https://ameblo.jp/manabunc/entry-12600359737.html 【不易流行】より
吉本興業・大﨑会長が40億円の大打撃を「ラッキー」と言う理由
リアルな世界からの断絶。いままで当たり前とされてきたことが、一気に壊れていく。新型コロナウイルスの猛威は、エンタメ業界を直撃した。昨年、闇営業問題で窮地に立たされた吉本興業。少し落ち着いた頃に新たにやってきた危機──。 コンテンツのデジタル化を急激に進める一方で、芸人たちの収入減が止まらない。社内の大改革を行い、新基軸を次々と打ち出してきた大﨑洋会長は、この状況をどう受け止めているのか。会長は2時間にわたり、胸中を語った。 「なんやったっけ、あの四字熟語。変わらないものと変わるものがあるという意味の……『不易流行』だ」 いまの吉本興業は、★松尾芭蕉が説いたというこの理念で言い表せる。4月28日、日本最大のユーチューバープロダクションであるUUUMとの資本業務提携を発表した。外出自粛下の動画視聴時間増に合わせた動きのように見えたが、『ビリギャル』著者でもある社外取締役★坪田信貴が将来的なオンラインでの展開を見据えて1年前に発案。それがきっかけとなり、岡本昭彦社長の指揮のもと、契約が成立したプロジェクトだった。 また、劇場に足を運ばずともオンラインでコンテンツを楽しめる「#吉本自宅劇場」も若い芸人や社員の声によりスタートした。これにより、ツイッターやインスタグラムなどさまざまなプラットフォームでのエンタメ配信が可能になり、一気にオンライン化が加速した。 「これまでは、グランド花月の劇場に出て、地上波のテレビに出て、ゴールデンのいい枠で冠番組を持つことが芸人の夢とされてきた。だけどいまは、発信する手段がいろいろできて、物差しが多様になった」 ただし、と大﨑は強調する。 「リアルで会って相手の気持ちを読み取るコミュニケーションは、人類の基本。それはコロナ後もなくならないでしょう」 オンラインとオフラインの両輪体制は、大﨑が出した一つの解だ。しかし、現実は甘くない。吉本興業は、仮に年末まで劇場を閉じるとすれば、今期で赤字額は40億円に上ると予想する。「銀行から受ける融資は80~100億円。昨年の闇営業問題と比べたら、1億万倍、次元の違う話。それでも、基本的に誰の力も借りないで、自分たちで支え合おうと思っている」覚悟の裏にあるのは、2011年に始まった「あなたの街に住みますプロジェクト」。全国47都道府県に吉本のタレントを居住させ、地域を盛り上げていこうというものだ。赤字覚悟で始めた事業だったが、初年度から黒字となった。その後、居住地域はタイ、インドネシアなどアジア7カ国・地域に拡大。芸人と社員が現地に腰を据え、地域の社会課題解決に取り組むことで、地元に新たなコミュニティを生み出した。コロナで不安定な状況の中、このコミュニティは地域の共助の場となっており、その価値が再認識されている。09年の社長就任以来、大﨑は★「デジタル」「アジア」「地方」という3つのキーワードで吉本興業を引っ張りながら、勝ち負けではない、皆が助け合える世界をめざしてきた。それがいま、急速に実現に向かっている。「僕の思い描いていた共助の世界は、ある意味ラッキーなことに、★危機的状況の中でさらに需要を増している。いまは大変なときだけど、ここでいろいろなプラットフォームを使いながらコミュニティを作ることで、今後も力強く生き残ることができる」資本主義社会においてある程度の競争は必要だが、大事なのは★勝ち残ったリーダーが未来への指針を示せるかどうかだと大﨑は語る。「新型コロナウイルスのような危機は、きっとこれからも訪れると思う。今世紀はずっと、戦中戦後のような状況を繰り返すんちゃうかな。その中で、個人も組織もますます支え合って生きていかなあかん。吉本はそんな助け合いのコミュニティを、これからも作り続けたい」不易流行、その言葉通りに。
【大﨑洋】1953年生まれ。78年、関西大学社会学部を卒業後、吉本興業に入社。82年に吉本総合芸能学院(NSC)の担当となり、一期生のダウンタウンの東京進出など若手芸人の育成を担当。2001年に取締役、09年に社長に就任し、19年より現職。
・・・「不易流行」って芭蕉だったの?
