https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/100266/BA31027730_290_p099_KOK.pdf【史料・神事にみる卜占の手法―考古資料との比較を中心に―】
國分篤志
占いの手法の一つに、亀甲や獣骨を焼いて、その罅割れなどを観て占うものがある。先史・古代においては焼灼の痕跡が残る考古資料(卜骨・ト甲)、古代以降にはこの他に律令やその注釈書、貴族の日記、各地の神社文書、秘伝書などの史料から、その存在を窺うことができる。加えて、神事として残存する(または近世・近代まで存続していた)事例もある。このように、卜占の痕跡を残す史資料の存在形態は多様である。
筆者は基本的には考古学の立場から卜骨・ト甲の検討を進めているが、今回は史資料や神事に注目し、素材の入手から整形・焼灼に至る手法を概観することとする。卜骨・ト甲との比較も通して、卜占手法の時期差や地域差などを描出できれば幸いである。
なお、本稿では、「卜占」の語を、甲骨を焼いて占うという方法に限定して用いることとし、素材により獣骨であれば「骨卜」、亀甲であれば「亀卜」と表記する。
1. 史料・神事にみえる卜占
1)史資料の概要―骨卜・亀卜略史―
先ず、現存する史資料と、そこからみえる骨卜・亀卜の概要を記しておく。
古代律令国家においては、国家の大事を占う方法の一つとして、亀卜が採用されていた。神祇官の下に置かれた下級神官である卜部が従事した。『令集解』『延喜式』などによれば、卜部は対馬・壱岐・伊豆の三国から選ばれることとなっていた(三国卜部)。『延喜式』では、対馬から 10 人、壱岐・伊豆から各 5 人を選ぶことが規定されているが、それ以前には人数の変動があったようである。
卜部の中でも特に卜占技能に優れた者は、更に「卜長上」や「宮主」に選ばれ、宮廷祭祀に深く関与することになる。また、伊勢神宮に仕える斎宮においても、同様に亀卜がおこなわれていた。
「卜部」が宮廷に奉仕する一方、奈良時代の戸籍・計帳や平城京出土の荷札木簡などからは、対馬・壱岐・伊豆の三国以外にも、筑前・因幡・近江・駿河・甲斐・武蔵・安房・上総・安房・下総・常陸・陸奥において「卜部」「占部」姓の人物の存在が確認される。「占部」の分布は東日本に濃密である。「卜部」「占部」の用字の差は、執行する卜占が亀卜(卜部)か骨卜(占部)かの相違に起因するものと考えられている〔平野 1966・大江 2006 ほか〕。
「卜部」「占部」の分布、および本稿で取り上げる史料・神事が残る地域については、第 1 図に図化したので参照されたいが、対馬・壱岐や宮中以外は、東日本に集中することが看取されよう。
2)各地の卜占手法の分析
手法の紹介の際には、素材、事前の整形の手法、焼灼の手法、に注目する。文献記録で詳述される占断の内容については、本稿での目的ではないため、詳しくは触れないこととする。
1)宮中
卜部による卜占のうち、特に重視されていたのが、6・12 月の月次祭に先立って行われていた「御体御卜」(おおみまのみうら)である。これは、向こう半年の天皇の玉体や天下国家の安泰を占うものである。『延喜式』巻 2「神祇四時祭式」によれば、両月の 1 日に卜占を司る神である「卜庭神」2座(太詔戸神・櫛真智命)を祀り(卜庭神祭)、続く 2 ~ 9 日のうちに占いを行い、10 日にその結果を奏上する(奏御卜)、という手順を採る。その起源を探ると、孝徳朝には行われていた可能性が高い 1)。この行事についての具体的な所作や占断の内容は、卜部氏の氏文である『新撰亀相記』2)や秘伝書である『宮主秘事口伝』3)などに詳しい。それに拠れば、①土公の祟、②水神の祟、③行幸の祟、④御膳過の祟、⑤竈神の祟、⑥北辰の祟、⑦鬼気の祟、⑧御身過の祟、⑨神の祟、⑩霊の祟、の有無が判断されることになる。そして⑨の神の祟については、更に神宮内・宮中・京中・五畿内・七道内での祟の有無を順次占っていき、最終的に一度の御体御卜での卜占の回数は 160 回程度に上るという〔安江 1979〕。
『新撰亀相記』『宮主秘事口伝』などに引かれる、卜部が亀卜を執行する際に唱える祭文が、手法の参考となるため、長文であるが引用しておく。これは、亀神が皇祖神に述べた誓詞という形を取っており、亀卜により正しい占いが可能であることを表明したものである。
第 1 図 卜占関係地域分布地図
