現代季語論 主として若い世代を中心に

http://karakkaze.la.coocan.jp/kigoron.html 【現代季語論 主として若い世代を中心に】より

(「草苑」1997年2月号)

 まったく厄介な世紀末である。

 テクノロジーやマス・メディアの仁義なき急激な発達がもたらした人間的・社会的機能の細分化、それによる従来の価値体系の崩壊と、日々泡のように生まれては消えてゆく新たな価値観の多様化は、もはやとどまるところを知らないかに見える。したがって、僕のごとき極徴な一個人が、その主観を拠りどころにして自らの存在を見届けようとしても、すでにほとんど見通しがきかない状況下にあると言わざるを得ない。こうした状況は現代社会のあらゆる領域を覆い尽くしており、むろん芸術や文学も例外ではない。俳句もまた、当然この厄介な時代と無関係ではあり得ない。ただし、現状では俳句も他のジャンルと同様、林立するごく狭い専門領域の一つにとどまっているに過ぎないだろう。作り手即読み手という構造と、その間でしか通用しない特殊な取決めや用語を墨守する俳人は、俳句に携わらない人達には一種のオタク族に見えるかも知れないし、現にそう見られているフシも多分にある。もっとも、こうしたオタッキーな性格を俳句の独自性とすることも可能なわけだから、結局のところは、個々の作家のスタンスの問題ということになるのだろう。いずれにしても、困難な時代状況を引き受けることのツラさに変わりはない。ツラいのは嫌いという人は、さて、何とかしなければ…というわけで、たとえば現代思想で言うところのポスト・モダン世界が理想とする「雑多なものの共存」、「多様なものの軋轢なき交差」というようなことを思い浮かべてみたりする。こうした世界への志向は、芸術・文学の領域では特に音楽においていち早く現れたと理解しているが、例として旧ソ連出身の作曲家アルフレート・シュニトケの場合を見てみよう。彼の音楽は、文字通り「多様式主義」と呼ばれている。教会の鐘の音、ジャズ、バロック音楽にべ-トーヴェン、ジンタやマーチ、その他、古今東西の雑多な音楽のコラージュが聞き手の耳を奪うのは、それが現代社会というものを見事に反映しているからにほかならない。もっとも、音楽を言葉で説明するのは逆立ちしても無理な話で、あとは実際に聞いていただくしかない。いずれにせよ、またぞろポスト・モダンか、などとは言わないでほしい。多様なものが多様なままに、それぞれ生き生きと機能する世界、おまけにそこに自己確認の糸口を見つけられたら、こんないい事ないじゃないか。

 というわけで、やはり俳句だって、さらには本稿のテーマである季語だって、多様な要素がじゃんじゃん交差することによって二十一世紀へと繋がってゆく…、いささか気障な台詞だが、そう思うのだ。

  東京二怒レル華ハ雪ノ華 夏石番矢

 夏石は、周知の通り非常に長いタイムスパンの中で俳句を詠み続けている作家で、掲句でも二・二六事件や桜田門外の変などをはじめとする様々な歴史的イメージが重ねられているだろう。いずれにしても、現行の歳時記分類によれば季語であるところの「雪」という言葉が、たとえばこうした歴史の遡行からソシュール言語学の「通時態」(言語の歴史的変化の相)を、また、従来の季語の枠組からだけでは到底カバーし切れない多義性が付加されているという点から「共時態」(現代の言葉それぞれの差異)を、同時に読み解くキーワードになり得ていると言ったら、贔屓の引き倒しになるかな?ともあれ、そうならないことを願いつつ、その著書『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫)から、

 「日本の自然のみならず、現代俳句は、地球、宇宙、異界、幻想をも詠み込む。二十世紀末に変貌をとげゆく俳句は、季語に限らず、さまざまなキーワードを軸に書かれる短詩。世界の多様性を映す鏡」という発言を引いておこう。実は、この一節にはあらわではないけれど、夏石の文章は結構挑発的、攻撃的だ。しかし、論旨そのものはしごくオーソドックスと言うか、この時代と向き合ったときに当然考えざるを得ない問題だと思われる。季語についても、夏石は「季語に限らず」としており、これはむろん季語を否定するものではない。季語と、それ以外の言葉を等価に見るというだけのことだ。そして、季語に付加された多義性を積極的に評価しようということなのだ。「雪」だって、百人いれば百通りの解釈ができるぞ、てなものだ。もちろん、季語の歴史的伝統の重要性は先刻承知のうえでの発言なのだけれど、これに対し、季語に固執する人達が示すあからさまな拒否反応は、俳句の世界が相変わらずの閉塞状態にあることを如実に物語っている。これじゃあ夏石の文体が挑発的、攻撃的になるわけだ!

 「短詩型に託されるのが、日記風の季節感だけだとしたら、たいへんおそまつな話だ。季節感を突き抜けた世界観や宇宙観、あるいは人間観が問われない詩などは、滅亡すればよい。日本語によって最も端的にコスモロジ-や人間観が表現できるのが俳句であれば、有季・無季の次元を超越した分類基準が当然必要になってくる」(『現代俳句キーワード辞典』立風書房)

