宇都宮

http://www2.koutaro.name/machi/utsunomiya.htm  【宇都宮】 より

門前町から城下町 そして北関東一の大都市へ井桁の都市構造をもつ シンボリックで猥雑な町並み

宇都宮のまちあるき

宇都宮は、古来から東北地方への陸路の要所であり、下野国一の宮 二荒山神社の門前町として、また江戸と日光の喉首の地にある城下町として栄えてきました。

明治初期から県庁所在地となり、戦前には軍需都市となり、そして今では北関東で一番の大都市となっています。

幾度もの戦災と都市改造を受けてきた宇都宮には、城下町としての古い町並みはほとんど残されていません。

それでも宇都宮の町歩きには興味深いものがありました。

宇都宮の中心に位置する二荒山神社と宇都宮城本丸、栃木県庁と宇都宮市役所、そしてJRと東武の両宇都宮駅、これら主要施設の井桁の位置関係がつくるシンボリック性と、北関東一の大都市の猥雑さ、これらを歩いて確かめることが、宇都宮の町歩きの面白さです。

現在の地形図と約100年前(明治40年)の地形図を見比べてみます。

明治期の地形図をみると、宇都宮市街地の中心に位置する二荒山神社の東側一帯には水田が広がり、そこに宇都宮駅や宇都宮城が立地し、神社西側一帯には砲兵営や兵器支廠など陸軍施設の立地がみられますが、昭和6年に宇都宮監獄跡地に開業する東武宇都宮駅はまだありません。

明治期以降、市街地は四方に大きく広がり、宇都宮は北関東一の大都市となっています。

宇都宮の歴史

名門 宇都宮氏が治めた中世の宇都宮

二荒山神社の門前町を起源とする宇都宮は、古来より二荒山神社神官と下野国司を勤める宇都宮氏が長年にわたり支配してきました。

二荒山神社は、崇神天皇の命を受けて蝦夷平定のためこの地に足を踏み入れた豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)を祀ったもので、創建は記紀に伝えられる古墳時代まで遡ります。

宇都宮氏は、摂関家藤原北家道兼の流れを汲むといわれ、二十二代・約500年にわたって下野国を領してきた名家であり、鎌倉時代には宇都宮頼綱が宇都宮歌壇を築いて小倉百人一首の成り立ちに関わるなど、この地に中央文化の息吹を吹き込み続け、文化教養の養生において名跡を残しました。

この他にも、源頼朝をして「東国一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱、元寇の際に討伐軍十万の総大将として九州へ赴いた宇都宮貞綱、元弘の乱で楠木正成と互角に渡り合った宇都宮公綱など、宇都宮氏は武門としても歴史にその名を多数残しています。

戦国時代においても、宇都宮氏は台頭する新興武士団を牽制しながら、結果的に戦国大名としての勢力を保ち続けました。

将軍家足利氏の勢力が弱まり、小田原の後北条氏(北条早雲)が台頭して来ると、宇都宮氏は常陸の佐竹氏とともに後北条氏に対抗する勢力を形成し、秀吉による小田原攻めにも参陣します。

後北条氏の滅亡後、宇都宮国綱は秀吉を小田原から宇都宮城に迎え、秀吉は宇都宮の地において、後世に「宇都宮仕置」とよばれる評定を行い、東北関東の新たな支配構造を決定します。

宇都宮国綱は秀吉から羽柴姓を授かるなど、宇都宮家と秀吉の関係は良好で、朝鮮攻めの際にも秀吉に追従しますが、慶長二年(1597)、「不慮の仔細」があったとして、国綱は突然に秀吉から改易されてしまいます。

世に「宇都宮崩れ」といわれる歴史的事件です。

家督継承者の選定にあたっての内紛のため、所領石高の詐称嫌疑のため、などが原因といわれていますが、背景には、旧来からの勢力を一掃して、新たに戦功をなした者に与える領地を確保する方針があったとされます。

これに伴い、宇都宮一族一門のすべての所領が秀吉により没収され、下野国中央部から中世以来の旧勢力が完全に払拭されることになります。

徳川譜代大名が治めた近世の宇都宮

慶長三年(1598)、宇都宮氏にかわり会津から蒲生秀行が入封することとなりますが、関が原の戦いの恩賞で会津に戻った後、家康の外孫(家康の娘の亀姫の子)奥平家昌、忠昌の領有を経て、元和元年(1619)、家康の懐刀とよばれた本多正純が十五万五千石で入封します。