…仕奉るべき神を問ひ賜ふ時に、天香山に住む白真名鹿まうさく、「我、仕奉らむ。我が肩骨を内抜に抜き出し、火成卜して、問ひたまへ」とまうす。問ひ賜ふ時に、已に火偽を致す。太詔戸命、進みて啓さく、「白真名鹿は、上国の事を知るべし。何ぞ地下の事を知らむ。吾は能く上国・地下、天神・地祇を知れり。況むや復、人情の憤悒きことをや。但し、手足・容貌は、群神に同じからず。故、皇御孫命、天石座を放れ、八重雲を別けて天降り坐すに、御前に立ちて下り来れり。川に住むこと産なれば、昼は野鳥を喫ひ、夜は山獣を喫ふ。故、川路を原ねて、大海に往き、下水には魚に矢を放ち、上水には鳥に矢を放ち、中水に浮き沈みて海菜を食とす。塩途を床とし、石屋を家とし、潮落を以ちて羽翼とす。海子、吾に釣を下す。若し、釣を舎て咎むること莫し。
海子、叉を以ちて撞かば、八十村の災あらむ。海子、朝夕に食ふと雖も、咎め祟ること有らじ。
吾が八十骨〔甲なり。〕を、日に乾し曝し、斧を以ちて打ち、〔小斧なり。〕天の千別き千別きて、甲上・甲尻は真澄鏡に取り作りたまへ。〔甲の表は瑕無きこと、鏡の如し。〕天刀を以ちて町を掘り、判り掃ひたまへ。〔穴の形、町に似たり。〕天香山の布毛理木を採りて、火燧を造り、天香火を燧り出だして、天母鹿木に吹き着け、天香山の無節竹を取りて、卜串に折り立てて問ひたまへ。〔今、佐万師なり。其の節着かぬ木の辞、此の如し。〕…(中略)…、亀誓、如し。故、六月・十二月の御体の卜には、先づ此の辞を誦む 4)。
長く引用したが、上記の祭文と律令・格式や『新撰亀相記』・『宮主秘事口伝』、日記などにみえる記述から読み解ける卜占手法は以下のようなものである。
①素材としては、シカの肩胛骨ではなく亀甲を用いる。亀はウミガメであり、海人により捕獲される。
『延喜式』巻 3「神祇臨時祭式」では、亀甲は 1 年につき 50 枚を上限とし、紀伊・阿波・土佐の三国から中男作物・交易作物として納入されることが記されている 5)。
②亀甲を入手後は、天日に曝して肉などを除去する。
③斧で整形し、両面を鏡のように平坦にする。
④卜占に臨む際には、亀甲、鑿、小刀、亀甲に火を指す道具としての波波迦(ははか・桜の一種)、罅が入った時に水を注ぐ兆竹(さましだけ)を用意する。亀甲には鑿により方形の町を掘り、その内部に小刀により 字状の町形を刻む(第 2 図 4)。波々迦の木に火を点け、焼灼する。焼灼順は、ト(下方)→ホ(上方)、中央→カミ(左方)、中央→エミ(右方)である。
また、卜部が司る卜占には、大嘗祭において新穀を捧げる国(悠紀国・主基国)を選定する際の卜占(選田点定の儀)もある。今上天皇陛下のご即位の際の大嘗祭(平成 2(1990)年)においても、亀卜が実施されており、今も続く慣習である。近世の大嘗祭の記録としては、鈴鹿家(吉田神社 旧社家)「鈴鹿家文書」に詳しい〔鳥越ほか 1990〕。概要は以下の通りである。
①素材は亀甲である。吉田家が入手する。
②ウミガメの甲羅を 10 年以上干した後、将棋の駒の形に整形する。悠紀・主基選定に 2 枚ずつの計4 枚の亀甲を用意する。
③卜占に先立ち、亀甲の裏面に墨で町形を書く(第 2 図 5)。
④波々迦の木に火を点け、「ト・ホ・エミ・カミ・タメ」と何度も唱えながら焼灼する。焼灼の順序は、「先甲ノモトヨリ頭へ、カシラヨリモトヘ、次左ヘ、次右ヘ、如レ此何反モ灼レ之」6)、即ち下→上、上→下、中央→左、中央→右、の順であるという。そして、罅の入ったところで亀甲に水を注いで焼け罅を明瞭にし、表面に現れた罅により判断する。
2)鹿島神宮
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)は、武甕槌命を祭神とする。常陸国では香島郡などで「占部」の存在が知られ、『常陸国風土記』香島郡条にも、神宮周辺に「卜氏の居む所」7)があったとされる。鹿島神宮では、神宮祭祀に仕える女官である「物忌」の選定に際して卜占が執行されていた。成立時期は不明だが、卜占に関する文献上の初見は延文元(1356)年である。慶長 4(1599)年、宝永 3(1706)年、安永 8(1779)年の選定神事の記録が残存している〔森本 2003〕。これらの史料から窺える卜占手法は以下のようになる。
①素材は亀甲とする。
②亀甲は事前に 100 日間日干しする。亀甲を加工する役の家があったという。
③亀甲の表面を平滑にする。
④亀甲を 2 ~ 3 枚(候補者の人数分)用意し、物忌の候補者の名前を書く。神前に鼎を立て、その上に亀甲を置く。朝から晩まで亀甲を焼く。『御ものいミ由来略』に、「…本社神前にて、あら炭の火をおこし、其上にてくだんのかめのかうをやく、ふしぎなるかな、しんりょのうじゆの亀の甲は、さらにやくる事なく、のうじゆあらざる亀の甲は、たちまち薪木のごとくにやけ、かたちをうしなふ、すなはちやけざるかめのかうに、かきしるしたるとうによを新ものいみにそなへ奉る…」8)とあり、物忌に相応しい女子の名を書いた亀甲は焼け損じず、そうでない女子の名のものは焦げるという。ただし、大永 3(1523)年の奥書のある『鹿島大神宮物忌代々社職之次第』によれば、亀甲を焼き、女子の名の正中の部分に罅が入った方を物忌にする、としており〔森本2003〕、方法に変遷があった可能性もある。
