調べ

https://livejapan.com/ja/article-a0000692/ 【俳句──研ぎ澄まれたな詩の世界】より

シンプルな五七五の句の世界

ここ10年ほど、俳句が世界的なブームとなっている。俳句には一応の決まったルールはあるものの、ごくシンプル。また内容もなんでもアリなので、理論上は誰でも簡単に俳句を作ることができる。俳句のルールは以下の通り。

・5文字、7文字、5文字の全17文字で構成されていること

・季語を一つ含んでいること

切れの美学

ルールを厳格に守ることより、むしろ切れの美学が重んじられるのが俳句。「切れ」とはまさに、極限まで短い言葉で、無限に広がる世界を表現する俳句独特の様式を物語っている。短い言葉だからこそ、受け取る人がそれぞれに解釈したり、行間を読んだりできるのが俳句の醍醐味だ。またこうした意図した短さ「=切れ」こそが、俳句を詠む難しさでもある。

俳句の創始者・松尾芭蕉

俳句を語る上で欠かせない人物が松尾芭蕉だ。俳句を芸術として完成させた人物としてあまりにも有名な芭蕉だが、彼の生前には俳句はまだ単独の様式として確立はしていなかった。

カエルの飛び込みと富士山の風

芭蕉の俳句には古典的な季語が含まれているものが多い。以下に有名な句を紹介しよう。

古池や furuike ya old pond

蛙飛び込む kawazu tobikomu a frog leaps in

水の音 mizu no oto water’s sound

富士の風や fuji no kaze ya the wind of Mt. Fuji

扇にのせて ōgi ni nosete I've brought on my fan!

江戸土産 Edo miyage a gift from Edo

お気づきだろうか? 富士山の句は17文字ではなく、18文字で構成されている。つまり俳句の名人すらも、文字数のルールを厳格には守っていなかったのだ。短い詩の中でいかに世界観を表現するかが俳句の重要どころであり、ルールは二の次だと言っていい。

(略)


http://tanka.ikaduchi.com/tanka-room06.html 【短歌の基本2】より

短歌の決まりは5・7・5・7・7の5句31音の韻律で詠(よ)むということだけです。

俳句のように「季語」などのややこしい決まりは一切ありません。

ですから皆さんも、どうぞご自由に詠んでみて下さい。

ただ、もちろん自由に詠んでよいのですが、よりよい作品を詠むためのいくつかの技法のようなものはあるので、それをここで少し紹介してみたいと思います。

【調べ(リズム)】について

短歌は詩であり、歌でもあります。

歌でもあるということは散文ではなく韻文であるということです。

「韻文である」ということを要約していえば、独自の「調べ(しらべ)・リズム」を持っているということです。

この「調べ(リズム)」はまず、5・7・5・7・7の定型に納めて詠めば最低限のものは自然に生まれるようになっています。

たとえば…

畝傍(うねび)山 天(あめ)の香具山 二上山(にじょうざん)  高取山(たかとりやま)に 耳成(みみなし)の山

これを声に出して読んでみて下さい。

ちょっと乱暴ですが、こんなふうに僕の地元の有名な山を即興で5・7・5・7・7の5句31音に適当に並べただけも、歌として最低限の「調べ(リズム)」は生まれます。

ですが、ここで少し考えてみてください。

この四句目、「高取山に」の助詞「に」を「と」に変えてみてはどうでしょうか?

畝傍(うねび)山 天(あめ)の香具山 二上山(にじょうざん)  高取山(たかとりやま)と 耳成(みみなし)の山

もちろんこれでも意味的(この歌に深い意味などないけど^^;)には、まったく問題はないですよね。

では、このような場合どちらを選べばよいのでしょうか?

