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検証ほつまつたゑ120号 ハタ考 その1
『検証ほつまつたゑ』の第120号(令和4年4月号)に掲載していただきました!
今号は、記念すべき創刊20周年だといいます!!!おめでとうございます✨
由緒も歴史もある検証誌へ寄稿できていることは本当に身にあまる光栄だと毎回のことながら思っています!ありがとうございます。
さて、今回のテーマは秦氏(はたし・はたうじ)です。
2回にわけて連載してゆきます!
↓詳しくはブログをご覧ください
https://ameblo.jp/navihico-8/entry-12738574273.html【検証ほつまつたゑ120号 ハタ考 その1】より
『検証ほつまつたゑ よみがえる縄文叙事詩』というホツマツタヱ研究同人誌の第120号(令和4年4月号)に掲載していただきました!
今回は、記念すべき創刊20周年だといいますおめでとうございます
由緒も歴史もある検証誌へ寄稿できていることは本当に身にあまる光栄だと毎回のことながら思っています ありがとうございます
さて、今回のテーマは秦氏(はたし・はたうじ)です。2回にわけて連載してゆきます!
ハタ考 その1
秦氏(はたし・はたうじ)は、古代氏族のひとつです。渡来系の氏族ながら地方豪族をしのぐ一大勢力となり京都・平安京の造営にも関わったといいます。
けれども、政治の表舞台にあらわれることが極端にすくなかったため「謎の氏族」ともいわれさまざまな議論が交わされているようです。
【大酒神社・柱が八角形の鳥居】(秦氏の祖神を祀る)
第15代・応神(おうじん)天皇の世に秦氏は日本に渡って来たといいます。
古事記には、『秦造之祖……參渡來也』とあり日本書紀には、『弓月君(ゆづきのきみ)』
が百済よりおおくの民をひきつれて帰化したとあるようです。
古代氏族の出自をまとめた「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」によると『弓月君』は秦(しん)の始皇帝の子孫であり秦の民とともに帰化したことから『秦王』と呼ばれたようです。
秦のひとびとは養蚕や絹織物に精通していたらしく応神天皇がこれを着てみたところ
柔らかくて肌(はだ)にも暖かかったことから「波多(はた)」姓をたまわったといいます。
これが、「秦(はた)」氏のはじまりだそうです。
【大酒神社の石碑】[蚕養機織管絃楽舞之祖神][太秦明神 呉織神 漢織神]
応神天皇の時代というのは、母・神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐によって
諸外国との交流が本格的にはじまった時期でもありおおくの文化が大陸から渡ってきたといいます。
なかでも秦氏は養蚕・機織だけでなく酒造・土木事業(治水)・芸能・医療(薬学)・神事・製鉄などさまざまな分野で技能を活かす職人集団だったようです。
ただし、古代氏族は血縁のみによらず「盃を交わす」ようにして勢力をひろげていたといいますから秦氏もおおくの渡来人や日本人をふくむ集団だったようです。こうして、各地に勢力圏を築いたといいます。
【たなばた神社 (奈良・葛城) 】
第15代・応神天皇の時代に渡来した秦氏は、奈良・葛城の掖上(わきがみ)の地をあたえられたといいます。
第16代・仁徳(にんとく)天皇の時代には、淀川(よどがわ)に茨田堤(まんだのつつみ)を築いて大阪平野の治水をおこなったといわれ寝屋川(ねやがわ)や交野(かたの)にもひろがったようです。
第21代・雄略(ゆうりゃく)天皇は秦酒公(はたのさけのきみ)を寵愛して、秦氏を統率させたといいます。
租税の絹が「うずたかく」積みあがったことから『うずまさ』姓を賜り秦氏の首長を「太秦(うずまさ)」といったようです。
【機物神社 (大阪・交野) 】
第29代・欽明(きんめい)天皇は幼いころに夢のお告げがあり「秦大津父(はたのおおつち)
を寵愛すれば、必ず天下をおさめる」と聞いたそうです。
そこで、全国を探したところ京都の伏見(ふしみ・深草)でみつかったといいます。
話をきいてみると、大津父は伊勢の帰りの山のなかで血まみれで争っている2匹の狼に出会ったそうです。『このままでは、猟師に捕らえられてしまいますよ』というと、大津父は
2匹の血をぬぐって狼の命を助けたといいます。
欽明天皇はこの話に違いないとして大津父をとりたてたところ富をかさねて豊かになったそうです。
大津父は「大蔵省(おおくらのつかさ)」に任命され以後、秦氏は財政も担ったといいます。
【松尾大社参道と松尾山】
第33代・推古(すいこ)天皇の世には聖徳太子(しょうとくたいし)とともに、国づくりを行った秦河勝(はたのかわかつ)が登場します。