3)貫前神社
貫前神社(群馬県富岡市)は、上野国一宮で、経津主神を祭神とする。現在も毎年 12 月 8 日に「鹿占神事」と呼ばれる神事が実修されている。成立時期は不明だが、文献上の初見は延宝 8(1680)年で、往時は 2 月と 12 月の辰の日におこなわれていた。現在は周辺諸村の火災の有無を卜占の目的としているが、古くは肩胛骨 2 枚を用意し、1 枚は天下の吉凶を、1 枚は神領内の諸村の吉凶を占ったという〔文化庁文化財保護部 1984〕。手法の概要は以下のようになる。
①素材には雄のニホンジカの肩胛骨を用いる。古くは近隣の秋畑村で捕獲した鹿を利用したというが、現在は確保の困難さから、栃木・二荒山から入手しているという。左右の別は特にない。
②肩胛骨には、現在では骨にほとんど加工をおこなわない。ただし、『一宮巡拝記』(橘三喜著、元禄 6(1693)年成立)や『正卜考』、『貫前神社特殊神事』(昭和 10 年代の記録)などでは、肩胛棘などを除去して薄く磨き、棘下窩部分を「長さ 4 ~ 5 寸・幅 3 ~ 4 分許」9)の短冊形に切り出して加工していることがみえる。整形手法の変化には、上記の素材入手方法の変更があろう。
③大祓祝詞の奏上の後、神前に置いた盤の上で、忌火で焼いた錐を肩胛骨の肋骨面側から骨に垂直に突き刺し、その通り具合を観て占う。結果として、卜骨には穿孔が多数残ることになる(第 2 図 2)。
孔は径 2 ~ 3mm で、棘下窩を中心に 30 ヶ所前後が残る。
4)御嶽神社
武蔵御嶽神社(東京都青梅市)は、櫛真智命などを主祭神とする。毎年 1 月 3 日の「太占祭神事」において、現在も卜占がおこなわれている。各種農作物の作柄を占うものであるという。成立時期は不明である 10)。神事は非公開であるため作法は詳らかではないが、大要は以下の通り〔神澤1983・西海 1986〕。
①素材にはニホンジカ成獣の左肩胛骨を用いる。雌雄は雄である可能性が高い。
②肩胛棘を除去し、扁平にする。
③肩胛骨を背側面の側からそのまま火にかける。その際に肋骨面に生じる焼け罅について、「太占尺」という物差で延長を測り、それをもって作付けを占う。
④卜占の結果は、社前に公示されるとともに、御札として配布される(第 2 図 3)。
5)阿伎留神社
阿伎留神社(東京都あきる野市)は、中臣氏の祖神である天児屋命などを主祭神とする。少なくとも近世まで卜占神事が実修されていた。同社に遺る『神伝鹿卜秘事記』(元禄 10(1697)年)11)や絵巻物「阿伎留神社年中十二祭」にみえる手法は概ね以下のようになる。
①素材にはニホンジカの肩胛骨を用いる。周囲の山中で捕獲したもので、左右・大小などの区別は特にないという。
②肩胛骨は、汚穢を除去した後、肩胛棘を除去するなどして骨を平坦にする。
③『神伝鹿卜秘事記』によれば、棘下窩に「マチカタ」と称する 字形を墨書し、その線上に沿って指火木を当てていき、亀裂が発生すれば兆竹により注水・冷却するという。この手法は京や対馬で実修されていた方法と一致する。一方で「年中十二祭」に描かれた神事の様子をみると、肩胛骨 5 本が直接火に焼べられている状況が確認でき、現実には町形は占断の際に意識されたのみであろう〔神澤 1983〕。
第 2 図 各地の卜占に用いた甲骨
6)伊豆
伊豆は、卜部の置かれた地である。『令集解』によれば「伊豆国嶋直 1 口、卜部 1 口」(注 12)と伊豆嶋直の配下に卜部が帰属していること、鎌倉時代中期の説話集である『古事談』において「伊豆国大嶋の下人者、皆此占をするなり。」13)とみえることから、伊豆卜部は伊豆諸島を主たる活動の舞台にしていたことが窺える。伊古奈比咩神社(通称・白浜神社、静岡県下田市)の社記である
『三宅記』14)では、伊豆初頭の造島・開拓の伝承を記すなかで、島を納める壬生氏が神々から亀卜の方法を伝授されていることがみえる。伊豆では秘伝を伝える史料はないが、上記『三宅記』のほか、八丈島の高橋閔慎が聞き取りをおこなった『八丈伝』や、八丈島に流刑となった近藤富蔵が後年記した『八丈実記』(文久 2(1862)年)にみえる卜占の方法は、概ね以下の要領である。
①素材としてはウミガメの甲羅(背甲)を利用する。
