https://www.sankeibiz.jp/express/news/160117/exg1601171430003-n1.htm 【タオイズムを呪術化した道教の世界 太極・陰陽・五行・気・道士・神仙・風水・奇門遁甲 松岡正剛】より
道士や方士がいる。護符や巫咒(ふしゅ)を重んじる。五嶽を崇め風水を展示して、太極に回帰する。ときに五斗米道や太平道を謳った。「タオイズム」といえば無為自然の老荘思想を含むけれど、「道教」というともっと呪術的であり、衒学(げんがく)的だった。
吉岡義豊さんに道教を教えられ、すぐにぞっこんになってアンリ・マスペロを読み耽り、「遊」で道教を特集した。ジョセフ・ニーダム夫妻(夫人が中国人)に現代の科学技術の目から見る道教の凄みを解いてもらったときは、目を洗われた。その後、道教というものは神仙タオイズムと陰陽タオイズムに分けてさかのぼってみたほうがいいと思って、けっこう二つの系譜を追った。そこには五行や易学や奇門遁甲や錬丹術が絡まりながら噴き出ていた。壮観だった。
すべては「道(タオ)」をめぐってはいるのだが、そこには北斗崇拝・山岳信仰・蓬莱山幻想・鉱物フェティシズム・清談思想が派生して、道教を一筋縄ではいかないものにした。道教の神々も階層性がない。陶弘景は『真霊位業図』で元始天尊を最高位においたけれど、ほかに太上道君や霊宝天尊や太上老君も並んできて、さらに関帝(三国志の関羽)なども加わって、神々は乱舞することになったのである。
それでも道教の根本に「気」があることは一貫してきた。道教は「元気」と「玄気」を問う身体哲学であり、「まじない」や「おはらい」を重視する民間信仰であり、自然界にエネルギーの流れを読む観天望気のタオ・マジックなのである。ぼくは詳しくないけれど「接して漏らさず」を極上とした閨房術や性愛術にも長けていた。
とはいえ、屈原や李賀や李白の漢詩を読むにもタオ感覚は欠かせない。ぼくは中国を儒教や仏教だけで見るのは気がすすまないのだ。のみならず日本の神道や岡倉天心の茶の思想にも道教の霊気が入りこんでいることも感じたいほうなのだ。
「気」の概念は古代中国の根本哲学である。すでに『春秋』左伝に「陰・陽・風・雨・晦・明」の6つの天の気が論じられ、『淮南子』に「神気・生気・合気・望気」が、孟子に「浩然の気」が論じられた。これらの気の源を「道」や「太極」だとみなしたのがタオイズムであり、道教だった。道教研究には「気の思想」は欠かせない。それなのに「お元気ですか」を交わすくせに、日本人には「気の正体」がわかっていない。
ふつうタオイズムは、老子と荘子に発して「道」や「無為自然」を謳ったものと見られているが、実際の歴史上の道教は教団や道士によってかなり神秘主義的な装いと方術を展開してきた。そこにはタオカリグラフィを駆使した護符や、偽経をものともしない呪法が乱舞した。本書は吉岡義豊らの先駆的研究を継承して、初めて道教の歴史的な変遷と実態を通観したもの。話題の3冊だった。
最も新しい見方で道教世界を案内してくれるシリーズだ。1「仙境往来」、2「道法変遷」、3「老子神化」、4「飛翔天界」、5「神仙幻想」という構成で見当がつくように、けっこうタオイズムの独特のセンスに分け入ろうとして執筆されている。たとえば1の田中文雄の「仙境往来」はトポグラフィとしての桃源郷モデルの変遷を追ったもの、5の土屋昌明「神仙幻想」は玄宗皇帝が希代のタオ皇帝だったことを劇的に証しているものだ。どぎまぎさせる5冊だった。
父君がエジプト学者で、本人はハノイの極東学院に入ってコレージュ・ド・フランスの中国学者になった。主著の『道教』は、わが国では幸田露伴の『論仙』と並んで長らく古典的な名著だった。このなかでマスペロは道教を「神々を人間に近づけ、ついに体の中にまでとりこんだ宗教」だとみなした。不老不死に徹した道教が異様だったのである。『道教の養性術』(せりか書房)の翻訳もある。昭和3年に来日して3年滞在したのが日本道教学の基礎になった。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)
http://blog.livedoor.jp/mikio1216_52/archives/33418594.html?ref=head_btn_prev&id=4968465 【断章IV 1514 (タオイズム〈道教〉の流儀)】より
「タオイズムは努力しない」とはどういうことでしょうか。
タオイズム(老荘思想)と仏教や禅は深い関係にありますが、仏教では例えば五戒(ごかい「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」「不妄語」「不飲酒」)といわれる戒律があったりするのに対して、タオイズムはそのような戒律的なものはなく、むしろ不自然な足かせをはめることを嫌うのです。
また努力しなければできないようなやり方は、タオ的ではないと考えます。
座禅
しかし、努力も勧めないし、「無為」などといった訳のわからないことを唱えるタオイズムは、何も動こうとしないで、怠惰にだらだらしていることを説いているのではないかと思われるかもしれません。
タオイズムが勧めるのは、たしかに努力がなくシンプルな無為で人生を送るということです。
それは、言い換えれば自然(タオ)から外れた、人為的なことを排除してシンプルな自然さを取り戻すということです。
