昼顔

https://bunkyo.keizai.biz/headline/186/ 【千駄木で「ドクトル・リンタロウ」展 医学者としての森鴎外にスポット】より

石黒忠悳を迎えた医学留学生達

 千駄木の森鴎外記念館(文京区千駄木1)で現在、特別展「ドクトル・リンタロウ─医学者としての鴎外」が開催されている。

 明治の文豪として知られる森鴎外の医学者としての側面にスポットを当てた同展。日本近代医学の黎明(れいめい)期に医学者・森林太郎が学び、取り組んだことを自筆のノートや原稿、書簡などからたどる。

 同展は3つの章で構成。第1章の「林太郎の学び」では、少年時代から医学生、ドイツ留学時代の林太郎に焦点を当てて、医学者・森林太郎を形成した学びの一端を医学生・留学時代のノートなどからひもとく。

 第2章では「林太郎の取り組み」として、ドイツ留学から帰国後の林太郎がまい進した衛生医学の啓発活動を紹介。脚気(かっけ)論争としても知られる「日本食の研究」、衛生医学の観点から提唱した「市区改正」など、身の回りの問題から時事問題まで林太郎が一貫して取り組んだ衛生医学が垣間見える。

 第3章は、「鴎外における医学と文学」と題し、医学者・森林太郎を知った上であらためて文豪・森鴎外の「仮面」「ヰタ・セクスアリス」などの作品を再読する。

 同展担当者は「はじめは医学者が林太郎で、文学者が鴎外と思っていたが、展示を構成していく中で、時と場合によって両者が入り交じっているのが鴎外だと感じた。医学者としての鴎外の研究は文学に比べて少ない。これをきっかけに医学的な側面からも鴎外の研究が始まれば」と話す。


https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2012/tenji1.html 【若き鴎外】より

 このコーナーでは、ドイツ留学を終え、明治の文壇で華々しく活躍する以前の森林太郎に関する資料を取り上げる。この時期の鴎外については他の時期と同様、鴎外自身の手になる各種日記、作品等をはじめ、研究者等による多くの研究があり、詳細を知ることができる。ここでは年譜的に森林太郎の軌跡を辿ることにする。

 鴎外森林太郎は、文久2年(1862)1月19日(新暦2月17日)父森静泰(明治以降は静男)、母峰子の長男として石見国津和野に生まれた。鴎外の生年については、第一大学区医学校(後の東京大学医学部)の規則で入学年齢(14歳から17歳)に達していなかったため2歳上乗せして万延元年(1860)生まれとしたことはよく知られている。また鴎外は、終生津和野に帰ることはなかったが、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言したことは有名である。

 鴎外は、幼少の頃より漢学を学び、明治2年(1869)に入った津和野藩藩黌養老館では毎学年優等者として、賞品(書物)を授与されるほどの成績をおさめた。

 明治3年(1870)には、漢学を学ぶと同時に蘭方医学を学んだ父静男から『和蘭文典』でオランダ語を習い始め、以後も継続して学んだ。

 明治5年(1872)、父静男と共に上京し、藩主亀井氏別邸のある向島小梅村に落ち着く。10月にはドイツ語を学ぶため神田小川町にあった親戚西周宅に一時寄寓し、本郷壱岐坂にあった私塾進文学社に入学し、明治6年(1873)に退学するまで通った。

 明治7年(1874)、12歳で第一大学区医学校に入学し、明治14年(1881)、東京大学医学部を最年少で卒業した。医学を学ぶかたわら、父静男の患者だった縁で依田学海に入門し、正式に漢文を学んだのは学生時代のことである。鴎外の旧蔵書にはたくさんの漢文で書かれた書き込みがあり、展示資料1-9『経国美談』のように漢詩が書かれているもの、展示資料1-1『安政箇勞痢流行記』の識語のように複雑で長文の漢文が書かれているものなどがみられ、見事な腕前であることがわかる。

 卒業後、ドイツ留学を望むがかなわず、家庭の事情から陸軍に入り、軍医となった鴎外だが、陸軍から衛生学を修めるため念願のドイツ留学を命ぜられ、明治17年(1884)8月横浜港からドイツに向け、出航した。明治21年に帰国するまでの4年間をライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで過ごし、当時第一線で活躍していたホフマン、ペッテンコーフェル、コッホから最新の衛生学を学ぶ一方、洋書の収集と読書にも励んだ。展示資料1-16『Martin Luther's Leben』は、見返しに「1886年3月23日ミュンヘン」とメモ書きのある資料である。日付から推定するとミュンヘン到着後2週間足らずのうちに購入されたことがわかる。蔵書中には、他にも日付をメモ書きされた資料が残されており、留学中、盛んに洋書の収集を行っていたことがわかる。

