http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/yamataikokuco/shikokusetuco/awakokuco.htm 【阿波国のヘブライ伝説考】より
さて、高橋氏の調査後、日本探検協会では、忌部氏の祖・天日鷲命はヴィマナ(古代インド叙事詩に登場する空艇)に乗って大空をかけめぐった太古の英雄であり、剣山には太古の地下都市シャンバラの宮殿とヴィマナが今も眠っているとして、「四国は日本太古史の究極の秘密の鍵を握るところ」であると主張する(日本探検協会編著『地球文明は太古日本の地下都市から生まれた!!』飛鳥新社、一九九五年。幸沙代子「失われた太古日本の世界文明」『日本超古代文明のすべて』日本文芸社、一九九六年、所収。幸氏は日本探検協会事務局長)。
なお、高根や山本によるアークおよびソロモンの秘宝探索の波紋は剣山以外の場所にも波及している。故・浜本末造によると、「契約のヒツギ」はエルサレム陥落前にイスラエルの民によって神殿から運び出され、釈迦、秦始皇帝、新羅王家の手を渡って、神功皇后により、奈良県吉野の玉置山に隠されたという(浜本『万世一系の原理と般若心経の謎』霞ケ関書房、一九七三年)。もっともその後、浜本は「契約のヒツギ」は神功皇后が鳴門の渦の中に納めたとも述べている(浜本「神国日本の秘められた歴史と使命」『地球ロマン』復刊一号、一九七六年八月、所収)。
沖縄の斎場御嶽にもソロモンの秘宝が隠されているという話がある(喜屋武照真『炎のめざめII 太古の琉球にユダヤの痕跡』月刊沖縄社、一九九七年)。同書に掲載された霊能者・石田博の手記によると山本英輔の剣山発掘は当時、「行者の間では問題になった」とあり、それに続けて斎場御嶽のことが出てくるので、この沖縄のソロモン秘宝の話が剣山から飛び火したことは間違いない。
徳島県名西郡神山町で「日本超古代研究所チナカ」を主宰する地中孝氏は、ソロモンの財宝は剣山ではなく、その東の神山町神領方面にあるとする(地中『ソロモンの秘宝は阿波神山にある!』たま出版、一九九五年)。この地域は阿波邪馬台国論者によって卑弥呼=天照大神の本拠とされたあたりである。神山町内に立てられた「日本超古代研究所チナカ」の看板には「古代文字を解読してソロモンの秘宝の謎に迫り解読と発掘に賞金五億円ウガヤ王朝の京は神山にあった」というコピーが踊っている。
神山の山村出身の地中氏は同書において、「庸の時代から三〇〇〇年変わることなく続けられた高地性山岳農法と生活の体験」を記している。地中氏は、小学校三年生の時、姉の下宿している徳島の町に出ただけで「山峡の谷あいで生れ育ち、外界の広さを知らぬ井の中の蛙であった子供心に、あくまで広大でまだ見ぬ世界のあることを、大人のさまざまな生き方があることを単純に開眼した」という。地中氏には申し訳ないが、同書で一番面白いのは、この山村生活の回想のくだりである。
さて、高根正教から日本探検協会まで、剣山のアーク(もしくはソロモン秘宝)について諸説あるが、なぜ、ソロモンゆかりの宝が遠く離れた四国にあるのか、その説明は様々である。高根はアークを日本にもたらしたのはアレキサンダー大王(=崇神天皇)と田島守と考えているが、山本の発掘に協力した中村資光は「ソロモン王家」という実際には存在しない王朝(ソロモンは人名であって家名ではない)が剣山にやってきたと説く。佐治芳彦氏はソロモンのタルシシ船団に着目するし、宇野正美氏はイザヤがアークを持ってきたという具合である。
剣山のソロモン秘宝説、邪馬台国四国説、高天原の比定、太古日本世界文明説(木村鷹太郎の新史学、『竹内文献』、日本探検協会)の論法には類似点がある。
宇野正美氏は、次のように述べる。「長きにわたって四国は“死国”とされてきた。四国について書かれた小説はほとんどないし、四国についての歴史教育はほとんど行われない。日本中に高速道路が張り廻らされたとはいえ、最後にそれが完成したのは四国の中でも阿波の国、徳島県だった」(前掲「古代ユダヤは日本に封印された」)。