はっきり言って一概に「こっちだ」とは言い切れないのですが「高取山に」の場合、後ろの「耳成の山」にリズム良く繋がるのに対して、「高取山と」だとこの部分でリズムが途切れて「調べ」が悪くなるように僕の場合は感じます。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ  (俵 万智)

捨てるかも知れぬ写真を何枚も真面目に撮っている九十九里  (俵 万智)

これらの歌も同じように声に出して読んでみてください。

何も言われなければ、すんなりと読んで「素敵な歌だなあ」ぐらいにしか感じないかも知れません。

しかし、それは読み手が「すんなりと読める」ように、詠み手が「調べ(リズム)」についてあれこれと推敲し、考え抜いた結果なのです。

このように短歌は「意味」だけでなく「調べ(リズム)」について意識して詠むことで、よりよい作品に仕上げてゆくことが出来るのです。

よいリズム感を養うためには、多くの歌人の優れた作品をたくさん読んでみるのがよいと思います。


https://www.enkan.jp/plus/yoshifumi-nagata/01-shirabe/ 【しらべの不思議 Ⅰ】より

永田 吉文

曇りがちの一日、時間がとれたので、日頃考えている事を整理してみた。家に籠もって静かな時間に浸るのもいいものである。

芭蕉が作った句は俳句ではなく発句(地発句を含む)であり、彼は現代でいう俳人ではなく俳諧師であった事は、今日では大学生でも知っている。俳文学の専門家のいる文化系の大学では、それがきちっと教えられている。現代では連句と呼ばれている俳諧之連歌こそ「老翁が骨髄」とまで芭蕉は言っている。五七五の発句だけで芭蕉を語るのは、彼にとっても不本意であると言えよう。俳句しか詠まない現代俳人が発句のみしか論じないのは当たりまえなのだが…。もっとも現代では連句も実作する俳人が増えつつある。寒太先生もその一人で、連句協会の方々と楽しまれているようだ。ご存じの方もあると思う。

俳句は詩である、と誰しも認識して疑うものは無い。俳句は五七五の定型であり、その音数律ゆえに「詩」であると。ならば、五七五の定型に嵌っていれば詩になる、と言えば嘘になる。内容に詩がなければ俳句とは言えない。ポエジーが必要と言える。ならばポエジーのある短句が詩なら定型はいらないのでは…。定型が詩の前提ではない。定型だから詩なのではなく、定型に詩を込める故に詩となる。詩にとって定型は必然ではないように思える。ならば定型とは何なのか。これはあくまで「日本の文芸において」と言う事を抜きにしては語れない。

西洋の文学理論で日本の詩歌を割り切ろうと論じても、一見矛盾無く構成できたかに見えるが、しかし何時しか深い落とし穴に陥っているように思える。西洋の文学理論で、まず詩(韻文)と散文とに二分して考えるところから、私には違和感がある。現代教育で教わって来たことが自分の実感とは違う、そんなことを言っても信じてもらえないと思うが…。しかし日本の独自の文芸である詩歌を理解するには、そこから見直す必要があると思う。ならば、「五七五/七七の文芸」とは如何なるものなのか…。

俳句の英訳は、見事に詩になっているに違いない。それは、訳した元の俳句の意味を英詩に翻訳したに過ぎない。しかし出来上がった訳には「五音・七音・五音」の「しらべ」は無い。俳句は一行でいいのに多行書きにし、しかも縦書きではなく横書きにしている。そのことも違和感を感じざるをえないが、それは省いて先へ進む。「五七のしらべ」は俳句の本質に関わるものであるような気がしてならない。「五・七・五」のしらべなくして俳句と呼べるのだろうか。意味や象徴性は訳せても、「しらべ」は訳しようがない。そこに忘れてはならない「俳句」の、ひいては「日本の詩歌」の特色と魅力と不思議がある。俳句が、ただ詩だけのものであるなら、完璧に翻訳可能のものであろう。無論、英詩として。しかし、俳句が詩であるという認識故に、英語で訳し得たと思い込んでいるに過ぎない、と私は思う。その本質にかかわるものとして「五七のしらべ」があるが故に、完全な翻訳は不可能であり、俳句も単純に「詩」であるとは言い切れないものがあると知れる。それは短歌も同じことが言える。ならばその「五七のしらべ」とは如何なるものなのか…。

江戸時代の文人の松永貞徳や西山宗因、芭蕉の師だった北村季吟は、和歌も詠み、連歌もし、俳諧の宗匠でもあり、当然発句も詠んだ。それが自然と思えるのは、私自身その全てを現在同時にチャレンジし続けているので、自分のこととして理解できるのである。彼らは超人ではなく、努力してその全ての形式のテクニックを身につけたと想像される。それは、私自身平凡な一市民でありつつ、それらを楽しむことが出来ることで分かる。俳句・短歌・連歌・川柳の全てと、何の違和感なく向き合うことが出来るのである。時間をかけて精進すれば誰にでも出来る、と私は信じている。二兎を追うものは一兎をも得ず、と言われるが、私は、「五七五/七七」の一兎しか追っていないのであり、五七のしらべの世界の中に、短歌も連歌も俳句も連句も川柳も入っているに過ぎない。江戸時代の文人が出来ることは、現代人も出来るのは当然で、それを阻んでいるのは間違った教育と、現代人の偏見にすぎない。

