やまとことば・表記の問題

https://hakken-japan.com/columns/yamatokotoba1/ 【やまとことば~心を癒す美しい日本語の音と語源が知りたい】より

ハッケン!ジャパン編集部

普段、私たちが何気なく使っている日本語。たとえば「おめでとう」や「ありがとう」という言葉が、いつ頃から使われていて、どうしてそう言われるようになったのか、考えてみたことはあるだろうか? 

日本語には、古くは中国大陸から入ってきた漢語を中心とした「外来語」と、はるか縄文・弥生時代にまで歴史をさかのぼる日本固有の「やまとことば」の2種類がある。

「やまとことば」は、主に話し言葉として使われつづけ、後付けで入ってきた漢字から離れて「音」そのものが意味をもつことが多い。そこがひとつの特徴でもある。

数千年という長い時を超えて、今もなお使われ続けている「やまとことば」の世界を、ほんの少しだけ紹介しよう。

誰もがよく知っている、あの言葉の本来の意味とは?

●春夏秋冬(はる・なつ・あき・ふゆ)

●おめでとう

●ありがとう

●たのしい

●家(いえ)

●人体と植物の呼び名が一致

●手当て

春は芽が「はる」、秋は食べ「あき」る

四季のある国、日本。それぞれの季節を示す日本語は「春・夏・秋・冬」、それぞれの語源・由来は諸説あるが、こんな考え方はどうだろう。

万物が芽吹く季節、「春」の語源とは、芽が「はる(張る)」。植物をはじめとして生命力があふれ出す季節を表現している。

「夏」の語源は、はっきりしないが「あつ(暑い)」が変化したもの、という説がある。

そして収穫の「秋」は、一年でいちばん「あき(飽き)」るほどに食べ物があることを意味しているのだという。

「冬」は、春から始まる作物づくりのために力を蓄える季節。古代の日本人は、ものを振ることによって霊力が増えると考えたため、「ふる(振る→増える)」が語源という説がある。

いまも使われる日本の四季を示す言葉。そこには、季節の訪れを喜んだり身構えたりしていた、遠いご先祖様たちの暮らしや感情が息づいている。

「おめでとう」は「めでた=芽出た」から

「おめでとう」とは、「めでた」、すなわち「芽が出た」状態を表すという説がある。芽が出るのは、それだけ成長したということ。

人生のステップを一つ登った、あるいは新年を迎えて一つ年を重ねた、などの状態を示す言葉が、転じてお祝いの言葉になったと考えられる。

たとえば就職も結婚も人生のひとつの節目だが、そこで贈られる「おめでとう」という言葉には、新しい家族や仕事という「芽が出たね」というお祝いの意味。加えて、出た芽をしっかり育ててほしいという願いも込めた、励ましの言葉でもある。責任重大だ。

「ありがとう」=「有り難い」こと

「ありがとう」を漢字で書くと「有り難う」。有ることが難しいものがそこに存在し、めったに起こらないような嬉しいことが起こるから「ああ、有り難い!」「有り難う!」となる。

現代では当たり前に感じられる「健康に生きていること」「食べ物があること」は、大昔の日本では文字どおり「有り難い」ことだった。

だからこそ、そんな奇跡のような計らいをしてくれているのは、きっと「神様」にちがいないと人々は考えた。

私たちが毎日なにげなく使う「ありがとう」という言葉は、本来は目に見えない神様の存在や、その計らいへの感謝だったと考えられる。

「たのしい」=食べものが「手の上にいっぱい」!

