河より掛け声さすらいの終るその日

http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/siki%20saloon/saloon12.html 【金子兜太氏追悼  「河より掛け声さすらいの終るその日」】より

以下の「金子兜太氏追悼」に関する記述は、平成30年松山子規会五月例会(20180519) での講話「生死)の執着と安心 ~一遍と子規と~」に先立って、松山子規会の副会長として哀悼の意を表した際の心覚えである。俳人金子兜太氏のついて語られる時のご参考になれば有難い。

金子兜太氏のご冥福を謹んでお祈り申し上げます

河より掛け声さすらいの終るその日     金子 兜太

金子 兜太(かねこ とうた) 大正八年(1919)年九月二三日 -平成三〇年(2018)二月二〇日。埼玉県比企郡小川町出身の俳人。妻皆子。加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。主な受賞歴 現代俳句協会賞(1956年) 詩歌文学館賞(1996年) 現代俳句大賞(2001年) 蛇笏賞(2002年) 日本芸術院(2003年) 正岡子規国際俳句賞大賞(2008年) 毎日芸術賞特別賞(2010年) 菊池寛賞(2010年) 朝日賞(2016年)

一遍忌はわが誕生日おはぎ二つ  金子 兜太  一遍忌われに月照の幾夜  金子 兜太

遺作 (俳誌「海程」平成三十年四月号より )

雪晴れに一切が沈黙す             雪晴れのあそこかしこの友黙まる

友窓口にあり春の女性の友ありき        犬も猫も雪に沈めりわれらもまた

さすらいに雪ふる二日入浴す          さすらいに入浴の日あり誰が決めた

さすらいに入浴ありと親しみぬ         河より掛け声さすらいの終るその日

陽の柔わら歩ききれない遠い家

稲光一遍上人徒跣            黒田 杏子

遊行者一遍倒れ伏す曼珠沙華     黒田 杏子

寒満月遊行上人遊行の眼        黒田 杏子


https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12652814159.html 【今日は金子兜太さんの忌日。「猪鍋や金子兜太を喰ひ尽くせ(すえよし旧作)」】より

今日は金子兜太さんの命日です。(2018年2月20日)。

今日は金子兜太さんが最期に作られた句(辞世の句)を紹介します。「海程」にも過去掲載され、その記事がまた全国紙などにも紹介されたりしてますのでご存知の方はたくさんおられると思いますが。

金子兜太さんは、2018年2月20日に98歳で亡くなりました。

兜太さんは、1月上旬に肺炎で入院され、25日に退院、退院後は日中は自宅で、夜は自宅近くの高齢者施設で過ごされていたようです。

最期の句はこの時期に作られた句で、それらが結局辞世の句になったわけですが、これらの句はこれまでやってきたように、「海程」に載せるためのもので、謂わば兜太さんのルーティンのひとつだったのですね。ご自身で清書もされていたそうです。

しかし2月6日に体調が悪化。再び入院となり、ついに20日にご逝去。

日常の中で作られた俳句が結果として「辞世の句」になってしまった、ということになります。

「海程」4月号に掲載された兜太さんの最期の句↓

▪️雪晴れに一切が沈黙す             ▪️雪晴れのあそこかしこの友黙まる

▪️友窓口にあり春の女性の友ありき        ▪️犬も猫も雪に沈めりわれらもまた

▪️さすらいに雪ふる二日入浴す          ▪️さすらいに入浴の日あり誰が決めた

▪️さすらいに入浴ありと親しみぬ         ▪️河より掛け声さすらいの終るその日

▪️陽の柔わら歩ききれない遠い家

前4句は、雪降る窓外の様子や面会の方を詠んだ句のようですね。後の4句、全部「さすらい」とご自分を表しておられますね。

結果として「辞世の句」になった句ですが、句にはもちろんそういう意識は微塵もありません。「河より掛け声さすらいの終るその日」にわずか死が近い予感みたいなものを感じさせます、また「陽の柔わら歩ききれない遠い家」にも少し弱気なところを正直に見つめている兜太さんの気持ちが覗きます。しかし、あくまで「現役俳人」としての句であります。

「河より掛け声さすらいの終るその日」の「河より掛け声」は、兜太さんの一周忌の時に黒田杏子さんが「これは明らかに〈秩父音頭〉だ」と仰っていました。私はそれを聞いた時に咄嗟に「秩父音頭聞こえてますか兜太さん」と呟いてしまいました。

当時、海程俳句会会長の安西篤さんによると、金子さんは高齢者施設と自宅との行き来を「さすらい」と表現されていた、とのこと。

また安西さんは、「自分の日常を悲観的にではなく、あくまで客観的に眺めている。『他界』(死後の世界)を重く捉えず、懐かしい人に会える、ちっとも怖くないと思っていたのでは。先生は最後まで自然体だった」と語っています。

