秋の空

Facebook池内 秀暢さん投稿記事

人は、ややもすると自分の不具合のところに意識が行きやすいものです。特に女性には、その傾向が強くあります。

自分の身体を主観的に見つめるとき、ついつい不快なところに意識が行きやすいですね。

頭が痛い・・・肩が凝っている・・・・足が冷える・・・などなどです。

多くの方々が、このような方向に自身の身体を見つめる習慣をお持ちのように感じます。

こういった不快なところに意識を向ける習慣は、自身の体だけではなく、外部を見るときにも、そのような傾向の特性を持った「習性」となるように思います。

自身にとって、不快に感じることのほうに意識が向きやすくなってしまうのです。

つまり・・・・ストレスを生み出しやすくなるという事です。

天気を例にとると、四国地方は今週の月曜日あたり、とても寒かったと思います。

その時は寒い寒い・・・といいながら、体をすくめているのですが、ここ数日間は、とても気持ちのいい天気で、過ごしやすい日々です。

しかし・・・今日はいい天気で温かく気持ちがいい!!と・・・口にする方は少ないものです。

このような心の感じ方は、ネガティブなものに対して敏感に反応するが、快適性を促す「快」についての意識の向けどころに対しては、鈍化しているのだと思います。

これは、現代生活が非常に快適性が高まり、快適が当たり前となり日常化しているという事も関係していると思います。

私は快適・安全・便利すぎる生活に警告を鳴らしている立場の人間ですが、このような生活が、現代人の意識の在り方、または意識の向かう方向に影響を与えていると洞察しています。

身体も同様で、不具合があるところばかりに意識が行き、ネガティブとなる。

とくに、ご病気の方は、不安が心を支配していくかもしれません。

しかし、よくよく身体内部を見渡すと、昨日より…あるいは、1週間前より、「快」を感じさせるところがあるのではないでしょうか?

不具合な症状を抱えているときに、その症状が強く出ているときと、そうでないときがあります。

①症状が強く出ているときだけに「今日は苦痛だ」

と、考えると → あれがいけなかったんだろうか? これがいけなかったんだろうか? と、次なる思考が生まれる。

②症状があまり出ていないときに、「今日はいつもより調子がいいな」 → これがよかったんだろうか? あれがよかったんだろうか?

と思考が進む。 どちらが自身にとってプラスでしょうか?

前者は、行動の抑制につながり、後者は行動の促進につながる。

もちろん、やってはいけないことを自制することは有益ですが。

また、「不快」な方ではなく、「快」のほうに敏感に意識を向けてやる。

症状が軽くなるという事は、体の・・・あるいは心の・・・影響かもしれないし、環境かもしれないし、自己の中の内なる自然が働き、良能効果を出しているのかもしれない。

ここに、症状をなくしていくヒントを見いだせることもあるのではないでしょうか。

自身の身体を見るときに、症状が強く出ている時だけではなく、症状が低下している時にこそ、強く意識を働かせてはどうでしょうか?

また全身に意識を巡らせて、主観ではなく、客観的な意識で見つめてみてはいかがでしょうか?

そうすると、足に力が入りやすいな…・声の出がいいな・・・・背筋が伸びているな・・・呼吸がしやすいな…と、いろいろと良いところも見いだせると思います。

自身の身体と向き合うとき、このように「快」の部分を感じて、見つけ出す意識を使うと、様々な利点があると思います。

大きな利点は、日々の目の前で起こってくる現象。 その中で、大なり小なりのストレスがあると思いますが、「不快」のほうに意識が向きやすい方は、ストレスが多くなりますし、「快」の方に意識が行きやすい方は、ストレスが小さくなります。 

 いや・・・むしろ、「快」の感覚を、より多く感じるようになり、人生そのものが「明るく」なると思います。

このような意識の向けどころの習慣が、プラス思考・ポジティブシンキングを生み出す、トレーニングにも役立つと思います。

そうすると、人生も前向きとなり、ストレスもあまり感じなくなりますので、ストレスマネジメントにも役立ちます。

是非、自身の身体を見るときに、意識の向けどころに注意していただき、物事がよい方向にあるときに、意識が向くような習慣をトレーニングしていただきたいと思います。


https://diamond.jp/articles/-/77678 【本来は「男心と秋の空」だった!?~秋のことわざを探究する】より

 さて今回は他の4つの「秋のことわざ・慣用句」を吟味してみましょう。

 ●暑さ寒さも彼岸まで ●秋の日はつるべ落とし ●女心と秋の空 ●一葉知秋

なぜ「暑さ寒さも彼岸まで」なのか?