「たのしい」の「た」とは、「て(手)」の音が変化したもので、「手の上にたくさんものがのっている状態」を示しているという説がある。

古語である「たのし」を古語辞典で調べてみると、「満腹で満ち足りた気持ちである」と書かれている。

私たち現代人の多くが「楽しい」という言葉から連想するのは、レジャーや買い物などのお金を使って得られる喜びや、日常・非日常のもっと刺激が多い状態ではないかと思う。しかし、本来「たのしい」とは、たくさんの実りに恵まれて、お腹いっぱい食べられる状態のことだった。

古代の人たちの暮らしと、そこかから来る価値観は、もっとシンプルなものだったのだ。

「いえ(家)」は、ハウスじゃなくてホーム

国語辞典で「いえ(家)」を引いてみると、最初に「人が住む建物。家屋」と出てくる。しかし元々の意味を調べると、ちょっとニュアンスが違う。

「いえ」は、古語では「いへ」と書く。「い」という言葉は、それだけで「神聖なもの」という意味を持ち、「へ」は「辺(あたり)」の意味。つまり、いえとは「神聖な辺り」、生きていくパワーが集まる場所のことをいう。

ちなみに「建物」の方は、「や(屋)」。やど(宿)の「や」で、物理的に雨風をしのぎ体を休ませる場所、という意味だ。

いえは「や」である以上に、人が生きていく活力を養うために帰るべき場所。英語でいえば「Home」ということになる。

「からだ(体)」は幹で、手足は「えだ」

人間の身体(からだ)にある「め=目」「はな=鼻」「は=歯」「み=身」。これと同じ音で別の言葉が、私たちのよく知っている、身の回りにあることに気づいているだろうか。

それは植物。「め=芽」「はな=花」「は=葉」「み=実」、人体を示す言葉と似ている。たんなる偶然とも思えない。

からだの中心のことを「幹」ともいう。本体そのものを意味する言葉だが、幹といえば「木の幹」で、面白いことに古代人は手足のことを「えだ」と呼んでいた、という話もある。

もしかすると大昔の日本人は、人の体(からだ)を植物に見立てて、同じように名前を付けたかもしれない。それくらい植物は大事で身近なものだった。

手を当てるから「てあて」、心で痛みを和らげる

子どもの頃のことを思い出してみてほしい。どこか痛かったり具合が悪くなった時に、お母さんはやさしく手で触れて「痛いの痛いの飛んでいけ!」と言わなかったか。それこそが「てあて(手当て)」だ。

手のひらは、昔の言葉で「たなごころ=掌」ともいう。これは、「手の心」という意味。

ケガや病気をした時に処置をすることを「手当て」というが、昔は、痛みがあれば実際に手を当て、掌を通して痛みを和らげようとした。

掌から伝わる温もりには、心が感じる痛みを癒す力がある。体ではなく心に苦しみを抱える人の背中に、そっと手を当てる。それもまた「てあて」。

ちなみに、漢字の「看護」の「看」は、「手」と「目」を組み合わせた字を書く。つまり、手を当て掌で相手をみる、という意味だ。

「ことば=言の葉」には神聖な力が宿る

「ことば」の語源は、奈良時代以降に生まれた「ことのは(言の葉)」。それ以前にどう表現していたかというと、「こと」。ただそれだけ。

物事や事柄などに含まれる「事」、こちらも古くから「こと」。その昔、日本では「言葉」と「出来事」は、どちらも「こと」という同じ言葉で表されていた。

どうして同じなのかというと、日本に古くから伝わる「ことだま(言霊)信仰」というものがある。口に出した言葉、心に思った言葉は、本当の事として実現してしまう、そんな風に昔の日本人は考えたのだ。

うれしいこと、たのしいこと、嫌なこと、悲しいこと。言葉に宿る神聖な力が、実際の物事をも動かす。

ネガティブな言葉は、ネガティブな事態を招くかもしれない。そう考えたら、使うのを極力避けたくなるはずだ。

ことばの元々の意味や成り立ちを知らなくても、「やまとことば」は長い時を超え、いまも使われ続けている。

声に出して言ってみて、さらに本来その言葉が持つ意味を知る。そうすることで、なぜだか背筋が伸びるような、自分の中心にきゅっと力が入るような気持ちにならないか。

何か辛い状況に陥ったときも、大事な誰かの手のぬくもりを思い出せば、少し安心して、がんばれそうな気持ちにもなってくる。

「ありがとう」とお礼を言うときにも、それは本当に「有り難い」ことなのだと思えば、いつもよりも気持ちを込められそうな気がするのでは。

膨大な情報、すなわち言葉が溢れる時代だからこそ、私たちのご先祖様が贈ってくれた素朴でポジティブな「やまとことば」を大事にして、そこに宿る不思議な力に癒されてみたい。

