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俳句の自由奪った弾圧事件 治安維持法で検挙・廃刊 - 日本経済 ...
2021/1/30 -新興俳句運動の中心誌「京大俳句」昭和12年7月号掲載の句で、作者の三鬼も「新大阪ホテルで雷雨の夜作った。気象の異変と機械の静粛との関係を詠 ...
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-11/2006031112_01faq_0.html 【戦前は、俳句も弾圧されたの?】より
〈問い〉 最近、俳句を始めたのですが、俳句仲間から「戦前は俳句も弾圧されたのよ」と聞きました。どんな句がひっかかったのですか? (北海道・一読者)
〈答え〉 戦前の天皇制政府は、戦争反対と主権在民を求めた日本共産党に対して残虐な弾圧でのぞみ、ついでそれを国民全体に広げ、表現の自由を圧殺していきました。それは言論・文化のあらゆる分野に及びました。
俳句の分野でも真っ先に『プロレタリア俳句』が1931年2月発刊と同時に発禁とされます。そのころ俳句界では高浜虚子の「ホトトギス」から水原秋櫻子が離脱(同年10月)し、新興俳句が広がりをみせていました。短詩型が特徴の俳句は、現実への鋭い視点と、みずみずしい感性がなければ成立しません。しかし、特高警察の弾圧は、この俳句成立の根本条件ともいえるものにむけられました。
1940年2月から8月、新興俳句の中心だった俳誌『京大俳句』の会員である平畑静塔、波止影夫ら15人が相次いで特高警察によって検挙されます。
熱い味噌汁をすすりあなたいない
ホスピタル鏡を朝な女のみがく
これが「反戦思想を含せしめたる作品」とされました。
黙々と鉄槌ふり我等何を見る
ネクタイを締めて薄給かくす夏
これが「銃後の生活苦等を素材としたる反戦俳句」とされました。裁判所はこれをもって「一般大衆に階級的、反戦、反軍的意識を浸透せしめ、其(そ)の左翼化に努め、以(もっ)てコミンテルン日本共産党の目的遂行の為(ため)にする行為」(「京大俳句」事件の「予審終結決定書」)としたのです。
41年2月には、荻原井泉水の俳句革新に共鳴しプロレタリア文学理論を句作に導入した栗林一石路が橋本夢道らとつくった自由律系の『俳句生活』や『日本俳句』(『生活派』改題)、新興俳句関係の『広場』『土上(どじょう)』という東京の4俳誌の13人が、同年10月には山口県宇部市で『山脈』の山崎青鐘ら10人が検挙されます。同年12月8日の太平洋戦争開戦前夜のことです。
戦争の進行とともに、えん戦気分につながる表現もチェックされ、43年6月には鹿児島で『きりしま』の面高秀ら3人、同年12月には秋田で『蠍(さそり)座』の2人が検挙されるなど、地方の小さな俳句同人誌にも及びました。『土上』主宰の嶋田青峰は留置場で病気が悪化し伏せったまま3年後に死去しました。(喜)
〈参考〉田島和生著『新興俳人の群像「京大俳句」の光と影』(思文閣出版)、『特高警察黒書』(新日本出版社)、『日本プロレタリア文学集・40』(同)の谷山花猿解説
http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2006/02/___a02e.html 【『新興俳人の群像—「京大俳句」の光と影 』】より
『新興俳人の群像—「京大俳句」の光と影 』田島和生(思文閣出版/2005)は、昨年度の俳人協会評論賞(第20回)を受賞した労作。新興俳句運動や京大俳句事件の概要を知る上で、巻末の資料ともども貴重な一冊となるだろう。
とくにわたしにとって興味深かったのは、たとえば以下のような事実だ。
昭和十九年(1944)に発行された日本文学報国会編の「俳句年鑑」。
参加者は五〇七人、一人五句ずつという構成である。日本文学報国会俳句部会長は虚子だから、普通ならば会長の序文があって然るべきだろうが、虚子は序文を寄せていない。(このあたりはしたたかとも言えるし、虚子のよく見える目、冷徹に身を処する凄さとも言えるかも知れぬ)
冒頭の言は伊東月草で、「自由主義、個人主義の上に立つ、芸術至上主義、乃至享楽的耽美主義を清算し、新しい世界観の樹立と、皇道主義、全体主義の上に立つ新しい文学理念」によって俳句はつくられねばならぬと記している。いまから見れば、見苦しいただのお調子者の阿呆だが、もちろん、その当時にあっては、全員立ち上がって心からの賛同の拍手をしなければならないような雰囲気であっただろう。
