤコブを共通の祖先としてイスラエル12部族が派生した。アブラハムを父として崇めた(出典)。

仮説:メソポタミアンの地を新天地としてシュメール文明が花開いたが、紀元前2004年にはバビロニア人に征服される。シュメール人の末裔であるアブラハムはヘブライ人につながる。迫害を逃れた十支族はさまざまな国に移動するが、あるグループはかつての故郷である黄金の国ジバングを目指したのではないか。

(出典:歴ログ)

仮説1-3:中国の方士として日本に向けて移動したのではないか

参考1:失われたイスラエル10部族は東の国を目指す(出典)。

参考2:前漢を建国した劉邦(247-195BC)の孫である劉安が任地の寿春に封じられ、多くの方士に恵まれた。方士とは、戦国時代末期から神仙を説いた道教成立以前からの道を説く集団で大きな影響力を時代の権力者に及ぼした(出典)

参考3:中国で方士として活躍した人たちは十支族の末裔であり、八福神に繋がっているのではないか。例えば、大黒天や毘沙門天はインドから中国を経て来日した。中国からは福禄寿、大きなお腹で袋を背負った布袋、白ひげの寿老人や弁財天が渡来した。これにイザナギ・イザナミの子とも言われる恵比寿が代表的な七福神であり、弁財天と同様に女神様である吉祥天を含めて八福神(出典)。

仮説:古代イスラエルでも権力闘争に嫌気した十支族は各地に散らばったが、ある集団はかつての故郷である黄金の国地ジバングを目指したのではないか。インド経由や中国経由で各地の権力者を支援しなが地盤を固めつつ、目的地である日本を目指したのではないか。特に中国では方士と呼ばれる集団がいたが、これが十支族の末裔ではないか。また、中国から日本に渡った七福神の神様は実はこの方士ではないのか。

仮説2:右脳と左脳の機能文化が言語を生み出しのではないか。

参考1:現代の人間(ホモサピエンス)は右脳と左脳が機能を分化している(出典)。

参考2:高度な知能をもつイルカは機能文化ではなく、右脳と左脳が交互に眠る負荷分散の構造だ(出典)。

参考3:ニホンザルやチンパンジーでは右脳と左脳で機能の違いは見つかっていない(出典)。

参考4:ホモサピエンスよりも大きな脳を持つネアンデルタール人は、集団内の秩序を保つために、毛づくろいする、笑う、歌うといった方法がとられた(出典)。

参考5:ネアンデルタール人はある程度の言葉は話せただろう。目の前で起きている現在のことは話せても、過去のことや現実には起きていない仮定のことなど、抽象的なことは話せなかっただろう(出典)。

仮説:ホモサピエンスとネアンデルタールの最大の違いは右脳と左脳の役割分担だったのではないか。つまり、ネアンデルタール人までは負荷分散で左脳と右脳に機能の分化がないが、ホモサピエンスは右脳はイメージ、左脳は論理や言語という機能分化があり、その結果右脳と左脳の間の意思疎通のために言語が必要となったのではないか。そして、右脳と左脳が会話することと同様に、人と人がイメージや論理を共有するために言語が発達し、コミュニケーション能力が格段に高まったのではないか。

(出典:Currier)

まとめ

シュメール人は、スメル人、つまり皇尊(すめらみこと)から来ているという話はある。日ユ同祖論もある。失われた十支族が東に向かったという話もある。ただ、不思議なのは、なぜはるか東の日本に向かったのかという点だ。これに対する答えとして、実は、シュメール人はもともとは縄文人であり、日本から移り住んだ集団だったのではないか。鬼界カルデラの凄まじい被害から逃れるために西へ西へと移動して新天地に到着したけど、やはり故郷である日本のことは忘れられない。かといって、海流の関係から海路で日本に戻ることも難しい。このため陸路を少しずつ少しずつ、それぞれの地で地盤を固めながら東に向かったのではないか。この仮説が正しいのかどうかを証明するには、言語の側面、土器の側面、遺伝子の側面、民族の側面から総合的に調べる必要があるだろう。ライフワークとしては丁度いいかもしれない。また、なぜ人間だけが高度な言語を操り、空想するのかというのは右脳と左脳の機能分化によるものだということはわかっている。でも、それは本当にホモサピエンスのみだったのかどうかはよく分からない。もしかすると右脳と左脳の機能分化している動物がいるかもしれない。これもライフワークとして研究を続けたいと思う。ものか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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