Facebook平木 大士さん投稿記事 山背国の東寺めぐり③ ~東寺~
平安京への遷都のさい国家が造営した2つの官寺(かんじ)のうち平安京羅城門(朱雀門)の東側につくられたのが東寺(とうじ)です。
のちに、空海(くうかい)に下賜されて真言密教の根本道場とされたらしく王を教化して国を護ることから『教王護国寺(きょうおうごこくじ)』ともいわれたようです。
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https://ameblo.jp/navihico-8/entry-12760801430.HTM【山背国の東寺めぐり③ ~東寺~】より
京都・平安京(へいあんきょう)への遷都にあたっては朝廷や政治に影響をあたえた奈良仏教との関係を断つため国家が造営した2つの寺院以外には新たに寺院を築いてはならないとしたそうです。
(もともと当地にあった寺院や平安京の外は含まないそうです)2つの寺というのが平安京の南門(朱雀門)・羅城門(らじょうもん)の東西に築かれたという東寺(とうじ)西寺(さいじ)だといいます。
それぞれ、平安京の右京左京を守護することから東寺は左大寺(さだいじ)西寺は右大寺(うだいじ)ともいわれたようですね。
現在残っているのは東寺のみであって西寺は荒廃してしまい唐橋西寺公園(からはしさいじこうえん)となっているようです。
東寺の創建は、遷都から2年後の796年といわれ藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)が造営したといいます。
南家の祖・藤原武智麻呂(むちまろ)の孫にあたるかたで貴船(きふね)大神の神託をうけて鞍馬寺(くらまでら)の前身を築いたかたでもあるといいます。
東寺の金堂(こんどう)は藤原伊勢人によって造営がすすめられたもので国立寺院にふさわしい荘厳な姿が求められたようです。
1486年に焼失して1603年に再建されたといわれ桃山時代の代表的な建造物として
国宝とされているそうです。
本尊は七仏薬師如来(しちぶつやくしにょらい)といい薬壺(やくこ)を持たない
古い様式の薬師如来なのだそうです。
光背には7体の化仏を配し台座には十二神将像がぐるりと守護しているといいます。
本尊の左右には日光菩薩(にっこうぼさつ)月光菩薩(がっこうぼさつ)がならぶそうです。
ただ、こうして国営の寺院・官寺(かんじ)を築いたものの遷都にあたっては旧来の奈良仏教ではなく新しい仏教が求められていたといいます。
そこにあらわれたのが仏教の秘密の教えを伝える密教(みっきょう)だそうです。
遣唐使となった空海(くうかい)は唐土へわたると恵果(けいか)和尚に見いだされ
密教のすべてをさずかって帰国したといいます。
そうして、日本に密教の教えを弘めるべく真言宗(しんごんしゅう)をひらいたようです。
真言宗(しんごんしゅう)をひらいて 密教(みっきょう)をひろめたのが平安時代初期の僧・空海(くうかい)です。和歌山の高野山(こうやさん)でで知られていますが、…
第52代・嵯峨(さが)天皇は空海の真言密教に帰依すると823年に東寺を空海に下賜されたといいます。
これによって、東寺は真言密教の根本道場となりいまでは、東寺真言宗の総本山となっているようです。
また、国家鎮護の寺院として教王護国寺(きょうおうごこくじ)ともいわれたようです。
「教王」には『王(天皇)を教化する』という意味もあるらしく密教による国家鎮護を願った
ようですね。
この空海によって講堂(こうどう)五重塔(ごじゅうのとう)などが築かれたようです。
講堂は、密教の教えをひろめ伝えるための場所であり 境内の中心に位置しているといいます。
巨大な金堂に迫る位置に 巨大な講堂を築いたのも中心としたかったからなのでしょうか。
ここには、密教の教えを視覚的にあらわしたという立体曼陀羅(りったいまんだら)[羯磨曼荼羅(かつままんだら)]があるといいます。
曼陀羅図から抜けだしたように大日如来像を中心とした21尊の仏像がならぶそうです。
中央には大日如来(だいにちにょらい)を中心とした5尊・五智如来がならび
(向かって)左には不動明王(ふどうみょうおう)を中心とした5尊・五大明王がならび
(向かって)右には金剛波羅蜜多菩薩(こんごうはらみつたぼさつ)を中心とした5尊・
五大菩薩がならび 須弥壇の四方には四天王の4尊がならび 東西には梵天(ぼんてん)帝釈天(たいしゃくてん)がならんでいるといいます。
計21尊なのですが中央の五智如来と金剛波羅蜜多菩薩以外の15体は講堂創建時のものといわれ平安時代の作だといいます。
創建当時は金堂と講堂のまわりに回廊がめぐっていてふたつの大伽藍をつないでいたそうです。
金堂・講堂がならぶ境内の中心線上にあるのが食堂(じきどう)です。
生活をささえる場 生活のなかにも修行を見出す場なのだといいます。
かつては本尊に千手観音菩薩が祀られたことから観音堂ともいうようです。
金堂を「仏」 講堂を「法」 食堂を「僧」として仏法僧(ぶっぽうそう)を表しているといいます。仏そのものと仏の説いた教えと仏の教えを行ずる僧のことだそうです。
気になるのは、この講堂と食堂のあいだにある夜叉神堂(やしゃがみどう)です。
東西に小さなお堂がふたつならんでいて東には雄夜叉 西には雌夜叉が祀られているといいます。
当初は、南大門の左右にあったといいますから神社でいうところの「狛犬」のような存在なのかもしれません。
本尊は空海の作ともいわれ歯痛に霊験があるといいます。この重要なライン上 雌雄の堂があるというのは密教なかでもタントラ(性秘儀)の部分をあらわしているのでしょうか?