第二代将軍秀忠の執政だった正純は宇都宮城の拡大に努め、城下の町割りを改めましたが、元和八年(1622)には幕閣の不興を買い、有名な「宇都宮釣り天井事件」により除封されてしまいます。

北関東の要所にある宇都宮は、江戸の防衛拠点であり、家康を祭る日光東照宮警護の重責を担う場所にあったため、歴代藩主はすべて譜代大名がおかれますが、その交代・転封はめまぐるしく行われます。

本多正純の除封後は、再び奥平氏が入封しますが、元禄元年(1697)には奥平氏に代わり安部正邦が入封し、正邦が備後に移封すると、越後から戸田忠真が六万七千八百余石で入封します。戸田氏は寛延2年(1749)に一端肥前島原に移封となりますが、安永3年(1774)には再び戻り、以降七代100年余に渡って宇都宮に在封して、廃藩置県を迎えることになります。

戊辰戦争の時、江戸城の無血開城に伴い、大鳥圭介を総督、土方歳三を参謀とする旧幕府軍は、江戸を脱出して日光へ向かい、途中で結城城を奪取して、その勢いで宇都宮城奪還に向けて官軍との攻防戦を繰り広げます。

この戦いにより市街地の大半は焼土と化し、城下町宇都宮は消滅します。

三島県令による都市改造と軍需都市となる宇都宮

宇都宮の近代都市への変革は、明治17年に三島通庸が栃木県令として着任することに始まります。

三島通庸は、山形県令や福島県令として、主に東北地方の都市改造や道路開設に辣腕をふるった知事として有名で、宇都宮においても、過去来の都市構造を根本的に変えていきます。

まず、二荒山神社に隣接する山裾の高台に県庁をおき、その正面から真っ直ぐ緩やかに下る南北のシンボリックな広幅員道路を設けて、両側に官庁街を建設しました。

また、城下町を東西方向に屈曲しながら貫通していた日光街道を、「大通り」と称して直線化と拡幅を断行し、大通りの東端には、明治18年に開通した日本鉄道(現JR東北本線)の宇都宮駅を配置します。

このように、三島県令により、宇都宮は、窮屈で閉鎖的な城下町から、開放的でシンボル性をもった近代政治都市に変貌を遂げていきます。

また、明治38年、日露戦争勃発により増設された陸軍4個師団のうち、第十四師団が姫路から移駐し、市街地北西の河内郡国本村戸祭(現 国立栃木病院)に師団司令部がおかれて、宇都宮は軍都としての歩を始めます。

これにより、師団隷下の1万人を超える軍関係者が宇都宮に常時駐屯することとなり、市内には様々なサービス産業が活況を呈して、「バンバ」とよばれる二荒山神社の門前町通りなどの繁華街が大きく発展しました。

また、戦時中には中島飛行機(四式戦闘機「疾風」の生産工場)や関東工業など軍需産業のの誘致にも成功して、宇都宮は北関東の一大軍需都市となります。

しかし、戦争末期の昭和20年、軍需都市宇都宮は米軍による空襲の標的とされます。

特に、7月12日未明の宇都宮大空襲においては、全焼住宅約9000戸、死者620人の被害を出して市街地の約65%を焼失し、軍都宇都宮は壊滅してしまいます。

北関東一の都市 宇都宮

現在の宇都宮市の人口は、平成19年に近隣2町を合併して50万人を越え、北関東3県で唯一中核市に指定されています。

栃木県でこれに次ぐのが小山市と足利市の16万人ですので、総人口200万人の栃木県下では圧倒的な大都市だといえます。

また、栃木県全体の年間商品販売額の45%を宇都宮市が占め、また小売業売場面積の1/4が集中しています。

北関東3県では、総人口300万人の茨城県では、県庁所在地の水戸市が26万人、つくば市と日立市が20万人であり、総人口200万人の群馬県では、高崎市34万人、前橋市32万人で、これらと比較しても、栃木県では宇都宮市への人口集中が進んでいるといえます。

宇都宮市は餃子の町としても有名です。

全国主要都市(政令指定都市と県庁所在地)を対象にした総務省の家計調査によると、宇都宮市は一世帯当たりの餃子購入金額で、2位の京都市(約2800円)を大きく引き離して1位(約4800円)だったそうです。

この数値は餃子店での外食分は入らない、出来合いの餃子をスーパーなどで購入する金額ですが、宇都宮市の圧倒的な1位は、市民の食生活に餃子がしっかりと根付いていることを示しています。