《参考》「無用の用」と「不易流行」/日本数学会『数学通信』第8巻第2号より
https://www.mathsoc.jp/
『老子』に「無用の用」という概念があります。
https://uquqtaka.com/thinrou/005.html
一見役に立たないと思われるものが実は大きな役割を果たしているという意味です。『荘子』にも同じ趣旨の話があり、次のような問答が載っています。
恵子「あなたの話は役に立たない」
荘子「無用ということを知って、はじめて有用について語ることができる。大地は広大だが、★人間が使っているのは足で踏んでいる部分だけである。だからといって、足が踏んでいる土地だけを残して周囲を黄泉まで掘り下げたとしたら、人はそれでもその土地を有用だと言うだろうか」
恵子「それでは役に立たない」
荘子「一見役に立たないように見えるものが実は役に立っているということが、はっきりしたであろう」
激動の時代を生きていく上で是非覚えておきたい言葉がもうひとつあります。「不易流行」:松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した概念です。「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば★風新たならず」即ち「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」即ち「両者の根本は一つ」であるというものです。「不易」は変わらないこと、即ちどんなに世の中が変化し状況が変わっても絶対に変わらないもの、変えてはいけないものということで、「不変の真理」を意味します。逆に、「流行」は変わるもの、社会や状況の変化に従ってどんどん変わっていくもの、あるいは変えていかなければならないもののことです。「不易流行」は俳諧に対して説かれた概念ですが、学問や文化や人間形成にもそのまま当てはめることができます。人類は誕生以来「知」を獲得し続けてきました。「万物は流転する」(ヘラクレイトス)、「諸行無常」(仏教)、「逝く者はかくの如きか、昼夜を舎かず」(論語)、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明)など先哲の名言が示すように、森羅万象は時々刻々変化即ち「流行」しますから「知」は絶えず更新されていきますが、先人達はその中から「不易」即ち「不変の真理」を抽出してきました。その「不易」を基礎として、刻々と「流行」する森羅万象を捉えることにより新たな「知」が獲得され、更にその中から「不易」が抽出されていきます。「不易」は「流行」の中にあり「流行」が「不易」を生み出す、この「不易流行」システムによって学問や文化が発展してきました。一人ひとりの人間も「不易」と「流行」の狭間で成長していきます。昨今は、「不易」より「流行」が重視される風潮が顕著です。社会、特に企業からは「即戦力になる人材」や「直ぐに役に立つ知識」が期待されるようになりました。しかし、「即戦力になる人材」は往々にして基礎がしっかりしていないために寿命が短いことが多く、「直ぐに役に立つ知識」は今日、明日は役に立っても明後日には陳腐化します。激動する現代、目先の価値観にとらわれ、短絡的に実用的なものを求めがちですが、このような時期だからこそ「無用の用」や「不易流行」の意味をじっくりと考えてみたいものです。
・・・「風」にこだわって制作してきましたので、さらに調べます。
《去来抄》/日本俳句研究会より
「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たにならず。」
https://jphaiku.jp/how/huekiryuukou.html