 また鴎外文庫に残された蔵書印や署名から鴎外は生涯にわたり多くの号を名乗ったことがわかっている。最も有名な「鴎外」号は、『ドイツ短篇集』に残された書き入れからドイツ留学中に初めて用いられたものと考えられている。それ以前は、展示資料1-2、1-5-1、1-12に見られる「牽舟居士」などいくつかの号を名乗ったことが知られている。蔵書印は、現在鴎外記念館が所蔵するものだけで16種類あり、時期によって異なる蔵書印が使われており、本展示においても初期の頃から後期まで様々な蔵書印を見ることができる。鴎外文庫の蔵書に残されたこれらの署名や蔵書印を辿ることで鴎外が蔵書を収集したり、読書したりした時期を推定することができる。

クリックで拡大・安政箇勞痢流行記 1-1 安政箇勞痢流行記(あんせいころりりゅうこうき)金屯道人[著] [江戸] 天壽堂 安政5.9[1858][刊] 1冊

 安政のコレラ流行の際に、民間で数多く発行された啓蒙的な養生書のうちの代表的なものである。『転寝の夢』(幕末に西洋医学の伝習を行ったポムペ・ファン・メールドルフォールトによるコレラの対策法を記した本)をそのまま収録している。巻末に「安政虎列刺之行其事多不伝今僅獲此一書可以少考矣明治十二年牽舟居士」という書入れがあり、鴎外による入手が医学部本科2年時であったこと、明治10年代、既に入手困難な本であったことがわかる。論文『Beriberi und Cholera in Japan』(日本における脚気とコレラ)内で、当時江戸で刊行されていたパンフレットとして、注に挙げられている。本資料に押された「參木之舎(みきのや)」印は鴎外が若い頃に使用していた号である。また「橘井堂」は、父静男が千住に開業した医院の名前でそこで使用していた印を蔵書印として使ったと思われる。(山田、一部改編)

クリックで拡大・烏琴齋雜録1 

クリックで拡大・烏琴齋雜録2 1-2 烏琴齋雜録(うきんさいざつろく)

不操愛琴居士録著 [森鴎外自筆] 1冊

 鴎外による自筆写本。冒頭に「不操愛琴居士録」とあり、明治大正期の漢詩人大江敬香(愛琴)の作成したノートを写したものと思われる。初期の頃に使用されていた牽舟居士の原稿用紙に書かれており、鴎外が大学を卒業する前後に書かれたものではないかと考えられる。内容は前半が漢籍、歌書、仏書などからの抄録であり、『後漢書』、『頼豪』、『荘子』、『世事百談』などの書名が見られる。後半は、向山黄村著『游晃小草』、『祖父詠歌』、『こころのさる』などからの抄録であり、赤字で批点圏点が書き込まれている。

 なお、原稿用紙に印刷された「牽舟居士」の名の由来は、鴎外が住んでいた向島小梅村曳舟通りに由来する。(神田、一部改編)

クリックで拡大・小説神髄 1-3 小説神髄(しょうせつしんずい)

坪内逍遙 [東京] [東亰稗史出版社] 1885.3緒言 2冊

 坪内逍遙による文芸理論書。その論旨に対しては、今日まで様々な評価がなされているものの、小説の近代的意味と機能を論じたという点で、日本の小説史にとって記念碑的な評論であることは間違いない。鴎外の書入れは帰朝後、すなわち明治21年(1888)以降のものであろう。有名な一節である「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」の部分に、かぎ括弧で印が付されているほか、本文中には、「Fabel」「Drama」「Roman」「Tragödie」など、主としてドイツ語による20箇所の赤色鉛筆の書入れが上巻を中心にある。

 鴎外は、明治22年(1889)に、自身はじめての本格的な文学論文「小説論」(『読売新聞』明治22年1月3日掲載。全集22巻には「医学の説より出でたる小説論」として収められている。)を発表しているが、それも、この『小説神髄』を念頭において書かれたとされている。ただ、ゴットシャルの影響を受けた鴎外の「小説論」は、科学と文学の弁別を説くものであり、心理学に引きつけながら、小説の価値を主張しようとする『小説神髄』とは、一線を画するものであった。(神田)

クリックで拡大・昔話稻妻表紙 1-4 昔話稻妻表紙5巻(むかしがたりいなずまびょうし)