宇都宮に司令部をおいた第十四師団が、昭和15年に満州に転進したため、宇都宮出身の将兵が帰国の際に本場の餃子の製法を持ち込んだのが始まりといわれていますが、町興しの一環として行政と業界が一体となりPRしたことが、今日の隆盛をつくったのではないかと思います。

現在、宇都宮市は、餃子だけでなく様々な顔をもつ街としてPRしています。

カクテル作りの国内大会で優勝したバーテンダーが多く在住することから「カクテルの街」、ジャズサックス奏者 渡辺貞夫氏の出身地であることから「ジャズの街」、そして、宇都宮城本丸にあった土塁を一からRC造で復元して「城下町 宇都宮」としても売り出しています。

宇都宮の立地条件と町の構造

宇都宮は、鬼怒川の右岸台地上にあり、北側から延びる八幡山丘陵の先端に建立された、下野国一の宮の二荒山神社門前町を起源とします。

日光鬼怒沼を源として、茨城県守谷市で利根川へ合流する鬼怒川は、洪水の発生しやすい暴れ川として知られ、古来から毛野国(栃木・群馬の古代の国名)を流れる毛野川とよばれていましたが、近世になってから「鬼が怒ったように流れる暴れ川」として今の名前となりました。

八幡山丘陵の東麓を南流する田川は、宇都宮城本丸跡の東で丘陵西麓を流れてきた釜川を合わせ、下流30kmの結城で鬼怒川に合流します。

明治40年の地形図(下図)をみると、田川沿いの一帯には水田が広がっていることが見て取れ、田川の河岸にある宇都宮城が低地に築かれたことが分かります。

平安末期から二荒山神社の社務職を兼ねてきた領主宇都宮氏の改易により、蒲生秀行が会津から転封して、門前町の南側に城下町を建設したことは既に述べました。

その後、本多正純による城下町の大改造により、八幡山丘陵の西麓を流れる釜川が付け替えられ、奥州街道は城下町西側を大きく迂回することとなり、現在につながる町の骨格が形成されました。

そして、日光東照宮の造営に伴って日光街道や日光例幣使街道が整備されて、宇都宮城下町は、従来から城下を通っていた奥州街道と新たな設けられた日光街道との分岐点になり、宿場町としても賑わうようになりました。

宇都宮の町の構造には変わったところがいくつかあります。

まず、現在の宇都宮の基盤となった城下町の町割りそのものが変わっています。

丘陵地形を利用して城下町が町割りされたにもかかわらず、最も高台になる八幡山丘陵の先端には二荒山神社が鎮座し、宇都宮城は神社の南1kmの低地に平城として築かれたことです。

これにより、武家屋敷地は城郭周辺の低地に展開することとなり、二荒山神社の門前町(現 バンバ通り)を中心に広がる町屋町が高台に位置することとなりました。

二荒山神社の境内

約500年にわたりこの地を支配してきた宇都宮氏が、二荒山神社の社務職を兼ねていたため、自らの居館を神社門前の低地においたことが、この逆転した位置関係の始まりですが、蒲生秀行が城下町建設にこの基本構成を引き継いだことで、この位置関係は確定的になったようです。

新参領主の蒲生秀行が、歴史ある宇都宮の地を治めていくには、二荒山神社の力に頼らなければならなかったのかもしれません。

次に、城下町と現在の市街地では、街の基本構造が根本的に変わっていることがあげられます。

宇都宮城は、若干変形してはいるものの基本的に輪郭式の城郭であり、本丸が低地におかれたことを除けば、本丸を中心として幾重にも曲輪がとり囲み、内側に閉じた城郭構成をしていました。

しかし、現在の宇都宮の都市構造は、これとは全く異なっています。

現在の宇都宮市街地は、二荒山神社と宇都宮城本丸、栃木県庁と宇都宮市役所、それぞれを両端とするシンボル的な幹線道路が南北方向の都市軸となり、JR宇都宮駅と東武宇都宮駅を東西端として、大通りとオリオン通りの2本の幹線道路が東西方向の都市軸となって、いわば井桁の構造をもった開放的でシンボリックな都市となっています。

これは、明治初期に断行された栃木県令三浦通庸による都市改造を、戦後の復興区画整理事業が引き継いだ結果でした。

大正末期(下図)の都市地図をみると、大部分の堀は埋め立てられ幾重にも囲んだ曲輪は姿を消し、わずかに残っていた堀のうち、西館堀は戦後に埋め立てられて宇都宮市役所となり、その北にあった百間堀は昭和初期には埋め立てられます。

