Facebook竹元 久了さん投稿記事 🔵黄帝内経❗
『黄帝内経』(こうていだいけい、こうていだいきょう、こうていないけい)は、現存する中国最古の医学書と呼ばれている。
現代の中国の全医学部はこの医学書を原点としています。
概要
『内経』の原本は残っておらず、さまざまな写本が存在する。日本では京都の仁和寺に、日本最古の『黄帝内経太素』の写本が所蔵されている。
未病(みびょう)という用語は、『黄帝内経』で初めて使用された。
「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」
既病(きびょう)とは、既に症状が出ている状態。『黄帝内経』では未病とは病気(病原体)は体内にあるのに、症状が体表面に出ていない、しかし治療しなければ早晩発症が必至な状態をさす。
『黄帝内経』は、陰陽五行説にのっとって記述されている。
中国独自の哲学思想である。
現存する中国最古の医学書としては『黄帝内経』の他に、『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)、『傷寒雑病論』(しょうかんざつびょうろん)がある。
『黄帝内経』が書かれた時代、医療は現在のように機械を用いたり、電子顕微鏡で細胞を見るなどの細かい分析を行っていなかった。その代わり、人が生きていることを「全体的に」捉え、生命の営みを緻密に診ていた。そこで得られた知見が示すのは、人と自然の関係、臓器同士の結びつき、心と身体との関連といったことであった。
病気だけを問題にするのではなく、その人の習慣や感情の傾向、食事、またはその人の住んでいる土地、季節などとの関わりから、総合的に診ていた。人が健康で寿命をまっとうするためにはどのようにあるべきか、哲学の観点から病気を考えていた。
これは最近、現代医学が目を向けはじめた「生活の質」を高めるという発想ときわめて近いものがある。身体に負担をかけず、自然のルールに従って健康を保持し、病気を克服するというものである。奇しくも、現代の生活に足りないとされている、まさにその要点がこの書物にあふれている。
今日、中医学と呼ばれているものには、漢方や鍼灸、それに気功などが含まれている。中医学とは、「中国の医学」という意味で、これらの源はすべて『黄帝内経』にある。後世の人たちが『黄帝内経』の中からそれぞれの領域を専門化したものが漢方や鍼灸、気功というわけである。当時、気功という言葉はなく、「導引按摩」と呼ばれていた。
『黄帝内経』は中医学の原点であり、総合医学といえるが、そこから様々な分野に分かれたことからもわかる通り、漢方、鍼灸、気功にはそれぞれの特徴と特性がある。
漢方は生薬などを患者に服用させることで、特定の臓器に行き渡らせ、他の臓器とのバランスを整え、経絡の流れを改善し、体内の気の流れを良くする。
漢方で使う薬の数はたいへん多く、日本の厚生労働省が認めているものはだいたい210種類くらいであるが、中国では13,260種類、772科目に及ぶ。
漢方だけで治らない場合、直接的な方法として鍼灸がある。
鍼灸は生命力である気の通り道「経絡」上にある経穴(ツボ)を刺激し、気の流れを整え、臓器の調整を行い、病気の改善を行う方法である。
熱を加えたり、圧したり、刺したりといったように直接身体に触れる方法で、当時としては、いまでいう外科手術に近い療法だったのだと思われる。むろん鍼以外にも外科的な手法はあった。解剖手術も古代に行われていた。
紀元200年頃『三国志』にも登場する♦名医の華陀(カダ)
という人物が麻酔を使った手術を行っていたという記録もある。
中国では病院に気功科が設けられ、公的な医療として認められている。しかし日本では、気功によって病気が改善した症例がたくさんあるにもかかわらず、超能力のようなものとして扱われることはあっても、医療行為としての評価を受けることは少ないのが現状である。
中国では「不通則痛」といい、気のめぐりが悪くなるから病になると考えられている。
気功は通じにくくなった経絡の中の気を開通させる手段である。漢方が薬を用い、間接的に気を通じさせるなら、気功はより直接的に経絡の詰まりを取り去り、しかも自分で体内のバランスをはかれるよう調整する。
黄帝内経の概要を簡略して説明しましたが.、🔹ここで疑問に残るのが、はたして黄帝内経が中国で生まれ日本に伝わったのか?
