平田篤胤

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平田篤胤(ひらたあつたね)の国学は国家神道を正当化するイデオロギーとして用いられたので国粋主義の神道家の頭目と目されていました。

近年、新たな平田篤胤(ひらたあつたね)研究により民衆に近代化への意識改革をもたらした思想家として再評価されています。

長く武家社会が続き天皇家は力をうしない庶民の崇敬の対象は将軍や領主にあり氏神やその土地の神々になっていました。

天皇家の領地である禁裏御料の石高は小大名くらいの3万石くらいしかありませんでした。

天皇家にはもはや財力がなく277年間新嘗祭が途絶えていました。

再興されたのは徳川綱吉の元禄時代、吉田家においてでした。

幕末にアメリカ合衆国のペリー艦隊、黒船が来航しました。

日本はかつて経験したことがないくらい強力にアイデンティティーが揺さぶられました。

外国文化に影響されない日本人の精神的アイデンティティとして復古神道の「かんながらのみち」が受け入れられていったのです。

古代は「祭事(まつりごと)」が「政事(まつりごと)」だったので祭祀がそのまま政治でした。

明治政府は近代国家建設の国民統合の理念として王政復古を掲げて皇室祭祀による「祭政一致」の天皇制を推し進めました。

その中心となる建物が三種の神器の一つ八咫鏡が祀られた宮中の神殿と伊勢神宮でした。

のちに靖国神社が加わりました。

白虎隊や新選組などの幕府の賊軍は靖国神社に祀られませんでした。西南戦争で官軍と戦って戦死した西郷軍も靖国神社に祀られていません。

戊辰戦争で天皇の為に戦った兵士を慰霊すための招魂社が靖国神社の前身だったからです。

現在も靖国神社に祀られていません。

明治の国家神道、祭政一致の元になったのが復古神道です。

本居宣長(1730年6月21日〜1801年11月5日)は中国などの外国を「禍津日(まがつび)」の神が支配する曲がった心の国であり日本のみが「直昆霊(なおびのみたま)」の神が支配する正しい国だとしました。

本居宣長(もとおりのりなが)の復古神道を受け継いで発展させ大成させたのが平田篤胤です。

本居宣長は禍津日神(まがつひのかみ)を悪神だと考えましたが、篤胤(ひらたあつたね)は『鬼神新論(きしんしんろん)』で「禍津日神(まがつひのかみ)は世に穢(きたな)らしい事が起きれば、激しく怒り、凄まじい凶事を起こす大神だが、常には大きな御功徳(おんくどく)を授けてくれる、またの名を瀬織津姫という祓戸神であり、世の災難や罪穢(つみけが)れを祓ってくれる、善い神である。」と述べています。

荒魂(あらみたま)が怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは禍津日神の分霊の働きによるもので直毘神(なおびのかみ)が和魂に働くと荒ぶる心が鎮まるとします。人間の心は禍津日神(まがつひのかみ)の分霊と直毘神(なおびのかみ)の分霊を授かっていると考えました。

平田篤胤は今の菅首相と同じ秋田県生まれです。

平田篤胤は二十代で脱藩を決心して真冬の最も雪が深い1月に死を覚悟して江戸に向かいました。

秋田と山形の県境の峠で猛烈な吹雪にあって道に迷って遭難するのですが、その時に「左にいけ」という不思議な声に導かれて民家にたどり着き助かります。篤胤は強烈に神の加護を確信するようになりました。

江戸の貧しい生活に耐えながら古今東西のあらゆる本を読み解き、それを記憶し苦学して学者として大成しました。

篤胤が使用した机が残っていますが左肘が当たる場所に穴が開いてあり、そこに柔らかい肘当てを乗せて執筆していたそうです。

そのくらい不眠不休で書きつづけ、執筆に行き詰まると神々に祈り、疲れたら机の前で袴のまま寝て、起きると、また書きつづけたという凄まじいものだったという門人の話が伝わっています。

