医は仁術なり

https://www.chichi.co.jp/web/20210127_ogata_kouan/  【医は仁術なり。無私無欲に感染症と闘った緒方洪庵に学ぶ】より

天然痘やコレラなど、幕末の日本で猛威を振るった感染症と闘い、医学史上に不朽の業績を残した蘭医学者・緒方洪庵。洪庵が開いた「適塾」は、福沢諭吉や橋本左内など近代日本を代表する人材を数多く輩出し、現在の大阪大学の源流になっています。医療を仁術として捉え、近年ではテレビドラマ『JIN -仁-』で人気を博した洪庵は、どのように天然痘と向き合っていたのか。感染症と闘うリーダーの姿勢とは。大阪大学適塾記念センター准教授の松永和浩さんのお話を抜粋してお届けします。

適塾を開いて以後、洪庵の歩みの中で特筆すべきなのは、やはり日本に疱瘡(ほうそう/天然痘)の予防接種を広めたことでしょう。

天然痘はウイルスによって空気感染しますが、発症すると高熱と全身の紅斑を生じ、実に2割から4割が死に至り、治癒しても顔などに痘痕が残るという恐ろしい感染症です。日本人も古来、天然痘に長く苦しめられ、「疱瘡が済むまで我が子と思うな」と言われたほどでした。戦国武将の伊達政宗が右目を失ったのも天然痘が原因です。

当時その対処法として、罹患者の痘痂(かさぶた)の粉末を鼻腔に植えつけ、免疫を獲得する「人痘種痘法」が行われていました。しかし、これは大変危険な方法で、感染・重篤化して死に至るケースが多くありました。洪庵も、町人のお婆さんから「孫にどうしても」とせがまれて人痘種痘法を行ったところ、その子が亡くなるという経験をしています。

そうした中、1849年に天然痘ワクチン(牛痘苗)がオランダ船によって長崎に到来します。これは1796年にイギリスの医師ジェンナーによって発見された「牛痘種痘法(牛から感染する牛痘のウイルスを人間に接種して天然痘の免疫を獲得する安全な方法)」に基づくもので、その説は19世紀前半に伝来してはいましたが、1849年に初めて日本において種痘が成功するのです。

それを知った洪庵は、さっそくその牛痘苗を手を尽くして取り寄せ、蘭方医の日野葛民、薬種商の大和屋喜兵衛に協力を仰ぎ、「大坂除痘館」を開設。大坂除痘館のための借家は喜兵衛が提供し、大坂町奉行天満与力の荻野七左衛門とその父・勘左衛門らも、資金面等から洪庵の活動を支えました。

その際の設立趣意書には、

「世上(せじょう)の為(た)メニ新法を弘(ひろ)むることなれハ、向来(きょうらい)幾何(いくばく)かの謝金を得ることありとも銘々己レか利とせす、更ニ仁術(にんじゅつ)を行ふの料とせん事を第一の規定とす」

とあります。この趣意書から、洪庵たちがいかに自らの儲けや名誉を考えずに、種痘の普及と人々の救済に取り組んでいったかが非常によく伝わってきます。

ところが、数年が過ぎた頃、「子供たちに有害だ」「治療を受けると牛になる」などという噂が巷間に広まり、除痘館には人が集まらなくなってしまうのです。それでも洪庵は決して諦めません。米やお金を渡して貧しい子供に来てもらったり、いまでいうチラシに当たる引札を配ったりしてワクチンが途絶えるのを防止しました。

当時の状況は、「其間社中各自の辛苦艱難(しんくかんなん)せること敢(あえ)て筆頭の尽くす所ニあらす」と記されています。

そうした苦難を乗り越え、洪庵たちの取り組みが幕府に公認されたのは1858年。大坂除痘館の設立から10年近い歳月が経っていました。そこには事業に懸ける洪庵の並々ならぬ熱意もさることながら、洪庵を支援する大坂町奉行の役人や商人の人的ネットワークの力も大きかったと考えられます。

