https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/16612104?categoryIds=4502271【正岡子規『病牀六尺』】
https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/43537_41508.html 【病牀六尺 正岡子規】
正岡子規「病牀六床」(四)
正岡子規の闘病記録!?「病床六尺」を読む
『病牀六尺』は、松山出身の文人・正岡子規が、明治35年5月5日から亡くなる2日前の
9月17日まで、死の病と向き合う苦しみ・不安、日々のたわいもない日常の風景、介護し
てくれる家族のこと、文学、芸術、宗教など日々心の底から湧いてくる気持ちを日々書き綴
った随筆です。日本人に100年以上読み継がれる名作ですが、同時に死と向き合う心情を赤
裸々に包み隠さず表現した闘病記録です。透明な躍動感とユーモアを放つ子規文学の「響き」をお届けします。
西洋の古画の写真を見て居たらば、二百年前位に和蘭(オランダ)人の画いた風景画がある。これらは恐らくはこの時代にあつては珍しい材料であつたのであらう。日本では人物画こそ珍しけれ、風景画は極めて普通であるが、しかしそれも上古から風景画があつたわけではない。巨勢金岡(こせのかなおか)時代はいふまでもなく、それより後土佐画の起つた頃までも人間とか仏とかいふものを主として居つたのであるが、支那から禅僧などが来て仏教上に互に交通が始まつてから、支那の山水画なる者が輸入されて、それから日本にも山水画が流行したのである。
日本では山水画といふ名が示して居る如く、多くは山や水の大きな景色が画いてある。けれども西洋の方はそんなに馬鹿に広い景色を画かぬから、大木を主として画いた風景画が多い。それだから水を画いても川の一部分とか海の一部分とかを写す位な事で、山水画といふ名をあてはめることは出来ぬ。
西洋の風景画を見るのに、昔のは木を画けば大木の厳(いか)めしいところが極めて綿密に写されて居る。それが近頃の風景画になると、木を画いても必ずしも大木の厳めしいところを画かないで、普通の木の若々しく柔かな趣味を軽快に写したのが多いやうに見える。堅い趣味から柔かい趣味に移り厳格な趣味から軽快な趣味に移つて行くのは今日の世界の大勢であつて、必ずしも画の上ばかりでなく、また必ずしも西洋ばかりに限つた事でもないやうである。
かつて文学の美を論じる時に、叙事、叙情、叙景の三種に別(わか)つて論じた事があつた。それを或人は攻撃して、西洋には叙事、叙情といふ事はあるが叙景といふ事はないといふたので、余は西洋の真似をしたのではないといふてその時に笑ふた事であつた。西洋には昔から風景画も風景詩も少いので、学者が審美的の議論をしても風景の上には一切説き及ぼさないのであるさうな。これは西洋人の見聞の狭いのに基いて居るのであるから先づ彼らの落度といはねばならぬ。
明治卅五年五月八日雨記事。
昨夜少しく睡眠を得て昨朝来の煩悶やや度を減ず、牛乳二杯を飲む。
九時麻痺剤を服す。
天岸医学士長州へ赴任のため暇乞(いとまごい)に来る。ついでに余の脈を見る。
碧梧桐(へきごとう)、茂枝子(しげえこ)早朝より看護のために来る。
鼠骨(そこつ)もまた来る。学士去る。
きのふ朝倉屋より取り寄せ置きし画本を碧梧桐らと共に見る。月樵(げっしょう)の『不形画藪(ふけいがそう)』を得たるは嬉し。そのほか『鶯邨画譜(おうそんがふ)』『景文花鳥画譜』『公長略画』など選えり出し置く。
午飯は粥(かゆ)に刺身など例の如し。
繃帯(ほうたい)取替をなす。疼痛(とうつう)なし。
ドンコ釣の話。ドンコ釣りはシノベ竹に短き糸をつけ蚯蚓(みみず)を餌にして、ドンコの鼻先につきつけること。ドンコもし食ひつきし時は勢よく竿(さお)を上ぐること。もし釣り落してもドンコに限りて再度釣れることなど。ドンコは川に住む小魚にて、東京にては何とかハゼといふ。
郷里松山の南の郊外には池が多きといふ話。池の名は丸池、角池、庖刀池、トーハゼ(唐櫨)池、鏡池、弥八婆々の池、ホイト池、薬師の池、浦屋の池など。
フランネルの切れの見本を見ての話。縞柄(しまがら)は大きくはつきりしたるがよいといふこと。フランネルの時代を過ぎて、セルの時代となりしことなど。
茂枝子ちよと内に帰りしがややありて来り、手飼のカナリヤの昨日も卵産み今朝も卵産みしに今俄(にわか)に様子悪く巣の外に出て身動きもせず如何にすべきとて泣き惑ふ。そは糞(ふん)づまりなるべしといふもあれば尻に卵のつまりたるならんなどいふもあり。余は戯れに祈祷(きとう)の句をものす。
菜種(なたね)の実はこべらの実も食はずなりぬ
親鳥も頼め子安の観世音(かんぜおん)
竹の子も鳥の子も只(ただ)やす/\と
糞づまりならば卯の花下しませ
晩飯は午飯とほぼ同様。
体温三十六度五分。
点燈後碧梧桐謡曲一番殺生石(せっしょうせき)を謡(うた)ひをはる。余が頭やや悪し。
鼠骨帰る。
主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり、泣く、怒る、なだめる。この時窓外雨やみて風になりたるとおぼし。
十一時半また麻痺剤を服す。
碧梧桐夫婦帰る。時に十二時を過る事十五分。
余この頃精神激昂(げっこう)苦悶やまず。睡(ねむり)覚(さ)めたる時殊(こと)に甚だし。寐起を恐るるより従つて睡眠を恐れ従つて夜間の長きを恐る。碧梧桐らの帰る事遅きは余のために夜を短くしてくれるなり。
(五月十日)
https://www.mitori-bunka.com/post/byousyou06 【<朗読>正岡子規「病床六尺」を読む【第六回】】より
今日は頭工合やや善し。虚子(きょし)と共に枕許(まくらもと)にある画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。