 卓見ではあるが、それでもこれはあくまで夏石の個人的見解、つまりポスト・モダン世界の中の多様な思考形態の一つであるということは押さえておきたい。それが現代において突出してすぐれており、影響力を持ったものであるにしても、「多様なものの軋轢なき交差」という理想から言えば、夏石よりはるかに保守的な立場の作家の発言にも耳を傾けるのが礼儀というものだ。そのためには、まずは作家それぞれが自分なりの方法論を確立し、そこから発言することだ、なんて、結論が当り前すぎて面白くもなんともないか。だいいち方法論の確立と言っても、そのレベルには相当の個人差がある。そのうえ、有季・無季の論議が前近代的な対立の図式をそのまま引きずって今日まで来てしまったということもある。具体的には、例の〈道のぺに阿波の遍路の墓あはれ 高浜虚子〉には季語があって季感がなく、〈しんしんと肺碧きまで海の旅 篠原鳳作〉の方は季語がなくて季感があるといった類いの固定した見方から、ほとんど進んでいないということだ。また、これはあくまで季語に拘泥する側が無季作品の成果を認めざるを得ないときの、いわば窮余の一策だったのではないかということも、一応考えておく必要がある。季感を持ち出すことで自己の領分に無季作品を取り込んでしまおうという意識が、ここに働いていないと言ったら嘘になるだろう。それはともあれ、この両句、僕には虚子句が季語「遍路」の持つ伝統的季感に新たな季感を付加した作品と読めるし、鳳作句は季感を超えた新たな詩の領域をもたらした作品と感じられる。虚子句は季語があることで有季であり、鳳作句は季語を持たないゆえに無季である。なんとも芸のない言い方で恥ずかしいが、それが「詩」として成立していれば、もうそれでいいじゃないか。有季・無季の区分などに、もともとたいした根拠があるわけではないのだ。

 「連歌が季語を発句詠作上の必須の要件とするようになったのも、折節の風流を尊ぶ好尚の中で一座への挨拶として当季の景物を詠み込む慣例から出たもので、連歌ではさらに一巻の進行の原理の中に季を持ち込み、そこから季語に関する細かな規定が定められる。季に対する配慮が連歌・俳諧を通して殊に重視されたのは、座の文芸としての必然だったともいえる。だが、勅撰集の部立てを通して四季が全二十巻中の六巻を超えることがなかったことが示すうに、季は美意識の全領域を覆うものではない。芭蕉が「発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別等、無季の句ありたきものなり」〈「去来抄」〉と漏らし、また近代に至って無季俳句が提唱されたのも、そのことに端を発している。季が俳句様式を支えてきた実績は尊重すぺきだが、発句が季題を必須の要件とするに至った歴史的経緯を顧みれば、俳句が将来にわたり季のみに拘泥すべき根拠は乏しい」

 長々と引用したが、これは『俳文学大辞典』(角川書店)の「季」の項目(執筆者尾形仂)からの抜粋。季語の根拠の脆弱さについて理解するための、必要にして十分な解説である。また、座という共同体的集団には、各構成員の間の有形無形の連帯感が肝要であろう。今日、これがまったく失われたとは言わないけれど、細分化社会の中でかなり希薄になっているのは繰り返し述ぺた通りだろう。ところで、いま連帯感なる言葉を使ったが、さて我が身を顧みれば、僕自身俳句に関わってきた中で連帯感というものを実感したことがあったかしら?…ない…、と言うよりも、むしろ連帯感を持つことを重荷と思ってきたのだった。「関係性の希薄化」というやつだが、これを映画の世界で見事に描いたジム・ジャームッシュという監督がいる。たびたび話が飛んで恐縮だが、ジャームッシュは一九五三年生まれのアメリカ人。僕より四歳年長とは言え、ほぼ同じ時代の空気を吸って育った世代だ。一九八四年公開の『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を皮切りに、一貫して関係性の希薄な世代の姿を淡々と映像化してみせてくれた。ありきたりの街のありきたりの暮らし、だから彼の映画にはストーリーらしいストーリーがない。ひょんなことから出会った若者達が、これまたひょんなことから散り散りになってゆく。血しぶきはあがらず、誰も死なない。セックスもない。「互いを思いやる気持ちはあるけれど、決してそれぞれの内部には踏み込まない」し、「ドラマチックになる前にスルリと身をかわす」(「映画監督ベスト101」新書館)。ともあれ、こうした性格は形こそ違え、若い世代の俳句においてもやはり読み取ることができるものだろう。

  国家よりワタクシ大事さくらんぼ 摂津幸彦

 パロディとしての俳句、パロディとしての季語、これもまた多様な現代社会を映す鏡の一つである。そう言えば、摂津の作品を例に若い作家全般について、宇多喜代子がこんなことを述べていた。

 「この人たちの句集に共通する特徴は、個とその周辺へのサラッとした執着である。『ささやかな』と言い換えられるような事象が普遍性の根拠になっていると言った次第なのだ。たぶんこの人たちには「俳句は生きる証し」とか「俳句は文学である」と言ったテーゼを声高に言うような気負いはないに違いない。社会的連帯とか同世代の結束感といったものから逸れたところで自足している感が強い。それでいて、個々の句集を読めばそれぞれが自分の俳句観を確実に持っているということがよくわかる。(中略)この『国家よりワタクシ大事』は太宰治の「桜桃」のパロディだが、真面目な太宰ファンと国家を背負った世代人を失望させかねないこの句は、摂津が俳句をどの高さでとらえているかをよく表している」(『毎日新聞・俳壇トピックス」一九九二年八月二三日)

 この指摘は、先の「関係性の希薄化」とも関わってくるものだが、宇多の言う通り、それぞれが自分の俳句観を確実に持っているなら、俳句も季語も当面は今のままで推移するのが一番いい。ただし、その俳句観が他者を排除するような固定化したものであってはならない。ところが、俳句の世界では、まだまだ多様性の成果を認めようとしない困ったちゃん(若い世代も結構いるぞ!)が幅を利かせているのも事実だ。その点から言えば、数年来叫ばれている歳時記の改変問題でも、詰まるところ本当に変えるべきは季語ではなく、むしろ俳人達の意識の方ということになる。

 また、そうあってこそ、ポスト・モダン世界のバランスも保てるというものだろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000