この「皇道主義、全体主義の上に立つ新しい文学理念」の俳句として、昭和十六年十二月八日(太平洋戦争の開戦日)の「感激を直接うたひあげた作品」が並ぶ。
大詔煥発桶の山茶花静にも 渡辺水巴
うてとのらすみことに冬日凛々たり 臼田亜浪
かしこみて布子の膝に涙しぬ 富安風生
冬霧にぬかづき祈る勝たせたまへ 水原秋櫻子
これに対して、同じ年鑑には、
花ちるや瑞々しきは出羽の国 石田波郷
ゆく雁の眼に見えずしてとゞまらず 山口誓子
外套の裏は緋なりき明治の雪 山口青邨
などという後年の代表句のひとつにもなるような句もある。とくに石田波郷の句は見事だという外はない。時局に迎合し保身にこれつとめる先輩たちを尻目に、平生とまったくかわらぬ詠いぶり。
この時期、文学報国会を影で操っていたのは、悪評の高い常務理事、小野撫子(ぶし)で、本書のなかにこの撫子が秋櫻子を脅して無理矢理、波郷を馬酔木から除名させた件が出てくる。あれは非国民だ、あんなのを身内においているとあんたの身の保証もできませんぜ、てな調子であったらしい。
中村草田男もまた、撫子に狙われた一人だが、昭和十四年七月の巻頭が「ホトトギス」発表の最後となった。俳壇が右傾化する一方の時代にこんな句をつくっていた。
人あり一と冬吾を鉄片と虐げし 中村草田男
金魚手向けん肉屋の鉤に彼奴を吊り
いうまでもなく、これは虚子の選。虚子という男も剛胆ではある。
この話題、もう少し続ける。
http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2006/02/post_3b49.html 【前田普羅の密告者疑惑】より
じつは前回紹介した『新興俳人の群像』には思わず「えっ」と驚くような記述がある。
京大俳句事件以後、全国の特高警察は新興俳句運動にかかわった人間を治安維持法違反容疑で次々に摘発して行くのだが、そのなかのひとつに秋田県の「蠍座」事件というのがある。昭和十八年十二月六日、秋田県の俳句同人誌「蠍座」の俳人二人が、無季自由律でプロレタリアリアリズムの手法による俳句を掲載して同人の左傾化を図ったとして検挙された。このとき検挙された高橋紫衣風という人物が、担当の警部からこんな話を聞かされたというのだ。『新興俳人の群像』から抜いてみよう。
「蠍座」関係者の検挙は、撫子の死後十ヶ月後だった。撫子の生前から特高は、探りを入れていたものと想像される。というのも、捕まった高橋は、担当の特高警部が密告者の張本人として「小野撫子と伊藤(注・ 伊東の誤り)月草、前田普羅、県内では小島彼誰(別号・夕雨=撫子の門下生)」の四人を名指しで挙げたといい、この事件でも撫子の名が最初に出ている。(P.198)
引用は、小野撫子が、この一連の弾圧事件の背後にいたことを裏付けるためのものだが、この密告者のなかに前田普羅の名前が挙がっていることに驚いたのだ。
小野撫子が、俳人仲間を特高に売って、あるいは売るぞと脅して俳壇のなかで勢力を広げて行ったことは、昭和の俳壇史でいろいろな人が証言している。伊東月草も、日本文学報国会編の「俳句年鑑」で皇道主義の俳句を唱導した人物だから、特高の手先であっても別に驚くようなことでもない。小島夕雨(かわたれ)という俳人は、秋田の俳人で地元には句碑が立っているような人物らしいが、くわしいことは知らない。
しかし、俳句愛好者であっても、この三人を知る人はいまではほとんどないだろう。
一方、これに比べて、前田普羅は俳句の世界では知らない人はいないような大物である。
それはたとえば山本健吉の『定本現代俳句』の目次を見れば一目瞭然である。頭からこのように並ぶ。
正岡子規
夏目漱石
高浜虚子
村上鬼城
渡辺水巴
飯田蛇笏
原石鼎
前田普羅
久保田万太郎
(以下略)
前田普羅。大正期の「ホトトギス」の大看板の一人であり、いまでもその清冽な山岳俳句を愛唱する人は多い。報知新聞富山支局長、読書家、蔵書家、科学と山を愛した人物。
奧白根かの世の雪をかがやかす 前田普羅
雪解川名山けづる響かな
春雪の暫く降るや海の上
これらの句のイメージと知人を思想問題で特高に密告するという陰湿な人物像がうまく重ならないのである。わずか一行にも満たない箇所だが、この記述は本書の中では重い。