史実は逆で日本で生まれ、中国へ渡り、時代と共に日本へ逆輸入されたとされる。
中国と日本(縄文時代)の歴史を振り返ってみると
世界一高度な文明が日本には存在していたということが証明され、世界でセンセーションを起こしているのですが…
♦【エジプト文明は、紀元前約5000年、インダス文明は、紀元前約2600年、黄河文明は、紀元前約7000年、世界最古といわれるメソポタミア文明は、最古のシュメールでも紀元前約9000年です。 日本の縄文時代を文明とすると紀元前20000年~4000年という途轍もない古くからの文明になります。
このように日本の方が中国より長い時代文明がお解かりに、ただし、両国には交易があり、中国から様々に中国から渡ってきたのもありますが、日本から中国へ渡ったのも沢山あります。
🔷日本には縄文時代から文字があった!
日本には文字が無かったとされており、縄文土器にしろ弥生土器にしろ、模様か絵しか描かれていないと思い込んでいた!
しかしながら、改めて土器を見ると文字らしき意味のありそうな文様や記号があった。
どうも、縄文土器の派手派手しい文様には、実は意味が込められていたようだ。また、弥生土器にも神代文字と思しき記号が刻み込まれていた。
文様や記号にすれば上書きされることがなかったとされる。
以上の史実、事柄を解明された日本の医学者がおられます。
不思議に日本国内では、マスコミ (テレビのNHKスペシャルを除いて) は殆ど報道していません。一部には 『日本が世界最古の文明の発祥地』 であることを認めたくない思想 (地球全て、更には全宇宙が自らのものであり漢民族こそがその中心であるとする「中華思想」 等) が意図的に報道させない圧力を掛けているという話も聞きました。
https://www.ikwc.jp/cgi-bin/info/archives/2.html 【漢方医学の歴史 (1)】
ここからは漢方医学の歴史を辿ることで、そもそも漢方医学とはどのような医学であるのかを見てゆきたいと思います。日本における漢方の歴史はその背景的な違いから大きく前後2つに分けることができます。
まず前編は中国からの「輸入」に大きく頼っていた、冊封体制(中国中心の国際秩序体制)の時代です。そして後編は輸入してきた中国伝統医学を日本人に合う形へと改変していった時代、日本独自の医学である漢方医学が生まれ、そして現代へ至る時代です。
まず中国伝統医学の歴史はとても深く、その原型となる理論などは少なくとも紀元前1000~700年くらい昔までさかのぼることができるといわれています。文字通り「中国3000年の歴史」ということですね。
時間は進み紀元前200年頃、中国伝統医学からみた人体の構造や病気の仕組み、鍼灸を用いた治療法や健康法を記した黄帝内経(こうていだいけい)が成立しています。ちなみにこの黄帝内経(素問と霊枢という二部構成になっている書物です)が中国最古の医学書といわれています。
さらに紀元後200年頃には植物薬・鉱物薬・動物薬などの薬効を記録した神農本草経(しんのうほんぞうきょう)も書かれています。神農本草経はこれらの薬を上薬・中薬・下薬にカテゴライズしたことでも有名であり、中国最古の薬物辞典といわれています。
そして同じ頃の後漢の時代には張仲景が著したとされる傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)が生まれます。傷寒雑病論は後に「感染症対策マニュアル」のような存在である傷寒論(しょうかんろん)と慢性病を扱った金匱要略(きんきようりゃく)に分離独立します。
このように紀元前と紀元後をまたぐ数百年の間に中国では植物や鉱物を用いた薬物治療、それに加えて鍼灸治療も行われていたことがわかります。傷寒論と金匱要略が成立した頃の日本は弥生時代の後期、邪馬台国の卑弥呼が争いを鎮めて、紀元後239年に中国(当時は魏)から親魏倭王の称号と金印を授かったとされています。
日本が小国同士の戦いに明け暮れていた時代に中国では感染症に対する薬物治療が行われていたことになり、当時の中国がいかに「先進国」だったかがわかります。
中国伝統医学が日本に伝わってきたのは紀元後400年頃のヤマト政権の時代です。多くの渡来人が来日して進んだ大陸の鉄器や土器の製造技術が流入してきた時代でもあります。その頃、倭の五王の一人とされる允恭(いんぎょう)天皇が来日した医師から中国伝統医学を用いた治療を施されてという記録があります。
600年頃からは聖徳太子が指揮した遣隋使、隋滅亡後は遣唐使によって継続的に中国伝統医学の輸入が行われました。753年には有名な鑑真和尚が仏教の教えとともに朝鮮人参、桂皮、甘草、大黄などの生薬を日本に持ち込み、それらは正倉院に保管されました。生薬の一部は1000年以上の時を経て、なんと現在で薬効成分が失われていないそうです。
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12441659748.html 【日本には縄文時代から文字があった!!】より
日本には文字が無かったとされており、縄文土器にしろ弥生土器にしろ、模様か絵しか描かれていないと思い込んでいた!