私はとうとう兜太さんには一度もお会いすることは出来ませんでした。後にも先にも唯一の接点は数年前の「宮若全国俳句大会」の時に私の句を兜太さんに秀逸句として選んで頂いたことのみです。「ハンカチはいつも丸まり父に似て」という句でした。お陰でその年の「奨励賞」を頂き句碑も一年間建てて頂きました。

兜太さんの有名句(たくさんありますが私の思いつくままに書いてみました)

▪️白梅や老子無心の旅に住む         ▪️おおかみに螢が一つ付いていた

▪️梅咲いて庭中に青鮫が来ている       ▪️水脈の果炎天の墓碑を置きて去る

▪️銀行員ら朝より蛍光す烏賊のごとく     ▪️湾曲し火傷し爆心地のマラソン

▪️曼珠沙華どれも腹出し秩父の子       ▪️原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ

▪️長寿の母うんこのようにわれを産みぬ


http://yukihanahaiku.jugem.jp/?eid=4 【さすらいの終るその日 ~ 雑誌「兜太 Tota」発行に寄せて】より

五十嵐秀彦

平成30年4月号の時評に金子兜太のことを書いた。2月に亡くなった後も俳句界ではさまざまなイベントが続いている様子で、この俳人についてはまるで予熱が冷めないかの様子である。

7月に、俳句集団【itak】が藍生と合同イベントを開催した際、藍生の黒田杏子主宰の話を長時間にわたって直接聴くという願ってもない経験をしたのだが、そこでも印象に残ったのは金子兜太のエピソードだった。黒田は最後まで兜太のそばにいた俳人のひとり。兜太といえば現代俳句・前衛俳句の巨人、一方黒田杏子は俳人協会系の伝統派の俳人と思われがちであり、このふたりの関係に首を傾げる人も多いようだ。私はふたりの距離が近いことになんの疑問も持ったことはない。彼女が常に俳人個人とその作品のみを見ている人だからだ。俳人協会とか現代俳句協会とかの壁や垣根は、そもそも彼女の眼中にないのである。その黒田が若いころから注目し、年を追うごとに関係を強くした俳人が金子兜太だった。

今回、この時評で紹介するのは、ふたりの関係というのではなく、兜太死後に刊行された雑誌「兜太 Tota」(藤原書店)についてだ。2018年9月第1号と記されているので、これからも継続して出していくという構えなのだが、見通しはやや不明である。

編集主幹の黒田杏子が「創刊のことば」を書いている。

雑誌の企画段階から兜太さんも参加を表明。「オレの俳句の、これだという新作をここに発表させてもらいたい」と。

生前から計画されていたわけだ。どこかかつての寺山修司の幻の俳誌「雷帝」を思わせるものがある。

一人の存在者として生き抜かれた金子兜太の巨きな創作世界とその生き方を、皆さまとご一緒に学んでゆきたいと思います。

この「存在者」というのは昨年(平成29年)刊行された『存在者 金子兜太』とつながっているのだろう。もうひとり「創刊のことば」を編集長・筑紫磐井が書いている。

この刊行により、兜太氏の「存在者」の姿が浮かび上がればこの上もない喜びです。短詩型文学とりわけ俳句の分野において稀有の存在である金子兜太氏の前人未踏の業績と生き方をこの時期にあたり再確認したいと考えます。

どのような間隔で今後発行されるのかは示されていないが、俳句の世界でこうした形の雑誌出版はめずらしいものだろう。

内容は、著名俳人・歌人などによる追悼作品やエッセイ、金子兜太論など多彩で豊富である。執筆者は、ドナルド・キーン、瀬戸内寂聴、佐佐木幸綱、宮坂静生、長谷川櫂、マブソン青眼、高山れおな、夏井いつきなど書き切れないほどの名前がずらりと並んでいる。

しかし、この一冊の中のハイライトは、「金子兜太氏 生インタビュー(1)」であろう。兜太のインタビュー記事が28頁にわたって掲載されている。もちろんこれが生前最後のインタビューだ。編集側もそれを十分意識し、発言内容を整理せずにできるだけ肉声に近いものとして発表している。こういう場合、通常聞き手というのはひとりが普通だと思うが、ここでは兜太ひとりに対して、黒田杏子、井口時男、坂本宮尾、筑紫磐井、藤原良雄と5名もいる奇妙なインタビューとなっている。ただし誰が質問しているのかは省略され、あくまで兜太自身の発言がクローズアップされる形になっているのはよく配慮されていると言えるだろう。

話は高校時代から始まる。そして、日銀に入社した経緯、戦争、トラック島へ。島で作った句はおよそ300句。それを持ち帰るのもなかなか困難があったと言う。

検査が厳しいんで、びらびらのある薄い紙、雁皮紙に小さな字で書き写して、それを石鹸に埋めて。やつら(アメリカ)の石鹸はにおいがいいですからね。捕虜だから、配給を受けた石鹸に入れて持ってきた。