秦氏は京都盆地に進出していたらしく治水事業によって、豊かな土地を手に入れていたようです。「河勝」には「河に勝つ」という意味もあるらしく葛野大堰(かどのおおい)を築いて桂川(かつらがわ)流域を拓いたといいます。
秦河勝が創建した蜂岡寺(はちおかでら・広隆寺)には聖徳太子の仏像が祀られたそうですが
この地はいまでも「太秦(うずまさ)」と呼ばれています。
飛鳥の朝廷と結びついて京都盆地の統治を任されていたようですね。
河勝の子は、滋賀の愛智(えち)や長野の桑原(くわばら)にうつって勢力をさらにひろげていたといいます。
なかでも、長男・秦田久津(はたのたくつ)は白村江の戦いにも参戦して悲運の死を遂げたそうです。
飛鳥時代から奈良時代へとかわる激動の世では秦氏も敵味方にわかれて奮戦したといいます。
聖徳太子に重用されていたものの聖徳太子の一族に仕えたわけではなくあくまで職務をまっとうしていただけというのが秦氏のありかたでこれによって、秦氏はどんな朝廷・政権にも仕えることができたようです。
【嵐山の渡月橋】(大井神社は大堰神を祀る)
第40代・天武(てんむ)天皇や第41代・持統(じとう)天皇という戦乱をおさめた側に
とりたてられたのは、そうした気質によるのかもしれません。
701年には京都・松尾大社(まつおたいしゃ)の社殿が創建されて秦都理(はたのとり)が奉斎したといいます。
711年には京都・伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)の社殿が創建され秦伊呂具(はたのいろぐ)が奉斎したといいます。ふたりは兄弟で、秦氏の首長だったともいうようです。
717年に白山(はくさん)をひらいた僧・泰澄(たいちょう)も秦氏といわれていて秦氏は白山信仰にも関わるようです。
【白山神社 (平泉寺) 】
第50代・桓武(かんむ)天皇は平安京への遷都をおこないましたが京都盆地を拠点とする
秦氏の協力によって造営されたらしく大内裏の地は秦河勝の邸宅跡だったともいうようです。桓武天皇自身にも渡来の血が混ざっていたこともあり渡来系の氏族がおおいに活躍した時代だったそうです。
また、秦氏には仏僧もおおく平安時代の二大仏教(密教)である天台宗(てんだいしゅう)の最澄(さいちょう)や真言宗(しんごんしゅう)の空海(くうかい)も秦氏との関わりが深いといいます。
遷都理由のひとつが権力をもちすぎた奈良の仏教勢力から離れることでしたから新しい仏教の見極めにも秦氏が関わっていたのかもしれません。
【神泉苑】
平安時代以降は、秦氏は政治から距離をおいたのか表舞台にほとんどあらわれなくなったといいます。
とはいえ、惟宗氏・島津氏・長宗我部氏などさまざまな氏族に分かれたらしく勢力が衰えたわけではないようです。
もしかすると、各地方から国を支えるという朝廷の支持母体になっていたのかもしれません。その姿はどこか、全国の神社の境内にあわせ祀られているお稲荷さまを思わせます。
秦氏が奉斎したといわれる伏見稲荷大社の信仰が全国にあまねくひろがっているのはいったい何を意味しているのでしょうか?
【伏見稲荷大社の狛狐】
秦氏といえば、太秦の三柱鳥居(みはしらとりい)でも知られています。
木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社の禁足地にあり3つの鳥居があわさった不思議な形をしています。
鳥居の向かう方角は、夏至や冬至の日の出・日の入にあたり松尾大社・伏見稲荷大社・双ヶ丘など秦氏の聖地がならんでいるといいます。
三柱鳥居は「三位一体(さんみいったい・トリニティ)」をあらわしているともいわれ
秦氏は大陸の景教(キリスト教ネストリウス派)・大秦寺からやってきたという話もあるようです。
そこからさらに、ユダヤ人や失われた10氏族とも結びつけられて秦氏は「日ユ同祖論」のひとつにもなっているといいます。
【木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居】
「新撰姓氏録」にある「秦の始皇帝の子孫」とは秦氏の権威づけのためだったともいわれ、
彼らがどこから来たのかについてはさまざまな説があるようです。
さらに、秦氏の渡来時期も応神天皇以前にさかのぼることができるといいます。
第14第・仲哀(ちゅうあい)天皇は山口の豊浦宮(とゆらのみや)[忌宮(いみのみや)神社]で来日・帰化していた功満王(弓月君の父)と会い蚕の卵を献上されたといいます。
日本の養蚕は、ここからはじまったとされるようです。
また、このときにはすでに大分・宇佐神宮(うさじんぐう)のあたりに『秦王国』が築かれていたともいいいます。
【忌宮神社の石碑】[蚕種渡来之地]
宇佐神宮は八幡(はちまん)信仰はじまりの地だそうです。
当地の宇佐(うさ)氏 大和の大神(おおが)氏 渡来系の辛嶋(からしま)氏が、ともに
管理をしたようですが辛嶋氏もまた秦氏だといいます。
八幡神=応神天皇とされたのも秦氏の渡来にゆかりがあるからでしょうか?