空海と伏見稲荷大社はとても関係が深いのは東寺のすぐちかくに伏見稲荷大社御旅所がある
ことからもわかりますが、空海は唐土より荼枳尼天(だきにてん)を持ち込むと稲荷信仰と習合させたようです。
もともとは、インドの一部地域で祀られていた「ダーキン」という地母神的存在がヒンドゥー教やインド仏教に取りこまれて「ダーキニー」となり日本には「荼枳尼天」として伝わったようです。
ですから、取りこまれた初期段階では邪教の神・人肉を食らう魔女とされていたらしく
「夜叉(やしゃ)」とされていたようですね。地母神というように荼枳尼天は女性とされているようです。
では、男性の姿、いわゆる雄夜叉とはいったいなにか?と考えてみるとこれは、愛染明王(あいぜんみょうおう)かもしれません。
別名を吒枳王(だきおう?)というようですしその教えというのは愛欲から三昧にいたるというものですから男女和合やタントラ(性秘儀)や瑜伽経(ゆがきょう)に関わるようですね。
「仏」「法」と「僧」をつなぐ位置に雌雄の夜叉がいることは人間らしく生きることを否定しないということなのでしょうか?
不動明王や愛染明王などの「明王」というのも密教ならではの仏であってヒンドゥー教の神々が仏教に取り入れられ仏となったものなのだそうです。
空海が教えひろめた2つの曼陀羅は金剛界曼陀羅(こんごうかいまんだら)胎蔵界曼荼羅(だいぞうかいまんだら)というのですが、金剛界を代表する明王が愛染明王であり
胎蔵界を代表する明王が不動明王だそうです。
空海は、不動明王を持念仏としていたそうですがそれと同じくらい愛染明王にも通じていたのでしょう。
空海の持念仏とされる不動明王座像祀り空海の住房跡でもあるのが境内の北西にある御影堂(みえいどう)です。
毎朝・早朝6時から生身供(しょうじんく)という法要がおこなわれ空海が生きていたときとおなじように食事が供えられるのだといいます。
一般参加もできるらしく、そのため東寺は開門も朝はやいようですね。
また、空海が入定した日にちなんで毎月21日には境内で弘法市がおこなわれている
のだそうです。
さて、境内の南東にあり京都のランドマークでもあるのが五重塔です。
木造建築物としては日本一の高さであり空海が唐よりもちかえった仏舎利(ぶっしゃり)が
納めてあるといいます。
たびたび火災にあって焼失しており現在のものは1644年に再建された5代目だといいます。
ただし、地震による倒壊は一度もなく耐震性にすぐれた造りとしても注目を集めているようですね。
初層部分には極彩色ゆたかな密教空間があり大日如来を中心として4尊の如来と8尊の菩薩が囲んでいるそうです。
このあたりの、数や配置にもおおくの意図があるのでしょう。
さて、さいごは境内にある神社についてみてみます。
境内の南、南大門をはさんで東西にあるのが八島殿と八幡宮です。
八島殿は、この地にもともと祀られていたという地主神を祀るといわれ祭神は、大己貴神(おほなむち)だといいます。出雲大社の大国主命のことですね。
出雲に向かっているのか西向きの社殿です。五重塔との2ショットも壮観です。
大己貴神と空海の関係は空海の父方である佐伯氏に関わるのではないでしょうか?
ホツマツタヱでは、オホナムチ(大国主命)は青森のほうへ左遷されたといいますが、
これがのちの蝦夷になったのかもしれません。
ヤマトタケ(日本武尊)が捕虜として連れ帰った蝦夷は佐伯部とされて地方の佐伯氏に送られたといいます。
空海の家系は、香川の佐伯氏ですからこのあたりに縁故があるのでしょうか?
東寺の鎮守社とされる八幡宮(はちまんぐう)も西向きとなっています。
東寺の創建のさいに王城鎮護を願って祀られ社といいます。
僧の姿をした僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)と2尊の女神を祀るといいますが
どちらも、空海が彫ったものといわれるようです。
ほかに、武内宿祢(たけうちのすくね)の神像も祀られているといいます。
八幡信仰からすれば応神(おうじん)天皇や神功(じんぐう)皇后のことかもしれませんし
宗像三女神なのかもしれません。
八島社殿も八幡宮もどちらも8という数字がついていますね。
ほかにも八大竜王や八体の菩薩像など8という数字が繰り替えされています。
これもどこか曼陀羅のようです。
空海は講堂内に立体曼陀羅を描いただけでなく境内においても堂塔を曼陀羅的に配置していたのかもしれません。
もしかすると、平安京の姿までも写していたのかもしれませんね。
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