https://ameblo.jp/1232sumire/entry-12616516582.html 【ジブリ映画について(2)】より
以下は、私が別名義でnoteにUPした文章です。内容が此方で書いた記事の延長線上にあるので、amebaにも同じものを上げて置く事にしました。これは、前回の記事の続きです。
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「ジブリ映画について(1)」で書いたように、宮崎駿の映画において「空」を「飛ぶ」事と世界を肯定的に捉える事は深く結び付いている。特に飛行機など人間社会が生み出した技術で「人為」的に空を飛ぶ場合、「飛行」は男性的、もしくは「父」性的な自己実現の象徴でもある。一方で女性的なものは、「水」や「海」、「大地」といった「自然」のイメージや、「母」のイメージとの結び付きが強い。しかし、女性的なものが「水」や「大地」などの「自然」や「母」のイメージと繋がっており、それに対して男性的なものには「社会」的なイメージや「父」や「天」のイメージが付随しているというのは、決して宮崎駿の作品だけに見られる特徴ではない。それどころか、これらは人が初めて「神話」という形で物語を生み出した頃から既に見られる、非常に普遍的なイメージだ。私達が「母なる海」や「母なる大地」等の言葉を何の違和感もなく用いる一方で、「母なる空」という表現は殆ど使わない事からも分かるように、こうした対比構造は今日の私達の無意識下にも浸透している。
ユング派の精神分析家だったエーリッヒ・ノイマンは、これらのイメージの結び付きには意味があり、その意味を分析する事で人の内面がどのように成り立っているのかを説明できると考えていた。ノイマンの『意識の起源史』によれば、女性的なものが「水」や「大地」や「母」のイメージと繋がっているのには、次のような過程がある。まず、私達の心は何かが生まれて来る源を「母」のようなものとして感じるように出来ている。実際に母親とは今まで何処にも居なかった生命をこの世に生み出す源なのだから、そう感じるのは自然な事だ。そして母親の胎内に誕生したばかりの私達は、自分を包み込む円い子宮とその中に満たされた暗い羊水として「母」を感じている。その事から、私達は「母」のイメージを、「原初」、「闇」、「円」、「水」、後は子宮のように暗くて閉じた空間という意味で「洞窟」等のイメージと結び付けて考える。「水」は「海」のイメージにも繋がっており、「海」は海霊型説話(時には洪水を起こす事もある蛇、もしくは鰻や鰐などの水棲生物の姿をした水霊が海中に居るという神話)等に見られるように「蛇」のイメージとも結び付いている。そのため、「原初」=「母」=「海」=「蛇」のイメージ間にも深い繋がりがある。(此処での「母」=「海」=「蛇」というイメージの繋がりは、私達の先祖が魚から両生類への進化を経て、水棲生物から陸棲生物になった歴史を思い起こさせなくもない。)「原初」=「海」=「蛇」のイメージが垣間見える神話としては、後藤明氏の『「物言う魚」たち』や『南島の神話』曰く、原初大海を泳ぐ蛇の頭上に土を盛る事で陸地が出来るボルネオ島やスマトラ島の創世神話、同じく原初大海の蛇神マライが海上に珊瑚礁を浮上させて陸地を作り、更に最初の男女を造るニューギニアの創世神話などが挙げられる。また、「母」=「蛇」のイメージの繋がりが見られる神話としては、蛇女神の姿で表現される原初大海ナンムから世界の全てが始まったとするメソポタミア神話などがある。(メソポタミア神話は、旧約聖書の創世記やギリシャ神話など広範囲に影響を与えたとされている。)やがて「母」の胎内から外の世界に生まれて来た子供は、母親と母胎の中で一体になっていた状態から、母親とは別個の存在になる。そして、それまで「水」や「円」として感じられていた「母」が、「女性」的な存在であった事を知る。子供は母親の母乳を飲んで成長し、其処から豊満な乳房を持った女性の肉体にも「母」性が見出されるようになる。乳離れして土から実った物を食べるようになると、食物を育み私達に生きる糧を与える「大地」も、「母」性的なものとして感じられるようになる。大地は人が死んだ後に還る場所でもあり、「大地」=「母」という図式は、「母」=“人が生まれ、やがて還って行く場所”=私達を「受け入れるもの」というイメージにも重なっている。
