Facebook相田 公弘さん投稿 「ミッキーマウスは来てくれない」
斉藤一人さんの心に響く言葉より…
空気中には、病原菌だっていっぱいいる。
社会に生きているってことは、大変なことが山ほどある。
それを大変だって思う人もいるけど、私は大変だと思わないんです。
あたりまえだって思っているんです。
そんな中で、「仕事って楽しいな」とか「空気が吸えて幸せだな」とか、日本じゅうの人が、私を待っててくれて幸せだな」とか思うんです。
待ってたら誰かが幸せにしてくれるって言っても、待ってても誰も来ないんです。
待ってても、ディズニーランドが向こうから来てくれるわけじない、いいものはこっちから行かないと。
ミッキーマウスが家に来ることはないんです。
ミッキーマウスに会いたかったら、行くしかない。
誰かに幸せにしてもらおうとしても、無理なんです。
そういう人はたいがい不満をためる。
それで、不満をためてる人は、家庭や、職場や、どこかで吐き出すんです。
それは、人に迷惑をかけてしまうんです。
人に迷惑をかけている人は、幸せとはいえない。
幸せになりたいんだとしたら、そろそろ、そういうことはやめたほうがいい。
幸せは、自分の意思で作りだすものなんです。
それでも、どうしても不幸が抜けないんだとしたら、そこから抜ける方法があります。
不幸な人は、必ず微笑(ほほ)えみがないんです。
笑顔がないんです。
幸せだから笑顔になるんじゃありません。
笑顔だから幸せな気持ちになるんです。
先に笑顔なんです。
もう一つ、不幸せな人の特徴があります。
礼儀が足りないんです。
笑顔で礼儀正しい人に、不幸な人っていないんです。
これだけは絶対なんです。
「マイ・フェアレディ」って映画がありましたけど、マナーを守って微笑むようにしたら、誰にでも奇跡が起こるんです。
◇『ゆほびか GOLD vol.15』マキノ出版
「笑顔を出したほうがいいよ」というと、楽しいことがないから笑顔は出せない、という人は多い。
同様に、「朝、嫌なことがあったから、なんでほんとうのこと言っちゃいけないんですか」と言って、不機嫌な人がいる。
それに対して、斉藤一人さんは、こう言う。
「じゃあ、あなたは、髪が少ない人を見たら、ハゲてますよって言うんですかって」
嫌なことがあるから不機嫌だという人は、不幸だから笑顔が出ない、というのと同じだ。
先に、上気元(上機嫌ではなく)になるから、いいことばかり起きるし、先に、笑顔を出すから、幸せになる。
同時に…
礼儀正しい人は、挨拶がしっかりとできる。
礼儀正しい人は、「はい」という返事が気持ちいい。
礼儀正しい人は、「ありがとう」や「感謝」の言葉が多い。
だから、相手を不快な気持ちにさせないし、自分も機嫌よくいられる。
笑顔と挨拶を磨き、上気元で、幸せに過ごしたい。
※【人の心に灯をともす】より
Facebook 草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事 当たり前
地球は太陽の周囲を大きな円を描きながら回っていますが、その太陽との距離は生命にとっての絶妙な距離です。その光の恩恵をうけて自らを養っています。
そんなことは当たり前。当たり前ですが、当たり前のなんと有難いことか。
人は幸福に生きたいと望みます。だからこころや魂が与えられたと考えるとどうでしょう? だとすると、幸不幸を決めているのは、自分自身ではないでしょうか。ものごとは案外単純なときがあるものです。
正しいという字は下と上が重なり合った字です。天意(自然)と地(人間の思惑や現実)が重なるところに正しいという字が現れます。なんとも昔の人はうまくことを教えてくれるものですね。「道理でね~」と普通に話す言葉の中や。
わたしが生まれたということも、きっと「たまたま」ではなく、実は「道理」で、当たり前。宇宙と、その中で暮らす私は、約束で結ばれている・・・。そう考えると、意識とか魂というものは、つまりはいのちのことだと気づきます。当たり前・・・。