②加工方法としては、「「大なみ」(真中背通り)を剥ぎ、裏の骨を刮りとり、1 枚ごとに厚さ二分許にすり置くなり。其の中へ竪八分横六分許に穴をほり薄くす。その大なみの大きさに応じて、穴はいくつもほりて用ふ(『八丈伝』)。即ち、厚さ 0.6mm 程度の薄板状にした上で、2.4 × 1.8cm の町を作る。町の中に縦横の筋を設定することはない 15)。なお、『八丈実記』によれば、亀甲は「長さ 8 寸幅 3 寸 5 分」(24 × 10.5cm)に加工するとされている。
③波々迦の木に火を点けて町の部分を焼灼し、息で吹き熾す。罅の先が多く分かれるほど吉とする(『八丈伝』)。『異本三宅記』に掲載されるは亀甲の図(第 2 図 6)には、「ト・ホ・エミ・カミ・タメ」がみえるが、その配置、ひいては判定の方法は、宮中や対馬(後述)とは異なる。
7)弥彦神社
弥彦神社(新潟県)にも亀卜関係の文書やト甲が伝来している。これらは古くから当社に伝わるものではなく、元禄年間に橘三喜が当時の宮司であった高橋氏に伝授したものであるという〔椙山2006〕。伴の『正卜考』で紹介された手法は以下の要領である。
①素材としてはウミガメの甲羅を利用する。年老いた亀が良いという。
②亀甲は表裏両面を平坦にし、平面形を将棋の駒の形にする。
③亀甲の裏面に町を掘る。亀甲の約半分の厚さまでは掘り窪める。
④町の部分を焼灼し、表面に発生した亀裂をみて判断する。
8)対馬
対馬は、卜部の置かれた地であり、我が國に卜占を齎したとされる雷大臣命(中臣烏賊津使主命)を祀る雷神社が点在する。卜部は 10 ヶ村に存在したとされるが、近世段階で残存が確認されるのは、豆酸(つつ、旧・長崎県下県郡厳原町)の岩佐氏、および佐護(旧・上県郡上県町)の寺山氏の 2氏のみである。対馬藩の下で正月 3 日に卜占が実修されており、豆酸ではその後も近年まで継続していた。『対州神社誌』によれば、豆酸では 11 月上旬の酉の日にも卜占がおこなわれていたという〔永留 1982〕。
対馬には複数の卜占に関する書物が存在している。藤斎延による秘伝書『対馬国卜部亀卜之次第』(元禄 9(1696)年)は、伴信友が『正卜考』での底本としたものである。このほか、同じく藤原斎延の手になる『亀卜伝』、対馬藩の杉村采女の手になる『元文伝』(元文 2(1737)年)、対馬藩医・牟田栄庵による『対馬亀卜口授』などもある。対馬での卜占の要領は、概ね以下のようになる。
①素材としては亀甲(ウミガメの甲)をも用いる。捕獲したもののほか、『元文伝』や『亀卜聞書』では「浮かれ甲」(海岸に漂着した、死んだ亀の甲羅)や陸に棲む亀を利用するという所伝もある。亀甲は入手後、皮を除去し、天日に晒す・水を掛けるなどして亀甲を清浄な状態にする。
②亀甲は、表面を研磨により平滑にし、裏面も平坦にする。「竪横ともに、凡五六分より三分」(0.9~ 1.5cm)程度の町を刻む(第 2 図 7)。
③亀卜に用いるものとして、亀甲、亀甲を加工する道具(斧・小刀・鑿)、指火木、兆竹、墨などを用意する。指火木には波々迦の木を利用する。決まった本数はないという。
④波々迦の木に火を点け、町の内側を焼灼する。「ト」の方から「ホ」の方へ指すことを 3 度、続いて「カミ」の方へ 3 度、そして「エミ」の方へ 3 度指す。亀甲に罅が入るまで続ける。そして罅の入った所に墨を塗って結果を判じやすくする。亀甲の表面から罅の入り具合を観て、吉凶を占う。
3)史料にみる卜占手法とその地域差
イ)亀卜・骨卜の素材
素材には、シカの肩胛骨とカメの甲羅がある。
カメについては、島田尚幸氏による亀卜の素材に関する研究〔島田 2006〕に詳しいのでそちらを参照されたいが、基本的にウミガメ(アカウミガメ)である。宮中のほか、鹿島神宮・伊豆・弥彦神社・対馬などにおける事例が該当する。亀甲は、漁民の手により捕獲されるのが主流であったが、所伝によっては、「浮かれ甲」を利用するもの、陸に棲む「下腹の黄なる飴色の亀」16)を利用するというもの、などもある。
シカの肩胛骨は、『古事記』天岩戸段などにおいて利用が窺えるなど、亀卜が伝来する以前には主たる卜占の素材であった。古代以降も肩胛骨の利用が認められるのは、神事として貫前神社・御嶽神社・阿伎留神社での事例 17)、和歌として『万葉集』巻 14(東歌)の「武蔵野に 占へかたやき 真手にも のらぬ君が名 卜に出にけり」に限られる。いずれも関東に分布する。雌雄・左右をみると、貫前神社は雄で、左右の別はない。御嶽神社では、左肩胛骨が選択されており、雌雄は雄である可能性が高い。どの個体を用いるかは各々の判断に任されていたと考えられる。
なお、『令集解』神祇伯条での「卜兆」の字義に関する記述では、「兆者焼二牛馬骨等一」とする「伴記」の説も紹介する。即ち、「卜」は亀甲による卜占、「兆」は牛馬骨による卜占との解釈である 18)。