私はいま還暦だが、二十代の頃「詩」を作っていた。ボードレールやヴァレリーの詩を岩波文庫の鈴木信太郎訳で読み、中原中也・丸山薫・村野四郎や草野心平から黒田三郎・石原吉郎・吉原幸子・石垣りん・茨木のり子から谷川俊太郎や清水昶・荒川洋治など様々な詩人達を読んだ。詩誌「歴程」の夏合宿にも何度か行き、その時の吉原幸子さんの印象をよんだ詩が当時の「歴程」に載っている。そして、友人達と詩の同人誌をつくり十数冊出した。詩のことは少し知っているので、三十歳から三十年間、短歌を詠み続けているが、短歌を始めて間も無く「詩」と「短歌」は違うということに気づいた。詩は自由詩。定型はいらない。無論、型はあっていいが、それが詩である条件ではない。もともと日本には「和歌のしらべ」はあったが、詩という概念はなかった。中国から漢詩がもたらされ、「詩」という言葉と概念がもたらされ、日本に「詩」というものが意識されるようになった。当時の日本人にとって詩は「漢詩」だった。しかし「五七のしらべ」はそれよりも前に既に存在していたのである。もともとあった「五七のしらべの文芸」を、中国や西洋の「詩」の概念に無理やり当て嵌めた所に大きな間違いがあったように思うが、どうだろうか…。

では、俳句とは何か。定型とは何か。それを知るためにも、俳句のルーツである連句を、次回から解き明かしていきたいと思う。お楽しみに。ごきげんよう。


https://www.enkan.jp/plus/yoshifumi-nagata/02-shirabe/ 【しらべの不思議 Ⅱ】より

永田 吉文

連句の実作について具体的に述べるのは次回になりますが、その前に確認しておきたい事がありますので少し述べます。

俳句は連句の発句(第一句目)が独立したものですが、その連句は、江戸時代まで「俳諧之連歌」と呼ばれていて、私はその現代の連句の実作を十年続けています。そして私の修行した連句は、蕉風の伊勢派の流れです。蕉門十哲の一人である立花北枝(たちばなほくし)(生年不詳~一七一八)の論じた「自他場(じたば)」を利用して転じています。それを使って変化をつける目安にしています。「じたばたする」の語源ともなっているもので詳しくは次回に述べます。

芭蕉(一六四四~一六九四)は『笈の小文(おいのこぶみ)』(没後出版)で、「西行の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫道する物は一なり」と言っていますが、何故漢詩人の名がないのでしょうか。江戸時代は版本の出版が盛んになされた時代で、芭蕉も漢詩集を読んでいたことは、彼の残した数々のものから分かっています。尊敬する漢詩人もいたと思うのに、どうしてここにその名がないのか…。それは漢詩が、俳諧とも和歌や連歌とも違うものである、という認識を持っていたのではないか、と思うのです。しかし、そう簡単に結論づけるのも早急にすぎると言えますね。もう少し調べてみましょう。

芭蕉自らは俳論を書き残していません。が、直弟子の何人かは書き残していて、芭蕉生前の俳論をうかがい知る事ができます。芭蕉の門人の一人・服部土芳(はっとりどほう)(一六五七~一七三〇)の著した俳論書『三冊子(さんぞうし)』(一七〇二)の一冊『白さうし』の巻頭には、「俳諧は歌なり」とあります。皆さんはどう思われますか。俳諧は歌であると…。初めてそれを見た時、私はびっくり仰天し、数日間そこから先が読めず、何度もその言葉を反芻していました。和歌は万葉集(八世紀中頃の成立)以来、芭蕉達の生きた江戸時代まで九百年歌い続けられ、今日の私達まで千二百年の歴史を持つ、日本を代表する文芸の一つです。俳諧がその歌であると…。何故「俳諧は詩である」と書かなかったのでしょうか…。

