https://ameblo.jp/japmasa778/entry-12442578904.html 【日本人のルーツと超古代文明】より
終戦後、GHQに阿(おもね)る曲学阿世の歴史学者が「朝鮮半島騎馬民族説」などという邪説を流布し、「日本の歴史は中韓より短く、文化は中韓より学んだ」などとし、多くの日本人が洗脳されたままなので、真の日本人のルーツと古代日本に超高度文明があったことを紹介します。
1、日本人の起源
もとより日本人のルーツに関しては諸説ありますが、一般的な説では、生物学的な意味での人類は10万年単位を一つの区切りにして「原人」→「旧人」→「新人」と区分されます。
私たち現代人はこのうちの「新人」に属し、そのルーツは20万年前の北アフリカだとされています。そこから人類は中東を経て中央アジア(メソポタミア=シュメール)辺りに移動、さらに二手に分かれ、西は欧州、東は東方アジアへと分布したというのが多数説です。
ただし、シュメール地方には、20万年前以前にホモサピエンスとネアンデルタール人が混淆(こんこう)したウバイド人がいて、「ウバイド文明」という高度な文明を築いていたという有力説があります。
ともあれ、このうち日本人のルーツは、チグリスユーフラテス川からペルシャ湾→インド半島→東南アジアを経てやってきた「沿岸海洋民族」「南太平洋民族」と、宗谷海峡が繋がっていたことからシベリア経由でやってきた「アイヌ系狩労民族」が中心とされています。
これらを時代の流れにしたがって詳しくみてみると、「縄文人」→「弥生人」→「古墳人(中東系含む)」となります。
まず「縄文人」は、1)太平洋系海人族安曇(あずみ)氏、2)シュメール系海人族橘氏(立花、和田、楠、葛城、尾張、犬養、春日、小野、菊池)、平氏、3)北方アイヌ人(蝦夷)からなります。
海人族・安曇氏は、山口県下関市彦島の杉田丘陵や角島、玄界灘にある沖の島、出雲の日ノ御碕沖等に、与那国島沖と類似する神殿跡やペトログラフ(岩絵文字)があることから、主に北部九州から近畿にかけて分布した海洋民族「メネフネ族」と考えられます。
なお、これらと同形のペトログラフは、韓国、台湾、中国では全く見つかっておらず、特に朝鮮半島では5000年以前には人が居住した遺跡が存在しません。
またメネフネ族とは別に、同じく海人系ミクロネシア人の「熊襲(くまそ)」あるいは「隼人(はやと)」は南九州、南四国に分布しました。
一方、シュメール系・橘氏ですが、アッカド人に国を追われ各地に分散した一派が、海路から和歌山県近辺に渡来し居住、海人族として後に物部氏とともに蘇我氏と争って下野したため、脚光を浴びることがありませんでした。
が、天武天皇の代から橘美千代が宮中で命婦として勤め、女帝元明天皇から橘宿禰の氏姓を賜り、その子諸兄が有名です。皇室の警察犬を使う犬養氏、葛城氏も同族で、橘氏は和田氏、楠氏につながります。平氏の起源も、平清盛の話によるとペルシャ方面にあるということです。
もっとも、安曇氏も橘氏も同じウバイド系佐伯氏であるとの有力説があり、それによると安曇氏は北部九州方面へ、橘氏は九州国東半島方面を経て出雲地方と紀伊半島南部に伝播したとします。
そして、日本皇室の天孫皇統はウバイド系佐伯氏で、実際、安曇氏の「磐余彦(イワレヒコ)」が後の神武天皇になり、橘氏がいわゆる”欠史八代”といわれる「葛城王朝」を形成したとします。
なお、磐余彦を輩出した安曇氏は、紀伊半島中央部のヤマト本部(邪馬台国)を大陸勢力から守るため、北部九州に大陸渡来の「倭人」に因んだ名称の「倭国(奴国)」を作って偽装したといわれています。
他方、アイヌですが、カムチャッカ半島など北シベリア方面に分布していたスーセン族と、サハリンからアムール川周辺地域など東シベリア方面に分布していたギリヤーク族(ニブヒ族)からなり、前者「阿蘇辺族」は主に北海道東部に居住し、後者「津保化族」は本州にも居住、後に「荒覇覇吐王国」を作りました。
次に「弥生人」は、1)古代ユダヤ10支族・海部氏(物部氏)、2)支那大陸華南地域から来た「倭族」からなります。
このうち海部(物部)氏は、当時すでに日本で使われていた「姓(かばね)」をもっていなかったため豊後半島に渡来当時、海部の姓を買い取ります。