山東京傳編 歌川豊國繪 浪華 三木佐助 8冊

 江戸後期の戯作者山東京伝の読本における代表作。初版は文化3年(1806)だが、水野稔氏によれば、鴎外蔵のものは、明治刷。初冊巻頭に、鴎外の筆で「姓氏略目」を書いた和紙が折り込みで貼付されている。この「姓氏略目」には、「人名」以外にも、「図書」、「地名」なども含んだ固有名詞一覧が含まれている。「明治十七年五月十六日夜記」との書入れがあり、留学直前期、23歳での読書であったことが分かる。

 なおこの資料に押印された「医学士森林太郎図書之記」印は、鴎外が大学卒業後に使用したもので鴎外の蔵書中に残された蔵書印の中でも「森氏蔵書」、「森文庫」に次いで多く使用されている。(小谷、一部改編)

クリックで拡大・頼豪阿闍梨恠鼡傳引用群書要語 1-5-1 頼豪阿闍梨恠鼡傳引用群書要語(らいごうあじゃりかいそでんいんようぐんしょようご)

[森鴎外自筆] 1冊

 滝沢馬琴の読本『頼豪阿闍梨恠鼠伝』の各巻末につけられた猫と鼠に関する様々な用語を集めた同名の用語集を書き写したものだが、鴎外文庫に収められた同書(1-5-2)の記述内容と一部が異なる。またこの写本の最後には、「牽舟居士追録」として鴎外自身が資料から抜き書きしたものも収められている。題簽は「猫鼠集纂」。写本に使われた原稿用紙は、初期の頃に使われた牽舟居士の原稿用紙である。(神田、一部改編)

クリックで拡大・頼豪阿闍梨恠鼡傳1

クリックで拡大・頼豪阿闍梨恠鼡傳2 1-5-2 頼豪阿闍梨恠鼡傳(らいごうあじゃりかいそでん)

滝沢馬琴著 月岡芳年画 [東京] 滑稽堂 2冊

 この物語は、木曽義仲の子清水義高が頼豪から鼠使いの妖術を授けられ、父の敵である源頼朝を狙い、義仲に死に追いやられた猫間中納言の弟光実が義高を狙うという内容である。

 この本は、奥付が切り取られているため出版年を確認することはできないが、明治になって(おそらく明治16年頃)出版されたもので、オリジナルは文化5年戊辰(1808)に前編5巻、後編3巻で刊行された。オリジナルの挿図の作者は葛飾北斎であるが、鴎外文庫に収蔵されていない。(神田、一部改編)

クリックで拡大・唐宋八家文読本 1-6 唐宋八家文読本(とうそうはっかぶんとくほん)

(清)沈徳潛評點 東京 磯部屋太郎兵衛 1879.9 8冊

 明代の学者茅坤が編纂し、清代乾隆年間の詩人沈徳潜が選輯し評点を付した漢文集。唐の韓愈、柳宗元、宋の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏、王安石ら古文家8人の文を収録する。近世後期から明治期にかけてのわが国において、漢文学習者の手本として流布した。多数のドイツ語による注記がなされているほか、「富兵論」(巻五、蘇洵「韓枢密に上る書」に対する書入れ)、「言論自由」(巻八、曾鞏「孫司封に与ふる書」に対する書入れ)など、当時の社会問題に関係する言葉も記されている。(合山)

クリックで拡大・隔鞾論 1-7-1 隔鞾論(かっかろん)

鹽谷世弘著 [森鴎外自筆][1880.4] 1冊

 松崎慊堂の弟子であり、水野忠邦の家臣であった幕末の碩儒塩谷宕陰(世弘)の著書を鴎外が筆写したもの。初期に使われた牽舟居士の原稿用紙を使用しており、また末尾に「庚辰四月牽舟居士森林太郎書」とあるので、明治13年(1880)、鴎外19歳の時の書写と分かる。「論澳門居夷」、「同窟狐狸」、「論聖祖貽謀」、「論宣宗黜林則徐」、「論琦伊放俘」、「論清十敗」、「甘島犬」、「悪嶽狒」、「論耶教攻心」、「福神盗」、「論夷進漢学」の11章からなる。(神田)

クリックで拡大・隔鞾論 1-7-2 【参考資料】隔鞾論(かっかろん)

鹽谷世弘著 [江戸] 快風堂 安政6[1859]

 鹽谷世弘(宕陰)は、江戸時代後期の儒者。宕陰は号。文化6年(1809)愛宕山下に生まれた。ヨーロッパ諸国との交流から中国でアヘン戦争がおこったのに危機感を覚え、海防策の必要性を説く著作を多く著した。名文家としても知られる。