ユングやノイマンは、全ての人が心の中に抱いているこうした「母なるもの」のイメージを「グレートマザー(太母)」と呼び、元を辿れば「グレートマザー」とは人の無意識そのものをイメージ化したものであると捉えていた。また、無意識は私達の中の「内なる自然」とも言える、人の本能や動物的な欲求を司る領域であるとも考えていた。「性悪説」で有名な中国の荀子は、この「内なる自然」を「性」と表現している。此処で言う「性」とは、人が誰に教えられずとも先天的に持っている性質の事である。私達は成長するにつれ、ユング心理学が「グレートマザー」と呼び、荀子が「性」という言葉で表現しようとしたと思われる「内なる自然」を「悪」と見做し、「内なる自然」から離れようと葛藤するようになる。この時に私達の中で生じる、無意識から離れて反対方向に向かおうとする力を、荀子は「偽」…つまり「人為」的な「善」の性質だとしている。この後天的に生まれた(荀子曰く)「人為」の力を、私達は「天」や「鳥」や男性的な「父」のイメージで思い浮かべる。「天」=「鳥」=「父」というのは、現実には手の届かない幻のようなものだ。何故なら私達が生き物である以上、「内なる自然」から完全に離れる事は出来ないからである。しかし私達が私達自身の定義する「人」で在り続ける為には、実体の無い「天」=「鳥」=「父」の方向に向かって絶えず進み続けなければいけない。それでいて、無意識に振り回されない位に「人」として確立したら、私達は自分自身の無意識とも上手くやって行く方法も学ばなければならない。自分の生き物としての本性である「内なる自然」を完全否定したまま生きて行く事は出来ないからである。誰もが辿らなければならないとは言え、これは思いの他に困難な道のりだ。この、私達の心が誰しも辿らなければならない道のりを形にするのが物語である。
例えば、メソポタミア神話では上述の通り、蛇女神のシンボルで表される原初大海ナンムから世界が始まったと考えていた。しかしメソポタミア神話に於いて、「水」を司る存在はやがて「母」なる海ナンムから、男性的性格を具えた地下の淡水の海アプスーへと交代する。この辺りは、メソポタミア神話に影響を受けたと考えられる後のバビロニア神話から逆算すると、まるで「母」なる「海」が「原両親」的なものに変化するまでの途上にあるかのように思えなくもない。(何かが生まれて来るには、「生むもの」だけではなく「生ませるもの」が必要だ。それに気付くようになると、私達は「生むもの」=「母」から、「生ませるもの」=「男性」の機能も兼ね備えたものとして「原初」をイメージするようになる。それが「原両親」だ。)バビロニア神話では、海水の女神ティアマトと淡水の男神アプスーの交合から世界が始まったと考えており、「原初」の「海」が「母」的なものから「原両親」的な性格に変化している事が見て取れる。地下にある淡水の海アプスーは「大地の主」を意味する男性神エンキの住処だと考えられており(もしかすると古くから関わりがあったのか、エンキを守護神とするメソポタミア最古の都市国家エリドゥでも淡水の神が祀られていた)、アプスーが男性的性格を具える事になった理由の一端も、恐らくこの男神エンキとその住処であるアプスーが半ば同一視されていた事に関係していると思われる。また、エリドゥではキスカヌと呼ばれる樹木が神聖視されていたが(旧約聖書に出て来る生命の樹の原型は、この樹木だと推測されている)、このキスカヌもエンキの象徴のように捉えられる事があったらしい。ジャン・ボテロの『最古の宗教―古代メソポタミア―』によれば、紀元前三千年紀の作になるシュメール語の或る神話には、エリドゥのエンキをキスカヌに例えている賛辞が出て来る。「王よ、アプスーのただ中に植えられ、大地を支配する高貴な樹木。その樹は勝ち誇った竜のようにエリドゥの街にそびえ立ち、その影はあまねく世界を覆う。その小枝を国の隅々にまで張り巡らせる果樹園!」という内容のものだ。「竜」とはつまり巨大な「蛇」である事を考えると、樹が「竜のように」そびえ立つという表現には引っ掛かるものを感じる。確証はないけれども、もし仮に「水」=「蛇」のイメージがナンムからアプスーやエンキにも受け継がれたのなら、エンキを通じてキスカヌと「蛇」のイメージにも繋がりがあったのかも知れない。このキスカヌから派生したと思われる樹木の物語が、メソポタミアにはちらほらと見られる。