薬草の時代

Facebook・中村 臣市郎さん投稿記事 生命力の探求

21世紀の課題はいかに生命力、生体抵抗力、免疫力、それらの解毒機能をいかに増大させるかである。

だが生命の進化は自然環境に存在する有毒な生物毒、ヒ素や放射能、水銀、鉛、スズなどの重金属類に接触しながらそれを安全な物質に変える解毒機能の進化でもあった。

それに対しては免疫、分解酵素、内蔵、特に肝臓、腎臓がその毒の分解機能をもつ。

しかしそれはあくまで自然毒にあり、人類が合成した自然界に存在しない有機塩素系の膨大な化合物に対してはそれを分解することはできない。

主に肝臓で働く解毒機能は、グルクロン酸、肝カタラ―ゼ、薬物代謝酵素、P450などである。これらが食物、水、空気から生体に侵入する毒を分解するのだが、それらは一部の自然毒に限定される。

300年前、人類の文明を飛躍させた産業革命、石油、石炭などの原料で製造された化学物質は300万種に及ぶ。

これらには農薬、産業廃棄物、医薬、塩素などの水道水、合成洗剤、化学建材、マイクロプラスチックなどがある。

これらは自然界に存在しなかった新しい物質であり、生体はこれらを分解する機能がない。

そのために拒絶反応、アレルギー、各種のガン、内蔵障害、神経障害、様々な難病が起こる。

私はある全国店舗のある大型店で2万品目の食品を調べたが安全でまともな自然の食物は皆無であった。

人はこれらの毒と戦わねばならないのだが、しかし残念ながら現状ではそれは不可能である。

だが薬草にな有毒物質を解毒するものが山ほどある。

天然のケイ素がそれであり、非特異的生体抵抗力を増大させる冬虫夏草がそれであり、その他にもナツメ、オトコエシ、オミナエシ、松葉、タンポポ、など山ほどある。

私が21世紀は薬草の時代と提言しているのはこの意味もある。


http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp1/chapter1-4.html 【 第一章 近代薬学の到来期】より

4 江戸時代の薬園

 薬用植物園のはじまり

 薬草ブームやハーブ嗜好を反映して、今では各地に「薬草のひろば」とか「薬木の森」「ハーブの里」などのいろいろな呼び名で、薬用植物園に相当するものができていて、身近に薬草に親しんだり、どの植物がどんなくすりになるかも知ることができるようにになっている。こうした薬用植物園はいつごろから作られるようになったのだろうか。ヒトが定住し農耕を始めて、病を癒すとわかった特定の植物を特定の場所に植えるようになってからであろうが、日本での薬用植物園の起源は少なくとも飛鳥時代にまでさかのぼることができる。天武天皇の時代に薬師寺に附属して作られたともいわれ、大宝律令には「薬部」と呼ばれた人たちが薬用植物の世話係りに任命されている。そういう点ではずいぶん古くからあったわけだが、規模や分布、栽培された植物の種類からして薬用植物園が最も発達したのは江戸時代ではないだろうか

 江戸時代には薬用植物園は「薬園」あるいは「御薬園」と呼ばれ、生きた薬用植物をみることのできる標本園として、また、既存の植物の維持と新しい植物の受け入れの場として、更に、増産するための栽培試験場としての役割を果たし、珍しい薬草木を観賞できるところとしても重宝されるなど、幕末までには現在の薬用植物園が果たしている機能を十分に備えるほど発達した。そこではすでに和漢洋の有用植物が栽培されていて、ヨーロッパやアジア、アメリカ産など世界各地の薬草木の流入に「出島」が重要な役割を果たした。当時は洋の東西を問わず、くすりと言えば大部分を植物製のものが占めていて、今以上に薬園が重要な役割を果たしていたと思われる

 江戸時代の末期はヨーロッパでくすりの成分が明らかにされ始めた時期と一致する。この頃出島から入ってきた植物の中には、こうした知見を伴って、日本の近代薬学の基盤づくりに貢献したものもあったと思われる。従って、ここでは江戸時代に焦点をあてて、薬園の発達を探ってみた。