こののち、丹波地方に進出した際、社家である「籠(この)神社」を建て、「(モノノベの祖神)ニギハヤヒとホアカリは同体なり」という伝承を捏造します。
また、「日猶(にちゆ)同祖論」を唱えて日本人とユダヤ人の同祖性、あるいは「日本皇統の起源はユダヤ」などと事実を歪曲、
さらには、上田正昭(京都大学名誉教授で高麗美術館館長)を古代史の権威として祭り上げ、いわゆる”半島起源騎馬民族説”をGHQや朝日新聞などと連携して浸透させます。
これらねつ造の最終的な目的は、世界最大の皇室資産「黄金の百合」への関与権を主張することにあり、実際、これが原因で長らく皇室内に高松宮派と、国際金融勢力に担がれた三笠宮派の深刻な対立が続いたことは、「上田アヤタチの正体」のところで詳述しました。
最後に「古墳人」は、1)崇神天皇の時代にやってきた突蕨系の「西文氏」、2)応神天皇の時代にやってきたツングース系の「越氏」、3)ウバイド系+スキタイ系の「土師(はじ)氏」「秦氏」からなります。
西文氏は北陸に渡来し、半島からの移民、難民の受け入れ事務所を置き、漂着する渡来民を引き受け労働力として畿内の土師氏に送り込む”手配師”でした。ツングース系越氏も西文氏と同じく北陸地方に定着しました。
土師氏はウバイド系騎馬民族で、その高度な土木建築技術を生かして大規模古墳の造営などの公共事業を行うゼネコンのような立場だったようです。
この時代に見られた多くの大規模古墳の造営は、大陸騎馬勢力との良好な国際関係を維持するため、彼らとの所縁を繕う偽装工作と言われています。
なお、秦氏は、長らく「日猶同祖論」の一翼を担う古代ユダヤ人と見られてきましたが、最新の研究では繊維、金融を担ったウバイド系呂氏で、100万人規模の大集団でやってきたとされていますが詳細は別項で述べました。
この他、最新の研究で分かってきたのが、古代ユダヤ人と並ぶ中東系「タカス(鷹栖、高鷲、高須)族」の存在です。タカス族は古代エジプトでミイラ作りに携わり、その過程で得た麻酔術、外科手術、整形術、臓器製薬を駆使して古代から日本國體に奉仕してきたばかりか、現代においても国境を越えたコスモポリタン(国際人)奉公衆としてフリーメイソンに浸透するなど、大きな影響力を保持していますが、詳細は別項で述べました。
2、「日本人は農耕民族」の誤り
ところで、よく「狩猟民族と農耕民族」という区分けとともに、「縄文人が元々日本列島に居住していた土着民(農耕民族?)で、弥生人は大陸ないし半島から来た征服民族で抑圧的だ(狩猟民族?)」などの俗説がありますが、全くの誤りです。
恐らく、このような俗説が囁かれる背景には、明治維新以降、隅に追いやられた感のある東日本を中心とした旧幕藩体制での支配階級だった人々が、天皇制を頂点とする明治以降の体制への不満の論拠としたいとの思いがあるものと推測されます。
例えば、誤解が多い説として、和辻哲郎は「日本人は農耕民族で、西洋人は狩猟民族」と分類します。「農耕民族」は稲作による定住生活を常とし、一方の「狩猟民族」は当初は海山での狩り、そして時代を経た後は組織的な遊牧、牧畜へと発展して行きます。
ただよく考えてみると、人類はその誕生期において、石器時代に見られるように、狩猟を生活の手段にしている点では共通しており、牧畜、農耕は人類文化の発展とともに生まれた合理的な生活様式であると考えられます。
だとすれば、「日本人は農耕民族で、西洋人は狩猟民族」という図式は、時代の流れを無視した分類と言わざるを得ず、時代の流れに沿えば、「縄文人が狩猟民族」で「弥生人が農耕民族」というのが自然です。実際、縄文人の顎は肉食に適して発達しており、弥生人はノッペリしています。
また、「倭族」が大陸から稲作を持ってやって来たなどともいわれていますが、これは「大陸と一部陸続きだった氷河期に、日本から大陸に人々(カラ族)が移動し、その後、水田での稲の量産技術を持って里帰りしたのが真実ですが、詳細は「稲作は日本から朝鮮半島に伝わった」の項に譲ります。
さて、以上のように考えると、弥生人は農耕民族であるが故に性格は穏やか。他方、アイヌ含む縄文人には、海洋民族とシベリア、更にはポーラ化粧品のDNA研究の結果、東欧等からもやって来た狩猟、遊牧民族も含まれることが分かっており、性格は荒っぽい、ということができます。
3、古代の太平洋上に高度文明?