例えばシュメール版『ギルガメシュ叙事詩』には、洪水で流されかけた樹木フルップを見つけた女神イナンナが、彼女の守護する都市国家ウルクに樹を持ち帰る物語が残っている。フルップはやがて巨木になり、梢にはメソポタミアの最高神である「風の主」エンリルを象徴する鳥アンズーが、樹の中ほどには嵐の精リリトゥが、根には蛇が棲み付く。ウルクの王ギルガメシュが根元の蛇を殺すと、アンズーは子を連れて山へ、リリトゥは砂漠へ逃走する。(キリスト教の悪魔リリスの原型になったともされるリリトゥは、元々は北風を司るエンリルの妻である南風の女神ニンリルだったと考えられている。)他には、キシュの王エタナが「生誕の草」と呼ばれるものを求めて天界へ向かう話にも、梢に鷲のアンズーが棲み根元に蛇が棲む一本の樹木が登場する。ウルクとキシュの話に共通しているのは、樹木の根元には「蛇」が居て梢には「鳥」が居るというモチーフだ。「鳥」はエンリルを象徴する鷲である事が分かっているけれども、「蛇」が何の象徴だったのかは、明確には分かっていない。しかし、これらの樹木の根元に「蛇」がいる理由が、原型であるキスカヌの根元にも「蛇」がいたからだったとしたらどうだろう。キスカヌは「アプスーのただ中に」植えられていたのだから、キスカヌの根元に「蛇」が居たのなら、その「蛇」はアプスーに居た事になる。もしかしたら此処に登場する「蛇」とは、ナンムからアプスー、そしてエンキへと持ち越された、「水」=「蛇」のイメージに由来しているのではないだろうか。
このようにしてメソポタミア神話におけるイメージの変遷を辿って行くと、次のような光景が思い浮かぶ。まず、「母」=「原初」=「海」を司る「蛇」が水の中を泳いでいる。「海」は、「生むもの」=「母」であると同時に、「生ませるもの」=「男性」の側面も内包している。生命の源たる「海」の主である「蛇」は、同時に人が死後に還って行く大地をも司っている。「蛇」は、まるで私達の意識が無意識の中から生まれて来るように、地下の海の中から大地を突き破って伸び上がり、やがて巨大な樹木になる。樹木は「大地」に根を張り、地下に満ちている「水」を吸収するため、下方の「海」へ根を伸ばす。ただし、あまり根を深くまで下ろして「水」を吸い過ぎると、樹木は根元の方から腐って行ってしまう。その一方で樹木は、私達の心が何らかの力で無意識の重力とは反対の方向に向かって引っ張られるように、「海」や「大地」とは反対方向の「鳥」が飛ぶ「天」に向かって枝を伸ばす。樹木は地下から「水」を吸い上げ、上空から降り注ぐ光を浴びる事によって、どんどん大きくなって行く。目指す先の「天」には、「母」の姿でイメージされる無意識の重力と相対する力が、「父」の姿で存在している筈である。しかし「天」とは本当のところ何もない虚空であり、「水」や「大地」と違って幾ら枝を伸ばしても掴めないものだ。それと同じように、「父」なるものも実体がなく常に手の届かないものである。それでも、「天」を目指して上に伸び続けない事には樹木は生きていけない。
そんな風に捉えると、私達の心がどのような成り立ちをしているのか、朧気ながら見えて来るような気がしなくもない。
ギリシャのペルセウス神話では、「母」なる「海」や「大地」から離れようとする力がメソポタミア神話よりも更に強く、「グレートマザー」的なものは頭から髪の毛のように「蛇」を生やす「女性」の怪物メドゥーサや、「海」の怪物ケートスなどの否定的なイメージで描かれる。これらは、「グレートマザー」の否定的な側面である「呑み込む太母」を表現したものだと思われる。「グレートマザー」には子供を生み育てる肯定的な「原母」の側面だけでなく、子供を支配し呑み込んで自分と同一化しようとする破壊的な側面もあるのだ。そして自我意識が強まり、「母」なるものから自身を切り離そうとする力が強まれば強まるほど、「グレートマザー」は肯定的な「原母」の側面より破壊的な「呑み込む太母」の側面が目立つようになる。「グレートマザー」は次第に子供を無条件に「受け入れる」優しい母親から、生贄を支配し引き裂く恐ろしい魔女や、犠牲者を丸呑みにする山姥へと姿を変える。もっと否定的なイメージが強くなると、人間ですらない蜘蛛や竜などの動物の姿になる。「呑み込む太母」と蜘蛛が結び付いているのは、糸で獲物を束縛し捕食する姿に、子供を縛り付け呑み込む「グレートマザー」の否定的な側面が連想されるからだろう。