一方、県庁前から大通り(奥州街道)を越えて市役所まで延びる道路はみられず、井桁の都市構造はまだ完成していないのが分かります。

最後に、宇都宮の町のもつ「猥雑さ」があげられます。

市街地を東西に貫通する大通りの歩道には、錆びた鉄製のアーケードが部分的に残っています。

大通り沿道には、業務ビルや商業ビルが建ち並び宇都宮市街地の中心街路となっていますが、それらに混じって昭和20~30年代の古びた建物が幾つか残っていて、古びたアーケードは古びた建物の前だけに残っています。

どうも、沿道建物が再建されるまで、前面のアーケードも撤去されずに存置されているようですが、断片的にアーケードがあることに何の意味があるのか全く理解できません。

また、宇都宮で一番の繁華街であるオリオン通りのひとつ北側にある通りはソープランド街になっています。

大都市では繁華街に接して風俗街が立地するのはよくあることですが、ここまで大規模に堂々と集積しているのは大変珍しいことだと思います。大阪でいえば、心斎橋筋の筋違いに雄琴ソープ街があるようなものです。

ソープランド街のすぐ向うに東武宇都宮駅がみえる

県庁や市役所前の通りは官庁街らしい並木道で、オリオン通りは典型的なアーケード街ですが、釜川沿いの旧河原町付近は田舎町の繁華街の風景が残り、宇都宮駅東口のメイン通りには風俗店の看板が堂々と掲げられています。

宇都宮駅東口の餃子の像にも、二荒山神社前のバンバ通りの看板にも、どうも宇都宮の町の風景には猥雑さの印象があります。

目新しいものと寂れたもの、綺麗さと汚さが混在したバランスを欠いた町並みが広がる

宇都宮城は、4重に廻る堀と土塁で囲まれ、東西・南北ともに約1km近い大きな城郭をもっていましたが、天守が建設されることはありませんでした。

城下町絵図にみえる本丸の大きな建物は将軍の宿泊御殿でした。

宇都宮城は、江戸期を通して徳川将軍による日光参詣の際の宿泊所として利用され、江戸期に19回あった将軍の日光参詣は、宇都宮城下町に大きな賑わいをもたらしたようです。

宇都宮城跡公園にあった旧本丸の絵図(左)と模型(右) 本丸にあるのは天守ではなく将軍の宿泊御殿です

戊辰戦争で建物の大半を焼失し、幾重にも廻っていた堀も次第に埋め立てられ、現在では平城だった宇都宮城郭の遺構は一切残っていません。

最近になって、本丸を構成していた土塁と堀の一部が再生され、櫓なども再建されています。

ただし、土を盛り上げた本来の土塁ではなく、鉄筋コンクリート製の建造物に特殊な植生土を吹き付けた上に笹を植えたようで、土塁で斜面の緑が鮮やかに映えています。

宇都宮城跡公園  本丸の土塁と櫓が復元されている

明治以降、何度かの戦災と都市改造を受けてきた宇都宮には、歴史的な町並みはほとんど残されていませんが、その中で目につくのが土蔵商家の篠原家住宅と町中に散在する大谷石の蔵です。

篠原家住宅は、奥州街道口にある切妻平入りの重厚な土蔵商家です。

江戸期から戦前まで醤油醸造業や肥料商を営んでいた店蔵は、店舗と住居部分を一体にした造りで、住宅の一階部分の両側には厚さ約8cmの大谷石が貼られています。 川越や佐原に残る土蔵商家と比べても決して引けをとらず、堂々とした構えには威圧感を覚えます。

JR宇都宮駅近くでビルの谷間に残る篠原家住宅  戦災を生き抜いた宇都宮で一番の土蔵商家

宇都宮は北関東一の大都市となりましたが、業務ビルやマンションの谷間には、大谷石を貼った石蔵をいくつも見ることができます。

病院駐車場の裏、繁華街の一角、住宅地の片隅、そしてマンションの敷地内。どの石蔵も綺麗に保存されています。一般的な土蔵とは違い、メンテナンスがほとんど不要なのか、修繕などに補助がでるのか、理由は良く分かりませんがどの蔵も保存状態がいいのが驚きです。

市街地内に残る大谷石を使った蔵

旧奥州街道沿いには店蔵の名残が見れる

奥州街道と日光街道の分岐点付近に残る石蔵たち

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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