一指李承憲@ILCHIjp
幼虫は、ある時期になるとサナギをつくり、その中で長い忍耐と変化の時間を送ったのちに、美しい蝶になって舞い上がります。幼虫の姿かたちからは蝶に変身するとは想像もつきません。しかし幼虫の中には蝶になれる因子がもともと潜んでいたのです。あなたの中にある、その因子を目覚めさせてください。
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悟った人は、超越しているので好き嫌いが無いと、考える人がいます。
悟った人でも、マインドは持っていて好き嫌いがあって、感情のない無表情な人になるわけではないようです。
まくわ瓜が好きだった有名な禅僧がいました。
鎌倉時代末期に、京都大徳寺を開山した大燈(だいとう)国師(宗峰妙超 しゅうほうみょうちょう)です。
大燈国師は24歳の頃、鎌倉の建長寺で大応(だいおう)国師(南浦紹明・なんぽしょうみょう)について雲門(うんもん)禅師の関(かん)公案の修行をしていました。
雲門禅師の関(かん)の公案は無門関(むもんかん)という禅の修行者のための教科書に出てくる話です。
それは次の通りです。
「仏法は誤って説いたり、あまり老婆親切に説きすぎると、仏罰が当たって眉やひげが抜け落ちるといわれているが、どうじゃ、ワシの眉毛はまだ生えているだろうか?」
唐の時代の翠巌(すいがん)禅師のこの問いに雲門禅師はひとこと「関(かん)」と答えました。関(かん)は関所のことです。
悟りの世界に行くには関所の「門のない門」を通り抜けなければなりませんでした。
「門のない門」とはいかなる門でしょうか?
見たことも想像もつかない「門のない門」をどうしたらくぐれるのでしょうか?
両手を打つと、音が響きます。
しかし、片手で打つと、どんな音がするでしょうか?
禅の公案は、いくら考えても頭では解決つかない問題ばかりが出てきます。
存在の本質を、心身全体でつかむことを、禅は求めるので、
頭を超えた智慧が体得されていないと、弟子が何を答えても師に「渇 ! 」を食らってしまうのです。
また、師が眠っていると目覚めた弟子に「渇 ! 」を食らうこともあったようです。
大燈国師は、雲門禅師の関(かん)の公案を3年間取り組みましたが解けませんでした。
ある日、大燈国師は持っていた蔵の鍵がガシャと鳴った瞬間に、忽然と真理に気づきました。
その悟りの境地を詩偈 ( しげ )にしたためて師の大応国師に示しました。
いったん、雲門禅師の関所を通り抜けてしまうと(一回透得雲関了)
南北東西どの道も自在に通り抜けられることがわかった(南北東西活路通)
朝夕いつでも、主客の区別がない(夕処朝遊没賓主)
頭のてっぺんからつま先まで清風がかけぬけるようなすがすがしさだ(脚頭脚底起清風)
自我を超えた本当の自分はどんなときにも変わらずにいつもあります。
探している今ここにもあったのです。自我は時間と空間に囚われていますが
本当の自分は、時間の流れとは関係がない時空を超えた次元にありました。
「苦労してやっと探し求めた究極の真理があまりにも当たり前にいつも目の前にあることを知って全身から汗が出てきて背中を流れた」と大燈国師の行状録に出てきます。
無門関の名前の通り、関所も門も最初からなかったのです。
大燈国師は26歳の時に大悟しますが、大応国師から印可を受けた後、京都の三条の河原で20年間乞食行をしていました。
悟りを開いて世に出てくるまで20年間ホームレスをしていたというのも、すごい話です。
まくわ瓜が好きな大燈国師が、乞食の群れの中にいることを知った花園天皇は、まくわ瓜を乞食にただで与える札を立てさせました。
当日、まくわ瓜を持った役人が乞食の群れに向かって「足なしで来たれ」と言いました。
困惑して誰一人手を出すものがいないと一人の乞食が「手を使わずに渡せ」と答えたので大燈国師であることが判ってしまったと伝えられています。
大燈国師がまくわ瓜が好きだったと言う話は面白いですね。
禅には悟りを得ても、それを人々にシェアできるようになるために、さらに勉強する「悟後の修行」という言葉があります。
一方では『悟後の修行なんていう人は悟りそこねたんです。悟りに段階はないので悟ると元には戻りません。修行なんて必要ありません。いまここあるがままで完全なので何もしなくていいんです』という人もいます。
ですがこの地上世界では悟った意識だけで生活することはできません。
自我の境界が消えて宇宙全体と一つになっても身体がある限り再びマインドに戻ります。
ですから悟ったからと言ってただちに、英語やスワヒリ語が話せるようになったり
スケートで4回転できるようなったり弓矢の名手になったり大工仕事が上手になったり
料理の天才になったりプロの演奏家や歌手や作曲家になれたりするわけではありません。
どのような個人でもマインドはその時代と地域の文化、政治、思想、団体、部族、民族、国家の影響下にあります。
宇宙の真理に気がついたからといって隣の人までただちに真理を理解してもらえるわけではありません。
悟った人と一緒にいても、この人とはついていけないと離れたり、離婚が起きることもあるでしょう。
残念ながら悟ってもそれは個人的なものでありマインドは特定の段階にとどまったままなのです。
二元性を超えた本性に気づいても、特定の段階に同一化したままのマインドを通して表現していくしかないのです。
現象の世界は目覚めと成長の二重の道になることを自覚しなければならないでしょう。
白隠禅師は「悟後の修行」は永遠だといっていました。
それは宇宙全体が覚醒するまで終わらないのでしょう。
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心理学の調査によると自分のことが好きで、自己肯定感が高い人々が信じている神は、愛が深く寛大な神のイメージを持っていました。
一方、悲観的で罪悪感を持った自己肯定感が低い人々は、罰を与える拒絶的な神のイメージを持っていました。
人は自分の内面を神に投影して自分の自我に似せた神を作ります。
「人間は神のかたちに似せて造られた」は「人間は自分のマインドに似せて神のイメージを作った」でもあるのです。
この分離したマインドの投影のために私たちは真の自己から離れて苦しんでいます。
他者と自分を切り離し相手を敵とみなして争って来たのが人類の歴史です。
インド哲学は有形な神をサグナ・ブラフマンと呼び、二元性を超越した無形の神をニルグナ・ブラフマンとよんでいます。
聖書の神はこの二つの性質を持っています。
感情を持ち怒り狂う人格を持った神はサグナ・ブラフマンです。
旧約聖書には恐ろしい話が載っています。
『あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる。(略)主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ入、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない』「申命記」第二十章十~十ハ節
『彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。……彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた』「ヨシュア記」第六章二十一~二十四節
『ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息ある者をことごとく滅ぼしつくした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった』「ヨシュア記」第十章四十節
私たちは二つに分離した両方の神の性質を持っています。
怒り狂う自分とそれを静かに見ている自分
嘆き悲しむ自分とそれを静かに見ている自分
不安と恐怖に怯える自分とそれを静かに見ている自分
いまここにとどまり沈黙していると
あらゆる出来事は起こっては消えていることに気づきます。
怒り、不安、恐怖、心痛、思考、あらゆる現象には実体がなく、
すべては関係性によって起こり、変化していることがわかります。
二元性を超越したもう一人の自分が現れると
思考や感情の囚われから自由になります。
自分の心を観照できるようになると
他者に対する攻撃性が低下して寛容さが生まれるので
マインドが起こしている葛藤にエネルギーを消耗しなくなります。
そのような人々が増えてある人数に達すれば
相互に信頼し、尊敬しあう持続可能な社会がこの地球に誕生するでしょう。
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