糸を織る行為に女性的なイメージがあるからというのも影響しているかも知れない。竜と「呑み込む太母」の繋がりは、上述した「母」=「蛇」のイメージの繋がりにも由来する部分があると考えられる。動物の姿だけでなく、「呑み込む太母」は“女性的なものに支配された男性”の姿を取る場合もある。“女性的なもの”とは、この場合「グレートマザー」の姿でイメージされる私達自身の無意識の事だ。つまり“女性的なものに支配された男性”とは、私達の無意識から来る本能的な暴力性や欲求や制御できない激しい感情に支配され、「グレートマザー」の破壊道具として無意識が命じるままに暴力を振るう獣のような男性の事である。物語的に表現するなら彼等は「グレートマザー」の男性従者、もしくはギリシャ神話の魔女キルケによって豚に変えられた船乗りの男達のように、「グレートマザー」によって動物に変えられ支配された男性だと言える。(「グレートマザー」の力で動物に変えられる男性のモチーフには、「怪物と闘う者は、そのため己自身も怪物とならぬよう気を付けるが良い。お前が永い間深淵を覗き込んでいれば、深淵もまたお前を覗き込む」というニーチェの格言が連想される。この「深淵」とは、恐らく「グレートマザー」=無意識の闇の事だ。無意識と向かい合って意識化しようとする行為に失敗すると、逆に呑み込まれて無意識に支配され、「グレートマザー」の破壊道具=「怪物」に成り下がるという事だろう。)ペルセウス神話では、アンドロメダにケートスを遣わせるポセイドンがこれに該当する。それと言うのも此処でのポセイドンは、娘のアンドロメダが女神ヘラや海のニンフより美しいと自慢したカシオペアに対して、女神達の怒りの代弁者として「海」の怪物を送り込むからだ。ペルセウスはヘルメスとアテナの助力を得て、「グレートマザー」に属するこれらの力に立ち向かう。この時ヘルメスが翼のついた空飛ぶサンダルを履いており、「グレートマザー」の領域である「水」や「大地」と対立する、「天」に属する男性として現れたのは暗示的だ。(しかもこの神話では、ペルセウスにもヘルメスのサンダルが与えられる。)また、ヘルメスと一緒に登場するアテナは、至る所に「グレートマザー」の否定的なイメージが垣間見えるペルセウス神話の中で、非常に特異な女神である。彼女は母の胎内では無く、ゼウスの頭から生まれて来た「父の娘」であり、しかも生まれた時から男性のように甲冑で武装していた。彼女が象徴しているのは、恐らく男性的な自我意識を持つ女性ではないかと思われる。先述の通り、無意識が女性的な姿でイメージされるため、それと相対するものは男性的なものとして連想される。自我意識を無意識とは反対方向に向けて引っ張る力は「父」として感じられるが、「父」の方向に向かって進もうとする自我意識そのものも、男性的な「息子」のイメージで連想される。女性がそのような強い自我意識を持っている事を物語的に表現すると、アテナのようになるのだろう。英雄の味方でもある彼女がペルセウス神話で重要な役割を果たすのは、「グレートマザー」に打ち勝つ為に「女性」=「グレートマザー」という図式を拒絶し、両者の強過ぎる結び付きを解除する存在が必要だったからではないだろうか。恐らくそうしなければ、私達は出会った女性の全てに「グレートマザー」の面影を見てしまい、自分が見ているのは彼女自身ではなく、彼女に投影された自分自身の無意識の化身である事に気付けないのだ。そう考えると、ペルセウスがアテナから鏡のような盾を貰い、その盾のお陰で最初の怪物メドゥーサに立ち向かう事が出来たのは象徴的だ。何故なら「鏡」とは自分の影を投影する物であり、また一度その影を自分だと理解できたなら、自己認識および自己との対決の為の道具にもなるからだ。更に、ペルセウスは盾に映る鏡像を頼りに剣でメドゥーサの首を切り落とすが、この「剣」は男性的なものの象徴でもあり、また「裁断の原理」を表すものでもある。「裁断の原理」とは、人の自我意識に具わる“何かを切り分ける機能”の事だ。私達の自我意識が、自分自身の内面を「私」(自我意識)と「私ではないもの」(無意識)に切り分けたり、自分の価値観に基づいて周囲にあるものを「善」と「悪」とに分類したりするのは、その一例である。