*参考文献:『ひらがなでよめばわかる日本の言葉』(中西進著/新潮文庫)、『岩波 古語辞典』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編/岩波書店)、『古典基礎語事典』(大野晋編/角川学芸出版)『暮らしのしきたりと日本の神様』(双葉社)


https://plaza.rakuten.co.jp/3104doru/diary/201801270001/ 【やまと言葉を漢字に当てはめる苦心★万葉仮名】より

 中国から漢字が入ってくるまで、日本には文字がありませんでした。

話し言葉である、やまと言葉はありました。

 漢字は中国語を表すための文字です。

中国語と日本古来のやまと言葉とは、言語体系が違います。

 漢字を使ってなんとか日本語を書き記そうとした苦労の跡が、万葉仮名に見られ

ます。

 万葉仮名の過半は音仮名で、漢字の音を借りて当てるものです。「当都心」=

「たぎつこころ」が例です。訓を借りる例が「君之当者」=「きみがあたりは」

 「嘆鶴鴨」=「なげきつるかも」 「鶏鵡鴨」=「けむかも」

鳥のオンパレード。鶴や鴨に意味は通じませんが、音(おん)を借りて、

「鴨」を終助詞「かも」に当てています。

​​​ 音・訓だけでなく、「義訓」といって連想ゲームのような表記もあります。

「去家」=「たび」「鶏鳴」=「あかとき」

 さらに難しい「戯書」は、なぞなぞの世界。

「左右」=「まで」←両手のことを「真手(まで)と言った。

「山上復有山」=「いで」(出)←山の漢字の上に山をもう一つ書くと「出」

の漢字になる。

「十六」=「しし」←4×4=16から。

同じく「二八一」=「憎く」(にくく)←2・9×9=81。

 こうした苦労を経て、漢字から一部を抜き出したカタカナ、漢字を崩した

ひらがなができていきます。

​​​

        参照元:笹原宏之『漢字に託した日本の心』NHK出版新書

            佐竹昭宏ほか校注『万葉集(一)』岩波文庫


http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~ame/word/japan.html 【日本における文字と文化の問題】より

1.日本語表記の問題

 日本語の表記は世界でもっとも複雑である。ひらがな、カタカナ、漢字の三種類の文字がつかいわけられており、これらの文字種のちがいは、やまとことば、外来語、漢語という語彙の相のちがいと関連している。

 漢字には、ふるい中国語の音(漢音、呉音、唐音)に由来した発音である音読みとやまと言葉の音である訓読みとが併存している。たとえば、水とかいて「スイ」が音読み、「ミズ」が訓読みである。「スイ」は中国語の音がもとになっている。これにたいし、「ミズ」は、純粋の日本語の音である。「スイ」と「ミズ」は別の言語の音で、「スイ」と「アクア」や「ウォーター」が無関係なのとおなじく、本来は無関係である。水を「ミズ」とよむなら、水を「ウォーター」とよんでもよい。「私は水をのむ」(ワタシハミズヲノム)という漢字かなまじり文は、「私drink水」(アイドリンクウォーター)という漢字英語まじり文と、おなじ混成的表記である。

1.1.日本語における漢字の問題

○漢字の音読みは、中国語の音の発音が日本化したものだが、日本語に四声がないこともあって、音読みをする漢字熟語には同音異義語が非常におおい。たとえば、「コウセイ」という音にたいしては、構成、校正、公正、厚生、攻勢、更正、後生、後世、恒星、など意味に関連性のあまりない一群の語群が対応している。このため、漢語を多用した日本語のスピーチは、耳できいただけでは意味が理解しにくくなる。また、コンピュータへの日本語入力が、かな漢字変換をいちいち確認しての視覚的作業になってしまうことも、同音異義語のおおい漢字に原因がある。

