熱田神宮の謎を解く

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1059.html 【熱田神宮の謎を解くその1】より

ここ数カ月間は写真を載せるだけのお手軽記事ばかりが続きました。そろそろ歴史の謎解きに挑戦しなければと思いつつ、果たせないまま時間だけが経過した次第です。そこで面白そうなテーマがないか考えた結果、比較的短いシリーズで済みそうな熱田神宮の謎を取り上げることにしました。と言うことで、早速書き始めます。

熱田神宮は名古屋市内にあって誰でも手軽に行ける場所です。ところがその手軽さと反比例して、この神社には謎が多いように思えます。例えば、熱田神宮が鎮座する熱田は古来より蓬莱の地とされ蓬莱島と称されています。

日本においては蓬莱の地は三カ所あるとされます。すなわち、紀州熊野、尾州熱田、富士山麓です。熊野と富士山の二カ所には徐福伝承と秦氏の存在が認められます。一方熱田神宮は蓬莱宮と称されるものの、徐福伝承は存在していません。ここで「尾張名所図会」の記述を参照します。

尾張名所図会。

達筆な上に撮影が下手ではっきり読めませんが、「蓬莱」に関して記載があり、「本朝神社考に本朝における蓬莱は富士、熊野、熱田であるとされ、東海瓊華集には秦の徐福が海に入り三神山に不死の薬を求めたが遂に帰らなかったとある」との主旨で書かれています。名所図会は蓬莱と徐福を関連付ける意図があるようにも見受けられますが、これをもって熱田に徐福伝承があるとは言えないと思います。

さらに熱田周辺には「旗屋」など秦氏地名と推定される場所もあります。けれども、秦氏が活動した痕跡は見当たりません。ここに熱田神宮を含む熱田の特殊な立場があります。この問題は「鎌倉大仏の謎 その7」や「秦さんはどこにいる? その7」でも少し触れています。

なぜ他地域と異なり蓬莱の地であるはずの熱田に、秦氏や徐福伝承の痕跡が見られないのでしょう。これは不思議です。

熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ大社とされます。そして神社の主祭神は草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)であり、神剣を御霊代(みたましろ。神または人の霊魂の代わりとして祭るもの)とした天照大神です。ところが熱田を含む一帯地域は尾張氏の拠点であり、熱田神宮の社殿はかつて尾張造りと言う形式でした。それが明治26年になって天照大神を祀る伊勢神宮と同じ神明造りに変えられているのです。

同様の変化は御祭神にも現れています。天保15年(1844年)に編纂された「尾張志」には、神剣は日本武尊の御霊代と書かれています。ところが熱田神宮のホームページを見ると、「ご祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです」となっていました。いつの間にか日本武尊が天照大神に変わっているのです。(古い史料によっては天照大神が相殿神にも入っていません)

草薙神剣(天叢雲剣)は三種の神器の一つで、他には八咫鏡と八尺瓊勾玉があります。これらは歴代天皇が継承してきた宝物で、天皇の地位と正統性の証でもあります。現在八咫鏡は伊勢神宮に、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されているとされます。八咫鏡が伊勢神宮にあるのはわかりますが、なぜ皇室を象徴し、その存在が皇統の正統性を担保する草薙神剣は熱田神宮にあるのでしょう?熱田神宮のありようには、かなり無理な操作が行われているような気がしないでもありません。

また、なぜ日本武尊は東国征伐に際し草薙神剣を持って行ったのに、伊吹山の神を討伐する際は宮簀媛命の元に預けて行ったのか?熱田神宮は草薙神剣を祭る神社なのに、本宮の相殿神として草薙神剣とは直接関係のない建稲種命が祀られているのはなぜか?建稲種命の父で、より重要な人物と思われる初代尾張国造の乎止與命(おとよのみこと)はなぜ相殿神として祀られていないのか?など、数多くの謎が存在します。

(注:相殿神とはWikiによれば、「相殿(あいどの。合殿とも書く)とは、主神を含めて複数の神が祀られた社殿のことを指す。「相殿神」とは相殿に祀られる神のことであるが、主神と配神とがある場合は配神のことを相殿神という」となります)

こうした謎に迫るには熱田神宮を見るだけでは不可能と思えます。時間軸や空間軸をより広く取って探索する必要性があるのです。

と言うことで、まず名古屋市周辺にはほとんどないと思われる秦氏の痕跡をいつもの手法で探ります。地図を見ると熱田神宮の北西に「旗屋」と言う地名が出てきます。これは以前にも書いていますが、秦氏地名かもしれません。