余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりもむしろ花鳥を好み、複雑なる画よりもむしろ簡単なる画を好めり。今に至つてなほその傾向を変ぜず。それ故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛(ちょうひ)の蛇矛を携(たずさへ)たらんよりは柳に鶯(うぐいす)のとまりたらんかた快く感ぜらる。
画に彩色あるは彩色なきより勝(まさ)れり。墨画(すみえ)ども多き画帖の中に彩色のはつきりしたる画を見出したらんは万緑叢中紅一点(ばんりょくそうちゅうこういってん)の趣あり。
呉春(ごしゅん)はしやれたり、応挙(おうきょ)は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。
『手競画譜(しゅきょうがふ)』を見る。南岳(なんがく)、文鳳(ぶんぽう)二人の画合せなり。南岳の画はいづれも人物のみを画き、文鳳は人物のほかに必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒(いたずら)に多くして趣向なきものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、かつその形容の真に逼(せま)るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。
或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱へ右の肩に一枝の梅を担(かつ)ぐ処を画けり。あるいはよそにて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添へて贈るにやあらん。もししからば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といはんか、謎的といはんか、しかもかくの如き画は稀(まれ)に見るところ。
抱一(ほういつ)の画、濃艶(のうえん)愛すべしといへども、俳句に至つては拙劣(せつれつ)見るに堪へず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の賛(さん)あるに至つては金殿に反古(ほご)張りの障子を見るが如く釣り合はぬ事甚だし。
『公長略画』なる書あり。纔(わずか)に一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。而してこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。蘆雪(ろせつ)らの筆縦横自在(じゅうおうじざい)なれどもかへつてこの趣致を存せざるが如し。あるいは余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因よるか。
https://www.mitori-bunka.com/post/byousyou07 【<朗読>正岡子規「病床六尺」を読む【第七回】】より
○左千夫(さちお)いふ柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌の大きくして逼(せま)らぬ処を見るに決して神経的痩(や)せギスの作とは思はれずと。節(たかし)いふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと思ふ。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じやうに思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言ひ争へる内左千夫はなほ自説を主張して必ずその肥えたる由を言へるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞(たくま)しき人ならむと思ふなりといふ。余はこれを聞きて思はず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩(や)せたりといへども毎日サンダウの唖鈴(あれい)を振りて勉めて運動を為すがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。さればにや人麻呂をもまたかくの如き人ならむと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。
○文晁(ぶんちょう)の絵は七福神(しちふくじん)如意宝珠(にょいほうしゅ)の如き趣向の俗なるものはいふまでもなく、山水または聖賢の像の如き絵を描けるにもなほ何処にか多少の俗気を含めり。崋山(かざん)に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗気を存せず。人品(じんぴん)の高かりしためにやあらむ。到底(とうてい)文晁輩の及ぶ所に非ず。
○余ら関西に生れたるものの目を以て関東の田舎を見るに万事において関東の進歩遅きを見る。ただ関東の方著(いちじるし)く勝れりと思ふもの二あり。曰(いわ)く醤油。曰く味噌。
○下総(しもうさ)の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の亀甲萬(きっこうまん)(醤油)。
(五月十三日)
正岡子規「病牀六尺」
初出:「日本」1902(明治35)年5月5日~9月17日(「病牀六尺未定稿」の初出は「子規全集 第十四巻」アルス1926(大正15)年8月)
底本:病牀六尺
出版社:岩波文庫、岩波書店
初版発行日:1927(昭和2)年7月10日、1984(昭和59)年7月16日改版
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