○漢字の訓読みは、やまとことばと漢語を、共通の漢字をつうじて接着させる役割をはたしているが、ひとつの漢字にたいしておおくの訓読みが対応している。たとえば、「生」は、生(なま)、生(き)、生きる(いきる)、生える(はえる)、生む(うむ)、生湯(うぶゆ)、生い立ち(おいたち)など、にた意味のおおくのやまとことばをあらわす漢字としてつかわれる。その結果として、活用語尾のみおくりがをふることいった規則も適用できなくなる。たとえば、活用語尾のみおくたがなとすると、「生きる」と「生える」は、ともに「生る」で区別できなくなる。これは、日本のやまとことばと中国の漢字という異質なものを接合したためにしょうじた、無理である。

○漢字かなまじり文では、漢字がわかちがきの役割をはたしているので、単語の間に空白をいれる必要がない。これは、コンピュータによる日本語処理で、単語のきりだしの問題となる。また、同じ単語も、漢字があるために「生きる」、「いきる」などと、なんとおりにかつづられる。つづりの複数性と単語きりだしの困難は、日本語の情報処理のおおきな障害である。

○漢字は字面のイメージをともないやすい。これが抽象的な思考の障害だとする論者もいる。

○以上は漢字の問題点の指摘である。漢字の積極面をいう論者は、漢字がイメージ的なのを理解しやすいからよいとし、音読みの漢字は造語力にすぐれているとし、訓読みはやまとことばと漢語の接着剤として不可欠とする。この背景には、言語観とイデオロギーの対立もある。

        日本における漢字制限派と漢字推進派の主張

             漢字制限派       漢字推進派

音読みの漢字について  同音意義語のおおさ      造語力    

訓読みの漢字について 読みがと送りがなの問題  和語と漢語の接着剤    

意味とのつながり  イメ-ジ的印象的で安易  イメ-ジ的印象的でよい

コンピュ-タ化   単語のきりだしなど障害  かな漢字変換で克服された

言語観       音声中心主義/正書法の重視 文字中心主義/両チャンネル

イデオロギ-     欧米主義/やまと主義   反欧米主義/東アジア主義

1.2.人名表記と文字フェティシズム

○日本語の人名表記は、上述の漢字の問題を極限まで拡大した、でたらめかつ、混乱のきわみの世界である。日本には、約14万の苗字がある。また、珍妙なよみの個人名も日々うまれている。日本語における文字コードの問題は、人名表記の問題である。

○よみと漢字の対応のでたらめは、苗字と個人名の両方で大規模にしょうじている。苗字には、なぜそうよむかわからないようなものがおおい。たとえば、五十嵐(いがらし)、乃位(のぞき)など。紫田(しばた)は、「紫」を「柴」とまちがえてつかったのを、そのままよみにしてしまったものである。また、いくとおりものよみががあるものもある。四方(ヨカタ、シホウ、シカタ)など。また、ひとつの音に対応する苗字の漢字はきわめておおい。たとえば、「ソガ」にたいしては、蘇我、曽我、十川、十河、宗丘、宗宜、宗岳、宗我、宗賀、崇賀、我何、曽加、曽宜、曽賀、曾宜、曾我、曾谷、素我、素賀、蘇何、蘇宜、蘇宗、蘇賀など、あとJIS第二水準では表記できない文字をつかった「ソガ」が二種類ある。一方、名前のほうは、名前につかう漢字の制限はあるが、漢字とよみの対応の制約はない。このため、緑夢(グリム)などの外国語の音をあててもよいし、温大(はると)など、よみはどうふっても自由である。最近のはやりは、沙矢香(さやか)などの万葉仮名風の表記とよみである。以上の結果として、人名の名簿では、漢字とよみがなの両方を参照しないと個人を識別してよぶことができなくなる。