しかしながら、改めて土器を見ると文字らしき意味のありそうな文様や記号があった。
どうも、縄文土器の派手派手しい文様には、実は意味が込められていたようだ。また、弥生土器にも神代文字と思しき記号が刻み込まれていた。ただし、土器に刻まれたものは文章と見るには文字数が少ないものであり、今のところ意味を汲み取ることは難しそうで、考古学者らは記号と見ている。それでも何らかの意味が必ずあり、記号と言えども表意文字の一種と言い切れる。
同様に奈良・平安時代の墨書土器に書かれた漢字なんかも一字とか二字程度で、文章になっていない。多分、土器の産地を表すブランド名などの商標とか、用途など何かの標章であろう。
いわゆる従来の神代文字が土器から発見されてなくとも、元々、多様な文字が開発され、乱立しており、土器の記号が文字では無いとは言えない。岩に刻まれたペトログラフ、銅鏡に刻まれた神代文字、神社などに奉納された神代文字、そして偽書とされた古史古伝に書かれた神代文字などを総合して、研究し直す必要がある。
参考
①-1 縄文記号(参考)
これからお話するのはちょうどエジプトやメソポタミアで文字体系が生まれた頃の日本の記号についてです。その時代は縄文時代中期と呼ばれています。
当時の日本では文字は使われていませんでしたが記号は土器の装飾など日常的に使われていたと考えます。
世界では高度な文字が発達していたのにまだ記号しか使われていなかったのですから日本列島は原始的だったと考えてしまいそうです。しかし縄文記号は世界の中でも高度に発達した記号だったと考えます。
①-2 縄文記号・玉抱三叉文(参考)
引用縄文記号学 縄文土器の模様の意味
①-3【土器】甲州市・天神堂遺跡 記号文を有する深鉢(参考)
天神堂遺跡は甲州市勝沼町下岩崎に所在する遺跡で、介護施設の建設に伴い発掘調査が実施された。縄文、古墳前期、奈良、平安、近世の複合遺跡で、縄文時代では早・前期から中期後葉まで検出されている。27号土坑は直径1.1mの円形土坑で、内部から2個体の深鉢が出土しており、そのうちの1個体が記号文を有する深鉢で、蛇体突起付深鉢と共伴している。
口径18.5cm、底径9.6cm、高さ31.7cm、土坑内から横位で出土した。完形品。
胴部の括れは緩く、胴下半の形態は球状で、口縁部の内湾度も緩い。口縁には山形突起が4つあり、突起の根本にはそれぞれ渦巻文が付き、器面がコ状に4分割される。口縁部の湾曲部には突起間を上から見て半周分だけつなぐように押圧連続文(鎖状隆帯)が巡る。コ状区画にはキャタピラ文の脇に連続三角押引き文が沿う。胴部のコ状区画の中心には記号文がそれぞれ1つずつ付くが、1区画のみ記号文を施文しないので、計3個の文様が存在している。
記号文は三角押引き文によるフォーク状の文様で、全く同一ではなく、微妙に異なっている。胴部下半は櫛歯文が4つ連続した文様帯となる。
①-4 世界最古の音符か!?縄文土器に描かれた「人体文」の謎(参考)