このとき持ち帰った句が、句集『少年』に収載された。

また他の俳人についても彼らしい評価をしている様子が読める。草田男や楸邨への高い評価、波郷に対する評価の揺れ、そして虚子に対してはつぎのようにかなり手厳しい。

虚子はね、おれは人として面白いんだ。それ以上のことは何もない。あの人から俳論として得るべきものは何もない。(略)あの人の俳論なんていうものは全然なっとらん。根も葉もないないことだと。そう思います。

そうして質問に答える合間に、秩父音頭まで歌ってしまう自由さは、いかにも彼らしい。

また、今回の雑誌「兜太 Tota」についての次のやりとりなど実に面白く、つい笑ってしまうほどであった。

-だから面白いのをやりますからね。

(兜太)ねえ。あなた[黒田]、やれよ。

-やれよって、みんなでやるんですよ。雑誌を。

(兜太)何をやるんだ。

-金子兜太の雑誌をやります、みんなで。

(兜太)金子兜太の雑誌とは、何のこっちゃ。

-だからみんなでやるの。大丈夫。

(兜太)大丈夫っていうのは危ないな。

はたしてこの雑誌、第2号が本当に出るのかどうかはわからない。しかし、彼の死が戦後俳句の節目となるだろうことは確かだ。節目というのは終わりではなく、次の時代の始まりでもあるだろう。その時代をつなぐ意味を、この一冊の雑誌が持っているような気がするのである。

辞世の句

河より掛け声さすらいの終るその日 金子兜太

(後日談:第2号ははたして、みたいなことを書いてしまったが、その後順調に第2号3号と出版されています)


http://blog.livedoor.jp/sela1305/archives/51565956.html 【詩人・原満三寿「俳人・金子兜太の戦争」を語る(24・完)】より

   (承前)ーー 存在者・兜太についてー

  一茶が故郷の柏原で疎まれていたのとは違い、存在者Bはながらく、愛され親しまれた秩父という揺籃の産土へ還りたいと念じていたでしょう。しかし存在者Aが、大衆に面白がられ人気者になってしまったがゆえに、存在者Bと乖離していった。

  もっと言えば、存在者Aを歓迎し、面白がり,執着したのは、まさに兜太本人でもあったであろうということです。ですから、産土秩父のアニミズムの世界への帰還は実現未だしであったと思います。兜太自身もそのことにいささか気づいていて、「とにかく、わたしはまだ過程である」と言っていますが.兜太は存在者Aと存在者Bとは、煩悩即菩提であるかのように勘違いしていたのではないかと思うのです、そのことを私は惜しみます。

  最後に私が絶句とした句をもって終わりにします。死に近くくなってからの何句かの内の一句です。

 河より掛け声さすらいの終わるその日

  この句を私は私だけの兜太辞世句とします。ここには存在者AもBもおりません。認知症の合間の俳人の静謐な生があるだけです。河は秩父の河なのでしょう。掛け声は秩父の人たちの声なのでしょう。産土との交歓の裡に長いさすらいがついに終わろうとしているのです。これ以上の辞世句はないでしょう。

  ながながと兜太を覗き見てきましたが、なにはともあれ、秩父困民党の農民が「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」と蜂起した秩父事件のDNAが目覚めたかのように、存在者Bをないがしろにしてまでも、戦争を憎み平和を希求するミッションを自ら担った金子兜太という存在者は、やはりなかなか真似のできない大きな人であったのではないでしょうか。

  以上.九十八年の人と作品を一時間ちょっとで語ってみましたが、不遜だったかもしれません。拙い話を長時間お聞きいただき、ありがとうございました。

ーーー(原満三寿氏2018年11月24日・第三十回「コスモス忌」「秋山清とその仲問たちを偲ぶ」講演録より)

IMG_2584<第三十回「コスモス忌」で「金子兜太の戦争一一逐動体から存在体へ」を講演する詩人で俳人の原満三寿氏。2018・11・24、写真:北一郎>《参照:【著者近況】   原 満三寿氏、句集『風の図譜』で第12回 小野市詩歌文学賞を受賞。2020年4月》

原満三寿氏は一九四〇年、北海道夕張に生まれた。俳句は金子兜太主宰の「海程」にはじまり「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て現在は無所属。詩は暮尾淳氏、西杉夫氏が参加していた詩誌「騒」(1990~2014)の同人であった。2001年12月に『評伝金子光晴』(北浜社)を刊行、第二回山本健吉文学賞(評論部門)を受賞した。《参照:原満三寿・句集「いちまいの皮膚のいろはに」の情念》

■関連情報=俳人「金子兜太の戦争」を語る=詩人・原満三寿氏

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