(私論.私見)
【「神秘の剣山説」】
大塚駿之介氏によると、山本の剣山発掘に同行した中村資山は霊媒であり、次のような剣山の秘史を霊視していたという。「剣山は、むかし、岩石が花の雄しべのように乱立していて、その真ン中に、雌しべのごとき一本の大きな石の柱があった。その残りが、根幹だけとなったいまの宝蔵山である。故国を脱出したユダヤのソロモン王家とその一族六、七千人がいまから三千七、八百年前に東進してきて、剣山のこの特異な姿にひかれ、室戸岬に上陸し、山頂において十四代八百余年に及ぶ文化生活をはじめた。頂上には王家と近親五百人くらいが残り、三代めの王のころは、大半が下山して祖谷地方に走り西に移動しながら伊予の奥に達した。頂上族は、信仰の象徴であり中心であった大石柱が倒壊したので、王は自殺し、嗣子がなかったため、十四代をもって解体した。そして、王宮と重宝を埋蔵し、すべての史跡を岩石化するために、約二カ年の歳月をついやし、現在のような姿の剣山とした。下山族は、この悲報を伝え聞き、王妃と姫を守って故国へ帰ろうと計り、さっそく実行に移ったが、途中、北陸の金沢付近まできたとき、王妃と姫が相次いで病死してしまった。その後、頂上族と下山族の間にしばしば対立と闘争が続いたが、やがて、伊予の奥地一帯にほとんどが定住し、帰国する者がなくなり、平和になった」(「四国にあるソロモンの秘宝」)。
また、78年に剣山のソロモン秘宝伝説を現地取材した柞木田龍善氏は、「剣山が阿波の古代文化発祥地で、約四千年前も、室戸岬から約一万人のユダヤ人が北上して付近にすみついていた」、「平家落人部落で知られるこの祖谷山の住民は、世界各国でみたユダヤ民族の顔と共通点である。あそこにはユダヤの血が残っている」という山本英輔の言葉や「二千五百年前に十四万四千人のユダヤ人が日本に移住し、剣山にユダヤの三種の神宝を埋蔵し、新しいユダヤ国家を日本という名で創始した。神武維新とはほんとうはこれをいう」という第三文明会会長・小笠原孝次の説を伝えている(柞木田『日本超古代史の謎に挑む-日本・ユダヤ同祖論の深層-』風濤社、一九八四年)。
武内裕氏(武田洋一)は、剣山は縄文時代以前の原日本人が遺したピラミッドであり、そこに埋められているのは原日本人の宝物であろうという(武内『日本のピラミッド』大陸書房、一九七五年)。
佐治芳彦氏はソロモンのタルシシ船がインド、東南アジアまで至っていたとして、「おそらく、古代世界最大、最良質の真珠採取海域であった日本近海も彼らの視野に入っていたであろう。タルシシ船団は、ルソン島沖で日本海流(黒潮)にのれば、それこそ目をつぶっていても、日本列島に到着する。九州、大分で発見された前八世紀の縄文製鉄の遺跡は、この船団の仕業と見てよい。彼らは、わずかな鉄と大量の真珠や砂金とを交換して巨利をむさぼったのであろう。(中略)このようなソロモン時代にさかのぼれるユダヤ人の渡来が、四国の剣山に伝わるソロモンの財宝埋蔵伝説の集団無意識的背景となっているのではないだろうか」(佐治『謎の九鬼文書』徳間書店、一九八四年)と述べる。
ちなみに前八世紀の大分県にソロモンの製鉄プラントがあったというのは、もともと鹿島昇氏の説である。なお、大分県の製鉄遺跡について、その年代を前八世紀とするのは九州大学助手の故・坂田武彦の鑑定によるものだが、現在の考古学的常識では日本列島で後三世紀より前の確実な製鉄遺跡はまだ見つかっていない。
鹿島氏は古事記の大国主命(大物主命)の一族はソロモンの末裔だという。すなわち、古事記の因幡の白兎の話の原形と思われる説話がマレー半島にあり、そこではソロモン王の命令を受けたと称する鹿がワニをだましたという話になっている。したがって「マレー神話の“ソロモンの命令を受けた鹿”は古事記の“大物主命に助けられた兎 ”に対応するから、ソロモン・イコール・大物主命という図式が成立するのである。なるほど、大物-オーモン-ソロモンと考えれば、謎はとけてしまう」という。鹿島氏は、日本のいわゆる神代文字の中にフェニキア文字から発展したものかあるとも述べている(鹿島「日本ユダヤ王朝の謎」正・続、新国民社、一九八三・八四年、他)。