今日ご紹介する一品はこちら。
縄文中期の遺跡である山梨県笛吹市の一の沢遺跡から出土した人体文土器です。これも冊子に掲載された写真を転載しているものですが、この写真が実にいいんですね。
撮影したのは、小川忠博氏。
普通に写しただけでは、なぜこれが人体文土器なのかわかりませんが、小川氏は縄文土器の紋様だけを取り出して360度の紋様を一枚の連続写真にしてくれました。それがこちらです。
4パターンの人体のような模様がクルクルと踊りを踊っているように見えますよね。まるで音符か記号のようにも見えます。
この写真を見てもわかるように、縄文土器の四方向に、人体を表わしたような紋様のパターンが四つ施されています。しかもどのパターンもとてもお洒落です。四神の原型と見ることもできます。
ここまで洗練された紋様となると、もはや文字か音符と同質のものであるとしか思えませんね。縄文時代の人々は、この土器を回しながら眺めて、歌でも歌いながら楽しんでいたのではないでしょうか。
①-5 神代文字は縄文土器の文様から見つかるかも知れない(参考)
②-1 唐古・鍵遺跡の記号土器(参考)
弥生時代中期は絵画土器が盛んに作られましたが、弥生時代後期になると記号の描かれた土器へと変遷し、記号土器が増えてきます。絵画で描かれていたものがどんどんシンボル化され、記号に変わっていくのです。直線、曲線、点などの記号が体系化されていきますが、重要なのはそれらの記号をきちんと理解して使っていたという点です。
もし日本に漢字が伝わらなかったら、このような記号が文字になっていたのではないかとおっしゃられている研究者もおられます。文字のない時代に、この集落の人々は記号を読み解く能力を備えていた。いわゆる当時の識字率というか、教育的な水準の高さが伺えます。
②-2 『秋季企画展・弥生グラフティー~唐古・鍵遺跡の記号土器』唐古・鍵考古学ミュージアム(参考)
秋季企画展『弥生グラフティー~唐古・鍵遺跡の記号土器』展(10/17~11/22)は常設展と別の小部屋が会場です。両方見ると300円。リーフレット(オールカラーの14ページ)がいただけました。
概要は「奈良盆地南部を中心に発達した記号文土器を唐古・鍵遺跡の出土品から紹介します。弥生時代中期には絵画土器が盛んに製作されますが、それに代わり後期になると記号を刻んだ土器が出現します。記号文土器は、絵画から記号になったという説や文字の原形ではないかと言われています。」
記号が文字のかわりになっていたんでしょうね。84点の壷の記号を並べているのも、豊富な発掘によるのでしょうね。いろんな記号が文字として解釈されていくと楽しいですがね。記号はヘラ、竹管状のもの、赤色顔料、粘土紐で表現したものなどで付けられています。単純なものもあるし、複雑なものも・・。
②-3 記号文土器(参考)
②-4 滋賀県出土の記号文土器、滋賀県文化財保護協会(参考)、、、産地を区別するブランド名か!?
