https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6372851/ 【芭蕉の知:『軽み(かろみ・かるみ)』 『軽み』・『却来』・『色即是空・空即是色』】
https://blog.goo.ne.jp/shokaibo/e/e6728c1b5fb0f447b770157af29d4b86 【醸楽庵だより 734号 「般若心経」 白井一道】
般若心経 白井一道
芭蕉は禅と老荘の思想に強い影響を受けている。芭蕉最初の紀行文「野ざらし紀行」の初めの方に次のような文章がある。
「冨士川のほとりを行(ゆく)に、三つ計(ばかり)なる捨子の、哀氣(あはれげ)に泣(なく)有(あり)。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたへず。露計(つゆばかり)の命待まと、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとほるに、
猿を聞(きく)人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝ちゝに悪(にく)まれたる欤(か)、母にうとまれたるか。ちゝは汝を悪(にくむ)にあらじ。唯(ただ)これ天にして、汝が性(さが)のつたなきをなけ。」
この文章に芭蕉の仏教観が反映している。仏教は世界を苦の世界とみる。生きることが苦、老いることが苦、病を持つことが苦、死ぬことが苦である。これを四苦八苦の四苦である。この苦を受け入れることなしに人間は生きることができない。「三つばかりなる捨子」にさえ、「汝の性(さが)のつたなきをなけ」と、芭蕉は自分を、苦を受け入れろと言っている。
問題はどうしたら現実の苦の世界を受け入れることができるか、ということである。その苦の世界を否定的ではなく肯定的に受け入れろ、というのが仏教の教えである。
大乗仏教のたくさんある経典の中で仏教の教えの本質を述べた経典が般若心経である。この中の有名な言葉が「色即是空、空即是色」である。色とはこの世の目に見えるも、空とは無いということである。この言葉の意味することは見えるもの、この苦の世界は空だというのだ。無いと言っている。飢えて泣く捨子の苦は無い。この「無い」ということはこの世の真実ではない。真実の世界が飢えて泣く捨子がいるような世界であるはずがない。今、目の前にいる捨子の存在は真実の世界の存在ではない。このようなことを言っている。
の真実の世界にワープすることは現実にはできない。この真実の世界にワープする方法の一つが座禅することであり、念仏を唱えることである。大乗仏教では座禅することも念仏を唱えることも同じ修行である。
人間の心の世界には意識下にある世界と無意識の世界がある。この無意識の世界を経験することを西田幾多郎は純粋経験といった。この純粋経験の中で「色即是空、空即是色」と認識する。このような認識を得たときに現実の苦の世界を肯定的に受け入れることができると仏教は教えている。念仏を唱え、座禅を組み、純粋経験によって真実の世界を認識する。
真実の世界は「色即是空、空即是色」である。これは西田幾多郎が言うように「絶対矛盾の自己同一」なのだ。「色」は「空」、」空」は「色」なのだ、と言っているのだから。
「色即是空、空即是色」を実感することは座禅を組み、念仏を唱え、現実世界からワープすることでもある。ワープした世界が西方極楽浄土、阿弥陀様のいる真実の世界なのだ。
https://shinkachi.biz/2018/12/06/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%85%83%E5%8F%B8%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%BE%A1%E5%80%A4%E5%89%B5%E9%80%A0%E3%81%AE%E7%9F%A5%E3%83%BB%E7%AC%AC193%E5%A4%9C%E3%80%8D%EF%BC%9A%E3%80%8C%E8%8A%AD%E8%95%89%E3%81%AE/【橋本元司の「価値創造の知・第193夜」:「芭蕉の知:『軽み(かろみ・かるみ)』」④】より
2018年12月7日 『軽み』・『却来』・『色即是空・空即是色』
前夜は、「不易流行」について綴りました。
それは、時が流れても変わらない不易に心を置きながら、時の流れとともに変わる流行に目を置く。
それは、第88夜「世阿弥の知 離見の見」「目前心後(もくぜんしんご)」を想起させます。
「眼は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」ということ。
その本質は、「我見(がけん)」と「離見(りけん)」にあります。
それと同時に、第6夜「空即是色」と「不易流行」は同じことを云っていることに気づきました。
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「色即是空」というのは、「現実=色」に問題・課題があるのなら、先ず心を無にして、「大元=空=大切なこと=真心」に戻りなさいと教えてくれているように思います。
そして、「空=大元=真心」に戻って従来のしがらみや常識から解き放たれて、その本質(=コンセプト=核心)を把えてから「現実=色」を観ると新しい世界(=現実=色=確信)が観えるということではないでしょうか。その確信を革新するのがイノベーションであり価値創造です。
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第190夜に、蕉風開眼の「古池や蛙飛こむ水の音」の世界を紹介しました。
それは、古池の句は現実の音(蛙飛びこむ水の音)をきっかけにして心の世界が(古池)が開けたという句である、と。
「現実(実)と心の世界(虚)という次元の異なる合わさった『現実+心』の句である」ということです。
それは、「現実(実=色)と心(虚=空)」の図式です。
俗っぽい俳諧から、「現実(色)から心(空)を想起し、その空から色を推敲した」様式を創ったのが芭蕉ではないでしょうか。
そこにある「心(空)」が「不易」に近づき、高まっていくと「高尚」になっていきますね。
・高く心を悟りて俗に帰るべし(=高悟帰俗)
「小林一茶」(丸山一彦著)は、これを「俳諧の本質は、現実から出発しながら、それを一旦突き放し、廻り道をしながら、再び現実に帰ってくるところにある」
と著しています。
これを、芭蕉は「軽み(かろみ・かるみ)」と云ったのではないでしょうか。
「高悟帰俗」としての芭蕉の表現を「軽み」とすると腑に落ちます。
それは、第4夜(用意と卒意)の「侘び、寂び」にもつながってきます。
同時に、それは、第183夜の「世阿弥の知 却来の思想」でもあります。
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「却来」の思想は、優れた風儀がつまらぬ「なりふり」を一挙に吸収していくことをいう。くだらなさ、つまらなさ、下品さを、対立もせず非難もせず、見捨てもせず、次々に抱握してしまうのである。
なるほど「能」とは、このようにして万象万障に「能(あた)う」ものだったのである。・・・
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「空即是色」(第6夜)、「世阿弥の知 却来の思想」(第183夜)と「芭蕉の知 かろみ」(本夜)とが一直線で繋がりました。
さてさて、それを現代に引き戻すと、「高尚なコンセプト」を「かろみ」にする方法として活用できます。
例えば、
・池上彰さんの分かりやすいニュース解説
・第28夜 旭山動物園「命の大切さ」→動物が生き生きしている展示
・会社の理念→ビジョン展開
・自分の生きがい、やりがい
等々です。
今は、この連載で何回か記しましたが、「社会に役立つこと」と「会社の理念・活動」が繋がることが不可欠な時代になっています。
是非、社会の在り様、会社の在り様を再検討してみてください。
それは、「人生」においても同様です。
そこに、「価値のイノベーション」「意味のイノベーション」(第130夜)という『お宝』があります。
価値創造から、「事業創生・地域創生・人財創生」へ
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