 薬園設置の背景

  江戸時代(一六0三~一八六七)には徳川家康氏をはじめとして歴代将軍が、軍事ではなく産業や学術の発展に力を注いだ時代でもある。鎖国政策をとっていたために、急激な社会の変動をまぬがれ、従って比較的安定した社会の中でゆるやかに産業が発達し、独自の文化や技術も産まれた。とはいえ、全く閉ざされていたわけではなく、この間も長崎を窓口として海外との貿易が続けられた。、アジアやヨーロッパなどの文化や産物が中国と初期にポルトガル、その後はオランダを通して、狭い窓口から流入しつづけた。こうして入ってきたもののうち、当時の医療の本流であった漢方に用いられた薬草木や珍しい植物の受け入れのために設けられたのが初期の薬園である

 江戸中期に至り、医療が一般の民衆にも普及するに従って、薬の原料となる薬草木の需要が高まった。輸入品だけではまかないきれない為、八代将軍吉宗は国内の有用植物を探索したり、外国産の種苗を入手して増殖させるなどの政策を押し進めた。また、吉宗は「禁書の制」を緩めることで蘭学の発達を促した。これらが引き金となって、国内の本草学の発展と幕府による薬園の新たな設置がもたらされた。そこでは、薬園が輸入医薬品原料の代替となりうる国内の薬草木の探索のための見本園の役割を果たしたと考えられる この頃には商品の流通経済が発達し、結果として町人の経済力が高まる一方、幕府・諸藩の財政が悪化した。このため財政再建を主なねらいとして、江戸中期から幕末に至るまで、幕府や各藩により次々に薬園が設置され、薬草木の栽培と増産が行われて商品化された。薬草木が高価な商品となると同時に、偽物も出回り混乱を招くのはいつの時代でも言えることである。薬園の果たしたもう一つの役割は、標本となる植物を植え、維持することで、本物かどうかの鑑別を可能にしたことである

       

 忘れてはならないのが、長崎出島のオランダ商館に派遣された医師や科学者によってもたらされた、西洋の医薬学・植物学の流入が日本の本草学と薬園の発達に多大の影響をもたらしたことである。とりわけ、出島の三学者と言われたケンぺル、ツエンベリー、また日本の植物の収集に強い関心を持っていて、滞在期間が五年間と長かったシーボルトが、直接、間接に影響を及ぼした。また、西洋の医薬学や植物学を受け入れるに十分な水準に達していた日本の本草学者たち、「本草図譜」を書いた岩崎潅園、「大和本草」の貝原益軒、「本草綱目啓蒙」や「花彙」を著した小野蘭山、翻訳本「泰西本草名疏」を世に出した伊藤圭介などの多くの人たちの活躍が薬園の開設と充実・拡大に寄与した

 薬園の種類と分布

 江戸時代以降、維新前までに開設された薬園についてみると、例外はあるものの江戸時代初期には主に幕府のもの、中期には幕府による薬園の拡大と先進的な藩での薬園の設置、中期から後期には後続の諸藩や商人、本草学者などによる開園があい継ぎ、ほぼ日本全土に広がった。これらを、設置の起源や意図を異にする官製、私製及び外国製の3つのタイプにわけて、以下に種類別に薬園設置の時期や目的、場所などを見てみよう 官製の薬園  将軍家直轄の薬園として、徳川家三代将軍家光によって江戸城の南北(麻布・大塚)二箇所に開設されたものが最初の御薬園である。これらはその後、統廃合されて新たに設けられたのが小石川御薬園であり、駒場御薬園である。幕府は江戸の他に、外国との唯一の接点であった長崎や京都にも御薬園を設けた(表一)。また、朝鮮人参などの栽培園を下野や佐渡などにも設けた。対馬の宗家から享保四年(1719)に幕府に献上された6粒の朝鮮人参の種を日光に植え、これがおよそ50年後には一万株に増えたといわれ、朝鮮人参の栽培にはとりわけ力を入れていたことがわかる

 加えて、江戸時代中後期は幕藩体制が充実し、地方分権が進んだこと、吉宗が推進した「諸国之産物御尋案文」に見られるような各地の産物の調査・開発が引き金となって、各藩による薬園が次々と開園された。表二に代表的なものを挙げたが、これ以外にも上田三平の『日本薬園史の研究』によると、藩の大小にかかわらず松前、津軽、仙台、米沢、水戸、松代、富山、加賀、福井、和歌山、鳥取、松江、津和野、徳島、宇和島、松山、久留米、秋月の諸藩にも薬園が設けられた(図一)。地図上でながめると、北海道から九州まで日本全国に薬園があったことがわかり、幕末までには報告されていないものも含めるとほとんどの藩に薬園があったのではないだろうか