②-5 記号が書かれた弥生時代後期の土器(参考)
③ 奈良・平安時代の墨書土器
④ 日本のペトログラフ(岩刻文字)(参考)
⑤ 日本文字の起源(参考)
⑥ 日本語の起源(参考)
⑦ 弥生時代後期の銅鏡に神代文字が書かれていた(参考)
神代文字のこと 投稿者:唐津街道
投稿日:2011年 6月 3日(金)11時49分33秒
吉野ヶ里遺跡から、日光連弧文鏡という銘文入りの銅鏡が出土しています。これは前漢鏡で、古字体で「見日之光、長不相忘」と鋳込んであるというのが通説です。
しかし、写真を見ていただくと分かりますが漢字には見えないでしょう?それに漢字と言われる文字の間に渦巻きとひし形の田の文字(通説は意味不明の記号)が交互に規則正しく挿入されています。銘文を正確に書き出しますと次のようになります。渦巻きと変形田はヲシテフォントをインストールしていないと表示できませんので、◎と※で代用します。
見◎日※之◎光※、長◎不※相◎忘※
意味は、日の光を見て、長く相忘るる事なかれ のようです。
このように漢字一字ごとにほかの文字又は記号が挿入してあってまともな文章と言えるでしょうか?中国の故事にこの言葉があるので、無理やりあてはめたとしか思えません。見や日、不などは漢字に見えないこともありませんが他は無理があるように思います。
学会では否定され検証もされませんが、日光鏡には神代文字が刻まれているのは紛れもない事実なのです。
銅鏡の銘文は対馬文字に似ていると思います。まだ未発見の文字がどこかに眠っているかもしれませんので断定はできませんが、少なくとも九州では、神代文字が使用されていたのは明白です。
文字間に挿入されている意味不明の記号と言われているものは、ヲシテ文字のようです。「◎=あ、※=ん又はうん」と発音します。対馬文字やヲシテ文字が日常使用された文字かどうかは、考古資料が今のところ鏡位しか見つかっていないので分かりませんが、神代文字の存在を否定することはできないようです。銅鏡は型で鋳造してありますので、後世で改ざんしようがありません。
学会では鼻にもかけられない神代文字が2000年以上前の鏡に鋳込まれているのです。偽作ではありません。考古学者が、出所と時代を保証していますから。
私の住む唐津市でも、柏崎田島遺跡から日光鏡は出土しています。写真を見ていただくと分かる通り、吉野ヶ里とは違った文字づかいになっています。挿入の※は無く◎だけになっています。(写真は文字が見やすいように画像処理しています)
明らかに文字を操っているようです。日光鏡は佐賀だけではなく隣の福岡も含めて九州から沢山出土しています。しかし、考古学や歴史学に携わる公務員や学者は誰一人この不思議な文字に注目し研究している人はいません。在野の研究家だけが真剣に取り組んでいるだけです。
残念ながら町の研究家は変人扱いは受けても、評価されることは無いのが現状です。私は文字の解読をライフワークとしてぼちぼちやっていくつもりにしています。
漢字導入以前に弥生時代、あるいはもっと遡って縄文中期ごろには文字の使用があったと思っています。
出土品の再チェックが必要です。行政、考古学会が考古資料の開示を一般の研究者へする必要があると思います。
九州の考古学をやっていると古代日本は、学者が思っている以上に文明が進んでいたことに気づきます。中国や朝鮮から伝来した文化で今の日本が出来た訳ではありません。現在と同じで、日本の文化が両国に影響を与えていたようです。考古資料を調べるとそのことがわかります。
前漢鏡と言われる日光鏡は仿製鏡(国産)です。中国でも出土していますが、日本(倭国)からの輸出品だと思っています。
日光鏡銘文の、私が主張するヲシテ文字の類似品について、中国の学者は文字も記号も中国にはない、と言っているらしいです。日本には贋作と言われていますが、古代文字が明らかに存在しているのです。
超古代史は大変面白くて、愚かな考古学をやっているのはばかばかしく感じます。竹内文書などは飛躍しすぎている内容ですが、あながちウソばかりでもないように思っています。竹内文書の手本になった神代文字の物語が、どこかにあったはずだと思っています。それが倭国、つまり九州にあったと思っています。いろいろ裏付けになるような題材が九州には眠っています。今後もそれらをレポートするつもりですが、この掲示板では概略しか紹介できませんので、写真と内容が詳しく掲載できるようにブログを準備しています。
縄文の流通経済、神社の縄文成立、神社と巨石文化、日本ピラミッドなど面白い話題の裏付けになる題材が、九州にはありますので、じっくり取材をしてレポートして行きます。
⑧ 何故、神代の日本に文字が無かったのか??
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