 この資料は、鴎外旧蔵のものではないが、参考資料として展示する。旧蔵者の島田篁村は、鹽谷世弘の弟子にあたり、幕末から明治時代にかけて活躍した漢学者で明治14年(1881)東京大学教授となった人物である。なお、この資料は南葵文庫旧蔵書である。

クリックで拡大・皋鶴堂批評第一奇書金瓶梅100回坿讀法 1-8 皋鶴堂批評第一奇書金瓶梅 100回坿讀法(こうかくどうひひょうだいいちきしょきんぺいばい)

著者不明・李笠翁批点 康熙4[1695][刊] 20冊

 著者不明・李笠翁批点『金瓶梅』は明代の長編白話小説で、中国四大奇書の一。日本でも、馬琴『新編金瓶梅』など、近世期から様々なかたちで翻案されてきた。

 本書は、鴎外若年時の愛読書であった。鴎外『雁』には、書生の「僕」が神田で「唐本の金瓶梅」を購入する場面があり、『ヰタ・セクスアリス』にも、文淵先生(モデルは依田学海)の机の下から、同書が覗く場面がある。書入れは墨筆、朱筆、青筆。第五十九回の欠落部分は、墨筆で全て補っている。ゴットシャルの小説論と李笠翁の論を対比する箇所など、小説観が窺える書入れも多い。『情史類略』、『石点頭』、『西青散記』といった、比較的短い説話集への書入れとは別に、長篇小説の読み方が窺える、貴重な資料である。(多田)

クリックで拡大・經國美談1 クリックで拡大・經國美談2 1-9 經國美談:齋武名士(けいこくびだん:せーべめいし)

矢野文雄纂譯補述 東京 報知新聞社 東京 丸善書籍店(賣捌) 1883.1-1884.2 4冊


https://mmikko6566.jimdofree.com/2012/09/17/%E6%A3%AE%E9%B4%8E%E5%A4%96%E3%81%AE%E9%9B%A2%E5%A9%9A/ 【森鴎外の離婚】より

つい先日の朝日新聞に、『鴎外「まったく気性合わず文筆の妨げ」』という記事が出ていた。

鴎外ファンとしては見逃せないので切り抜いておいた。

鴎外は二度結婚しているのだが、最初の妻登志子さんとの離婚のいきさつが記された文書が静岡県磐田市で発見されたそうだ。

1888年、ドイツ留学から鴎外が帰国して間もなく、はるばるドイツから、気丈にもたった独りで鴎外を追って来日したエリスという若い女性がいた。

森家存続の危機とばかりに、親族一同、彼女を宥めすかして帰国させたと記録にある。

明治の始め、国家の未来を背負ってドイツに官費留学した若き鴎外は、探究心と自負心と愛国心を胸に研究に励み、当時の日本人には珍しく欧州の文化にも溶け込んで日々の生活を目一杯楽しんだ。

そして永遠の恋人・エリスと出会った。

彼女とそのまま彼の地で結婚できたなら、彼は本当に幸せであったろうし、日本中の鴎外研究家は存在せず、私も森林太郎という人を知る事もなかった。

初期の小説『舞姫』は、鴎外のこの”生涯に一度の恋”が基になっている。

『石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。』

高校の授業で読んで、冒頭の数行でやられてしまった(笑)。

高雅な文体と生々しい恋愛事情がもの凄いミスマッチな感じで、森鴎外とはいったいどういう人なのだろうと、よく理解できないながらも凄く印象に残った。

エリスとの結婚は当時の国状や親族の心情からも到底不可能で、鴎外は親の勧めで、海軍中将赤松則良の長女登志子さんと結婚したが二年と持たずに離婚した。

その時の鴎外の心情を伝える資料が、今回、発見されたというのだ。

記事を読むと、無理矢理に好きでもない女性と結婚させられて、うまくやろうなんて気がはなから全く無かった事が窺える。

鴎外、相当頭にきてたんだなぁ....(笑)。

その後、長く独身でいたが四十過ぎで娶った二度目の妻が絶世の美人で、鴎外も「美術品」と友人にのろけていたらしいが、名家の令嬢のせいか我が儘で、義母と想像を絶する不仲で鴎外は長年悩まされた。  

『半日』という短編小説に書かれた嫁姑の確執は、文体が整然・冷静であるだけに余計に怖い....。

結局、鴎外の結婚は順風満帆とはいえないものだったが、子供たちは皆それぞれ父について著書を残していて、そこから見える父親・鴎外は、とてつもなく愛情深く繊細でいて心の強い人であった。