篤胤の研究は古伝、文学、民族学、易学、天文、暦数、地理、医学、解剖学、蘭学、兵学、キリスト教、仏教、道教、儒教と広範囲に渡っています。しかも、英語、ドイツ語、ロシア語、オランダ語にも通じていました。

平田篤胤は1812年に相思相愛の中だった愛妻織瀬を医術も祈りも効果なく31歳の若さで失っています。

家族の死をきっかけに霊界研究に没頭して寡暮らしの中1813年代表作「霊能真柱」を執筆しました。

篤胤は持ち前の博覧強記を発揮して、天御中主神と高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神が宇宙の開闢と天地創造した日本の神話伝説の正しさを世界中の資料からかき集めた図と文章で示しました。

人間が生きている間は天照大神(天皇)に従い、死んだ後、大国主が支配する幽冥界へ行きこの世の子孫たちを見守る存在 になると考えました。

幽冥界はこの国土の外の別のどこかにあるわけではなく、この国土の内のどこにでもあるけれども次元が異なるので目に見ることができないのです。

日本が世界の中心で大本であるという平田篤胤の考えは「竹内文献」に受け継がれて二・二六事件を起こした皇道派の軍人に影響を与えています。

1816年平田篤胤は今の千葉と茨城を旅して鹿島・香取神宮を参拝しました。その途中小浜の神社で夢に見た「天の岩笛」を発見しました。

篤胤はいたく感動して、平田学塾を「息吹舎」と改めました。

先日黒川さんの案内で平田篤胤が天の岩笛(あまのいわぶえ)を発見した銚子の神社を参拝しました。

海津見神社(妙見神社)があった場所をたまたま通りかかった人に聞いたところ2キロ先の海に消えた集落にあった話をしてくれました。話しかけたその人は奇遇にも平田篤胤の門人宮負定雄の子孫でした。宮負定雄は多数の著述があり下総国香取郡松沢村の名主でした。宮負家には仙界秘図や神品、奇石、秘伝書類など多数の資料が保管されていると伝えられています。

埋もれていた「天之石笛」を発見以後、息吹屋への神職、武士・豪農・商人の入門者が増えていきました。

幕末には四千人になり、その弟子たちによる平田国学のネットワークが幕府を崩壊させる上で絶大な役割を果したのです。

島崎藤村の長編小説「夜明け前」は平田国学の門人だった藤村の父親青山半蔵の幕末の物語です。

影響が大きくなり幕府に睨まれた平田篤胤は執筆を禁じられて秋田に追放となり、その2年後に失意のうちに秋田で死去しました。平田篤胤のお墓は秋田市にあります。

古代の律令政のもとでは祭祀を司る神祗官は政治を司る大政官の上位におかれ、国勢の中枢を担っていました。

明治政府は、神武復古をかかげ、天皇中心の国家体制を敷きました。政治を司る神祇官を含む太政官制度が廃止され、天皇の宗教的権威と公家の関係で成り立っていた朝廷は消滅しました。

しかし、途絶えていた鎮魂の祭祀を、水面下で継続してきた神祇官を外して、天皇家の鎮魂の祭儀はできませんでした。

罷免された白川家と吉田家は、改めて神祇官に任ぜられました。

吉田家と白川家は平田篤胤の古学教授を受けていました。

平田国学は大名の残酷な刑罰や過酷な年貢の取り立てをする将軍と大名、藩主と家臣、家臣と奉公人といった封建的主従関係よりも、古代にみられた天皇による祭(まつり)と政(まつりごと)による百姓が安心して暮らせるゆるやかな政治体制を考えていました。

平田派は最高神を造化三神におき、神の子孫である民衆が和して響きあう信仰の実践によるかんながらのみち(大祓詞の神々が合議して安国として平けくしろしめせ)を考えていましたが平田派と対立する津和野派国学者のかんながらのみちとは天照大神が最高神でありその子孫である天皇による政治体制だったのです。