その後、牛痘種痘法は大坂除痘館を拠点にして西日本を中心に広がりました。ちなみに種痘医の免許制度は、明治に実現する医師免許制度の原型ともいわれています。


http://www.watanabekai.net/ooaraikaigan/kaigan-toppage/kaigan-byoinshokai/%E7%90%86%E5%BF%B5 【理念】より

医は仁術

医療制度がいかなる変化になるとも、医の原点はあくまで患者さん側に立って一人の人間と医師との人間関係で成り立つことに変わりはないのです。

現在、しきりに言われるインフォームドコンセント、即ち「説明と同意」など、いまさらのものではなく医の原点に立ち返れば今も患者と医師の信頼関係あってこそ、真の治療ができるものと信じています。

たとえ高度な医療機械、医療技術があっても「医は仁術」が医療の原点である事は事実です。

私たちの病院は、この信念で地域医療の一端を担うつもりです。

「医は仁術」語源

「医は仁術」の語源について、中国明代の『古今医統大全』の記述からの引用が有力であると言われています。

陸宜(りくぎ)公(唐の徳宗の時代の宰相)の言葉に、

「医は以て人を活かす心なり。故に医は仁術という。疾ありて療を求めるは、唯に、焚溺水火に求めず。医は当(まさ)に仁慈の術に当たるべし。須(すべから)く髪をひらき冠を取りても行きて、これを救うべきなり」

とされています。

恐らく、これらを敷衍したと思われる貝原益軒の養生訓[正徳三年(1713)]では、

「医は仁術なり、仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし、わが身の利養を専ら志すべからず。天地のうみそだて給える人をすくいたすけ、萬民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命という、きわめて大事の職分なり」

「医となるならば君子医となるべし(中略)、君子医は人のためにす。人を救うの志専一なる也。(中略)医は仁術なり。人を救うを以て志とすべし。(中略)人を救うに志なくして、ただ身の利養を以て志とするは、是わがためにする小人医なり。医は病者を救わんための術なれば、病家の貴賤貧富の隔てなく、心を尽くして病を治すべし。病家よりまねかば、貴賤をわかたず、はやく行くべし。遅々すべからず。人の命は至りて重し、病人をおろそかにすべからず」

と説いています。


http://imai-naika.jp/index.php?%E4%BB%81%E8%A1%93%E3%81%A8%E5%A5%89%E4%BB%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6 【仁術と奉仕について】より  

小児科医 今井順二郎 

 豊臣秀吉の片腕と目された黒田如水、その長男の黒田長政は、筑前(福岡県)の藩主であり、始祖であって、五拾弐万石を領しておった。

 彼は施政にあたって、医師に対し「医は仁術なり。飢はしむべからず、富ますべからず」と云った。之は父よりの伝承である。江戸期を通じ「医は仁術」の言葉は一般に常識化して居った。

 当時、医師にならんと志す人は、先ず漢学の先生に弟子入りして、医は仁術の所以を学んで、充分漢学の素養を身につけてから、老医の門を叩き、改めて弟子となり、所謂秘伝秘法を伝授され、免許皆伝を得て医師となり、更に時の行政官たる大庄屋の承認を得て、開業医となる制度であった。

 従って、昔の医師は仁術を以って、基本となっておったから、医道の倫理は自然確立されて居った。

 福岡県宗像郡西郷村字上西郷に住んで居った今井養洛は当時の医師組合(現在の医師会に当る)の頭医であり、頭取医であった。彼の代官への報告文が、古文書として現存して居る。

「医は仁術にて人命をあずかり候へば、その任重く、同術相親しみ、物我の隔りなく、病因症見据えがたきは他人にゆずり、とかく病苦相救ひ申し候を専らに仕り・・・・・貧富の差別なく、施治仕り居り候」(安政三年、頭取医今井養洛組合医師中、お願い申し上ぐる口上の覚)

 当時の医師はお互に親しみ合い、難病の患者に対しては、自分の力の及ばぬ場合は、数人の医師の助力を得て救命に専心した。又貧富に拘らず患者に対し、最善の治療をした事を報告している。今から百数十年前の医師の姿である。