○苗字には、さらに異字体の問題がある。渡邊・渡辺、藤澤・藤沢、広瀬・廣瀬、程度ではない。手書きにおける字体のすこしの差異も、戸籍の電算化とともに、異字体として登録されてしまう。学校の名簿でも、梯子高などは、JIS第二水準までのパソコンでは、対応するフォントなしとして、ゲタ(〓)で表示されてしまう。「團」という作曲家は、「団」という宛名の郵便物はすべてうけとりを拒否したと自慢している。これは、文字フェティシズム、文字の呪術崇拝をほこっているようなものである。

○日本語の文字表記の混乱を是正するためには、ひらがな表記による名前の音を一義としてもっと大切にし、漢字の字体とよみとの対応は標準的なものに制限する必要がある。ただこれは、文字フェティシズム、漢字への呪術崇拝が、病膏肓の現状では抵抗がおおすぎてむつかしいだろう。

1.3.社会科学における漢語の語彙

○明治期の日本の知識人は、おおくの欧米の事物や学術にかんする膨大な語彙を漢語に訳した。これは、欧米の事物や学術を導入するために必要なことだった。しかし、人文社会科学でもらいられる漢語の語彙は、概念規定があまく、日常生活のはなし言葉とのつながりがよわく(きれる、むかつくなどのマイナスの意味をあらわす和語の身体性との対比)、構成する文字の字面の意味にひきずられたり、文字崇拝的に非日常的なよきものとしてもちいられることがおおい(柳父のいうカセット効果)。

○権利とright・自然とnature

○能記・所記などの奇怪な言語学の語彙

○国際化とInternationalize

○革命・解放・平等/多様性・個性・自由/単独性・非決定性/などキャッチワードによる思考

○日本の学術は、自然科学・技術の分野、人文科学の分野では独創的な成果をのこしたが、社会科学の分野は欧米の学問の翻訳にとどまってきている。これは、言葉を事物をさししめす道具としてきたえていこうとせず、言葉を外来のありがたいおまもりとしてつかうような態度にも原因がある。

1.4.カタカナ語について

○最近のはやりはカタカナ語である。カタカナ語には、技術分野などのようにあたらしい語彙がつぎつぎでてきて日本語化が間にあわないという事情、漢語に同音異義語がおおすぎるなどの事情もあるが、印象操作としてもちいられる場合がおおい。コマーシャルだけでなく、行政なども、舌足らずの外来語を率先してつかっている。外来語の発音は、CVCVの二拍を基本に日本語化されているが、構成要素の意味が把握されていないので漢語のような造語力はもちえず、日本語の語彙の混乱、言葉の呪術的使用の傾向に拍車をかけている。

2.日本語の言説について

2.1.声の文化と文字の文化

○欧米には言葉の本質は声にあり、文字はそれをうつしたものであるというかんがえが根強くあり、科学論文なども19世紀までは音読されていた。今日でも、選挙のさいには、かんがえを声として表明し、声と声を対決させるという文化がのこっている。これを2次的な声の文化という。西欧は、はやくに1次的な文字の文化を確立したが、文字が音素文字であることもあって、2次的な声の文化が公の文化としてつよくのこっている。

○日本文化には、かかれた文字を重視し、声を軽視する傾向がある。落語や露天商などの庶民の声の文化は、文字をしらない層の1次的な声の文化であり、書き言葉をふまえた公的な声の文化は日本ではきわめてよわい。日本でのおおやけのスピーチは、柳田が荘重体とよんだような、漢語ばかりの伝達力、喚起力にきわめてよわい、文字のうつしのような形式的・儀式的なものになってしまっている。日本には、公的なスピーチや議論の文化がきわめてとぼしい。

2.2.官僚と法律家、社会神学者たち、騙り手たち

○漢語だらけの奇怪な日本語の典型例が、官僚や法律家による文である。官僚による文をイアン・アーシーは、整備文とよんだが、官僚たちは整備文をつかって読み手の頭脳を混乱させ、責任をあいまいにしながら、自らの頭も混濁していき、責任をのがれるために誤りから学ぶこともできなくなっている。判決文などの法律の文は、文のながさといい、つかわれる語彙の特殊さといい、奇怪さでは、官僚の文以上である。複雑怪奇な文章をあやつれるのだから頭がいいのだというひともいるが、心理学の知見からすると、まちがいである。かんがえは表現とコミュニケーションをつうじて形成されていくので、簡潔・明快な文章ではなく複雑・怪奇な文章でかんがえを表現していると、かんがえ自体も混乱し、頭脳はしだいに混濁していくのである。人間の知的能力は、表現手段もふくめてのものであり、奇怪な表現を常用していると、知的能力は確実にむしばまれていく。

