https://wanotashinami.org/blog/haiku/ 【芭蕉の「軽み」】より
皆様、おはようございます。今週は、お盆の行事や終戦記念日を迎え、祖霊や英霊への思いをさらに深く胸に刻まれたことと思います。
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」 (松尾芭蕉)
芭蕉が旅をした岩手県平泉で詠んだ一句。いくさの虚しさを詠んだのですね。
芭蕉がこの『おくのほそ道』という漂白の旅をするきっかけとなったのは、江戸の大火や母親の死を体験したことにあったそうです。
形あるものは決して永遠ではないという「諸行無常」の境地を実感し、また、安らかで自然な生き方を唱える老荘思想へも共感していったということです。
出会いと別れを繰り返しながら、旅の中に俳諧の題材を求めて、漂白の旅に出た芭蕉。46歳でした。
漂泊の旅の後、「不易(ふえき)流行(りゅうこう)」という思想に辿り着きました。
いつの世にも変わらないものと、時代とともに変化するものは表裏一体のものなのだという考え方です。
最後に芭蕉は、「軽(かる)み」という独自の新しい俳風に到達します。
そして、日常性に即しながらも、心の底から心情が滲み出てくるようなものを俳句をあらわしていきました。
人との出会いや別れを経験し、反俗の思いを抱いていた芭蕉が最後に辿り着いたのは、
日常の生活の中にこそ、日常を越えるものが存在するのだということだったのでしょう。
私はとても共感できます。そうありたいと思っています。
皆様、今日という一日をお楽しみくださいね。ゆったりと、お過ごしくださいませ。
https://www.washin894.com/bashouandoinnyou 【松尾芭蕉の俳句】より
都会に住んでいると、生活する人が密集していることから常に雑音があります。
人が眠る時間帯になっても同じで、都会は24時間眠らないと呼ばれるほどです。
バイクや車が走る音、近所の人の話し声、工場の機械が動く音など、全く音がしない、無音の状態になることはないのではないでしょうか。
一方、田舎に住んでいたらどうでしょうか。
田んぼや畑、裏に山があるようなところでは、川の音、虫の声、鳥のさえずり、風の吹く音など都会では感じることができない様々な音が聞こえます。
都会に住んでいる人が訪れると、普段聞こえる雑音が消失し、自然の息吹の音を感じることができます。
私なら自然の音に静けさを感じ、心地よくなります。
虫の音が少しうるさく感じることもありますが、それで睡眠が妨げられるように感じることはありません。
ところが、街中を離れて避暑地に旅行へ行くと、寝つきが悪くなるとおっしゃる方がいます。
都会の雑音は気にならないのですが、田舎の自然の音がものすごく気になり、うるさくて眠れないそうです。
むしろ車の走る音や商店街を歩く人の話し声が聞こえるほうが落ち着くそうです。
これを聞いて、同じ音を聞いていても、静けさを感じたり、騒音と感じたりするものだということに気づきました。
このことから、「静けさ」とはどんなものかを伝えることは、簡単そうなことから、難しいことになりました。
そこで思い出したのが、音楽の時間に使用していた音楽室のことです。
外部からの音が遮断され、また内部の音が外へ漏れ出ないように工夫されています。
音源が無ければ、音を感じることはありません。
このような無響室に居ると、当然音がないので静かですが、静けさを感じるかというと感じない気がします。
むしろ、息の詰まるような感じを覚えたり、自分鼓動が聞こえて落ち着かなくなることもあるのではないでしょうか。
このように、無音の状態が必ずしも静けさとなりません。
それでは、静けさとはどういったものなのでしょうか。
古くから私たち日本人は、聞こえる音に非常に敏感でした。
江戸時代の俳諧師、松尾芭蕉は、紀行文「奥の細道」で数々の俳句を詠んでいます。
その中の一つに、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」があります。
夏の時期に蝉がうるさく鳴く寺で、芭蕉は「静けさ」を感じとっています。
蝉がうるさく最中に、どのようにしたら静かさを感じることができるのでしょうか。
芭蕉は、「閑さや」と上句に「や」という切れ字を用いて詠嘆を表現していることから、しみじみと「静けさ」を本気で感じていることが伺えます。
騒音とも言える蝉の声を聞いている芭蕉に、静寂を感じるきっかけを与えたものは、山寺の岩です。
騒音という「陽」と静寂という「陰」、対比する二つを結びつけたものは岩という「陰」のものだったと理解できます。
騒音の「陽」の中にある岩の「陰」に意識が集中したときに、静寂という「陰」を感じたのでしょう。
これこそが、陰陽論の優れた法則のひとつ、「陰中の陽、陽中の陰」をあらわしています。
無音の中に静寂はなく、雑音の中に静寂がある。