旗屋を示すグーグル地図画像。

調べてみるとこの場所はかつて幡綾村でした。この地名で閃くものがあります。秦王国である豊前国には綾幡郷があり、宇佐八幡宮の元宮とされるのは福岡県築上郡椎田町の矢幡八幡宮(豊前綾幡郷矢幡八幡宮)です。ここに鎮座する金富神社は原始八幡神顕現の霊地ともされています。秦氏にとって最重要拠点の地名綾幡をひっくりかえしたものが幡綾ですから、秦氏地名である可能性はより高くなります。

なお「蓬州(尾張の別称)旧勝録」によれば、幡綾臣は甚目(はだのめ)臣とあります。甚目氏は名前からしても秦氏の傍流氏族と考えられます。「蓬州旧勝録」は愛知県図書館がデジタルライブラリーにて公開しており以下で全文を見ることができます。膨大な引用資料を駆使して書かれており参考になりますが、読みにくいので大変です。

http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/28.html

では幡綾の地名は何に由来するのでしょう?調べてみると、雄略天皇の時代に呉から渡来した綾織女が熱田神宮に仕え、織物を織った機屋がこの地にあったことから幡綾となったのが始まりとのことです。多分、幡綾が転じて機屋になり、最後には旗屋となったでしょう。

別の説としては、日本武尊が東征のとき天から幡が降り、これを日本武尊に捧げた、或いは、日本武尊が命を落として白鳥となって飛んだとき旗が落ちたので旗屋になったとされます。大幡の飛翔伝説は「富士山麓の秦氏」の後半部分で詳しく書きましたが、秦氏の移動経路を示しています。移動経路に当たる都留市の大幡川脇には機神社も鎮座しています。

これらの説は「尾張志」などを参照ください。「尾張志」の場合、以下のようにデジタルライブラリーとなっています。

http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103283666-001.pdf

以上から、「旗屋」の地名由来はどの説も秦氏との関係が推測される結果となりました。秦氏地名の検討を続けます。熱田神宮の北西、名鉄金山橋駅のほぼ西には幡野と言う地名があります。これも秦氏地名と思われます。

幡野を示すグーグル地図画像。

その西には高畑や八田と言う地名がありました。名古屋市北区には春日井方面から八田川が流れ、地図上では庄内川を越えて名古屋城に続いているように見えます。名古屋城の近くには田幡と言う地名もありました。さらに見ていくと、多奈波太神社(たなばたじんじゃ)が北区にありました。鎮座地は名古屋市北区金城 4-13-16。 主祭神は天之多奈波太姫命 となっています。「尾張名所図会」を見たところ、多奈波太神社は田幡村に鎮座すると記載ありました。田幡の地名は田畑ではなく、多奈波太が転じたものと断定できそうです。

八田川を示すグーグル地図画像

八田川の東には勝川と言う地名があり、秦川勝の川勝が反転したようにも見えます。守山区には小幡と言う地名があります。「富士山麓の秦氏」では大月市の古渡(こわた)が小幡で秦氏の居住地域でした。

守山区小幡から東に進むと瀬戸市に入りますが、幡山町があり幡山町の北には幡野町があります。瀬戸市の北東には半田川が流れ、瀬戸市下半田川町には秦川城址がありました。

瀬戸市下半田川町を示すグーグル地図画像。

一般的に半田は秦氏地名とされますが、瀬戸市の例から半田川や半田の地名の元が秦であったと理解されます。秦川城址に関しては以下を参照ください。

http://www.geocities.jp/shiro20051212/Hatagawa-Jo.html

以上、秦氏地名を拾ってみたのですが、書いているうちにある傾向があることに気が付きました。それは秦氏地名の分布が熱田からほぼ北に向かい次に東に向かって瀬戸で尽きていることです。この背後には古代の地形が影響していると思われるのですが、それはまた後で検討していきます。

次に秦姓から派生した姓を見ていきます。羽田野姓で見ると、全体数が169人中、豊川市が41人、豊橋市が32人、春日井市が19人となっています。

波多野姓の場合全体数543人中、春日井市が103人、豊川市が79人、小牧市が79人、瀬戸市が55人です。秦野姓になると全体数53人中、小牧市が12人です。

波多野姓と羽田野姓、秦野姓が春日井市、小牧市、瀬戸市などのエリアに多くなっています。秦氏地名と一定の整合はあるように思えますが、例えば愛知における波多野姓が秦氏から派生した姓か確定できません。

熱田の名前も検討してみましょう。秦氏の河内における拠点であった寝屋川市の熱田神社境内からは、古瓦や礎石に使用された巨石が多く出土し、一帯は太秦廃寺跡と呼ばれています。同じ熱田の名前に関係があるのかもしれません。