ウシ・ウマを用いる卜占に関する記述は、管見では史料としてはこの事例に限られるものの、当時においては珍しいものではなかったことを示すと言えよう。
ロ)素材の成形・整形
整形手法については、亀甲とシカ肩胛骨に分けてみていく。
亀甲は、入手の後、数ヶ月から数年の間天日で乾かし、臭気を除去する。その上で、斧などにより平滑な素材に仕上げ、そして利用しやすい大きさに截断する。ここまでの成形の段階は、亀甲を利用する宮中・鹿島神宮・伊豆・弥彦神社・対馬ともに共通する。
続く整形の段階は一致をみない。宮中(『新撰亀相記』・『宮主秘事口伝』)・伊豆(『三宅記』・『八丈伝』など)・対馬(『対馬国卜部亀卜之次第』など)では、亀甲に方形の町を掘る。町の形態・規模は、対馬で 0.9 ~ 1.5cm 四方の方形である(『対馬国卜部亀卜之次第』)のに対し、伊豆では 1.6 × 2.4cmの横長長方形である(『八丈実記』)という。また、宮中・対馬では「ト・ホ・カミ・エミ・タメ」の 字状の町形を町の中央部に掘り込むが、伊豆ではその所作はみえない。
一方で、宮中でも近世の大嘗祭における卜占では、町形を墨で書くことがみえる。近世段階では、「町を掘る→町形を刻む」のではなく「書く」という形で簡略化が認められる。この形は、水戸光圀が編纂した『神道集成』に収録される『亀卜秘術』19)においても確認される。この書物の成立した年代・地域は不詳であるが、14 世紀前半に成る『宮主秘事口伝』を引くことから、14 ~ 16 世紀のうちに成立したことが明らかである。即ち、中世後期の段階で、町形を書くという手法が確立していることになる。
鹿島神宮での亀卜では、町形を伴わない。
シカ肩胛骨では、①亀甲と同様に脂肪分を除去する、②肩胛棘など肩胛骨の突起部を除去する、という手順を踏む。現在の貫前神社の鹿卜神事では①、御嶽・阿伎留の両神社では②の段階で卜占に供される。近代以前の貫前神社の鹿占神事では更に、板状の素材に加工していたことがみえる。
ハ)焼灼方法
卜占の際の道具としては、鑿・小刀、火を指すものとして「波々迦」の木の枝を棒状にしたもの、焼灼する際に水を掛けるものとして「兆竹」、焼け罅を明瞭に見せるものとして「墨」がみえる。
亀甲を用いるもののうち、町形内に「ト・ホ・エミ・カミ・タメ」の五兆を掘る、若しくは亀甲に墨書する宮中や対馬の手法では、罅が発生するまで町形に沿って指火木を何往復も当てて焼灼している。焼灼は、下→上、中央→左、中央→右の順でなされる。町を掘るが五兆を刻まない伊豆の手法では、町の中央に火を当てるのみのようである。鹿島神宮のものは、棒状のものを当てて灼くのではなく、鼎の上に置いてそのまま火で焼いている。古い記録では焼け罅を観た可能性もあるが、近世以降は焦げ具合が判断基準となっている。
シカ肩胛骨では、貫前神社では錐を用いて焼灼する。焼け罅ではなく焼灼痕を観て占断をおこなっている。御嶽・阿伎留神社では背側面側からそのまま火で焼き、肋骨面側で焼け罅を観る。阿伎留神社の『神伝鹿卜秘事記』に拠れば、五兆を墨書するようであるが、絵巻を見るに直接の焼灼である。
秘伝書のみ他からの知識を得て編纂したか、いずれかの段階で五兆を書く手法が途絶したか、は明らかでない。
ところで、世界各地の甲骨による卜占事例を集成した新田栄治氏は、焼灼の有無・方法から、①無灼法、②全面有灼法、③点状有灼法、の 3 つに分類している〔新田 1977〕。この分類に従えば、鹿島神宮や御嶽・阿伎留神社の手法は「全面有灼法」に、それ以外の地域の手法は「点状有灼法」となる。全面有灼法の分布は東日本に限定される。
ニ)小結
卜占手法を纏めると、第 1 表のような分類が可能である。西日本が亀卜中心であるのに対し、東日本ではシカの肩胛骨を用いるもの、全面を焼灼するもの、などがみえるのが大きな地域差として捉えられる。総じて東日本では「罅を発生させる」よりも「焼く」こと自体が重視されている。
2. 卜骨・ト甲との比較
次に、史料から窺える卜占の方法と、実際に出土した卜骨・ト甲との比較をおこなう。
卜骨・ト甲研究の嚆矢となった神澤勇一氏の研究では、加工・焼灼の方法から以下の 5 つの形式に分類されている〔神澤 1976 ほか〕。
第Ⅰ形式:整形を全く施さず、肩胛骨中最も薄い棘下窩の片面を点状に焼灼したもの。古墳時代の一例のみ。
第Ⅱ形式:骨面を一部分鋭利な刃物で僅かに削り、その部分を点状に焼灼したもの。弥生時代の卜骨に限られる。
第Ⅲ形式:骨を大きく削ったところに、不整円形の粗雑な鑽を掘り、鑽内に焼灼を加えたもの。古墳時代前期に認められる。