(私論.私見)
【「日本民族フェニキア起源説の諸相」】
さて、鹿島、佐治両氏の主張するソロモン船団の日本渡来説は、タルシシ船がもともとフェニキアの船であることを思えば、フェニキア人の日本渡来説とみなすことができる。柞木田龍善氏は高知高等商業学校の校歌の歌詞に「古代ユダヤ人の子孫がわれらである、という意が潜在しているように感じられる」という。それは次の通りである。
鵬程万里はてもなき
太平洋の岸のべに
建依別のますらおは
海の愛児と生まれたり
天にそびゆる喬木を
レバノン山の森を伐り
船を造りて乗り出でし
フェニキア人のそれのごと
(前掲『日本超古代史の謎に挑む』より)
木村鷹太郎が宇和島人をホエニシア人(フェニキア)の子孫とみなしていることは前に述べた通りである。ここで余談ではあるが、フェニキア人日本渡来説の流れをたどってみたい。
日本民族とフェニキア人を関連付ける学説として、まず筆頭に挙げられるべきは、明治の歴史家・竹越与三郎の『二千五百年史』(一八九六年)の日本民族フェニキア起源説がある。竹越は記紀などの日本古典には南洋人・マレー人種・シャム人・シナ人種・蒙古人種・小人種(コロポックル)など、あらゆる地方・あらゆる人種の伝説が含まれているとして、それらの伝説は各人種の祖先が日本に渡来してもたらしたものであろうとする。
しかし、その中でも日本民族・国家形成の中核と成った人種について竹越は次のように考察するのである。「フェニキア人の文明は、独り歴史の伝うるがごとく、インドに達したるのみならず、神武紀元の前、数百年早くすでにインド、コーチンを経て、フィリッピン群島に達し、しかしてフェニキア人の経過せる海路は更にインド人の襲うところとなり、欧亜大陸の勢威は、漸々南東に下り来り、セミチック人種なるフェニキアの文明と、ハミチック人種なるインド・アリヤンの文明とは南島の中において新たに一大化合を始めたるもののごとし。(中略)フェニキアよりフィリッピン群島、フィリッピン群島より日本に至るまで、沿道の国土における、古神伝説の多くは海原を主とするの点において、海魚をもって人語をなさしむるの点において、言語の性質において、婚姻の風において、涅歯の風において、家居の風において、人身御供の風において、骨格において、神木を尊ぶの点において、跣足の風において、婚嫁に処女を尊ぶの風において、男子の陰を祭るの点において、みな一様の形跡ありて、セミチック、ハミチックの両文明がこの地を経過して日本に至れるを示す」(以上、『二千五百年史』引用は講談社学術文庫版、一九九〇年より)。
高越はまた、「フェニキア人が貿易によりて世界の民に交通せるより、各国の言語を写さんとして発明せる声音文字の文明に傾きて、自然に『いろは』四十七字を生じて、国民的言語を成すに至りし」として、日本のカナ文字が、フェニキア人のアルファベットに起源することを主張している。
もっとも一方で竹越は、フランスのル=ブルンジョンが説いた世界文明ユカタン起源説、ユカタン=アトランチス説に基づき、「日本はメキシコより直接に渡来したるものありしなるべし」とも述べている(ル=ブルンジョンの説についてはロバート・ウォーカップ著、服部研二訳『幻想の古代文明』中公文庫、一九八八年、原著一九六二年、ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ著、小泉源太郎訳『プラトンのアトランティス』ボーダーランド文庫、一九九七年、原著一九七〇年、を参照されたい)。
工藤雅樹氏は竹越の論の特徴の一つとして「ヨーロッパ人学者のやや通俗的とも言える説を引用して、自説を補強しようとする態度」があることを指摘している(工藤『研究史 日本人種論』吉川弘文館、一九七九年)。
竹越が参照したヨーロッパの通俗的な書籍はル=ブルンジョンのものばかりではない。日本民族フェニキア起源説は、学術的というよりも、そうした通俗的な諸説を基礎として構築されたもののようである。