万葉の時代には既に漢詩も輸入され、貴族や僧侶達に盛んに読まれ、実作もされていました。それは江戸時代まで続いていたはずです。なのに中世の歌論書にも「歌は詩である」とは書かれたことはありませんでした。漢詩をあれだけ享受していた人々が、何故「和歌は日本の詩である」と書き記さなかったのか…。やはり漢詩と和歌、詩と歌は異なるとはっきり認識していたのではないか、と私は考えます。

短歌を二十年以上詠み続けていたその時の私にとって、「俳諧は歌である」という言葉は、全く思いもしなかったことでした。間もなく知ったことですが、それは十四世紀の北朝の関白であった、歌人で連歌師の二条良基(にじょうよしもと)(一三二〇~一三八八)の残した連歌論書『僻連抄(へきれんしょう)』(一三四五)とその改定判である『連理秘抄(れんりひしょう)』(一三四九)の巻頭にも「連歌は歌の雑体(ざってい)なり」とあり、土芳の『白さうし』はこれを踏襲しているのです。江戸時代の俳諧師・土芳の「俳諧」は。勿論「俳諧之連歌」であり「俳諧歌」ではありません。あくまでも俳諧は連歌であり、歌の一体である、という認識なのです。当時、五十歳を過ぎ初めてそれを知った私は、現代短歌しか知らなかった事に忸怩たる思いでした。

① 咳をしても一人(6/3)

② 霜とけ鳥光る(4/5)

  (『尾崎芳哉句集』岩波文庫より)

③ 夏草の深さに牛の尾は耽り(5/7/5)

④ 雲中の野蜂もいつから結晶に(5/8/5)

  『増補・安井浩司全句集』沖積舎より)

二十代三十代で詩を書いていた私は、これらを大変面白がって読んでいました。この二人は俳句で詩を書いている、と自覚していたように思います。俳句で詩を書けばこうなる。詩としての俳句を見事に描いていると私は思います。ファンも多い。①には咳という、②には霜という冬の季語がある。しかし五七五の定型には合っていない。西洋の詩論から言えば、定型ゆえに詩と言えるのが俳句なら、これは俳句とは呼べないでしょう。しかし①も②も詩といえる。詩は自由に表現することが出来、内容が詩であるからです。しかし、季語があっても俳句とは言えない。定型になっていないからです。では、浩司の句はどうか…。③夏草(夏)も④の蜂(春)も季語であり、ほぼ定型であり、俳句の要素は備えていて、詩になっています。俳句で詩を書けば浩司のようになります。詩は自由なフォルムでいいので、五七五の定型でもいいし、季語を入れてもいいのです。しかし、私が思う俳句とは違っています。浩司は、季語をいれた定型の詩を作っていても、それは俳句ではないと私は思うのです。尤も、詩人は定型に縛られることを嫌い、多くの詩人は短歌も俳句もつくりません。日本において詩は、現代詩は定型を嫌い、自由な表現形態を選びます。私達は既存の文学論や詩論俳論によって惑わされているように思えるのです。

さみだれを集めて早し最上川

  芭蕉(一六八九年・奥の細道)

流れ行く大根の葉の早さかな

  虚子(一九二八年・五百句)

この二句は、私の大好きな句で、どちらも立派な俳句と言えるでしょう。ただ内容は、眼前の景色を言っているだけです。五月雨が降り、それ故に早く流れ下ってゆく最上川。目の前の流れを大根の葉っぱが流れていくということをいっているに過ぎません。見たままを五七五の定型にあてはめているだけです。そして、詩人の目、放哉や浩司の目からみれば、この二句は詩ではないのは明らかでしょう。しかしそれは目の前に恰も目に見えるように一つの景色が描かれています。優れた俳句と言えるでしょう。それは叙景詩であるのだろう、と言う方もあると思います。ならば叙景詩を書くのに、何故わざわざ定型を選ぶのでしょうか。放哉はそう答えるでしょう。五七五の定型を使わず、それより短い叙景詩は、詩人なら書けるでしょう。定型である必要はないと詩人はそう言うでしょう。定型に嵌まってるから詩である、とも最早言い得ないでしょう。日本の文芸を、詩と散文に二分する文芸論は、現実とは乖離していると言えるように思えますが、いかがでしょうか。では、俳句とは一体何なのか、それは、連句の解説が終わった後で、最終回に詳しく述べたいと思います。