第Ⅳ形式:骨面の一方に平面が正円形、断面が半円形を呈する整美な鑽を設け、そこに焼灼を加えたもの。古墳時代中期に認められる。
第Ⅴ形式:獣骨・亀甲を切削して整形したのち片面に長方形を呈する鑽を彫りこみ、鑽の底に十字形の焼灼を加えたもの。他面では入念な研磨がなされる。古墳時代後期から奈良時代・平安時代初頭まで継続する。
卜骨出土遺跡の分布をみると(第 3 図・第 2 表)、東北から九州まで全国に分布するものの、弥生時代~古墳時代前期と古墳時代後期~平安時代の分布は、弥生時代に波及しなかった東北や南九州を除いて概ね重なることが理解される。更に第 1 図で挙げた史料の残る地域、「卜部」「占部」の確認できる地域の分布ともほぼ符合することが注目されよう(第 3 表も参照)。即ち、弥生時代に卜占風習が定着した地域では、古代以降も基層文化のレベルで連綿と存在し続けていたのである。
1)素材
シカの肩胛骨は、日本列島に卜占風習が伝来した弥生時代から素材として使用されており、古墳時代中期以前に帰属する第Ⅰ~Ⅳ形式では中心となる卜占素材である。動物種としては、シカのほかにイノシシも使用事例が多い 21)。第Ⅴ形式では、出現期である古墳時代後期には、東日本を中心に少なからず確認される(第 4 図 7)22)。
旧国名 卜部・占部の存在 史料・神事の存在 卜骨
第 3 表 卜占風習存在地域対応表(●=ト甲)
奈良時代以降では利用は低調であるが、前段階での様相からすれば、貫前・御嶽・阿伎留の各神社での肩胛骨を利用する神事は、肩胛骨を多用していた東日本の伝統を継承するものと位置付けられよう。
亀甲を用いる事例は、第Ⅴ形式に限られ、この形式は亀卜を第一義としたものであったと理解される。ト甲が出土したのは、印内台遺跡群(下総)23)・鉞切遺跡・間口洞穴・浜諸磯遺跡(以上、相模)・串山ミルメ浦遺跡(壱岐)・志多留遺跡(対馬)の 6 遺跡であり(第 4 図 3 ~ 6)、この他に由比ケ浜中世集団墓地遺跡(相模)においても、焼灼はないものの平板に加工された亀甲片が出土しており、ト甲との関連が想定される〔笹生 2006〕。古墳時代後期~平安時代の卜骨は他の地域でも出土しているが、ト甲の出土は房総・三浦半島、壱岐・対馬のみであり、三国卜部の出身地(伊豆・壱岐・対馬)とほぼ符合する。即ち、亀卜をおこなっていた集団が卜部として朝廷に任用された結果であり、他の集団との差別化がなされたと考えられる。
第 4 図 出土卜骨・卜甲
古墳時代以降の東日本ではこの他、ウシ・ウマの肋骨が素材として多用されるが、これは先述の『令集解』卜兆条での「伴記」の解釈と符合する様相である。
2)事前の整形
事前の整形としては、素材を平板にする行為が認められる。史料にみえる脂肪分の除去・乾燥などの行為も、当然存在したと考えられるが、現段階では認識されていない。
シカの肩胛骨では、肩胛棘など突起部を除去する手法(ケズリ)がある。これは弥生時代中期後半に西日本で出現し、後期末~古墳時代初頭には北陸や南関東、更には全面焼灼法の分布範囲ではあるが北海道(貝取澗 2 洞窟)にまで波及している〔右代ほか 1992〕。北浦弘人氏は、青谷上寺地遺跡の出土事例を、削る範囲や技術から、A ~ D の大きく 4 パターン(亜種を含めて 6 パターン)に分類された〔北浦 2004・2008〕。このうちケズリ D は、肩胛棘などを根元から除去しており、肩胛骨の全面を焼灼対象にすることが可能になったという点で画期的であり、古墳時代の第Ⅲ・Ⅳ形式の成立基盤となる。第Ⅴ形式での肩胛骨も、鑽の作出に先立ち、肩胛棘の除去をおこなっている。
亀甲では、両面を削平し、厚さ数 mm ~ 1cm 程度の薄片へと加工している。
続いて、町(神澤氏の表現では「鑽」)の設定がある。神澤氏の分類では、第Ⅲ形式で粗雑な不整円形の鑽、第Ⅳ形式で整美な円形の鑽、第Ⅴ形式で方形の鑽を指標としているが、考古資料と文献史料・民俗資料を関連付ける上で注目すべきは、ト甲を伴う第Ⅴ形式である。鑽は、最終工程として鑿などにより縁辺を整美に仕上げる。卜骨も含めてその形状をみると、古墳時代後期、即ち出現期に該当する時期では、鑽の縦横比が 4:5 程度と方形に近いものであるのに対し、7 世紀後半~ 8世紀前半(=奈良時代前半まで)では縦横比が 2:5 前後と横長の長方形となる。8 世紀後半以降も同様に横長長方形の鑽を主体とするが、鑽の縁辺の加工が粗雑となり、隅丸長方形に近いものも出現している。ただし、所謂第Ⅴ形式の分布は、古墳時代後期までは西日本では壱岐・対馬、東日本では東海(遠江・駿河)、中部高地(信濃)・南関東(相模・安房)、東北(陸奥)と広範囲で確認されている一方で、奈良時代以降の資料は東海(遠江)・南関東(相模・上総)および東北(陸奥)に限定されており、横長長方形の鑽は東日本で独自に発展した手法であるとの位置付けも可能である。