語源研究家の山中襄太は日本語「ふね(舟、船、艦)」は「古代の有名な地中海の航海民族、船民族たるPhoenicia」の“Phoeni-”“poeni-”と関係があるのではないか、と唱える。また、“Phoenicia”はギリシャ語で紫、紫赤、鮮紅を意味し、この民族が製した紫紅色の染料に由来するとされるが、それはまた日本語「べに(紅)」と似ているともいう(山中『国語語源辞典』校倉書房、一九七六年)。
田口賢三氏は著書『日本語の謎』(大陸書房、一九七四年)において、日本語と英語の間には「本当」と“found”、「そっと」と“soft”、「そろそろ」と“slow”、「かばう」と“cover”「名前」と“name”など概念と音韻が共にほぼ一致する単語が多いとして日英両語同祖論を唱え、さらにそれを根拠に日本民族フェニキア起源説を説いた。
田口氏によると、英語のアルファベットの起源はフェニキアにあり、一方、七世紀以前、「フェニキア人の使用した言語をペルシア人が受け継ぎ、それが海路を距てて中国南部のピンに定着し、いわゆる南方系混血をして東洋人となったものが日本人の祖先」であるというわけだ。
日英両語同祖論といえば、清水義範氏のパロディ小説「序文」(『蕎麦ときしめん』講談社文庫、所収)が思いおこされる。それは日英両語同祖論を唱える学者の著書の序文という体裁をとった短編である。おそらく清水氏は御存知なかったのだろうが、「序文」より前に、同様の説を大真面目に主張した研究者が実在したのだ。
むろん、田口氏の研究は学界から相手にされなかったが、その黙殺にかえって闘志をかりたてられ、田口氏はさらに二冊の著書『邪馬台国の発見-卑弥呼と七支刀』(新人物往来社、一九七五年)、『邪馬台国の誕生』(新人物往来社、一九七六年)を発表した。その中で田口氏は日英両語同祖論に基づき、『三国志』倭人伝の国名や、記紀神話の神名に独自の解釈をほどこしている(邪馬台国の所在については畿内大和説)。
和歌山県地方新聞協会会長の日根輝己氏によると、『花岡青州の妻』で知られる作家の故・有吉佐和子もフェニキア人の日本渡来説を主張していたという。
日根氏が自ら主宰する『黒潮新聞』に古代豪族の紀氏が朝鮮半島からの渡来系氏族だと書いたところ、以前取材したことのある有吉から電話がかかったという。一九八三年六月のことだった。「あんたねえ。紀氏を朝鮮からの渡来人だなんて、とんでもないことよ。『新撰姓氏録や太田亮の『姓氏家系大辞典』には<太古以前の大姓で、他にはなし>と書いてあるわよ。あの<キ>はね、古代フェニキアのキだと思うの。舟ではるばるやってきたのよ。(中略)だいたい、人類は三〇〇万年昔、アフリカで生まれているのよ。原日本人がフェニキアからきたところで、驚くにはあたらないわよ。木ノ本というのは木の根本ね。紀州こそ日本人のルーツなのよ」。有吉はその電話で「天皇家より古いのよ。うちの母が、えらくおこっているわよ」とも言っていたという。有吉の母は和歌山市西庄宮山の木本八幡宮の宮司家と縁続きであった。すなわち彼女は母方の血で古代の紀氏とつながっていたのである(日根『奪われた神々-騎馬民族王朝と紀氏の謎』アイペック、一九八五年)。
(私論.私見)
【古代日本ユダヤ人渡来説】
「古代日本ユダヤ人渡来説」(坂東誠著 PHP出版)を転載しておく。
古代イスラエルの礼拝所 p144~146
コーヘン氏が徳島を視察された中で、いくつかユダヤ人が彼の地に辿り着いたと思われる史跡があったという。中でもコーヘン氏が特に驚かれたのは、剣山の側にある古代礼拝い所磐境神明神社である。
私たちは普通、神社といえば社殿のような木造建築の礼拝所を想像する。しかし白人神社の礼拝所は、すべて石造りの古代遺跡なのである。そこに石を積み上げた東西約二二.五メートル、南北約七・三メートルの長方形の形をした礼拝所の磐境がある。
