争ひの双方黙る扇風機

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FacebookChihiro Sato-Schuhさん投稿記事【判官びいき】

世間であまりにも悪者扱いされている人がいると、その人は本当は言われているような悪い人ではないのでじゃないかと思えてくるということがある。そういうのを日本では、判官びいきと言っている。

実際、まったく一方的に悪い人間などいるはずもなく、たとえ世間に迷惑をかけるようなことをしたとしても、それにはそれなりの事情があるのが普通だ。しかも、それが時の権力者に咎められたというようなことであれば、何かしら権力争いで陥れられたという可能性も多分にある。

そういうときに、一方的に悪者扱いされている人の方の身になって考えてみるというのが、判官びいきというものだ。それは、世間一般の見解の歪みみたいなものを修正しようとする、日本特有のバランス感覚なのだと思う。

判官というのは、源頼朝の異母兄弟の源義経のことで、この人は源平合戦で功名を立てたものの、のちに頼朝に非難されて、自害することになった。だから、当時は世間から轟々の非難を浴びたわけなのだけれど、義経は庶民の間で圧倒的に人気がある。ということは、庶民の目から見て、義経に対する非難は、どこかしら不当に思えるようなところがあったのかもしれない。

ウクライナの戦争が始まってから、プーチンがあまりにも悪者扱いされているので、私は自然な心情として、判官びいきをしたくなった。戦争では、どちらが一方的に悪いなんてことはなくて、それぞれに言い分というものがあるはずなのだ。それなのに、そういう議論がまったくなくて、世界中がいきなり頭からプーチンが悪いと轟々の非難を浴びせているのだから、何かが隠されているのじゃないかと思うのも当然のことだと思う。

それでいろいろな情報を見ていたら、プーチンはウクライナを占領したくて侵攻したわけではないことがわかってきた。ロシアはウクライナが中立に留まることを要求していただけなのだ。そして、軍を出すまでにいたったのは、そもそもウクライナが8年も前から東ウクライナのロシア語地域で無差別攻撃をして、ロシアを挑発し続けていたからだ、ということもわかってきた。

そうしたことを世界中のメディアはまったく言わず、ただロシアがウクライナを不当にも占領しようとしているように言い続けているのだから、どうもおかしな話なのだ。無差別攻撃についても、ロシアが行なっているかのように言っている。一昨日からドンバスの街の中心地がウクライナ軍のミサイルで攻撃されているのだけれど、それについてもやはり西側のメディアはいっさい伝えていない。そうしたことを考え合わせてみると、やはり義経と同様に、時の権力者に陥れられているのではないかと思わないではいられない。

ところで、私の投稿のスレッドに「これを見てプーチンのイメージが引っくり返りました」と言って、ある動画のリンクをシェアしてくれた人がいた。それは2011年にモスクワで行われたフィギュアスケート世界選手権の動画で、その開会式では、震災のあった日本を励ます意味での特別なセレモニーが行われたにも関わらず、日本のメディアでそれが放映されなかったという話だった。

その選手権は、もともと東京で行われる予定だったのだけれど、震災があったために、一ヶ月遅らせてモスクワで行われることになった。そのためロシアは、日本に対して気づかいを見せて、リンクの上に日の丸を表す赤い円を描き、そのまわりをさまざまな民族衣装を着たスケーターたちが手を繋いで取りかこみ、祈りのポーズを取るセレモニーを行った。それだけでなく、日本人が生放送で競技が見られるようにと、競技の時間を日本の時間帯に合わせてくれさえしたそうだ。開会のスピーチでも、プーチンは「原発の被害がいかにひどいものであるかを、私たちロシアは一番よく知っています」と日本に対する同情を示す言葉を述べていた。

ところがそのセレモニーを、日本のテレビが放映しなかったというのだ。これを日本人が見たら、ロシアやプーチンに対する印象が変わるかもしれない。ロシアは共産国だから恐い国なのだというような印象が植えつけられているのだけれど、日本にとってロシアは隣の国でもあり、昔から文化的な交流もあった国なのだ。ロシア革命時には、日本に亡命してきたロシア人たちもたくさんいて、ロシア文化がブームだったこともある。文学にしても音楽にしても、ロシアに深い敬愛を感じている人は多い。そのセレモニーの動画を見て、私はそうした自分の中にあったロシアへの親近感がいくつも浮かび上がってくるのを感じていた。

これを放映しなかったのは、私たち日本人がロシアへの親近感を掻き立てられたりしたら、困る人たちがいたからなのだろう。それが誰なのかは、想像がつく。日本を西側ブロックとしてロシアと敵対する関係にしておきたいアメリカの裏の支配者たちだ。

してみると、ロシア叩きはウクライナで始まったことではなかったのだ。すでに何年も前から作られていたことだった。ロシアは共産国だから恐いところで、人間味がないみたいな印象が作られていて、それとずれるような事実は、うまい具合に隠されていたのだろう。

支配者たちはつねに人々を分断してたがいに恐れさせ、戦わせることで支配してきた。だけど、そうした印象操作で作り出された恐怖を乗り越えたとき、そこにあるのは、人間と人間としてのつながりの感覚だけだ。異なる民族同士も、私たちはつねに違いを喜び合い、交流してきたのだ。ロシアと日本の間にも、そうした交流の長い歴史がある。

西側グローバリストたちは、ロシアを孤立させようと画策し続けてきた。ロシアがヨーロッパと繋がってしまったら、シティ・オブ・ロンドンやアメリカには勝ち目がなくなるので、何とか分断させておこうとしたのだ。それでたがいに敵対させるために、今度はウクライナにけしかけさせた。それと同様に、ロシアと日本も分断させておきたいのだと思う。この2つの国が協力関係を結んでしまったら、アメリカが支配できなくなるからだ。

ウクライナの戦争が始まってから、異常とも言えるようなロシアたたきが西側の国で行われているのだけれど、その一方で、西側ブロックの経済がもう終わりに瀕している状態なのが、だんだんと見えてきた。ロシアの経済が健全そのものの状態なのに対して、西側の経済はもうとっくに破産しているような状態だからだ。異常なロシアたたきを続けているのも、その最期のあがきとでも言うべきものじゃないかと思えてきている。

東西ブロックなどというものも、結局は支配者たちが勝手にこしらえたものにすぎない。私たちは、ただそれぞれにできることをして生きていて、他に人間がいれば、自然に興味を持ったり親近感を感じたり、助け合ったりしているだけのことだ。人工的に作られた分断が消えてしまったら、私たちは隣の国の民族を恐れることもなく、自然に共生しようとするだけなのだと思う。恐れを煽られたりしなければ、人間が自然に持つ感情は愛なのだ。

ウクライナのことでロシアに対する恐怖が急激に煽られたので、逆にこれまで私の中にあった分断の垣が解けてしまったような気がする。ロシアに対する親近感が、私の中でこれまでになく大きくなっている。そして、それこそは共生の感覚なのだと思う。同じ親近感を私はどこの国、どこの民族にも持つことができる。政治的に分断され敵対させられることがなければ、人と人とは自然に愛し合うだけのことなのだ。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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