ここで鑽の形状について文献史料に見えるものと比較すると、文献に現れるものの多くは方形、或いは縦横比の小さい長方形である。対馬をはじめとする出現期の卜骨・ト甲で確認した鑽の作出の方法が、卜部による亀卜の独占に伴って宮中で採用される一方、在地では独自の手法が定着していった結果とみることができよう。
3)焼灼
鹿島神宮や御嶽・阿伎留神社の卜占は、骨を直接加熱することから、新田氏のいう「全面有灼法」に該当する。この分類は考古資料では確認できない。いずれの神事も、その起源を中世以前に遡らせるだけの根拠も無いため、後世に出現した方法と見倣すしかない。
弥生時代の卜骨は、神澤氏の第Ⅱ形式では焼灼した面(灼面)と占断した面(卜面)とが同一面であるものを指標とするが、近年では灼面と卜面が異なるものも西日本を中心に多く確認されている。貫前神社の鹿卜神事は、錐を用いて焼灼するという手法は特異であるが、大きくみれば神澤氏の第Ⅱ形式に該当する。焼灼痕の配置に規則性は看取できず、多数の焼灼痕を残すことに主眼がある。
新保田中村前遺跡(群馬県高崎市・第 4 図 2)や生仁遺跡(長野県千曲市・第 4 図 1)など北関東や中部高地での卜骨が、同一面に多数の焼灼痕が残るという点では共通する。
亀甲を用いるもののうち、『新撰亀相記』や『対馬国卜部亀卜之次第』によれば、ト・ホ・エミ・カミ・タメの五兆を刻み、ト(下方)からホ(上方)へ、続いて中央→カミ(左方)、中央→エミ(右方)という順序で指火具を押し当てていったという。一方、第Ⅴ形式の卜骨・ト甲での焼灼痕の多くは、鑽の底に「十」字状の焼灼痕が残る。これは先端の細い指火具を上下・左右に移動させた痕跡、と理解することが可能である。十字(四方向)が 字(五方向)となった背景には、陰陽五行思想の影響があろう。平安時代の貴族の日記である『江家次第』においても五行と五兆との関係性が考察されている。なお、印内台遺跡での事例(第 4 図 6)のように、「十」字状の焼灼ではなく、鑽の中央に押し当てただけのものもあり、卜占の手法も一通りではなかったのである。
まとめ
文献史料にみえる素材の選択から整形、焼灼に至る過程を、考古資料とも比較して概観してきた。
手法は、亀甲を用いるものとシカの肩胛骨を用いるものとで、列島に伝来した時期の違いもあって、大きく異なることを確認した。卜占手法の変遷については、以下のような図式を描出できる。
①弥生時代に、肩胛骨を主たる素材とする卜占風習が伝来し定着していく。肩胛骨の突起部を除去する整形手法なども確立する。分布は東日本で特に多く、肩胛骨利用の手法はその後も存続していく。
②古墳時代後期に亀卜の手法が伝来し、7 世紀までの間に作法が確立し、国家にまで採用されるに至る。
③ 9 世紀以降は形式化が進む。考古資料の面では、不整長方形の鑽を刻むもの(第 4 図 8)、亀甲の代わりに薄板を利用したもの 24)が出現するなど粗雑化が認められる。文献史料からみても、次第に鑽(町)を刻む手法が墨書に変わるなど簡略化されていく。御体御卜での卜占内容をみても、中世の『宮主秘事口伝』の段階では相当に形式化されていることが、史料の検討から確認されている(安江 1979)。即ち、国家での卜占をみても順次規模が縮小していくことが了承されよう。
地域的には、東日本で骨中心、西日本で甲中心という大枠での地域差は見出せる。
ただ、記録に残る卜占と出土卜骨・ト甲との間には、中世段階での証左がほとんど無いのが現状であり、何処まで関連づけられるかは課題が残る。また、全面焼灼法の存在も、考古資料の上では本州では認められず、その起源も不明である。このほか、卜部による卜占の実態、他の神祇信仰や陰陽道との習合の状況、など考古学・文献史学両面から追究していくべき課題は多い。
註
1)御体御卜について、『古語拾遺』難波長柄豊前朝条(=孝徳朝)には「白鳳四年に、…(中略)…神官頭〔今の神祇伯なり〕に拝し、叙して王族と宮内との礼儀・婚姻・卜筮の事を掌らしめき。夏・冬二つの季の御卜の式、始めて此の時に起れり。(後略)」〔沖森ほか 2012〕とあり、白鳳(=白雉)4(653)年頃には開始されていたと思われる。『日本書紀』天武天皇朱鳥元年六月十日条でも「卜二天皇病一祟二草薙剣一」という記事があり、日付からみて御体卜である蓋然性が高い。これらの史料から、7 世紀後半には確立していたと考えられる〔安江 1979〕。