多分ペルセウスはメドゥーサを剣で切る事により、自分を本能的な暴力性や欲望といった「悪いもの」の奴隷にしようとする無意識に引きずられない、強い自我意識を手に入れたのだろう。次にペルセウスは、「剣」で切り倒すか、もしくはメドゥーサの首を見せて石化させる事でケートスを倒す。ケートスとメドゥーサは元を辿れば同じ「グレートマザー」の否定的な側面の化身であるため、ケートスにメドゥーサの首を見せる行為は、メドゥーサを「鏡」に映す行為との関連性が感じられなくもない。ケートスを倒したペルセウスは、この怪物の生贄にされかけていたアンドロメダを救い出し、やがて彼女と結婚する。ペルセウスとアンドロメダの結婚が表しているのは、私達の内側の世界における意識と無意識との調和だと考えられる。無意識は「私」の自我意識を呑み込み解体しようとする恐ろしいものとして働く事もあるが、同時に何かを「生み出し」たり、「他者」を「理解」し柔軟に「受け入れ」ようとする想像力の源でもある。この「他者」とは、相手の人間と言うより、現時点での自分の価値観や世界観では理解できないもの全ての事だ。自分は「母」の「生み出す」ものを享受し「母」から無条件に「受け入れられる」側の存在であると何時までも思っていたり、「母」の「生み出す」力や「受け入れる」力が「支配する力」や「呑み込む力」として否定的に感じられていたりする内は、自分で何かを「生み出す」事や自分と異なる「他者」を「理解し」「受け入れる」事は出来ない。無意識の否定的な側面=「呑み込む太母」であるケートスを倒し、肯定的な側面であるアンドロメダ=他者を「受け入れ」たり何かを「生み出し」たりする力をもたらす「関係の原理」を獲得する事で、私達の人格は初めて完成されたものになる。
そうして「グレートマザー」の否定的な側面の化身であるメドゥーサやケートスの殺害=「母殺し」を行い、“女性的なもの”の肯定的な側面である創造的な力を自分自身の力として獲得したペルセウスは、最後に「父殺し」を行って「王」になる。此処での「父」とは「正しい」道を指し示す存在の象徴であり、私達が善悪を切り分ける時の価値基準そのものの化身と言っても良い。初めの内、その価値基準を定めるのは私達の生きる社会である。どんな社会にも、それぞれにその中で積み重ねられて来た価値規範が存在する。その文化的社会的な価値規範は、其処に属する人間に対し、自身の無意識や欲求のままに振る舞うのではなく、その社会のルールに従って生きるよう要求する。私達はその価値規範を「正義」=「父」とし、その社会のルールに従って善悪を識別する。しかし、それだけではまだ不十分だ。私達はただ決められた社会のルールに従うのではなく、自分でその価値規範が「正しい」と納得した上で、改めて自分からそのルールを選び取らなくてはならない。或いは、もし今の社会の価値規範よりも「正しい」ものがあると「私」の意志が判断したのなら、私達は今まで従って来た古い価値規範を拒絶し、自分が「正しい」と思う新しい価値規範を以て古い「正義」と対決しなくてはならない。この場合は、殺されるべき古い価値基準が間違った「地上の父」の姿でイメージされるのに対して、それよりも「正しい」ものがあると思う「私」の自我意識は「天の父」の「息子」として感じられる。何れにせよ、自分の中で「正義」を決める主体=「王」は、あくまでも「父」ではなく自分でなければならない。そうして自分の意志で何らかの「正義」を選んだ時に、私達はもはや「父」に従う「息子」ではなくなり、代わって自分自身が「父」になる。ペルセウス神話には、ペルセウスの実の父であるゼウスの姿で「天の父」が、二人の人間の男の姿で「地上の父」が登場する。二人のうち一人は、ペルセウスの祖「父」であるアルゴス王アクリシオスだ。ペルセウス神話は、このアクリシオスが「娘のダナエに息子がいれば良いのに」と望む所から始まる。その望みに応えるようにダナエはペルセウスを生み、何事も無ければアクリシオスは、自分の息子を可愛がる「父」のようにペルセウスを愛した筈だった。しかしペルセウスは普通の子供ではなく、何時かアクリシオスを殺す運命を背負っていた。ペルセウスに殺される事を恐れたアクリシオスは孫と娘を追い出し、二人はセリーポス島という場所で暮らす事になった。其処で、もう一人の「地上の父」が登場する。それが、ダナエに横恋慕して強引に思いを遂げようとする、言い換えれば無理やりペルセウスの継「父」になろうとするセリーポス島の王ポリュデクテスだ。ペルセウスがメドゥーサを倒しに行ったのは、ダナエと結婚するのにペルセウスの存在が邪魔だったポリュデクテスが、そうするよう仕向けたからである。アンドロメダと結婚したペルセウスは、最初にメドゥーサの首でポリュデクテスを石化させ、その後に祖国アルゴスへ戻って、ペルセウスを恐れて逃走したアクリシオスの代わりに新しいアルゴスの「王」となる。しかし後に意図せずして祖父のアクリシオスを事故死させてしまい、祖父の死を悲しんだペルセウスが他国の王と領土を交換した所で、ペルセウス神話は完結する。