この関係性こそが、陰陽の互根であり、それを結びつける考え方が「陰中の陽、陽中の陰
」ということです。
陰の中に陽があることで、陽との結びつきを可能とし、さらに自らの陰を引き立たすことができます。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498734218.html 【俳句の陰陽について】より
霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き 松尾芭蕉
(きりしぐれ ふじをみぬひぞ おもしろき)
俳句の陰陽は単純なようで難しい。
かならずしも方式のように、陰と陽を組み合わせればよいというわけではない。
小澤實さんの著者で、俳人協会評論賞を受賞した『俳句のはじまる場所 実力俳人への道』〈角川選書)を今、読んでいる。
あらゆる角度、特に歴史の点から俳句を考察しており、次第に引き込まれてゆく充実した一書だ。
その中で「第十章 俳諧・俳句の思想」があり、掲句が引用されている。
小澤さんは掲句をあげながら、
なぜ、霧しぐれが降って富士が見えない日がおもしろいのかを考えてみたい
として、そこから俳諧・俳句の思想へとせまっている。
小澤さんは俳句とは、
すべてのものに美を見いだす
姿勢が俳句の思想である、と述べており、下記のように記す。
世間では、晴れた日のことを「よい天気」と呼び、幸運を讃える。
そして、雨の日の場合は、「わるい天気」と呼び、悪運を呪いつつ、鬱々と過ごす。
ところが、この句の場合は富士を隠す、常識では憎むべき「霧しぐれ」を「面白き」と詠んでいる。
ここに、新たな言挙げがあったと読んでおきたい。
俳諧・俳句においては、雨を「わるい天気」と呼ぶ世間の常識には与さない。
さて、ここからは私の考えだが、この文章を読んだとき、この考えこそ「俳句陰陽」であり「もどき」であろう。
先師・源義は「陰の中に陽を求め、陽の中に陰を求める」のが俳句陰陽であると、述べている。
この、芭蕉の句では「霧しぐれ」が陰であり、「面白き」が陽となる。
芭蕉は、世間一般では「わるい天気」と忌み嫌われ、しかも美しい富士山が隠れてしまっている残念な天候を「面白い」ともどいてみせたのだ。
「ひねくれ」ともとれるが、これはまさしく「風狂」であろう。
そう思った時、「俳句陰陽」「もどき」とはつまり「風狂」と多く通じるものがある、と考えた。
「もどき」とは「風狂への道」。
その精神は延々とわれわれは引き継いでいるのだ。
http://mogamigawa.jp/blog/1771 【本「仙人堂の縁結び力」情報3】より
「観光客と船頭との会話から」
【観光客】 : 今船頭さんが説明したように、本来の最上川の舟遊の姿は、川を上り、下り、そして仙人堂に参拝することなんですね。
『船 頭』 : 観光客は本物を求めています。さらに私がここでぜひ知っていただきたいことは、日本史上最大のスターと言われている源義経と最上川の関係(NHK大河ドラマ源義経のナレーションで紹介されています)をあまりにも知らない人が多いですね。もちろん松尾芭蕉と最上川の関係は知っていますが・・・。
【観光客】 : このことも驚きです。芭蕉の「奥の細道」は、義経の足跡を訪ねる旅でもあったのですね。
『船 頭』: 義経が最上川に来なかったならば芭蕉も最上川に来なかったかもしれないのです。芭蕉を語るには、義経も一緒に表裏一体となって語らなければ本来の最上川の歴史がわからないと思います。
【観光客】 : 義経は800年前船で最上川を上り、芭蕉は300年前下ったのですね。そして時空を越えて二人の出会った場所は仙人堂なんですね。上りと下りの船から見る最上川の風景は全々異なりそれぞれの人物の想いにふけることができますね。
『船 頭』: 私を指名することもできます。いつもガイドしていますので指名しなくても私が案内する時も多くあります。
「芭蕉を語るには、義経も一緒に表裏一体となって語らなけれ~~云々」とありますが むしろ「芭蕉を語るには芭蕉の陰陽を語る必要を感じます」芭蕉には表の顔と裏の顔があるのではないでしょうか?
https://agri-biz.jp/item/detail/7838 【真説『松尾芭蕉・裏の顔』】より
作家 元国際線乗務員 黒木安馬
無料会員ゴールド雑誌購読プラチナ“旅に病んで夢は枯野をかけ廻る”を病床で推敲しながら50年の生涯を終えた芭蕉。奥の細道――月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり……は旅に生きた好き放題人生の達人ともいえよう。
彼が高めた俳諧は、日本文化の侘び寂びの極致として海外でも知られ、ウクライナの中学生教科書でも紹介されている。欧米文化は足し算の装飾、日本は引き算と削ぎ落としの美である。
時代は1680年江戸初期の元禄。今でも芸術家が豊かに生きていくのは難しいが、当時いくら風流とはいえ、数カ月も旅をしながら俳句だけで食べていけたのか?