ところで、縄文以前の石器時代には主に南九州、四国、紀伊半島に海洋民族が居住していました。これが「港川人」で、沖縄で人骨が発見されており北京原人よりも古いことが証明されています。このことを根拠に、かつて太平洋上に文明が存在し、活発な交流があったのではないかという説があります。
この点、「竹内文書」によると、大和先行王朝である「鵜芽葺不合朝」第六十九代・神足別豊鋤天皇の時代に、太平洋上には「ミヨイ」、「タミアラ」という大陸があり、五色人(白人・黒人・赤人・青人・黄人)と王族の黄金人がいたが、天変地異で水没しため日本に避難したとされています。
また、出口王仁三郎も、米国考古学者・チャーチワードが「失われたムー大陸」を発表する9年前の1922年に、『霊界物語』第9巻で、「太平洋の真中に縦が二千と七百浬、横が三千一百浬の黄泉(よもつ)の島がある」として、太平洋に巨大な大陸があったことを発表しています。
このようにみてみると、日本人のルーツは「海洋民族」を基本にして、これに「大陸系(狩猟、農耕、騎馬民、中東系)」が加わったものであると言えます。これを時代区分に対応させると、狩猟民、沿岸民、海洋民が「縄文時代」以前、農耕民が「弥生時代」、騎馬民、中東系が「古墳時代」以降ということになります。
が、昭和24年に、天才物理学者の楢崎皐月(ならさきこうげつ)が、日本には縄文時代以前の石器時代に、「カタカムナ文明」という超高度文明があったことを発見しています。その傍証として、岩手県金取遺跡からは9万年前の足跡、島根県砂原遺跡からは12万年前の打製石器、
また、東京都栗原遺跡や千葉県三里塚など、秋田県から奄美大島まで全国135カ所から、これまで世界最古とされてきたオーストラリアの2万9千年前を遥かに凌駕する3〜4万年前の磨製石器、青森県大平山元遺跡からは、世界最古とされる石器時代1万5〜6千年前の「無文土器」や「石の矢じり」が発見されています。
さらに、熊本県の弊立神宮にある「日文石板」は、炭素放射線測定の結果20〜30万年前のものと証明されており、そこには「豊国文字」を使った古代天皇の名で「ひふみよいむなやこともちろら、ねしきるゆいつわぬそを、はたくめかうおえに、さりへてのますあせゑほけれ」と記されています。
4、兵庫県にあった世界最古のカタカムナ文明
さて、楢崎皐月は戦前、満州に渡り、石原莞爾、辻正信、服部卓四郎らとともに満州の発展に寄与、特に当時世界一の製薬会社だった「星製薬(現在は品川)」の星一と「植物波農法」などの植物研究に取り組み、モルヒネなどの研究開発にも関わります
そんな中、楢崎が吉林にある道院を訪ねた際、廟の道士である蘆有三から瞬間沸騰する茶釜を見せられ、「上古代の日本には"アシア族"といって、八鏡文字を編み出し、特殊な鉄の鋳造技術等の高度文明を持つ人々がいて、それが中華文明の基礎になった」という古伝を聞かされます。
謎を抱えたまま終戦で帰国、星製薬で大気電気の研究を続けていた楢崎は、昭和24年、兵庫県六甲山でカタカムナ神社の宮司・平十字(ひらとうじ)に遭遇、「カタカムナ文献」を見せられました。そこには「宇宙の構造」や「生命体の本質」など、最先端の科学、哲学が記されていたのです。
このような文献が見つかるところからすると、人類学的な人間の起源は別として、日本が文明社会の起源だった可能性が出てきます。では、なぜ超古代の日本にこのような高度な文明が存在したのか?鍵は、いわゆる"天孫降臨神話"にありますが、この点については「ムー大陸」伝承にも関わるテーマなので別項に譲ります。
参照文献;「金融ワンワールド(落合莞爾)」「超図解・竹内文書(高坂和導)」「カタカムナ源流日本人(北一策)」「天孫皇統になりすましたユダヤ十支族(落合莞爾)」
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