 こうした薬園に共通して見られるのは、薬用・食用などとして役に立つ植物を採取、収集して栽培し、安定して薬や食物を供給することで民衆の不安を取り除くこと、産業を興すことなど、治国(藩)の目的をもったものであった。その為に幕府はもちろんのこと諸藩も蘭学者や本草学者を積極的に採用した。シーボルトの弟子の中、加来佐一郎は島原藩に、二宮敬作は宇和島藩に仕え、実際に薬園の運営に携わった。藩主の中にも、鹿児島藩の島津重濠のようにシーボルトと交わり、優れた薬園経営を行った者もいた

表1 幕府開設の薬園

薬園名 開設(西暦)

江戸麻布・大塚 寛永15年 (1638)

京都鷹ヶ峯 寛永17年 (1640)

長崎 延寶8年  (1680)

江戸小石川 貞享元年  (1684)

江戸駒場 享保5年  (1720)

駿府 享保10年 (1726)

久能山 享保11年 (1726)

大和 享保14年 (1729)

表2 各藩設置の薬園

藩名 開設(西暦)

尾張 元禄年間 (1688~1703)

南部 正徳5年 (1715)

高松 享保年間 (1716~1735)

熊本 寶暦6年 (1756)

萩 明和3年 (1766)

薩摩 安永8年 (1779)

久留米 天明6年 (1786)

福岡 寛政年間 (1789~1800)

秋田 文政年間 (1818~1829)

廣島 文政年間 (1818~1829)

島原 弘化3年 (1846)

 私製の薬園

 幕府・各藩の庇護の元で活躍した裕福な商人や本草学者など、個人によって作られた薬園もあった。ここでは設置の目的が絞られており、商人の場合は商品化するための増産であり、本草学者のものは学問的な関心に基づいて収集し、栽培したものだった。商人(薬種商)が設置したものとして、享保七年(1722)に薬種商桐山太左衛門が幕府の許可を得て下総国千葉郡小金原に開設したこと、同じく享保年間に伊藤伊兵衛が巣鴨に薬園を設置したことが記録されている。また、本草学者によるものとして寛永十四年(1637)に開設された板坂卜斉の薬園、植物二千種を栽培していて、文政六年(1823)江戸参府の際に訪れたシーボルトを驚かせた尾張の水谷豊文の薬園、シーボルトに師事した伊藤圭介が安西五年(1858)名古屋朝日町に開園した「旭園」などが著名である。特殊な例として、後に述べる長崎代官末次平蔵が密貿易品を植える為に作った「十禅寺薬園」、享保十四年(1729)に森野藤助が幕府の御薬草御用係植村左平次の大和での採薬道中を案内し、報酬に薬草を貰って栽培を始めた「森野薬園」もここに含まれる

 外国製の薬園

 江戸時代には外国人によって作られた、国外から持参した種子を播いたり、日本の植物や薬草を収集し、調査するための薬園もあった。出島のオランダ商館やシーボルトの鳴滝塾に併設されたものがこれに相当する。最初に出島に薬園を作ったのはケンペルであったが、その後シーボルトによって再建・拡充され、一時期には日本産や中国産の千種以上の植物が植えられ、ヨーロッパへの日本の植物の導入や紹介に活用された(図二)。しかし、このものはシーボルト事件が発覚してシーボルトが追放されたのに伴い、文政十二年(一八二九)に廃止された

 一七世紀以降のヨーロッパの帝国主義の国、特にイギリスとオランダではプラント・ハンターと呼ばれた人たちが未知の植物を求め、植民地をはじめとして海外各地へ出ていった。園芸が盛んになったため、珍しい植物を手に入れると多大な利益をあげることができたからである。南米で見つかったキナのように、特効薬となる薬用植物の探索も目的のひとつだっただろう。植物分類学の父と呼ばれ、命名法を確立したリンネとその弟子たちのように、世界中の植物を科学的に調査するために植物を収集した人たちもいた。出島に滞在し、日本の植物を調査したツエンベリーはリンネの愛弟子であり、研究成果を「日本植物誌」として著した。シーボルトも精力的に日本の植物を調査し、収集したが、その目的の一つは生きた植物を本国のオランダに届けることだったことから、彼もプラント・ハンターの一面を持っていたといえるだろう