そこを訪れたコーヘン氏は、古代イスラエルの礼拝所かと思ったそうである。この磐境は、イスラエルにある古代ユダヤ教の礼拝所のアラッドなどとそっくりだからだ。そして子羊などの婚祭を捧げた祭壇を思わせるというのだ。そして礼拝所の礼拝する方向を見ると、目の前に山があった。それもユダヤの伝統的な礼拝方法と同じであるということである。
タナフには次のような言葉がある。わたしは山に向かって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を創られた主からくる。(テヒリーム121・1~2)
このように、古代イスラエルにおいては、山に向かって神に祈りを捧げ、神からの助けを仰いだことがわかる。コーヘン氏によると、古代のユダヤの礼拝所の側には必ず山があり、その山の方に向かって礼拝していた、というのだ。
そして驚くことに、二千年以上前にこの礼拝所の祭壇を築いたといわれる七十五人の宮人の子孫が、現在でも氏子としてこの神社を守っているのだ。この七十五人の氏子の人たちは、身を汚さないために、生涯汚れた仕事をしてはならない。彼らこそがイスラエルの礼拝を司っていた、レビ族の末蕎なのだろうか。神殿に仕えていた彼らレビ族は高貴な人々で、日本でいうならば皇室にお仕えする人々のことである。
四国・徳島が建国発祥の地? p150~152
古代ユダヤ人が渡来し、ソロモンの秘宝である「契約の箱」を埋めた、といわれる剣山。その山のある四国の徳島とはいったいどのような場所なのだろうか。またなぜ四国なのか? 一説では、阿波こそ、日本建国の地であり、古事記、日本書紀に出てくる天孫降臨や豊葦原中津国もすべてこの阿波で起きたことだ、という。本来、九州の霧島で天孫降臨があり、そこから神武天皇の東征が始まったというのが一般的な考えである。しかし二千六百年前の航海技術などを考えても、九州の霧島からよりも、四国の阿波徳島から神武天皇がお船出し、建国が行なわれた奈良の橿原に辿り着いた、と考えたほうが自然だ。また徳島には「天の岩戸」のような日本の神話の舞台もある。平安時代の全国の神社の格付けを行なった延喜式神名帳などには、全国の約三千もの神社のうち、古事記に登揚する重要な神様を祭る神社で徳島にしかない例が数多くある。たとえば、イザナミノカミを祀る神社は、徳島の美馬市にしかないのだ。そのような理由から、「タカマガハラは阿波だった」と主張する人もいるくらいである。その他にも、奈良県にある多くの地名が実は阿波徳島にあるのだ。吉野川をはじめ、天の香具山などがある。
たとえば『阿波国風土記』にも「大きな山が天から阿波国に降ったのをアマノモト山といい、その山がくだけて大和国に降り着いたのを天の香具山という」とある。つまり日本に渡来したユダヤ人が、日本建国の事業に参画したとするならば、建国の始まりである四国に辿りついたと考えられる。
古代イスラエル人たちが、アツシリアの占領により捕らえられ、その後姿を消したのが紀元前722年で、今から約2700年である。そして日本の建国が今から約2660年前の紀元前660年。イスラエルからの移動時間や、徳島から建国の橿原への東征の時代などを含めると、数字としては合う。契約の箱を運んだイスラエル人たちは、吉野川を通り上陸し、剣山にそれを運んだのであろうか。
(私論.私見)
【倭国(いのくに)研究会】
「倭国(いのくに)研究会」がある。次のように紹介されている。
「四国山上には莫大な邪馬台国の遺跡群とともに、驚くべき秘密の歴史が隠されていた。完全なる証明により既存の説を粉砕。所在地論争に終結を告げ、千数百年間の謎に包まれた日本古代史の全貌を解き明かす。大和朝廷の大秘密政策、空海の封印、失われたアークの在る場所とは? (大杉元信さん)」 。『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』『邪馬台国の結論は四国山上説だ』などを出版された、阿波池田在住の郷土史家、大杉博さん主催の研究会です。「超常現象研究とは趣が異なりますが、参考になれば幸いです」とのことです。
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