「良い俳句が作りたかったら、まずは普遍的な俳句の基礎をちゃんと学ぼう。でも、時代の変化に沿った新しさも追い求めないと、陳腐でツマラナイ句しか作れなくなるので、気を付けよう」ということです。例えば、明治時代に正岡子規は、江戸時代以来の陳腐な俳句を月並み句として批判し、俳句の革新を成し遂げましたが、彼はいきなり新しい句を作ったのではありません。正岡子規の初期の作品は、彼が否定した月並み句そのまんまです。子規はこれに満足せず、俳句のすべてを学ぶために、その歴史をたどって、俳句分類の作業を行ないました。このことがきっかけで、子規は歴史に埋もれていた与謝蕪村の句に出会って、その主観的な描写表現に魅了され、試行錯誤の末、写生による現実密着型の俳句を確立させました。正岡子規は、俳句の本質を学んでから、新しい俳句を目指すという、不易流行を体現したような人だったのです。不易流行の『不易』とは、時を越えて不変の真理をさし、『流行』とは時代や環境の変化によって革新されていく法則のことです。不易と流行とは、一見、矛盾しているように感じますが、これらは根本において結びついているものであると言います。
蕉門に、千歳不易(せんざいふえき)の句、一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教え給へる、其の元は一つなり。去来抄
去来抄の中にある向井去来の言葉です。「千年変らない句と、一時流行の句というのがある。師匠である芭蕉はこれを二つに分けて教えたが、その根本は一つである」という意味です。難しい内容ですが、服部土芳は「三冊子」の中で、その根本とは、「風雅の誠」であり、風雅の誠を追究する精神が、不易と流行の底に無ければならないと語っています。
師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。その一つといふは、風雅の誠なり(三冊子)
俳句が時代に沿って変化していくのは自然の理だけれども、その根本に風雅の誠が無ければ、それは軽薄な表面的な変化になるだけで、良い俳句とはならない、ということです。★「風雅」とは蕉門俳諧で、美の本質をさします。これは俳句以外のあらゆることに応用できる普遍的な概念です。時代が変ったのに古くからの法則や方法に縛られていると、国や会社などは衰退してしまうし、変えてはいけない部分を変えてしまうと、あっという間に組織などは滅びてしまいます。利益優先のために、食品の偽装表示などをして摘発された食品会社などは、食に携わる者としての不易の部分を蔑ろにしたため、あるいは変化に「風雅の誠」となる部分を欠いていたために潰れたと言えるでしょう。
《風雅》goo辞書より
1 高尚で、みやびな趣のあること。また、そのさま。「風雅な住まい」
2 詩文・書画・茶道などのたしなみのあること。「風雅の心得」
3 蕉門で、俳諧のこと。また、その美の本質。
「予が―は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用ゐる所なし」〈風俗文選・柴門辞〉
4 「詩経」の★六義 (りくぎ) のうちの風と雅。また、「詩経」の国風の大雅・小雅。
https://word-dictionary.jp/posts/2433
《六義》
1 「詩経」における詩の六種の分類。内容上の分類にあたる★風・雅・頌 (しょう) と、表現上の分類にあたる賦 (ふ) ・比・興 (きょう) 。
2 和歌の六種の風体。紀貫之 (きのつらゆき) が1を転用して古今集仮名序で述べた、そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌。
3 書道の六種の法。筆法・風情 (ふぜい) ・字象・去病 (きょへい) ・骨目 (こつもく) ・感徳。
4 ⇒六書 (りくしょ) 1
5 物事の道理。
「物の筋道―をたて」〈浄・生玉心中〉
《風》
1 ある地域・社会などの範囲内で★一般に行われている生活上の様式。また、やり方・流儀。風俗・習慣。ならわし。「都会の風になじむ」「昔の風を守る」「武家の風」
2 人や物の姿・かっこう。★なり。風体。「医者の風を装う」
3 それらしいようす。★ふり。「知らない風をする」「気どった風」
4 世間への★体裁。聞こえ。
「隣近所へ―の悪い思いをする」〈近松秋江・別れたる妻に送る手紙〉
5 性格の★傾向。性向。「人を疎んじる風がある」
6 「詩経」の六義 (りくぎ) の一。諸国の★民衆の間で作られた詩歌。
7 名詞に付いて、そういう様式である、そういう外見である、その傾向がある、などの意を表す。「地中海風の料理」「アララギ風の短歌」「役人風の男」
・・・風って「そういうこと(自分のこと)」なんですね。だから、「そういう風に(自分らしく)」描けばいいのです。
《参考》画家、中川一政は水墨画、書、陶芸や随筆にも才能を発揮した/文芸春秋より