 次にこうした薬園の中で、徳川時代に唯一外国への門戸が開かれていて、『出島』にも『新地・唐人屋敷』にも地理的に最も近く、その恩恵を直接受けた幕府直轄の長崎御薬園について詳しく見てみよう。それは、出島や新地から入ってきた植物はまずは長崎の御薬園で受け入れ、更に他の幕府直轄地に移されたり、諸藩に譲渡されたと思われるからである。十八世紀末のイギリスで新たに利尿作用が発見されたばかりのジギタリス(後に強心作用がみとめられたゴマノハグサ科の植物)はシーボルトによって日本に導入されたと言われるが、このジギタリスやヨーロッパ産のカミツレ、ヘンルーダなどが長崎以外の御薬園で栽培されていたことからも明らかである

 長崎御薬園

延寶八年(一六八0)徳川家四代将軍家綱の時代に、長崎奉行牛込忠左衛門が長崎の小島郷十善寺(十禅寺)(現在の館内町)跡に薬園を開設したのが御薬園の最初である。しかし、長崎での薬園の実際の開設はこれ以前にさかのぼり、長崎代官末次平蔵氏が密貿易で入手した珍しい草木やその種子を支配下の空地になっていた十禅寺跡を開拓し植えたのが始まりである。この末次家が没落後、幕府がこの薬園を没収して拡張し、正式に御薬園として管理をはじめた。幕府は密貿易を黙認し、献上品を受け取っていたことからも末次家の滅亡は不自然で、幕府のなんらかの関与があったものと考えられる。以後、表三および以下の詳細のように移転を重ねた

表3 長崎御薬園の変遷

設置場所 開設期間(西暦) 広さ(坪) 所在地

小島郷十善寺 延寶8年~元禄元年 (1680~1688) 8,766 (現館内町)

立山奉行所内 元禄元年~享保5年 (1688~1720) ? (現立山町)

小島郷十善寺 享保5年~文化6年 (1720~1809) 1,179 (現十人町)

西山郷 文化7年~慶応3年 (1810~1869) 1,228 (下西山町)

 立山奉行所内では狭くて不自由したとおもわれ、更に、御薬園は享保五年(1720)には小島村、天草代官所跡地(小島郷十善寺)に移された。この頃は特に、吉宗によって海外から有用植物の輸入が奨励されたこともあって、その受け入れの窓口を果たしていた長崎の薬園の業務が増え、ここで受け入れた苗や種子は一旦栽培した後、江戸の小石川や駒場の御薬園に送られた。また、幕府用品が不足した場合は直接に献上したり、奥医師に高額で売り渡していたらしい。天明の頃のものか、ここで栽培された薬草木六十六種が記録されている。また、天明八年(1788)のものとして春木南湖による御薬園写生図が残されている。薬園としての歴史はこの地が最も長く、89年間に渡って活用された

 弘化三年(1846)の肥州長崎図には唐人屋敷に隣接して十善寺郷の「御薬園」の位置が記されているのに対し、それ以前の享和二年(1802)の肥州長崎図に、すでに次に述べる移転前の西山御薬園の位置が記されている(図三)。これは早くから、西山への移転を決めて準備を進めていたことと、大木は移転しなかったことから、移転後もかなり長い間、長崎の人たちには十善寺の跡地も御薬園と思われていたためだろう

 肥州長崎図からもわかるように、十善寺郷の地は出島や新地に近く、荷揚げされた植物を移すには非常に便利だった。しかし海岸に近く、潮風を受けるため薬草木の栽培に適さないということで、更に適地を求めて、文化七年(1810)に西山郷(現西山町)に移転された。場所は松森神社の石垣に沿った斜面でそこを三段に分けた段々の圃場があった。広さ一,二二八坪で、長崎市立博物館所蔵の御役所絵図『西山御薬園絵図』に、移転前の『御薬園』と共にその詳細をみることができる(図四)

 ここに移転する際には十善寺に大木は残したままで、移転したものでも多くの草木が枯れたらしい。文化十一年(1814)の長崎奉行附き医師、中岡益叔の実見記によると「地新たにして古来漢種草木多く枯れて不存、今あるところ、、、」といって、四十二種の御薬園御草木品目を残している。また、オランダ船で持ち込んだ蘇方木、胡椒、檳椰樹、および椰子の四種の苗が寒さのため冬に枯死して残念だと書き留めている。更に、最近の石山禎一氏の研究(未公表)によると、シーボルトがこの西山御薬園を文政十年(一八二七)に訪れて調査し、ここで栽培されていた植物百八種を自筆で記録していること、この調査の時の植物標本がライデン大学に今も残っていることなどが新たに明らかになった

