俳句論のゆくえ 俳句とアニミズム

http://akomix.blog.fc2.com/blog-entry-488.html 【Books reminder, 『俳壇』2018年6月号〈俳句論のゆくえ⑱俳句とアニミズム(上)坂口昌弘〉】より

橋本さんのお薦めで『俳壇』2018年6月号〈俳句論のゆくえ⑱俳句とアニミズム(上)坂口昌弘〉を読んでみた。

以下、ちょっと感想。

兜太はもちろん芭蕉、子規、虚子(や汀子が語っている)の俳句観にアニミズムを見る論考には共感した。

でもいくつか違和感を感じる部分もあった。

兜太は、自分の考え方と近接した既成概念「アニミズム」が既にあって、これが自説を説明するのに便利だったからアニミズムと言っているのであって(兜太自身も申し訳程度にタイラーには触れてはいるが)、タイラーの定義を厳密に参照することなど兜太にとってはどうでもよい。兜太の「アニミズム」の定義がタイラーに比してどうのこうの言うのは兜太の「存在者」を取り上げて、ハイデガーの「存在者」がどうのこうの言うのと同じように知的遊興の域を出ない(それはそれで面白いけど)。

また、ある質感や心持ちを神、霊、魂、気といった言葉で表現すること自体は大いに結構だとおもうが、俳句の中に「魂」やら「神」やらと書かれているからと言ってその句がアニミズムだと論ずるのは兜太が感じていたことからは(それに芭蕉、子規、虚子からも)少し離れてしまうだろう。

兜太がアニミズムと言う時は、何を俳句に書くのかではなく、どう俳句にするのか、作句態度、姿勢、生き方そのものである「生きもの感覚」のことを指しており、たまたま便利な言葉使いとして「アニミズム」と言っているだけだ。

坂口氏は「社会性の句は政治的問題であるが、アニミズム・生命感覚の句は詩的・芸術的な問題である。」と社会性とアニミズムを分ける見解を記載しているが、この記載には坂口氏の根本的な誤解を感じた。

兜太の「生きもの感覚」(アニミズム)では、社会も土の上に生きる人間が作り出したものであって、ほかの生きものと同列にあり、分けて考えるものではない。「社会性は態度の問題」としてどんな思想も肉体化し日常をすすめる態度になってはじめて俳句になると述べ、どうしたって社会に生きざるを得ない中に原郷を求めて「定住漂泊」と言い、一茶に見た人間臭い日常性に社会と人間と自然とを一体のものとして捉え「荒凡夫」を理想とした兜太。「天人合一」、「ふたりごころ」のキーワードの背景でもある一貫した生き方。それは、「古き良きものに現代を生かす」という海程の理念にも示される。そして生きもの感覚は、だれもが既に持ち合わせているもの。

そういう生き方=俳句観の兜太だから、虚子を以って「アニミズムを薄れさせた」と言うのも頷ける。(教育的指導か商売根性か政治性かはともかく)季題趣味・有季定形・花鳥諷詠を宣伝して日常社会に生きる人間と自然を区別して自然随順を標榜するような虚子のいかがわしさに腹を立てただけだと思う。

田中亜美さんが『俳句α』2018春号で<「金子兜太」は、これからです。>と書いているが、その通りだという思いを強くした。

以上

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