大阪市平野区の大念佛寺のホームページには以下の記載があります。

良忍上人(聖應大師)は、延久四年(1072)尾州知多郡富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生、父はその地方一帯を治める領主で、名を藤原秦氏兵曹道武といい、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。

知多市に秦氏の存在が認められしかも熱田神宮と絡んでいますが、時代的に古代とは言えず現在のテーマと関係はありません。いずれにしても、熱田周辺で秦氏の活動した記録はなさそうです。以上の検討結果から、秦氏地名と秦姓から派生した姓は見られるものの、蓬莱の地である熱田に秦氏が関与している可能性はほとんどない結果となりました。

次に熱田が蓬莱島と称される点について見ていきます。既に書いたように「蓬州旧勝録」の蓬州とは尾州の別称で蓬莱に由来しています。ではなぜ熱田が蓬莱島とされたのでしょう?一般的には、鬱蒼とした樹木が茂る往古の熱田の地が海に突き出した岬のような姿だったので、不老不死の仙人が棲む伝説の蓬莱島とされたようです。

いつ頃から熱田が蓬莱島と呼ばれるようになったのか定かではないのですが、いずれにしても熱田の地に徐福の渡来伝承は存在していません。第一回目で熱田には秦氏の痕跡もほとんどなく、徐福伝承もないと判明したのはちょっと残念です。

しかし熱田神宮にはまだ多くの謎が秘められているので、次回以降で検討していきたいと思います。


http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1060.html 【熱田神宮の謎を解くその2】より

まずは熱田神宮の歴史を簡単に整理しましょう。神社に興味ある方ならだれでもご存知の内容ですが…。

熱田神宮の主祭神・熱田大神は他の神社と異なりいわゆる神ではありません。かの有名な草薙神剣です。そしてこの神剣は天照大神の御霊代とされ、本宮の相殿神(あいどのしん)は天照大神、スサノオノミコト、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五神となっています。

ややこしいのですが、神剣が天照大神の御霊代なら熱田大神=天照大神でもあります。熱田大神が天照大神なら、なぜ相殿神としても祀っているのか理解に苦しむところです。多分、熱田大神=天照大神とされる以前に相殿神が決まっていたので外せなかったのでしょう。神剣の来歴は既にご存知と思いますが、簡単に触れておきます。

記紀によれば、高天ヶ原から追放されたスサノオは、出雲国を流れる肥の川(現在の斐伊川)上流の鳥髪山(現在の船通山)に降臨します。その地で八岐大蛇の生贄にされそうになっていた櫛名田比売(くしなだひめ)を救うため八岐大蛇を退治します。そして退治した大蛇の尾から出て来たのが天叢雲剣でした。スサノオは神剣を天照大神に献上。この剣は天皇の地位を象徴する三種の神器の一つとなったのです。

時代は神代から下ります。景行天皇の子である日本武尊は、天皇から東国の平定を命じられました。悩んだ日本武尊は伊勢神宮に叔母の倭姫命を訪ね、自分の境遇を嘆きます。それを聞いた倭姫命は、日本武尊に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、この時点での名前は草薙神剣ではない)を授けます。

東国平定に出立した日本武尊は相模国の家基津(富士吉田市の明見一帯)で敵に欺かれ、草原の周囲から火を放たれました。最大の危機に直面した彼はこの剣で草を薙ぎ払い危機から脱出したのです。これにより、本来は天叢雲剣と呼ばれていた剣が草薙神剣と称されるようになりました。

なお草薙神剣で危機を脱出した場所が、駿河国の焼津ではなく富士吉田市としている点は、「富士山麓の秦氏 その11」を参照ください。

日本武尊は東国各地を転戦し尾張国に至って、初代の尾張国造の娘(とされる…)宮簀媛命と契りを結びます。その後日本武尊は草薙神剣を宮簀媛命の元に置いたまま伊吹山の神の成敗に向かいますが、悪い神の祟りに遭い、病を得て伊勢国能褒野(のぼの)で死んでしまいます。日本武尊は東国平定に草薙神剣を持って行ったのに、伊吹山の神を討つ際は携行しませんでした。この間の事情や宮簀媛命の実像には大きな謎があると考えられますが、後の回で検討します。

「熱田宮縁起」によれば、宮簀媛命は神剣を自分の手元に置いていました。しかし、年とともに衰えて来たので、神剣を祀るための社地を熱田に占定したとされます。熱田の地名は、カエデの木が自然発火して水田に倒れ、田の水が熱くなったので、その地を熱田と呼ぶようになったことに由来しているそうです。ほとんど伝説的なものですが、草薙神剣が熱田神宮に祀られるまでの経緯は以上の通りです。