 シーボルトが来日する少し前の文政初年のものと思われる西山御薬園の薬草目録には次の七十種が記録されている

 山梔子(サンシシ)、烏薬(ウヤク)、酸棗仁(サンソウニン)、木瓜(モッカ)、山茱萸(サンシュユ)、仏手柑(ブッシュカン)、呉茱萸(ゴシュユ)、槐樹(エンジュ)、牡荊(ボケイ)、杜仲(トチュウ)、木蝋樹(モクロウジュ)、肉桂樹(ニッケイジュ)、辛夷(シンイ)、西府海どう(サイフカイドウ)、木犀(モクセイ)、楝(レン)、枳樹(キジュ)、楓樹(フウジュ)、方竹(ホウチク)、対青竹(タイセイチクイ)、大明竹(ダイミョウチク)、貝母(バイモ)、天門冬(テンモントウ)、青木香(セイモッコウ)、艾(ガイ)、大戟(タイゲキ)、大黄(ダイオウ)、大麦門冬(ダイバクモントウ)、小麦門冬(ショウバクモントウ)、何首烏(カシュウ)、草菓(ソウカ)、覆盆子(フクボンシ)、白附子(ハクブシ)、萎ずい(イズイ)、黄精(オウセイ)、川弓(センキュウ)、薄荷(ハッカ)、茴香(ウイキョウ)、金桜(キンオウ)、前胡(ゼンコ)、地楡(チユ)、甘草(カンゾウ)、桔梗(キキョウ)、蒼朮(ソウジュツ)、三七(サンシチ)、使君子(シクンシ)、玄参(ゲンジン)、甘邃(カンスイ)、当帰(トウキ)、白れん(ビャクレン)、黄今(オウゴン)、金灯草(キントウソウ)、蔓生百部(マンセイビャクブ)、特生百部(トクセイビャクブ)、白薇(ビャクビ)、白前(ビャクゼン)、土茯苓(ドブクリョウ)、蓖麻(ヒマ)、蓍草(シソウ)、黄耆(オウギ)、竜胆(リュウタン)、防已(ボウイ)、菊葉黄連(キクバオウレン)、良姜(リョウショウ)、知母(チモ)、淫羊かく(インヨウカク)、北五味子(ホクゴミシ)、浙江大青(セツコウタイセイ)、馬蹄決明(バテイケツメイ)、江芒決明(コウホウケツメイ)

 十善寺のものにしろ西山のものにしろ、薬草木が江戸の小石川御薬園や京都御薬園に植栽のものと大部分が一致する。これも、国外からの薬草木の受け入れがまずは長崎の御薬園で行われたことを知ればいたって当然といえよう。御薬園の管理のために薬園係が置かれ、薬種目利(めきき)や唐通事、蘭通事、医師などが係に任命され薬草木の増殖を行った。西山御薬園の幕末の薬種目利だった中尾氏保存の『御薬園御薬草木改帳』(安政三年)の写しには八十八種の植物が記載されているが、およそ四十年前のものと思われる先の目録に記載のものと比較してカタカナ書きの植物が増えている。アフリカ産のアラビヤゴム樹(マメ科のアラビアゴムのことでインド産の可能性もある)や熱帯アメリカ産のカスカリルラ(トウダイグサ科のカスカリラノキのことか)の名前もあり、江戸末期に外国産の植物が多く入ってきたことを物語っている。地中海産のユリ科の海葱(カイソウ)は、植物図鑑には明治に渡来との記述も見られるが、改帳には「海葱之類」との記載がすでに見られる。これらをシーボルトが記録したものを含めて比較すれば、江戸時代後期から末期に導入された薬用植物の変遷が明らかになるだろう

       

 西山御薬園は維新後にいったん長崎県の所有となった後、土地と薬草木は入札により売却され、御薬園としての幕を閉じた。跡地は現在の松森神社の裏手から西山郵便局の背後に至る斜面で民家が密集していて名残は全くない。ただ、当時の御薬守小屋のあったところが瀬戸口氏宅(下西山町)となっており、庭内に「鎮守神農の像」を奉っていた石の祠が今も残っている。神農像本体は大正に入って松森神社に奉納され、現在に至っているが、一九七四年以降は長崎県薬剤師会の主催で毎年薬祖神祭が十一月に開催され、神農像が披露されている。天然記念物に制定されている「松森の大樟」が御薬園の開設当時から今日までのこうした変貌を見つめつづけたであろう

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