辛嶋氏は、福岡の香春岳(かわらだけ)を聖山としていたらしく渡来の神を祀って銅の採掘をおこなっていたといいます。
また、「幡」は「秦」であり「八幡上(神)」は「ヤハウェ」に通じるとしてユダヤ・イスラエルと結びつける説もあるようです。
【宇佐神宮の南中楼門】
第12代・景行(けいこう)天皇から第16代・仁徳天皇まで仕えた武内宿祢(たけうちのすくね)は、長男を波多八代(はたのやしろ)といい波多(はた・羽田)氏の祖になったといいます。
秦氏渡来以前から「ハタ」を名乗っていたようですがこの一族もやがて、秦氏と不可分になったようです。
第10代・崇神(すじん)天皇の世に渡来したとされる新羅のアメヒボコ(天日槍)や加羅のツノガアラシト(都怒我阿羅斯等)の所縁の地にも秦氏が流入していたといいます。
紀元前200年ごろには秦の始皇帝から命をうけた徐福(じょふく)が霊薬を求めて日本にやってきたといいますが徐福到来伝説の残る地も秦氏の地とかさなるらしく秦氏は徐福の子孫ともいわれるようです。
これは、第8代・孝元(こうげん)天皇の時代でしょうか?
【熊野速玉大社の絵解き】
こうみてゆくと秦氏の拠点というのは異国のひとびとが流れつくような湾港や沿岸におおいようです。
もしかすると、渡来人ゆかりの協同組合的な存在だったのかもしれません。
「ハタ」を「端・傍」とすれば、陸の「端(はし)」にある沿岸部や日本の「傍(そば)」にある隣国のこととなり渡来人の総称という意味もありそうです。
秦氏が伝えたとされる機織や養蚕はホツマツタヱによれば日本古来のものであり歴史も古いようです。
機織は、天照大神以前までさかのぼり「星まつり」が関わるといいます。
ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メの八皇子のうち「ホ」の尊からはじまるのかもしれません。
経糸と緯糸を編みこむ機織は男女の交わりや国の統治にも例えられて重要な行為とされていました。
いまでも、経度・緯度というように世界のすべてを「衣」に写しとり世界と一体になる意図があったようです。
【気比の松原】
養蚕は白山姫(しらやまひめ)[菊理媛(きくりひめ・ここりひめ)]が天照大神の産着を織ったという「コヱネ国(越州)」でおこなわれていたようです。
また、八皇子の子・ウケモチ(保食神)の8代孫にあたるカダ(荷田・葛)は繭から絹糸をつむぐ
「コカヰ(養蚕)の道」を教えたといいます。
おそらく、ウケモチの一族も養蚕を行っていたのでしょう。
トホカミヱヒタメの八皇子は「八幡信仰」
白山姫は「白山信仰」
ウケモチ・カダは「稲荷信仰」につながってゆきます。
これらすべてに秦氏が関わっているというのも偶然ではないのでしょう。
【宇佐神宮・本殿前の八子神社】
(八王子神を祀る)天照大神の時代には「ハタレ」という勢力が各地で兵を挙げて国をゆるがす
大動乱がおこったといいますが「ハタレ」もまた「ハタ」が含まれています。
ぼくは、かれらこそ「秦氏」のはじまりだと考えています。
次号では、その理由を述べてゆきたいと思います。
ところで、私事で恐縮ですがいま住んでいる大阪・池田も秦氏の地だといいます。
応神天皇の時代に渡来した縫工女のクレハトリ(呉服)アヤハトリ(漢織)が暮らしたといわれ
「呉服(ごふく)」「綾織(あやおり)」もおふたりからきているようです。
【呉服(くれは)神社】(クレハトリ墓所)
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