Facebook 岡本 よりたかさん投稿記事 「地球の設計図」(長文ですが読んで欲しい)
スーパーに並ぶ野菜の大きさは揃っている。これには幾つかの理由があるのはご存知と思う。第一に流通。同じ箱に同じ数だけ隙間無く並ぶから輸送効率がいい。第二に量り売りではなく個数売りができる。つまり作業が軽減し不公平さも軽減できる。第三に品質管理である。同じ大きさのものは一定の管理で一定の品質を保つ。
交配種、つまりF1が登場して以来、野菜は粒ぞろいし始めた。一代雑種という他品種交配の一代目の種子はメンデルの法則により遺伝子が似通うという特性を利用したわけだ。ある意味すごい発見であり、すごい技術だ。
巨峰などの大粒のブドウは高価である。その理由の一つに粒間引きという作業を行うからというのがある。育ちの悪い粒を引き抜き、他の粒の成長を促すことで大きさが揃ってくるのだ。だが、この作業がブドウ農家を苦しめている。高く売れるのだから必要な作業だと言い聞かせるのだが、大変なものは大変である。
農業というのは、見た目の品質を上げるために絶えず努力している。僕の小麦だって、高さを揃えることで収量が上がるし、茄子科や果物の肌を守るために袋を被せ、果物の色を揃えるために四方から光を当て、自然の状態でいいならやらなくていい作業を延々と続ける。
やがて消費者はその姿に見慣れてくる。真っ赤なりんご、パックに4つ並んだトマト、粒ぞろいのいいブドウ、肌がツヤツヤの茄子。見慣れてしまえば、価格は下がってくる。農家の必死な作業が報われることがなくなり、むしろそうした作業が義務となってくる。
そして色や形が悪いもの、揃わないものは品質が悪いとして、隅に追いやられお金に変わることはない。大変な作業をやらなければ売れない。結果的に、農家は大変で儲からない職業になり、なり手がいなくなり、食料が船便で農薬をたんまりとかけられた状態で、消費者の手元に届くようになる。
危険な野菜を作り出しているのは、一体誰なのだろうか。農家なのか農協なのか流通なのか小売なのか消費者なのか。いや、おそらく全部であろう。
植物がなぜ不揃いであるかご存知だろうか。
第一に遺伝子に多様性があるからだ。生命は種の保存を考える。たとえ疫病が流行り、虫の大群に襲われても、必ず生き残る者が現れる。役病に抵抗力を持った実だけがポツンと残される。虫も食わない小さな実が同じようにポツンと残される。今の野菜にはない生命力である。
第二に、残すべき種の選択ために多様性を持つ。自らを環境に一番適した姿に変えるために常に新しいかたち、大きさ、性質を持たせた実を作り続けている。皮の硬さや色や実の量、ミネラル量や水分量などに多様性を持たせて、残すべき種を決めている。
第三に、自然の恵みを仲間に分け与えるためだ。背丈を調整して日光が満遍なく当たるように工夫する。麦畑の外側が低くなり、中心が高くなるのは必然である。隣の株を育てるために、成長を止めたり、自らを萎ませていく。大切なのは全体としての種の保存であり、誰が残すかではない。
そしてもう一つ、不揃いの方が美しいからだ。植物はフラクタルに成長する。同じ大きさではなく、不揃いの大きさの集合体によって、その身姿が美しくなり、動物達はそれに心を奪われ、癒され、微笑み、食べることを忘れていく。これも、植物の生きるすべであり、かつ、それが地球の設計図なのである。
その地球の設計図を無視してはいけない。地球という生命体が生きてゆくために必要とされた設計図である。人間は、自然の美しさを忘れて、地球の生命力を奪ってゆくことに勤しむ生き物のようだ。つまり、地球の寄生虫なのだろう。
守るべきもの、それは我々が住むこの地球である。地球の設計図に従うことが、人間が、地球の寄生虫から、地球と共存する生命体に変われる唯一の方法である。
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