冒険に出て「竜」や「怪物」を倒し、救い出した「姫」と結婚して「王」になるストーリーは、ペルセウス神話だけでなく多くの別の神話や昔話にも受け継がれ、一つの類型として扱われている。日本にも、英雄スサノオが八岐大「蛇」からクシナダ「姫」を救い出すペルセウス・アンドロメダ型の神話が伝わっている。しかも、このスサノオの神話には、アテナと同じく男性的自我を持った女性のイメージ像らしきものが登場する。それが、荒れ狂う海神スサノオを男装で迎える天照大神だ。此処でスサノオが暴れるのは冥界にいる「母」神イザナミに惹かれている為だが、彼女は元を辿れば淡路島の海人に信仰されていた「海」の女神である。そして日本神話では、多くの神々の「生み」の親でもある。「母」や「海」等のシンボルが彼女の周りに集まっている事を考えても、日本神話で「グレートマザー」に該当する存在は、このイザナミだと思われる。イザナミは最後に「火」の神カグツチを生み、その所為で命を落とす。「火」は人が「人為」的に生み出すものの象徴であり、無意識の「闇」を照らして其処にあるものの形を明らかにしようとする意識の「光」を表すシンボルの一つでもある。それを考えると、イザナミの死と引き換えにカグツチが誕生したのにも何らかの意味を感じなくもない。ただしカグツチの「火」にはイザナミの体を内側から焼く暴力的なイメージが纏わり付いており、その為か生まれて間もない内に、カグツチはイザナミを失った悲しみに暮れる夫のイザナギによって殺されてしまう。その後イザナギが冥界までイザナミを追い掛けて行き、愛する妻の恐ろしい姿を見る展開には、「グレートマザー」が「原母」的なものから恐ろしい「呑み込む太母」に反転する心の過程が見て取れる。天照大神は、追い掛けて来るイザナミを振り切って決別したイザナギが、配偶者無しで左目から生んだ子供の一人である。つまり天照大神は、ゼウスの頭部から生まれたアテナと同じく、「父の娘」という事になる。それを言うならスサノオも「父」から生まれた筈なのだが、此方は自分を「母」イザナミの息子だと認識している。両者の違いをより際立たせるように、天照大神は「天」の最高神となり、スサノオは「母」なる「海」を治める神になる。太陽神でもある天照大神は、初めて「火」の形で登場した時はすぐに殺されてしまった「光」を連想させる女神でもある。彼女は「男性」的な存在として、“女性的なものに支配された男性”であるスサノオと対決する。二人は「誓約(うけひ)」を行い八柱の神を生むが、天照大神の生んだ神は全て「男」神であるのに対し、スサノオが生んだのは全て「女」神である。誓約が終わるとスサノオはますます暴れ、その所為で天照大神の治める高天原の機織り女が機織り道具で陰部を突いて死んでしまう。それを知った天照大神は岩屋に籠って出て来なくなり、世界は闇に包まれる。通説では、機織り女の死は天照大神の処女喪失を示す隠喩であり、天照大神が岩屋に入るのは処女性の喪失による疑似的な死を示しているとされる。つまり男性的自我を体現する天照大神は、「グレートマザー」=無意識の化身であるイザナミによって支配されたスサノオに一度は敗北して死を迎える。しかし彼女は後に復活し、スサノオは「天」に拒絶されて追放される。天照大神は、スサノオを「母」のように優しく無条件に「受け入れる」女神では無かったのだ。此処に、「女性」=「グレートマザー」という図式は完全否定される。受け入れられなかったスサノオは、やがて「グレートマザー」の否定的な側面を表す恐ろしい「蛇」と対決し、「裁断の原理」=「剣」(意識と無意識を切り離し、善悪を識別する力)と「関係の原理」=「姫」(自分と異なる他者を受け入れ、創造的なものを生み出す力)を獲得する。(ただし、この後スサノオはイザナミが行った「妣(はは)の国根の堅州国」の神となり、「グレートマザー」の破壊道具を連想させる“恐ろしい男性”になっている。)