子供というのは親の本性を良く見ている。特に年頃の、感性鋭い女の子の目は絶対に騙せない。大人の狡さみたいなものを敏感に見抜くのだ。

娘たちにこれ程までに愛された鴎外という人に、どうにかして会ってみたかったと思う。

私も相当なファザコンで、彼女たちの気持ちが良くわかる。

初めて会う人にさえ父親の自慢話をついしてしまう、誇らしさと嬉しさと深い愛情と少しの悲しみ.....。

amazonで、鴎外の三男・類さんの著書『鴎外の子供たちーあとに残されたものの記録』を注文した。

折に触れ、森鴎外という人をいろいろな角度から眺める。作家として、明治の知識人として、軍人として、医学者として、男性として、父親として、家長として、官僚として。

まさに巨人、様々な葛藤を抱えながらも自らの能力・全力を振りしぼって誠実に闘った人だと思う。

コメント: 

かっちゃん

 まったく同感です。

michiko

かっちゃんさん、きっと鴎外ファンの方ですね!

エリス研究とか、ロマンを感じてしまいます...^ ^

幕末から明治に生きた戦闘的文化人として、本当に興味が尽きません。

一刀斎

私も鴎外が好きです。舞姫に「昇華(?)」されたエリスとのロマンスにも魅かれ続けています。ドイツの恋人が日本にまでやってきたとき、鴎外から子離れできなかった母、そして鴎外家の人々のパニックと修羅場も苦しいけどとても人間的ですね。確かにお見合い的・政略的結婚で押し付けられた赤松家との縁組はほとぼりのさめない鷗外には迷惑そのものだったでしょう。ただ、おそらく自分の意思でもないのにと告がされ、鴎外にも粗略に扱われた、姑にもいじめられたあげく、子どもを生んだ途端子どもを取り上げられた形で離縁された登志子さんもとてもかわいそうだと思いました。

michiko

一刀斎さん、コメントありがとうございます!

おっしゃるとおり、エリスの存在があまりにも大きくて最初の妻・登志子さんの過酷な運命は取り上げられることがほとんどないですね。

於菟さんもシゲさんから相当邪険にされたようですし、この母子は森家のおかげで本当にかわいそうな事でした。

女性の立場からの視点というのは、一刀斎さんの指摘で初めて気づきました。

私自身が女性なのに、完全に鴎外サイドに立ってましたね、、。

日本が開化期を迎えた明治という動乱の時代、男女の愛の問題に"家”や”国家”が大きく介入してきて、鴎外はそれに抵抗しようと試みた最初のエリートだったんじゃないでしょうか。

だからこそ、小説『舞姫』と実在のエリスに私たちがこれほどまでに心惹かれるのではないか、、。

鴎外にとってエリスは、本当に永遠の恋人だったのだと思います。

埼玉子

森鴎外とその家族に興味があり、一時は狂ったように調べていました。

熱が冷めてから(嫌いになったとか、興味がなくなったわけではない)長い年月が経つのですが、数分前に突然「赤松登志子」とGoogleに入力して、ここに辿り着きました。

性格の不一致だの離婚する気はなかっただのは、鴎外の詭弁。

最初から嫌だったし、赤松家の令嬢のことは好きじゃなかったんだろうと私も思ってます。

一方、1番重んじていた母・峰子にあれほど刃向かったシゲとは結局別れなかった。

親子ほども年が離れた美貌の妻に、鴎外は口では何と言おうと何を書こうと、メロメロだったんだのでは?と思ってます。

あ"ー、こういう話をできる場があればなぁ。。。

michiko

若い美貌の奥さんにメロメロって、なんか微笑ましい ^ ^

堅いイメージのある鴎外だからこそ、かもしれないですが(笑)。

緑青好

埼玉子さん、六草いちか、という方の二冊の本で舞姫の舞台裏を知ることができますよ!

六草さんはドイツに住む方で、エリスのことを実に丹念に調べられ、二冊目にはなんとエリスの写真を載せておられます。当時のドイツの様子も窺え、また、鴎外の家庭の事情もわかり、"堅い鴎外"が実はエリスを呼んだらしいこと、反対する日本の家族を捨ててエリスと一緒にドイツへ行く決心をしていたらしいなど興味深い内容の本ですよ。

 テレビ朝日"百年名家"で、旧赤松家記念館が紹介されました。録画を見ていて、海軍の赤松則良‥と耳にし、確か鴎外の奥さんの旧姓と思い出し、Googleで検索していたところ、ここに辿り着いた次第です。

 登志子さん、しっかりしたお父様の元で恵まれたお暮らしだったのですね。お幸せに再婚なさったことを祈りつつ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000