2)奥書によれば、卜部遠継の手により天長7(830)年に成立したとされる。甲~丁の 4 巻が伝来するが、当初から存在したのは甲巻のみで、他は後世に追加されたものと考えられる〔工藤 2005〕。以下、本書を引用する際は、沖森卓也・佐藤 信・八嶋 泉(編著)2012「新撰亀相記」『古代氏文集 住吉大社神代記・古語拾遺・新撰亀相記・高橋氏文・秦氏本系帳』)による。
3)吉田(卜部)兼豊の手になり、康安 2(1362)年との記載がある〔安江 1979〕。以下、本書を引用する際は、安江和宣校訂「宮主秘事口伝の校訂と研究」『神道祭祀論考』神道史学会による。
4)沖森ほか 2012。
5)『延喜式』は『新訂増補国史大系』による。以下同じ。なお、志摩国からは年に 12 枚が斎宮へ貢納される。
6)「大嘗祭国郡卜定」(寛延元(1748)年 8 月 25 日)。鳥越ほか 1990『大嘗祭史料 -鈴鹿家文書-』所収。
7)『常陸国風土記』香島郡条。秋本吉徳校注『日本古典文学大系 2 風土記』による。
8)『御ものいミ由来略』(『神道大系』神社編 22「香取・鹿嶋」)。物忌職の起源や祭祀に関して記したもの。
9)『貫前神社御祭典行事私記』(明治 10 年頃成立)。
10)一説には、明暦~万治年間(1655 ~ 1660 年頃)には存在していたという。
11)『神伝鹿卜秘事記』は、国文学研究資料館の「所蔵和古書・マイクロ / デジタル目録データベース」のうち「西尾市岩瀬文庫画像一覧」において、画像が公開されている。
12)『令集解』職員令神祇官卜部条。『令集解』は『新訂増補国史大系』による。以下同じ。
13)『古事談』第 6「亭宅諸道」(『新訂増補国史大系』18)。なお、異なる底本によっては「下人」を「卜人」としているようで、『正卜考』においても「卜人」としている。いずれにしても伊豆諸島に卜占の技能を有する者が多かったのは事実であろう。
14)鎌倉時代後期頃の成立と考えられる。『三宅記』(内閣文庫蔵本(太政官文庫旧蔵本))、『異本三宅記』(無窮会神習文庫蔵本(井上頼圀旧蔵本))は、『神道大系 神社編 16 駿河・伊豆・甲斐・相模国』による。なお、『正卜考』では「白浜縁起」として
紹介される。
15)『正卜考』第 1 巻。
16)『対馬亀卜伝或伝』、島田氏はこの亀について、クサガメではないかと想定しておられる〔島田 2006〕。
17)武蔵国ではこのほか、豊島郡卜方神社でも卜占がおこなわれていたという(『正卜考』)。
18)『令集解』神祇官卜兆条。なお、多数派の学説は、「卜」を焼灼する行為、「兆」を「縦横之文」、即ち町形と解釈している。
19)「亀卜秘術」(『神道集成』巻第 5)。『神道大系 首編 1 神道集成』による。占断の内容としては、「敵」「味方」「弓箭」など戦に関わる辞が多く認められることから、戦国時代頃の成立ではないかと考えている。
20)ト甲ではないが、柏谷横穴群(静岡県函南町)の D2・D11K 号横穴では亀甲が出土しており、特に D11K 号では 100 枚以上の亀甲が床面に敷かれたような状態が確認されている。報告書〔静岡県 1975〕では被葬者を占部と想定する。
21)波形早季子氏に拠れば、シカとイノシシの肩胛骨の利用形態は、量的比では 3:1 前後である。東日本と西日本で大きく異なり、西日本でイノシシが、東日本ではシカが過半数を占めるという〔波形 2009〕。
22)古墳時代後期における肩胛骨(シカ・イノシシ)を利用した卜骨は、管見では神明原・元宮川遺跡(駿河)、生仁遺跡・屋代遺跡群(信濃)、鉞切遺跡・日向遺跡(相模)、沢辺遺跡(安房)、山王遺跡八幡地区(陸奥)で認められる。特に山王遺跡八幡地区(第 4図 7)では、170 点以上の卜骨が報告書で図化されているが、その半分を肩胛骨が占めており、卜占素材として重視されていたことが窺える。
23)印内台遺跡群(21 次)の 4 号竪穴住居跡では、50 点以上の卜骨・ト甲が出土している。報告書〔船橋市 1998〕では動物種・部位の同定はなされていないが、笹生衛氏により数点のト甲(動物種は不明)が存在する可能性が指摘されている〔笹生 2006〕。筆者も実見させていただいたが、亀甲であると判断した。
24)敷領遺跡(鹿児島県指宿市)では、9 世紀代の包含層から五角形の鉄製品が出土している。板状のものを入れる容器であるが、その規模が大嘗祭でのト甲とほぼ同一であること、付着する木質の状況から町の存在が想定されること、などから、実際の亀甲ではなく、代用として木片を利用した卜占の存在した可能性を想定しておられる〔下山 2003〕。
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