サント=ビクトワール山を描くセザンヌをほうふつとさせる画家。日本画壇の重鎮・中川一政は明治26年(1893)、東京・本郷に巡査の息子として生まれる。錦城中学時代は短歌★俳句の創作に熱中する。中学卒業後、定職につかずに過ごしていたが、雑誌「白樺」で日本に初めて紹介されたゴッホやセザンヌの絵におおいに触発されたという。やがて独学で油絵を描きはじめる。21歳のとき描いた「酒倉」が巽画会展で入選。岸田劉生や高村光太郎らに評価される。これをきっかけに、大正4年(1915)、岸田や木村荘八らとともに、「草土社」の結成に参加する。初期の北欧ルネッサンス的な画風からフォビズム的傾向を経て、次第に東洋的なイメージを強めていった。油絵具ばかりでなく、岩絵具、水墨とさまざまな素材を巧みに駆使して、独自の世界を構築した。禅師の書にも深く傾倒し、中国の古典にも精通。書や陶芸も手掛けるほか、随筆家としても知られた多才ぶりを発揮し、みずから美術を★「生術」と呼んだ。戦時中、伊豆に疎開し、その途次訪れた真鶴が気に入り、別荘を購入。別宅のつもりが本宅になったという。昭和50年(1975)、文化勲章を受章する。晩年まで精力的に創作活動を続け、平成3年(1991)97歳の長寿を全うした。
●娘の原桃子の回想。〈何より父を尊敬するのは、父が自分のことを偉いと思っていなかったことだ。何でもない日常会話のなかに何か耳新しいことがあると、父はそれを理解しようとした。何かいいことを取り入れよう、勉強になる話をきこうと努めていた。「そうかい、それは知らなかった。これから気をつけよう」などと自然にいわれると、私は身のおきどころに困った〉(「中央公論」平成3年4月号「父・中川一政のこと」より)
●松任中川一政記念美術館
http://www.hakusan-museum.jp/nakagawakinen/
●真鶴中川一政美術館
https://nakagawamuseum.jp/
《山口素堂》北杜市歴史文学館より2018.2.13
https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/
素堂、芭蕉と其角を諭した『続虚栗』序★不易流行論
素堂の俳諧感が遺憾なく現れているのが貞享4年(1687)其角の編んだ『続虚栗』の序文である。これは一部の識者も認めている★「不易流行」論は、芭蕉に先がけ素堂が唱えたことである。芭蕉没後の門弟たちの「芭蕉俳論」の根底をなす俳論の裏側には素堂の考えが横たわっていたのである。『続虚栗』の序は本文を参照していただくこととするが、その旨は、風流の吟の跡絶えずに、しかも以前のような趣向ではない。……今様な俳諧にはただ詠じる対象を写すだけで、感情の込められているものが少なく情けないことである。昔の人の云うように、景の中に情けを含むこと、その一致融合が望ましい。杜甫の詩を引用してそれは「景情の融合に在る」と説き、和歌や俳諧でもこうありたい。詩歌は心の絵で、それを描くものは唐土との距離を縮め吉野の趣を白根にうつすことにもなり、趣を増ことにもなり、詩として共通の本質があるのだ。例えば形態のない美女を笑わせ、実体のない花をも色付かせられるのだ。人の心は移り気で、終わりの花は等閑になりやすい。人の師たるものは、この心をわきまえながら好むところに従って、色や物事を良くしなければならない。として、其角が序を求めた事に対して、『虚栗』とは何かと問い掛け、序文は余り気が進まないので断りたいが、懇望するので右のとりとめのないことを序とも何なりとも名付けよと与えれば頷いて帰った。これは素堂が其角だけでなく芭蕉に対しても説いていることが理解でき、厳しい口調となっている。序文は漢詩や和歌それに俳諧も同じ文学性を持っており、景情の融合の必要性を指摘して情(心)の重要性を説いたものである。振り替って見れば、素堂は延宝八年の『俳枕』序に於いて、古人を挙げて、生き方の共通性を「是皆此道の情」と表現し、漢詩・和歌・連歌・俳諧の共通の文芸性は、この道の本質として、旅する生き方が重要な要素となって、★風雅観が生まれると説いたのである。
★貞亨4年(1687)11月13日『続虚栗』(其角編)刊。★素堂序。
みなしぐり【実無し栗/虚栗】殻ばかりで、中に実のない栗。《季秋》
・・・そもそも「山口素堂」とは?