新しい政府の要職に就いたのは維新の原動力となった薩摩・長州・土佐・肥前の出身者でした。

明治政府が作り上げたのは官僚が強力な国家権力を持つ中央集権国家でした。

長州の隣の津和野藩は国学が盛んで明治維新の政界に顔が利いていました。

明治4年に津和野派国学者と対立する平田派が粛清される事件が起きて平田派は神祇官から排除されてしまいました。

津和野派が神祇官の主流を占め、伝統的な神祇宗家である吉田・白川両家の影響がある全国の神社の神職(神官)の世襲が禁止されました。

幕末に隆盛を誇った平田派でしたが津和野派に敗れると明治政府の中枢から排除され衰退しました。


http://mahoranokaze.com/blog-entry-1619.html 【玉崎神社(3)-天の石笛】より

 今日も真夏日というより猛暑日で真夏本番みたいでした。

ここ土日は2週にわたって何処にも出かけずに家の中でノンビリしていました。

それでも昼間は汗が噴き出してきます。

ブログの記事はすこしずつ調べながら今までのものでしばらく繋いで行きます。

最近のブログのアクセス数(ページビュー)が増えて来ていてここ1週間の平均が350件に達しました。

何処を読んでくれているのか不思議ですが、もし気にいっていただけた記事などがあれば拍手などいただけると嬉しく思います。

 さて、先日訪れた九十九里浜北端の飯岡の玉崎神社の記事の続きです。

今日はこの神社にあった天の石笛(あまのいわぶえ)についてです。

旭市指定文化財 天の石笛

        附 霊石(子宝石)三十五個

        附 石笛        八個

 この石笛は、享保3年(西暦1718年)頃、漁師の網にかかり奉納されたもので、石質は飯岡石(凝灰質砂岩)です。

頭部に直径30㎝深さ40㎝の溝穴があり、側面にも穴があって、風が吹き込み、妙音がした。

 漁師は、この音によって出漁を占い、霊石として祭祀されています。(現地の看板)

江戸時代の国文学者(神学者)平田篤胤が40歳くらいのある時、不思議な笛を得る夢を見たという。 そして1815年(文化12年)4月に東国三社(鹿島神宮・香取神宮・息栖神社)参りの旅に出た。

そしてその帰りに立寄った銚子の神社で、夢に見た笛とそっくりな石が 神社に奉納されているのを見つけた。

それは近くの海岸にあった不思議な石を神社に奉納したものであったが、それをなんとか譲り受けることが出来、その石に「天の石笛(あまのいわぶえ)」と名付けた。

それが今、渋谷の平田神社に残っている。 (篤胤の弟子が著した『天石笛之記』に書かれている)

(こちらに写真があります。でも似ていない?)

この石笛は風が吹き込むと妙なる音を発するので、この音の変化によって、当時の漁師は明神様が漁況を神示せて下さるのだと畏んだのである。

浜の漁夫たちに伝えられ、それからは、【石笛がなると海が荒れる】という漁夫たちの言い伝えとなり昔話として今に語られている。

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夜に風雨が荒れた翌朝、源助という漁師が飯岡の浜(五の浦)で海を渡ってくる風の音に混じって澄んだ笛の音を聞いた。そしてその日は海はきれいであったが途中から大荒れになり命からがら逃げかえった。

その夜に枕元に妙見様があらわれ、「笛は天の石笛といって海が荒れるのを知らせているのだ」と告げた。

これから「石笛が鳴ると海が荒れる」と言い伝えられるようになり、石笛を奉納するようになった。

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(神社HP)

平田篤胤はこの頃のこの神社とこの石の関係を「石笛の記」の中で、

「玉ヶ崎の寄り石とまをすは、此の浜に寄り集る石にて、よのつね人の一つもとれば神のとがめあり、年毎の正月十五日より二十日までの六日間のみ、別当その石を売るならひなるを、近き村々より買い取りて屋根のしずめ石にもおき、石垣にも用ふるなり。行き来見給ふべし」

と述べているが、その後に多くの石が持ち去られたようです。今ではあまり見つからないとのことです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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