老子は、タオの道は広く平らなで歩きやすい道であると表現しています。
そして、「けれども、人は広い真ん中を通らずに横道を通りたがるのだ」という意味のことを言います。
道を歩くということに例えれば、タオイズムが唱えるのは、広い道を一歩一歩堅実に歩むことです。
それは地味で堅実なあゆみであって華々しさはないでしょうが、しかし確実なあゆみなのです。
そして、一歩足を踏み出せば、次の一歩足を踏み出すという繰り返しは、自然な動きであって努力のいらないものだと考えるのです。
例えば、私たちは身体の内部で、胃や腸といった内臓がどのような働きをしているのかを意識しません。
それは、確実に動いていなくては困ることですが、しかしそれを意識したり、努力して動かしているとは考えないでしょう。
また、少し特殊なのは、呼吸です。
同じように無意識に働きもしている呼吸という活動ですが、意識して呼吸しようと思えば、それもまたできるのです。
そのような唯一とも言える意識して制御が可能な体の働きがゆえに、禅やヨーガやリラクゼーションなどではその働きを精神の落ち着きを獲得する導入に使うことを考えます。
ですが、意識してもできるけれども、呼吸も自然な働きのひとつであるといったほうがいいでしょう。
そして、一歩一歩あゆむという活動も、同じようにそれが自分の一部となってしまえば自然な働きになるのです。
他にも方法があるのではと、あれこれ目をそらして横道を歩こうとしなければ、ただ黙々と一歩一歩あゆむことは意識しなくていいほど自然なものとなってしまうでしょう。
そのような自然に任せる動きをすることは、努力してやることではないといってもいいでしょう。
そして自然な勤勉さに従うことは、努力であったり退屈なことではないのです。
それに対して、横道にそれたり、人為的な方法で楽をして進もうと考えるのはタオから外れたやり方であると考えます。
また一方で、歩き方に決まりを設けて「正しい歩き方」を守ろうとさせるようなことも、タオイズムの流儀ではないのです。
自然な働きが自分の一部となってしまえば、努力することもなく、簡単で気苦労もない歩みをすすめることができるのです。
その意味では一歩一歩進むという勤勉さも、ごく自然なことであって、わざわざ戒律を持ち出すようなこともないと考えるわけです。
「大道廃れて、仁義有り.... 道徳経第18章」というように、自然(タオ)から外れて道を見失うから、仁義や孝慈といったことを改めて持ち出さなければならないのだというわけです。
広い道を一歩一歩あゆむ。「千里の行も足下より始まる 道徳経第64章」
しかし、このような堅実な歩き方を面倒に思ったり、横道を探したくなるのも現実のようです。
一歩一歩堅実に歩くのが確実だと思っていても、なにかもっと早く進める方法があるのではないか、もっと楽に未来を約束してくれる妙法はないだろうかと考えたくなるのです。
そして現代の世の中はまさに、そのような楽な方法を探したり、誰かにそれを次々に見せられて右往左往しているといったイメージを持たないでしょうか。
私たちが日頃せっせと努力していることの多くが、横道を探すことだったり、刺激的で魅力的に見える新しいおもちゃを求めることだったりするのです。
真ん中の道を行くことは、退屈で魅力がないと感じがちです。
それと比べて未来を保証してくれるような、新しい未知のおもちゃは、あやしげではあってもひどく魅力的に見えるものです。
「簡単にできそうだし、努力も要求しないようだ。そして効果を高らかに保証している。」
同じことが続くつまらない日常から逃れるには、ちょっと覗いてみてもいいのではないかと思ったりするのです。
しかし、試してみたらそのような方法は結局効果がないし、元の木阿弥だったということになるのです。
こんなことなら、地道に歩いていれば少しは前に進めていたのにとその時は後悔するのですが、しばらくたつとすっかり忘れて「こんどこそ間違いないのでは」と希望的観測で動いてしまいます。
このような新しいおもちゃは、最初は魅力的に見えても、すぐに他と変わらないことに気づきます。
そして、やっぱり地道にやっている方が確実だったようだと思い始めるのですが、ここまで来たらひょっとしてもう少しで大当たりするのではないかと期待の方を信じたくなって残念な結果を見るまでやめられない。
「この不安を我慢して信じていれば、人よりもいい目を見られるかもしれない」
そんな考えに根拠はないのですが、人の射幸心をくすぐるのです。
またこのようなどこか正当さに欠けるやり方は、やっている間には不安がつきまとうし、終わったあともうまくいった、いかないに関わらずどこか後味の悪さを感じるものです。
いい加減に、横道にはうんざりしてきた。
もっと堅実で、余計な不安を持たないやり方に戻りたい。
そのような気になったら、シンプルなやり方に戻るのがいいでしょう。
歩く人シンボル
自然な働きにあわせて、堅実にありそうもない期待は持たずに進むやり方。
それを自分の一部としてしまえば、努力することもなく、簡単で気苦労もない歩みをすすめることができる。
それがタオイズムの流儀なのです。
そしてそのような理由から、タオイズムは努力を必要とするやり方をやめなさいというのです。
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