関ヶ原後、まだ天下泰平ではない時節に「奥の細道」で回ったのは5カ月で2,400kmの長距離旅行。徳川とて油断できない外様大名である大藩の伊達、米沢藩、加賀百万石……を訪問している。同伴した河合曽良の日記に、その藩近辺ではかなりの長期滞在で何か綿密な調査をしたと記録がある。
松尾芭蕉は伊賀上野の出身、忍者の服部一族である。家康は服部半蔵、柳生家忍者を江戸城270年の警護にした。駐屯場所は今の警視庁、その地下鉄が“半蔵”門線である。伊賀上野の藤堂家の若殿を英才教育するにあたって芭蕉少年も傍で学友にさせられて一緒に俳句を手習いするが、若殿が早世して失業し、江戸に出る。かくして後に奥州へ覆面調査が始まった……とすれば、派遣主は言わずと知れた、江戸城本丸のボスからだったと解釈できる。外様の加賀百万石では前田の殿様に歓待され、長期滞在で茶室まであつらえてもらっている。
その国宝並みの茶室を保有している金沢の名門料亭で主から芸者を挙げての饗宴を受けたことがある。秘密に個人所有にしてあるのは、国宝や重要文化財に指定されると、草木一本すら許可なしに触れなくなるので、伝統ある料亭の仕事に支障があるとのことだった。その時に、曽良が書き残した本物の日記が保管してあるのを、この目でしかと読ませてもらった。“芭蕉は夜な夜な茶屋色街に出かけて私は留守番ばかり”と愚痴がしたためてあった。癖のある跳ねた筆跡の文章で、妙に記憶に残った。その後に伊賀上野から講演を依頼されて芭蕉の故郷にお邪魔することになった。戦国武将の藤堂高虎の美しい城下町、博物館にはたくさんの芭蕉直筆の句が展示してあった。
私は、絶句した! 直筆とされているすべての書体が――秘密の茶室、加賀で目にした曽良の筆跡そのものだったからである。なぜ?
とすれば、仮説はこうなる。忍者の芭蕉が本来課せられた任務は、隠密調査員スパイ。弟子であるはずの曽良は、実は天才的俳諧の名手であり、芭蕉の影武者としてすべて曽良が創作した作品である!と。カモフラージュ隠密大作戦だったのではないか。“夏草や兵どもが夢の跡”など、さまざまな名句があるが、これらはすべて曽良の才能だった!?
私の推理が当たっていれば、曽良みたことか!で、加賀の庵は大変なことになるかも♪ とんだ騒ぎにでもなったら、そこは素人の推理だと、芭蕉を選ばず逃げ出すしかあるまい。俳人ならぬ廃人になったふりをして、俳諧ならぬ徘徊老人になりすまして、「ボクの細道」の旅に出るしかあるまい。ただ、曽良の才能は微塵も持ち合わせていないから、平泉の毛越寺あたりを訪ねて肥やしが効いて色濃く生い茂った草むらを見ても、“夏草や兵どもがクソの跡”、みたいな作品にしかならないかも知れないが。
https://ameblo.jp/5atsushi5/entry-11638453538.html 【松尾芭蕉の本当の顔!】より
今日の 破・常識!松尾芭蕉の超感覚は鋭い!テラ(地球)が見ていた日本の真実の歴史! 79 kumogakure さんの残りの質問 さんちゃん さんの質問 です。
ありがとうございます。
>あつしさん、こんにちは。
いつも、あつしさんとさくやさんのお話、楽しく読ませていただいています。
江戸時代と言えば、奥の細道の松尾芭蕉と浮かびました。
私自身は俳句や連句には、あまり興味がないのですが、五・七・五の短い言葉の中に、いろいろな思いを凝縮さる日本人特有の遊びについて、または松尾芭蕉について、何かメッセージがあればと思いました。
松尾芭蕉について
江戸時代前期の俳諧師。三重県伊賀出身。日本史上最高の俳諧師の一人である。
蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し 後世では俳聖として 世界的にも知られる。芭蕉が 弟子の河合曾良を伴い 江戸を立ち東北 北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文「おくのほそ道」がある
隠密説 45歳の芭蕉による「おくのほそ道」の旅程は 600里(2400km)
にのぼり 一日10数里という当時の年齢としては大変な健脚 スピードであった。
18歳のときに 服部半蔵のいとこにあたる 保田采女の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたことが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた。また この日程も非常に異様である。