此処までに挙げた神話を踏まえた上で、改めて宮崎駿の映画に頻出する「水」や「大地」等の「自然」と女性的なものとの繋がりについて考えてみると、これらが宮崎駿自身の無意識の領域に関連するイメージであった事が窺える。恐らく『紅の豚』のジーナや『ハウル』のソフィーが「グレートマザー」の肯定的な「原母」の側面であり、『千と千尋』の湯婆々や『ハウル』のサリマンが恐ろしい「呑み込む太母」の側面だったのだろう。(ジーナやソフィーがアンドロメダ=「関係の原理」では無いと思うのは、彼女達がファンタジーの外側にいる「他者」へ手を伸ばすよう主人公に促すのではなく、ファンタジーの中に留まり続ける主人公を肯定する為の存在だからだ。)人を豚に変える湯婆々の力は、ギリシャ神話で「グレートマザー」の否定的イメージの体現者として現れる魔女キルケの、犠牲者を怪物や豚に変える能力とそっくりだ。『千と千尋』で千尋が迷い込んだ「異界」は、私達に理解できる範囲の世界と、私達には理解できない世界…この場合は私達の中に在って私達自身にも把握できない無意識の領域との境界線上に発生した世界だと思われる。そもそも「物語」とは、元を辿れば人の内側にある世界の事だ。人の内側の世界は或る特定の価値観もしくは世界観に支配されており、私達はその世界観越しにしか周りの世界を見る事が出来ない。そうした価値観や世界観、それらを通して見える外の世界の全てが、言ってみれば「物語」である。自分の「物語」の面影は、私達が見るもの全ての中に隠れている。しかし、鏡に映る影を自分だと理解するように、その面影が自分の「物語」の面影である事を理解するのは、とても困難な作業である。自身の内側に目を向け、自分の「物語」がどのような形をしているのか明らかにしようとするのは猶更だ。そういう自身の内側にある「物語」を何らかの「見える」形で表現しようとする時、その表現の場は「見える」(理解し形に出来る)世界と、「見えない」(理解できず形にならない)世界の境界線上に在る「異界」として機能する。無意識の領域に近い「異界」の深部まで進み、表現できる領域を押し広げようとする程、その「物語」は個人の本質に近い所まで迫る事が出来る。ただし幾ら肉薄しても全てを理解するのは不可能なので、どんな表現者も何処かでこれ以上は「見えない」という限界に突き当たる事になる。これは単なる私のイメージなのだが、「物語」の表現の場である「異界」が「水」に侵食されるというのは、「物語」の表現者が表現できる限界まで近付いている兆候のように感じられる。どれだけ形にしようとしても決して全貌を理解する事の出来ない無意識を強引に表現しようとすると、それが深淵から侵食して来て表現者を圧倒する「水」の形になるのではないかという気がしてならないのだ。『千と千尋』で元の世界へ戻ろうとした千尋を阻み、湯屋の周囲を海に変えたのも、そういった「水」なのではないだろうか。
2008年に公開された『崖の上のポニョ』は、宮崎駿監督作品の中で、この「水」=「母」というテーマが最も明確に描かれた映画である。本作では、最初から最後まで「海」が物語世界を支配している。其処には「母」なる海の女神グランマンマーレが居て、ヒロインのポニョは彼女の娘である。ポニョの父親のフジモトは人間から海の眷属になった男性で、グランマンマーレの夫ではあるが明らかに対等な夫婦関係では無く、何方かと言えば「グレートマザー」の男性従者である。(男性従者と言っても、フジモトは先述したような「グレートマザー」に支配された獣と言うよりは、受動的で草食系の…寧ろ植物を思わせる所がある。ノイマンによれば、自我意識が「グレートマザー」から分離し始める最も初期段階では、自我意識は植物としてイメージされる事が多い。彼等は花のように容易く「グレートマザー」に手折られ、「生むもの」である「グレートマザー」の豊饒性の道具として、「生ませるもの」=男性の機能を捧げる。)本作中の「海」もまた生命を「生み出す」豊饒な「原初」の海であり、その一方で死後の魂が還る冥界でもある。生命の源である「原初」の海としての側面は、「命の水」の力でカンブリア大爆発が起こった直後のようになった後半の海の描写に見て取れる。