 ここでの「彼岸」は、春分の日と秋分の日ということにします(*4)。2015年だと3月21日と9月23日がそれに当たります。昼夜の時間がほぼ同じ日です。

 暑さ寒さも彼岸まで、の意味は「彼岸までには過ごしやすい気温になる」「残暑は治まり、余寒は和らぐ」というので、確かめてみましょう。

東京での過去30年間の「日別気温」で、見てみます。

[出所]気象庁データより三谷作成

 春彼岸の頃、われわれは「暖かく過ごしやすくなった」と感じます。でもそれは最高気温がようやく14℃に達したくらいで、最低気温は5℃に過ぎません。

秋彼岸の頃、われわれは「もう涼しくなって暑くはない」と感じます。最高気温が25℃で春より10℃以上も高く、最低気温は18℃で春の最高気温より高いというのに。

真の「体感」温度は(気温や湿度・風速だけでなく)、「それまでの慣れ」からも来るということなのでしょう。体感とは面白いものです。

*1 劉邦が項羽との戦いに勝って、BC206年に建国した。7代武帝のとき全盛、匈奴を打倒した。8年に滅ぶが光武帝によって25年、再興。これを後漢と呼ぶ。

*2 詩にしたのは、初唐の詩人 杜 審言(と しんげん、645~708)。杜甫の祖父。

*3 高積雲は2000~7000メートル。

*4 実際には春分の日、秋分の日を中日とした前後7日間。

なぜ「秋の日はつるべ落とし」なのか?

 最近は死語かもしれません。つるべ(釣瓶)がわからないので。縄や竿の先につけて井戸の水を汲み上げる桶(おけ)のことです。手を離すと、ストーンと井戸の中に落ちていってしまいます。

 だから意味は「秋の日は短くすぐ日が暮れてしまう」……ではありません。それなら12月の冬至の日が一番「つるべ落とし」のハズ。ここでも問題は「なぜそう感じるか」ということでしょう。

では改めて、秋の日没はなぜ早いと「感じる」のでしょうか?

 きっとそれは、秋が「日没時刻がもっとも急速に早くなる時期」だからでしょう。

[出所]気象庁データより三谷作成

 夏至から冬至にかけて、日没時刻はどんどん早くなっていきます。その変化率は1日で1分20秒程度。秋の日没は1週間で9分以上早くなっているのです。春、それが5分ほどなのに比べると倍近くの違いです。

 秋の日はつるべ落とし。秋の日没はどんどん早くなります。ほんの数日で、明るかった帰宅時間が薄暮(*5)になり、さらに夜となっていきます。

 ヒトは今の絶対値ではなく、ちょっと過去との「差」に反応する生き物なのです。

*5 陽が沈んでから暗くなるまでの時間を黄昏時(たそがれどき)、その間の明るさのことを薄明もしくは薄暮と呼ぶ。明け方のそれは払暁(ふつぎょう)。戸外活動に支障のない常用薄暮は25~30分間続くが、これも春・秋が一番短い。

 次は「女心と秋の空」です。女性の恋心や感情、趣味趣向が頻繁に移ろいやすいことを、変わりやすい秋の空模様とかけている表現です。

 でも、もともとは逆でした。明治になるまで「女心と」という表現は一般的ではなく、「男心と秋の空」が中心だったのです。

 室町時代の狂言『墨塗』には「男心と秋の空」という台詞があるそうですが、なんとその2つは「一夜にして七度変わる」というのです。他にも「男の心と河の瀬は一夜にかはる」なんて表現も。なんだか散々な言われようです。