黒羽で13泊、須賀川では7泊して 仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月 まず心にかかりて」と絶賛した松島では一句も読まず 一泊して通過。
この異様な日程は 仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる。
「曾良旅日記」には 仙台藩の軍事要塞とされる 瑞巌寺、藩の商業港 石巻港を
執拗に見物したことが記されている。
(Wikipedia より)
なるほど、なるほど・・・隠密説って、けっこう有名だったんですね。
私は 今まで俳句に興味が全然なかったし 芭蕉についてもまったく知りませんでしたぁ~~さくやさんに聞いてみると・・・18歳の頃に 京都にいた北村季吟に支持して 俳諧の道へと入った芭蕉は、本当に俳句を詠むのが大好きだったそうです。
彼は 短い語句の中に 自分の感じ取ったものをすべて入れ込んで 俳句として表現することが楽しかったのです。
松尾芭蕉は 超感覚の持ち主でした。彼は どのような超感覚を持ち いろんな物事を感じ取っていたのか?
人間の身体のまわりには エーテル体というエネルギーの層があると過去記事でも お話ししましたが、芭蕉は その身体のまわりにあるエネルギーの層いろんなものの波動(エネルギー)を感じ取っていたのです。
そして その感じ取った波動(エネルギー)を 短い言葉の波動(エネルギー)の中に入れられるだけ 詰め込んで 俳句を詠んでいたのです。
芭蕉の詠んだ俳句には 彼がその場で感じ取ったすべての波動(エネルギー)が
入れ込んであるからこそ 読む人に深く味わいのある俳句として受け入れられたんだと
思います。
☆ 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
彼は この句で 絵を描きたかったのです。
言葉で 絵を描く・・読む人に 今 自分がいるこのエネルギーを伝え、
そして その人に その場面を生き生きとイメージさせられる句を描きたかった。
今 静かな中に 耳にはただ蝉の声だけが聞こえる・・
でも エネルギーのところでは、その蝉の声(音)に共鳴して、岩、木、空気(風)、水・・すべてが鳴り そこに素晴らしいハーモニーが奏でられている・・・
この風景を 少ない言葉で表現しているのです。
これを読む人 それぞれが違う風景を描いてもいいのです。
ただ そのエネルギー場を表現したかった・・とても大きく広がる言葉のエネルギー・・言葉の芸術を目指したのです。
あ、すみません・・これは さくやさんの言葉で~~す(笑)
そして 俳諧を楽しむ表の顔とは別に 裏の顔があったのも事実です。
忍者説とか 隠密説とかあるみたいですが・・・
わかりやすく表現すると 幕府に雇われた 覆面調査員 みたいな仕事もしていました。
覆面調査員って、例えば 全国に支店のあるレストランに 本社のある部署の指令でお客様として 支店のレストランを利用し調査するみたいなことです。
本社の意向通りに接客態度や料理の質など きちんとできているかどうかの調査ですね。
芭蕉は 幕府のそういう役割を持っていた大名から雇われ 全国を巡って幕府の意図に反した政をやっている藩がないか? 調査していたんです。
紀州藩の大名のつながりみたいですね。
だから 全国どこへでも行ける通行手形を持っていたし、報酬もあったから 結構好きなことが出来ていたみたいです。
芭蕉は 自分の超感覚を使って 何か気になる藩の領内に入っていき情報を得ていました。
表向き 俳句を作りながら その土地に暮らしている庶民の動き、波動(エネルギー)を
感じたり または その土地の自然の波動を感じ 何かイヤな波動(エネルギー)を
感じたら 上役に報告する・・・ということをやっていたのです。
芭蕉の報告を受けた上役は もっと詳しい情報を得るために隠密的な役目の人間を
そこに派遣したということです。
若いころから 楽しんで俳句を詠み続けてきた芭蕉の超感覚は、鋭いものがあったと思います。その能力が こんな仕事で生かされていたとは・・驚きですよねぇ~~(驚)
超アルレロ~~~~でしたぁ~~~~(笑)
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