冥界としての側面は、舞台が現代であるにも拘わらず何故か大正時代の夫婦が小舟で漂い、介護施設で暮らす老女達が不自由な肉体から解き放たれたかのように海中を走り回る描写から垣間見える。また、グランマンマーレが作中に初めて登場する場面では、戦艦のような船が水平線の彼方を埋め尽くすようにひしめき合い、それを見ていた者に「船の墓場」だと恐れられる箇所がある。これは、死んだ飛行機乗り達の飛行機が無数に空の果てを飛んで行く、『紅の豚』の死後の世界を思い起こさせる光景だ。極めつけはヒロインの名前で、彼女は主人公の宗介にポニョと名付けられる前は、ブリュンヒルデという名前だったとされている。ブリュンヒルデとは、死んだ戦士の魂をヴァルハラ宮殿へ連れて行く北欧の女神の名前だ。先ほどの「船の墓場」の光景と併せて考えると、宮崎駿のイメージする死後の世界とは船や飛行機に象徴される戦時中の兵士達が還って行く海や空の果てであり、だからこそポニョには死んだ戦士を迎えに来る女神の名前が付けられたのではないかと考えられる。『ポニョ』の物語は、五歳の少年である宗介とポニョが出会う所から始まる。三菱の軽自動車で職場のデイケアサービスセンターに通う母親のリサと暮らす宗介の世界は、何方かと言えば「現実」的だ。しかしポニョと出会ったのを皮切りに、宗介の世界は「現実」的なものから乖離して行き、最後には海に呑み込まれて生と死の境界線すら存在しない奇妙な「異界」に変貌してしまう。その「異界」で、宗介はポニョや母親のリサの為に冒険する。だが、宗介の冒険はリサとグランマンマーレの相談の下で取り決められ、二人に優しく見守られながら行う安全な「冒険ごっこ」だ。これは、“「母」のような女性に守られるファンタジーの世界でだけ「男」らしく「飛ぶ」事が出来る”『ラピュタ』や『紅の豚』と同じ構図である。『ポニョ』の場合はこの構図から「飛ぶ」モチーフが欠け落ちており、「飛行機」の代わりに男らしさや冒険を象徴するのは「船」になっている。(『紅の豚』で描かれた「飛行機の墓場」が、『ポニョ』では「船の墓場」として描き直されているのも、その為だと思われる。)「船」は「飛行機」よりもずっと「母」なる「海」に近く、本作における「男性」的なものの力が「母」なるものに対して今まで以上に弱まっているようにも思える。宗介とポニョは、まるで産道を通る赤ん坊のように暗いトンネルを通り抜け、「母」(と、その「男性従者」である矮小な「父」)に定められた試練を達成する。前半ではずっと宗介とポニョを引き離そうとしていた父親のフジモトは、試練を潜り抜けた宗介を認めて彼と握手を交わし、ポニョを託して去って行く。この握手の場面から私が思い出すのは、『千と千尋』の最後でハクと千尋の手が離れるシーンである。これは、千尋がハクの「母」にならずに去って行き、ハクが「母」の支配するファンタジー(もしくは死)の世界に取り残された事を象徴する場面でもあった。その時と同じく、宗介とフジモトが握手する場面では、二人の手だけがクローズアップされて映っている。フジモトの手が『千と千尋』のラストで「母」の支配する異界に留まり彼女の眷属になった矮小な「父」の手だと捉えるなら、その手が恐らくフジモトと同じ道を辿るであろう小さな「父」の手に後を託すシーンは、宮崎駿の自己完結を表しているように思えなくもない。この直後、ずっと海しか出て来なかった本作中の空には、初めて「空飛ぶ」ヘリコプターが現れる。
参考文献
・宇野常寛 著『母性のディストピア』 集英社
・エーリッヒ・ノイマン 著/林道義 訳『意識の起源』 紀伊國屋書店
・フリードリッヒ・ニーチェ 著/信太正三 訳『善悪の彼岸 道徳の系譜』 ちくま学芸文庫
・河合隼雄 著『ユング心理学入門』 岩波現代文庫
・河合隼雄 著『定本 昔話と日本人の心』 岩波現代文庫
・河合隼雄 著『神話と日本人の心』 岩波現代文庫
・河合隼雄 著『昔話と現代』 岩波現代文庫
・後藤明 著『「物言う魚」たち』 小学館
・後藤明 著『南島の神話』 中央文庫
・次田真幸 全訳注『古事記(上)』 講談社学術文庫
・ジャン・ボテロ 著/松島英子 訳『最古の宗教 古代メソポタミア』 法政大学出版局
・ジャック・ブロス 著/藤井史郎・藤田尊潮・善本孝 訳『世界樹木神話』 八坂書房
・秦寛博 編『樹木の伝説』 新紀元社
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