 明治七年に維新政府は、医師の制度を一変させた。「西洋医学、特にドイツ医学を採る。そして新たに開業せんとする者は、西洋医学による医師開業試験に合格せねばならぬ」と布告された。之を境に医師の基本となっていた「仁術」の倫理観は年と共にうすれ、今日の若い医師には遠い昔の語り草となってしまった。

 西洋医学は大正、昭和と代を経るに従い、よく普及し、又進歩同化し、その水準は先進国とおとらぬ様になった。昭和七年となり、職場をもつ労働者を主とした保険制度が生れた。その費用は資本の利潤の中から大幅に負担するものであった。一般に労働および雇用の契約の出来ない農村漁村の人々、及び市民の人々には国民健康保険が実施されるに至った。実に昭和十三年の事であった。

 之により世は名実共に国民皆保険となり病と云えば「保険証を」と云う程に今日は普及して来た。「人生僅か五十年」の嘆声は「人生七十有余年」となり、世界長寿国の仲間入りする程になったのは、医学の進歩によるものとは云え、保険制度の普及により、国民の早期受診による治癒率の向上によるものが大であると思われる。

 然し近時医療費の増大が目立ち、社会問題に迄発展する傾向にある事は医師として、大なる関心事である。その原因は種々あるが、その一つとして、薬剤の変遷があげられる。従来は局法品として、廉価で最も効果のあった品々が、製薬業者の利潤追求上の経済的理由から製造せず、吾々医師には入手出来ず、粉末は殆ど姿を消し、錠剤化するに至った。之のため、従来は一包の中に消化剤も強心剤も下熱剤(原文ママ)等々も含まれていたが、皆個々別々に錠剤として投薬せざるを得ず「薬づけ」「薬売り」の悪評を受ける心外な事態となっている。

 又診断に必要な医療器具も目覚ましく発達し、中には一器一億円以上のものも続出する有様である。之等の使用者は、その償還額だけでも大変な価格にのぼり、知らず知らず莫大な点数稼ぎをせざるを得なくなり、「医は仁術にあらず、算術にあり」の悪評を重ねるに至っている。医師たるもの、充分反省改心すべき事態である。

 私は一開業医として、曽祖父養洛の残した「医は仁術にて、人命をあずかり候へば、その任重く・・・・・貧富の差別なく施治仕り居り候」の一節を旨とし、地域医療に於いて、住民と医師団との間に結ばれた所謂「定礼制度」(農民の相互扶助精神により、医師団に一定額の米を渡し、医師団は貴賎の別なく無料で診察する)に従事した福岡の宗像の医師の如く、住民とともに先憂後楽の快を求めて、徹底した家庭医たらんと志向している。

 ~中略

 孔子の言行録である論語の中に、次の一節がある。樊遅(ハンチ)、仁を問ふ。子曰く「人を愛せよ」と(顔渕篇)以上の事から、仁とは、人を愛する事は、即ちひろい意味での愛である。愛という純粋な精神作用の中には、予め報酬、代償を求めたりはしない。ある程度のわが身の犠牲は覚悟せねばならぬ。

 また、論語にいわく-----子曰く、身を殺して以て仁を成すことあり(衛霊公篇)つまるところ、「医は仁術」という言葉の中には「医は愛、いつくしみの術である」とともに、次の内容を含んでいることは確である。

「医師は患者からの謝礼を、とやかく云ってはならぬ。謝礼、その他である程度の犠牲になる事は止むを得ない」と云うことである。

 さて、奉仕の根底にある思想は、キリスト教の博愛の精神である。従って、今孔子の教えをそのままあてはめて「奉仕とは、人を愛する事である。此れを実践するに当っては、多少の犠牲はやむを得ない」と考えても、些か差支えないと思う。奉仕は愛するなり。愛する事は仁なり。と私は考える。

 私は以上の如き私なりの考えで、生ある限り人々を愛し、即ち、奉仕し「よかれ」と思う事は勇気を持って実践しようと考える。

 最後に私は、医師となっている二児はもとより、医師の方々に「医は仁術なり」とは現時点に於いても、高らかに提唱し得る事を申し上げ、近時、医師に関する偏見誤解に対して、一般の方々の理解を得ると共に、医師の倫理の高揚を計らん事を、特に願う次第である。

 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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