農家の人を「百姓(ひゃくしょう)」と呼ぶのはなぜ?

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なぜ農家の人を百姓(ひゃくしょう)と呼ぶのでしょうか?

調べてみると諸説あるようですが、今回はその中の一説を紹介したいと思います。

天下の諸民皆百姓なり、其命を養ふ故に……

時は江戸末期の嘉永6年(1853年)、東北地方の南部藩(現:岩手県)で暴政に耐えかねた三閉伊通(現:大槌町、野田村、宮古市)の農民たちが一揆を起こしました。

「役人がムダに多くて財政負担が重すぎる!リストラを断行せよ!」

「御用金など臨時徴税が多すぎる!我らは打ち出の小槌ではない!」

……などなどの生活改善を訴えたものの、南部藩当局は聞く耳を持ってくれません。

「えぇい、百姓輩(ばら)がお上に物申すなど不届きな……下がれ!」

「何言ってやがる」敢然と反論する農民の一人(イメージ)

これまで武力を背景に民意をねじ伏せられてきましたが、今回ばかりは不退転の決意で16,000余人が大集結。

郷土の史料『遠野唐丹寝物語(とおのとうにねものがたり)』によると、農民の一人が役人に対して以下のように反論したと言います。

百姓共カラカラと打ち笑ひ

「汝等(なんじら)百姓杯(など)と軽(かろ)しめるは心得違ひなり。百姓の事を能(よ)く承(うけたまは)れ、士農工商天下の遊民源平藤橘(げんぺいとうきつ)の四姓を離れず、天下の諸民皆百姓なり、其(その)命を養ふ故に農民ばかりを百姓と云ふなり、汝等も百姓に養(やしなは)るなり。此道理を知らずして百姓杯と罵(ののし)るは不届者なり」

【意訳】百姓たちは、カラカラと笑って反論した。

「お前たちは我らを『百姓ごとき』などとバカにしておるが、それは百姓についてあまりにも無知と言わざるを得ない。

いいかよく聞け。武士も農民も商人も職人も、天下の民はみな朝廷=天皇陛下より源(みなもと)、平(たいら)、藤原(ふじわら)、橘(たちばな)などさまざまな姓(せい)を賜った末裔なのだから、本来はみんな百姓(ひゃくせい)なのだ。

その百姓みんなの命を養っているからこそ、我ら農民だけが『百姓』と呼ばれているのだ。偉そうにふんぞり返っているお前たちだって、我ら百姓が育てた作物に養われているではないか。

そんな道理も知らずに我ら百姓をバカにするのは、実に愚かであるばかりか、畏れ多くも我らに姓をお授け下さった朝廷に対して不敬千万である!」と。

天皇陛下より賜った姓の中でも、特に栄えた源平藤橘の四姓。日本人のほとんどがその末裔である(イメージ)

……もともと百姓とは、朝廷から賜った百(たくさん)の姓すなわち天下万民を指し、天皇陛下が治める民という点においてみな平等であるのですが、中でも、みんなの命を養う作物を育てているからこそ、農民こそが百姓の代表になったと言うのです。

やれ武士だの支配者だのと嘯(うそぶ)いたところで、食べるモノがなければ飢え死にするのは庶民と同じ。農民をバカにした南部藩士は、ぐうの音も出なかったことでしょう。

終わりに

結局、一揆勢の要求はその大半が聞き入れられ、南部藩政をほしいままにしていた者たちは更迭されていきました。

現代でも、たまに「おカネさえ出せば、好きなものがいくらでも買える」などと嘯いて、汗水流して作物を育てている生産者の方を軽んじる手合いがいますが、それはとんでもない「心得違ひ」というもの。

みなの命を養うため、彼は独り今日も働く(イメージ)

食は命の源であり、生きていく基本ですから、それを支えて下さるお百姓さんはもちろんのこと、あらゆる職業は社会を支えるために存在するものですから、貴賤を隔てず尊重し合える日本人でありたいものですね。

※参考文献:

瀧本壽史ら『街道の日本史 5 三陸海岸と浜街道』吉川弘文館、2004年12月

小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』小学館、2010年12月

https://mag.japaaan.com/archives/151412/amp

https://www.youtube.com/watch?v=1oTQSAz6lA4

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