 かと思えば、かの小林一茶自身、変りやすい自分の心を秋の空にたとえて「恥じやおれが心と秋の空」と詠んでいます。そんなもんでしょうか……。

ところが、これが明治の頃から変わってきます。AllAbout「暮らしの歳時記」から引用します。

“明治時代の尾崎紅葉の小説『三人妻』に「男心と秋の空」がでてきますが、「欧羅巴の諺に女心と冬日和といえり」と続きます。おそらくこれは、イギリスの「A woman's mind and winter wind change often」(女心と冬の風)ということわざのことで、強風や弱風に変化しやすい冬の風を女心にたとえたもの。”

欧米の慣用句に多い「女心の移ろいやすさ(*6)」を紹介しているのですが、ここで対句となっているのは、冬の風、であって秋の空ではありません。女心を秋の空に見立てた慣用句は海外に見当たらないようなので、そこの部分は日本の創作なのでしょう。

 この「女心と秋の空」は、大正デモクラシー以降、一般的にも使われるようになっていきます。ただこれが単純に「女性の地位向上」や「道徳観の変化」の故なのか、はわかりません。そこにはどんな真実が潜んでいるのでしょうか?

*6 「風と女と運は月のように変わりやすい」(スペイン)、「移ろいやすいもの3つ ─ 女、風、富」(ヒンディー語)、「女と天気ほど変わりやすいものはない」(ルーマニア)など。

一葉知秋(一葉落ちて秋を知る)

 一葉知秋(一葉落ちて[天下の]秋を知る)の一葉は梧桐(アオギリ)の葉です。中国南部原産の落葉高木で、葉の黄変が早く、8月末には一部の葉が色を変えて落ちたりします。

「どんなに暑くとも、落ちた梧桐の葉1枚を見れば、この世に秋が来ていることがわかる」という意味なのですが、そこから少し転じて、未来への予兆、特に滅びの予兆を知る、といった意味に使われたりします。

 でも、もともとは予兆という意味はなく、「手近なものから遠いものを、小さなものから全体を、推察・推論できる」ことを言っています。その事例のひとつに過ぎません。

 前漢 武帝の頃、淮南(わいなん)王 劉安が学者を集めて編纂させた思想書『淮南子(えなんじ)』が元です。

 ●鍋の肉の味は、全部を食べずとも一切れをなめればわかる

 ●空気の湿気は、炭と羽毛(*7)を秤にかければわかる

 ●瓶の中の水が凍っているのを見れば、寒くなったことがわかる

「小さな事象から、ものごとの大きな根本を悟ることができる」のです。

 秋の空が高いと感じるのは、空が晴れているからでなく雲が高層にあるからでした。暑さ寒さも彼岸までと感じるのは、絶対温度ではなくそこまでの気温との差の故でした。秋の日がつるべ落としなのも同じ。どんどん日没が早くなっていくその差にヒトは反応していました。

 一葉知秋。地面にこれまでにない紅葉・黄葉を見つけたら、顔を上げ、周りを見渡して風景を味わいましょう。そしてそこに潜む意味や理由を、探究するのです。

 先日、家の近くの道で見つけたのは、色づいた桜の葉っぱでした。

 見上げるとその大樹はまだ青々としていましたが、所々もう紅葉しているものも。この原稿は、そんな1枚の葉っぱから始まっています。

*7 炭は空気中の湿気を吸収して重くなるが、羽毛は湿気を寄せ付けないから。

参考サイト・図書

・「日の出入りと南中」暦wiki(国立天文台)

・「過去気象データ検索」気象庁HP

・「黄昏時の長さ(薄明の話)」暦と天文の雑学

・「《辞書を読む》男心と秋の空」素人学者の譫言(うわごと)

・「世界ことわざ辞典」北村孝一編(東京堂出版)

・「故事ことわざ辞典」

・「中国故事物語」河出書房新社

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