西行法師(一一一八~一一九〇)は、百人一首にも歌が載っている誰もが知る有名な歌僧です。新古今和歌集随一の入集数九四首の大歌人でもあり、その歌集の一つの『残集(ざんしゅう)』を岩波文庫の『西行全歌集』で見てみると、次のようにあります(詞書一部省略)。

(舟の渡りの所で-以下も()は筆者注)

  空仁

  はやく筏いかだはここに来きにけり

      薄うすらかなる柿かきの衣ころも着きて、かく申まうしし

      立たちたりける、優いうに覚おぼえけり(西行)

  大井川おほいがわかみに井堰いせきやなかりつる

これは友人の空仁(生没年不詳)の「(渡し場で川を渡ろうとしたら)おや、もう筏がここへ来たよ」という驚きの句(七七の下句)に、「大堰川の上流には筏を堰く井堰はなかったのか」とこたえる句(五七五の上句)を西行が付けています。これは現在でいう短連歌(たんれんが)(二句一組)と言えます。十二世紀頃は、五七五の上句に七七の下句を付けるだけでなく、七七の下句を詠み掛け五七五の上句をこたえる短連歌も行なわれていました。それらが連なっていって、鎖のように長く続いていったものが連歌(鎖連歌(くさりれんが))であり、現在の連歌のルーツです。

連歌も連句も構造は同じです。簡単に言うと、五七五の句(長句)と七七の句(短句)とを交互に詠み続けていく文芸です。しかし、西洋の文芸と大きく異なるのは、それを一人の人が詠むのではなく、複数の人が詠み連ねてゆく即興の合作であるという事です。最初に誰かが五七五の長句(発句)を詠み、別の人が七七の短句を詠み、さらに違う人が長句を詠む、というように、長句と短句を異なる人が詠み連ねていく連想の文芸なのです。前の人の句に自分の句を「付ける」と言い、これを「付合(つけあい)の文芸」とも言っています。

連句が、他の文芸とも又西洋の文芸とも異なるのは、「テーマが無い、テーマがいらない」、ということです。それは西洋の文芸からは考えもしない物でしょう。全く主題が無いし、いらないのです。それ故「タイトル」もありません。西洋の詩で主題・テーマの無いものは、単なる行の羅列にすぎないものとなってしまうのではないでしょうか。それをも「詩」と呼ぶとしたら何か変に思えるのは私だけでしょうか。

現在の連句にも「○○の巻」と書かれていますが、それは他の作品と区別する符牒に過ぎません。なのでそれの多くは、発句の上五をとって付けています。好き勝手に巻名を付ける方もありますが、それは現代の連句人の好みに過ぎず、本来の付け方ではありません。芭蕉の時代には「巻名」などありませんでした。主題など無いから当たり前なのです。

連句には統一したテーマはありませんが、一巻(全体)を構成する要素として「序・破・急」という詠み方の基準があります。それはまた次回以降に詳しくのべます。まずは西洋の文芸との違いが多々あるということを知っておいていただければと思います。

では最後に、連句にはどんな魅力があるといえるのか概略を述べておきます。まず、①一句一句の芸術性、面白さがあり、②他人の句に自分の句を付けて、一つの歌的世界(五七五/七七、あるいは、七七/五七五)を描く醍醐味と快感があり、さらに③打ち越し(前句のさらに前の句)とは異なる世界を描く「転じ」のスリリングな変化の鮮やかさと美しさがあり、④その場その時の即興による頭脳的スポーツとも言える魅力があるのです。さらに⑤その根底には「輪廻(りんね)を断つ」という仏教観に基づいた一つの思想性によって貫かれていて、神羅万象を詠み込むことを目標としています。巻き上がった(完成した)作品を記録したものを懐紙(かいし)と言いますが、それは、将棋のプロ棋士の棋譜にも似た芸術性があります。複数の人間(連衆と言います)が心を一つにし共同して作成する「和」の文芸なのです。それは詩とも散文とも異なる世界にも珍しい日本独特の文芸と言えます。次回から、連句について具体例を通して解説してゆきたいと思います。お楽しみに。ごきげんよう。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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