熱田神宮拝殿。

となると、熱田神宮の創建はいつになるのでしょう?日本武尊が亡くなったのは景行天皇43年(113年)になるので、宮簀媛命が当時20歳として50歳で衰えたとすれば、143年頃が熱田神宮の創建になると思ったのですが…。同神宮のホームページを見たところ、以下のように記載ありました。

113年, 景行天皇43年, 日本武尊、伊勢の国・能褒野(のぼの)にて 薨去(こうきょ) 草薙神剣を熱田の地に祀る。

ホームページは以下を参照。

http://atsutajingu.or.jp/jingu/about/history.html

熱田神宮の記述にはやや疑問を感じるので、別の角度から見ていきます。宮簀媛命は成務天皇5年に名古屋市の最高峰(198m)である東谷山に尾張戸神社を勧請したとされます。一帯は尾張氏の本貫地。周辺には多数の古墳があって尾張氏の重要拠点となっています。

東谷山を示すグーグル地図画像。

成務天皇5年とは西暦何年でしょう?調べてみると西暦135年になり、その頃まだ媛が元気だったとすれば、やはり140年頃までは生きていたと考えられます。そうなると、113年は30年近くサバを読んでいるような…。でも上記の話は伝説に過ぎないので、これ以上追求はしないこととします。

熱田神宮の他の史料によれば熱田大神が会崎(或いは江崎)幡綾村(或いは機綾村)に座したのは大化2年(646年、或いは大化元年、3年)とされています。熱田大神は草薙神剣のはずなので、これが正しいとすれば、景行天皇の時代に登場した宮簀媛命が神剣を熱田に納めることはできません。

ただ宮簀媛命を個人名ではなく神事を行う女性神官・宮主媛命とすれば、大化2年前後において女性神官が社地を占定し神剣を遷座させたことになり、宮簀媛命でも一応の筋は通ります。結局大化の改新があった年の数年以内が実際の熱田神宮創建になりそうです。

ちなみに、「新修名古屋市史」には『「熱田本紀」孝徳天皇の大化元年に尾張の宿禰忠命等託宣によりて江崎の機綾村に遷し奉即今の大宮是なり』と記載あります。

話を伝説に戻します。衰えた宮簀媛命は神剣を奉じるため熱田の地に向かいました。お年を召していますから、当然途中でお休みも必要となります。それが名古屋市熱田区伝馬町1丁目に鎮座する笹社の境内社である南楠社です。

笹社(笹宮)の境内。

解説板。

南楠社。小さな木の祠です。

位置を示すグーグル画像。

笹社の御祭神は天宇受賣命ですが、その境内社である南楠社が熱田神宮の境外末社になっています。この神社にはかつて楠の大木があり、宮簀媛命が神剣を奉じ熱田に向かう途中、その楠の下で御休憩されたそうです。(愛知県の神社仏閣を見るとなぜか楠の古木が多くなっています。土地に合っているのでしょうか?)

これが事実とすれば、宮簀媛命の時代伝馬町までは陸であったことになります。媛は大高の氷上の里から船で伝馬町付近に上陸。船旅でお疲れになり楠の木の下で一休みしました。(注:氷上の里の場所や宮簀媛命に関しては後の回で詳しく書きます)しかしこの伝承にはやや疑問が残ります。一帯は当時海の下だったと考えられるからです。

話は変わりますが、金、土、日に熱田神宮一帯を回る場合、名鉄神宮前駅で降りて「スタバ」の前に行けば、無料のレンタサイクルが利用できます。(無料がいつまで継続するかは不明です)自転車で熱田神宮の南門前から伝馬町方面(南)に向かうと、すぐ下りとなります。そして伝馬町では平になっているのでここは当時海だったと考えられるのです。

自転車を借りる際に頂いた「熱田ぐるりマップ」には熱田一帯の古代の海岸線が書かれており、参考になります。

マップの写真。

古代の海岸線と記された青い線が当時の海岸線です。南楠社は鎮座地このマップから南に外れますので、マップからも当時は海の下と推定されます。ただ、神社の鎮座地はしばしば変わりますし、宮簀媛命の御休息も伝説なので、どこかは定かでないが上陸した場所で御休息されたとでもしておきましょう。

いずれにしても以上のような経緯(伝説的経緯)を辿り、草薙神剣は宮簀媛命或いは女性神官・宮主媛命により熱田の地で祀られることになったのです。

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