○奇怪な言葉に思考をのっとられ、頭脳をむしばまれているのは、法学部出身者だけではない。おおくの社会科学者も、「1.3.社会科学における漢語の語彙」でのべたような、キャッチワードによって思考停止におちいっている。個性、自由、人権、国際化などの、現実感や身体感覚によるうらづけをかいて、概念規定もゆるい、社会的是認のおすみつきをえた言葉による思考は、現実的、科学的思考ではなく、神学的思考にちかいものになる。オルテガ・西部のいう大衆は、こういうキャッチワードに思考をのっとられた社会科学者を原型とする知識人のことである。

○社会神学語は法学語より、一般のひとにはわかりやすく、それなりの魅惑もあるが、さらに説得力的、魅惑的なのが、ユング派や宗教学者、美学者などによる、かたりの日本語である。このかたりの日本語は、法学語とはちがってよみてに納得してもらうことをめざしている。また、社会神学語のような教条性もない。はるかに柔軟でしたしみやすい。しかし、かたりよる魅惑にたけたひとは、事実による検証や科学をないがしろにし、魂の救済などをいう傾向がある。科学的思考をきらいなおおくの日本人にかれらのかたりはおおいにアピールする。しかし、現実の問題にどう対処するかという点からは、事実による検証や科学をないがしろにするかたりてたちは、よわくいって無責任な騙り手、つよくいうと「ハメルーンの笛ふき」のような危険な存在になりかねない。

2.3.理科系の作文技術と庶民の言葉

○法学日本語、社会神学語、かたりて・コマーシャルの言葉、などの混乱のなかにあって、簡潔・明快で事実に即した日本語の可能性は、たとえば理科系的なセンスをもった人文学者たちや、きえつつある庶民の言葉のもとにみいだすことができる。

○理科系的なセンスをもった人文学者の代表は、梅棹忠夫である。最近では、「理科系の作文技術」をはじめとする一連の日本語をかいた木下是雄、臨床心理学の中井久夫などである。これらの学者の文章は、明快で事実にそくし、包括的であろうとしており、かつ、あやまりによる修正にひらかれている。日本語の書き言葉の可能性は、法学日本語、社会神学語、かたりて・コマーシャルの言葉などではなく、この方向にあると雨宮はかんがえている。

○日本のような高学歴の消費社会では、大衆も地に足のついた身体感覚にうらづけされたはなし言葉をつかっていない。日常の会話でも、個性とか自己実現とか、自由とか、うろんな言葉をつかい、それに思考をのっとられたミニ知識人と化している。身の丈にあった話し言葉の世界は、落語や職人、うりかいをする人の言葉に断片をみることができるだけである。

参考文献

金田一・林・柴田 1988 日本語百科大事典  大修館

橋本・鈴木・山田 1987 漢字民族の決断 大修館

丹羽 1994 人名・地名の漢字学  大修館

柳父 1972 翻訳語の論理 法政大学出版

梅棹忠夫 1969 知的生産の技術 岩波新書

本多勝一 1982 日本語の作文技術 朝日文庫

本多勝一 1994 実戦・日本語の作文技術 朝日文庫

木下是雄 1981 理科系の作文技術 中央公論新書

木下是雄 1994 レポ-トの組み立て方 ちくま学芸文庫

言語技術研究会 1991 マニュアルはなぜわかりにくいのか 毎日新聞社

イアン・ア-シ- 1996 政・官・財の日本語塾 中央公論社

オング 1991 声の文化と文字の文化 藤原書店

梅棹・小川 1990 ことばの比較文明学 福武書店

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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