【山口素堂】(1642~1716)Wikiより
江戸時代前期の俳人である。本名は信章。幼名は重五郎、通称は勘(官)兵衛、あるいは市右衛門。字は子普、公商。20歳頃に家業の酒造業を弟に譲り江戸に出て林鵞峰に漢学を学び、一時は仕官もしている。俳諧は寛文8年(1668年)に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見。延宝2年(1674年)、京都で北村季吟と会吟し和歌や茶道、書道なども修める。翌延宝3年(1675年)、江戸で初めて松尾芭蕉と一座し深川芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に退隠し、門弟ではなく友人として以後互いに親しく交流した。晩年には★「とくとくの句合」を撰している。
元禄8年(1695年)には甲斐を旅し翌元禄9年(1696年)には甲府代官櫻井政能に濁川の開削について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承がある。漢詩文の素養が深く中国の隠者文芸の影響を受けた蕉風俳諧の作風であると評されており、延宝6年(1678年)の『江戸新道』に収録されている「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で広く知られている。門人に山口黒露がいる。
http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/tokutoku.html
※素堂は『とくとくの句合』の中で、「目には青葉といひて、耳には郭公、口には鰹と、おのづから聞ゆるにや」としています。「目には青葉」と、字余りのゆったりした呼吸の中に、読者は初夏の青葉の景を思い描きます。ややおいて「山ほととぎす初鰹」とテンポよくたたみかけられることによって、読者は自らの耳や口の五感が刺激されて、初夏の候を体全体に感じるようになります。
●芭蕉と素堂/北杜市歴史文学館より
芭蕉と素堂の関係は、一部の著書に垣間見られる程度で、芭蕉関係著書の中「素堂事跡」や「交友事績を」を探し出すのに苦労する。そのくらい素堂ぬきの芭蕉が存在している。しかし当時の俳諧世界の中で山口素堂を外して芭蕉を語ってみてもそれは、深みのない創られた芭蕉像が浮かび上がる結果となる。多くの俳諧関係者は、芭蕉の俳諧精神に感動して、尊敬して著しているのであろうか。芭蕉を崇め奉ることにより、芭蕉より己の地位と名声を求めてはいないか、芭蕉を崇めるあまりに神にまで昇進させてしまったなど芭蕉の本質からかけ離れた著書も多い。私の書庫にも約200冊の芭蕉関係の本がるが、売るための本が多くあまり参考にならない。たまには芭蕉の生涯を淡々と綴っている本に出会うと、ほっとする。こうしたことは、私が山口素堂の研究をはじめて理解できた。何でも間でも芭蕉の事績ように捉えるととんでもない間違いを生じる。例えば★「不易流行」など芭蕉より以前に、素堂の手により提示されている。それを後の門人と称する俳諧師により、恰も芭蕉が考えたような内容を持つ難解の書により、素堂の提示のことは抹消されている。