正直に言って、わたしはショックを受けた。「蠍座」事件の当事者が特高からこのように聞いたという証言はおそらく事実だろう。しかし、問題はこの特高警部が被疑者にばらした談話がきちんと裏付けられる話なのかどうかだ。本書の著者である田島和生さん自身はこれについてはなんの補足もしておられないが、読者としてはここはもっと掘り下げてほしかったところである。
俳句結社というのは、ある意味では師系が命だ。ホトトギス―「辛夷」(前田普羅の結社)に淵源をもつ俳句結社がどれほどあるのか、わたしは詳らかにしないが、前田普羅は特高の密告者(イヌ)だったという証言を載せている本書に対してなにか動きはあるのだろうか。それとも結社主宰のみなさんはあんまり関心がないのかな。
本書を昨年の評論賞として推したのは俳人協会である。実際にはあまりそういう意識はないのかも知れないが、俳人協会はある意味では新興俳句運動の伏流水のような面がある。(拙ブログ「俳壇の組織」参照)選考委員にはそういうホトトギス系の触れてほしくない過去の清算のような意識があったのかどうか。
https://fragie.exblog.jp/30510986/ 【『新興俳句アンソロジー』まもなく再版が出来上がります。】より抜粋
3月23日付けの公明新聞に編者である神野紗希さんが、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』について寄稿されている。
抜粋して紹介したい。「花鳥諷詠にとらわれない作風」「他ジャンルの表現を広く受容」
蟻よバラを登りつめても陽が遠い 篠原鳳作
(略)新興俳句とは、昭和初期の文学運動だ。「俳句は文学である」という意識のもと、広く映画や現代詩など他ジャンルの表現に刺戟を受けながら、さまざまな俳句表現の可能性を追い求めた。きっかけは昭和6年、水原秋櫻子が、俳句観の違いから、高濱虚子率いる大結社「ホトトギス」を離反したことに始まる。俳壇の主流は、たとえば〈甘草の芽のとびとびのひとならび 高野素十〉といった、花鳥諷詠・客観写生の俳句にあった。虚子は、ありのままの自然をよく見つめて詠むことを推奨し、素十の方向性を支持したのだ。
秋櫻子はこれに異を唱え、俳句も文学なのだから、ただ自然を写すだけでなく、文学としての真実を追い求めるべきだ、と訴えた。その旗印に共鳴した若者を中心に、新しい俳句を求める機運が高まり、次々と、それまでの俳句らしさにとらわれない、初々しく想像力ゆたかな句が生まれた。数句をひとまとまりにして構成する連作の試み、季語を入れないありかたを追求する無季俳句、新素材として都市の風景やスポーツなども積極的に取り入れられた。もし新興俳句がなければ、現在の俳句の風景は、ひどく退屈なものになっていただろう。
雷雨きて海豚に青き闇をなす 杉林聖林子
ほろびゆくスバルよ檸檬しぼりつぐ 三谷 昭
(略)新興俳句とは、俳句という詩型に訪れた、きらめく青春の豊穣であった。
しかし、この俳句の青春は、戦争によって終焉を余儀なくされる。昭和15年に始まる一連の「新興俳句弾圧事件」だ。治安維持法違反を理由に、運動に関わった四十名以上の俳人が検挙された。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉
戦闘機ばらのある野に逆立ちぬ 仁智栄坊
どれにも日本が正しくて夕刊がばたばたたたまれてゆく 栗林一石路
(略)文学としての俳句を模索する若者は、戦争へ傾く不穏な時代と共鳴し、自身が今詠むべきものを言葉で追求した。その結果としての自由を恋う厭戦、反戦俳句が当局に睨まれ、国家による言論弾圧につながったのだ。ある者は弾圧を受け筆を折り、ある者は戦地で命を落とした。
鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり 富澤赤黄男
遺品あり岩波文庫「阿部一族」 鈴木六林男
一度は終息するも、現代俳句の地下水脈となり、俳句文化の礎の一つとなった新興俳句。この程、新興俳句を多角的に検証した『新興俳句アンソロジー』を上梓した。時代の中で今を生きる感情を、いきいきと十七音に息づかせた彼らの作品は、俳句の文学的側面を引き出し、現代俳句に多様性をもたらした。平成が終わり新しい時代を迎える今、時代と向き合った彼らの言葉の純粋な輝きが、あらためて見直されている。
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