芭蕉は寛永二十一年(一六四四)年に生れた。西鶴より二つ年下、近松より九才年長ということになる。私の研究している山口素堂より二才年下である。もっとも、これは没年と時の年齢から逆算して知り得ることで、多くの著名人にも適用されている。したがって生れた月日はわからない。この年は十二月二十六日に改元があり、芭蕉の誕生がこの日以後であれば、正確には正保元年生れということになる。徳川三代将軍家光の治世、江戸開幕以来僅か四十年を経たばかりであるが、幕藩体制も漸く整い、島原の乱も平定し鎖国が始まり、徳川幕府三百年の太平がはじまった頃である。生れた所は伊賀上野の赤坂町、現在の三重県上野市赤坂町である。四方を山に囲まれて静かに眠る伊賀盆地、その中央やや北よりの台地に位置する上野の街、それが芭蕉の故郷である。上野の街の東のはずれ、柘植方面からの街道が上野に入る坂をのぼり切ったところ、赤坂町に現在も芭蕉生家が遺っている。建物は安政の地震後の再建というが、位置は変っていないはずである。芭蕉の生れた頃の上野は藤堂家の領地で、藤堂家は伊勢の安濃津(津市)を木城として、伊勢伊賀をあわせ領し、上野には七干石の城代を置いて、伊賀一国を治めさせた。しかし僅か七干石の城下として上野のイメージを描いてはならない。上野の地は、元来戦国の世には筒井定次(十二万石)の城下であったのを、江戸時代になって、慶長十三年(1680)に、藤堂高虎が四国の今治から二十二万九百石をもって伊勢に移封され、この地をあわせ領することになったものである。幕府が名将籐堂高虎をここに移したのは、当時まだ反抗勢力の中心であった大阪方に対する戦略的配慮の結果といわれる。上野はその位置からも、大阪の東国進出に対する隆路口を掘って、要衝の地である。土木築城の名手高虎は、新たに城取り縄張りをして城郭を改修構築し、城下町を拡張整備して、大いに新しい街づくりに努めた。その結果上野の町は、城も街も、優に数万石の城下に相当する威容を備えていることになる。現在も遺る白鳳城の雄大な遺構、深い濠、高い石垣、あるいは長屋門に武者窓の旧武家屋敷のつづく整った街なみは、往時の威容を想像させるのに十分である。芭蕉の生まれ育ったころの上野の町も、街の規模は大きく整っていて、しかも実質は人少なで物静かな、一種古都に似た落ちつきと風格をそなえていたに違いない。芭蕉の出自、周囲の肉親の関係などは、すべて確実な資料を欠き、従来の伝記などの推測でとりまかれ、おぼろげな伝承を書く人の主観や臆測に覆われている。これとても絶対の正しさは有していないが、芭蕉の父は松尾与左衛門、母は名はわからないが、四国宇和島の人で、桃地氏の出だという。半左衛門と名乗る兄のほか、姉一人妹三人があったらしい。松尾家の家系は元来平家の流れをひき、父与左衛門の代に、柘植から上野に移って来たものと推定されている。身分家格もはっきりしないが、藤堂家でいう無足人という身分ではなかったかという説がある。無足人というのは、武士と農民との巾間的な身分、郷士(上級の農民)であったらしい。(確証はない)当時の古絵図を見ても、生家のある赤坂は農人町と接しており、身分職業によって居住区域を分かつ城下町の通例を考えると、この推測は当を得たものと思われる。父は手習いの師匠をしていたと伝えられ、芭蕉も藤堂家に出仕するし、全くの百姓ではなかったことは事実であるが、普通に考えられるような武士社会の環境とは、よほど違った、もっと土の匂いの濃い生活環境が彼のものであったと思われる。幼名を金作、藤堂新七郎家に仕えて甚七郎宗房といった。幼名通称については異説も多い。宗房というのはその名乗りで、これをこのまま俳号として用いることになる。
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