俳句脳

https://tokumoto.jp/2020/10/35389/【茂木健一郎氏、黛まどか氏の俳句脳――発想、ひらめき、美意識の書評】より

本書の要約

自然の移ろいから生まれた美しい日本語、詩的な言葉を知ることで発見が増え、感性が磨かれます。感性と語彙を日々養うことで、五七五という短い言葉で世界を表現できるようになります。苦しみながら創造ことで、自分の世界を広げるだけでなく、快感物質のドーパミンを得られ、幸福度を高められます。

俳句脳とは何か?

脳内のドーパミンという「快感」を生み出す物質は、自分ができるとわかっていることや、他人から強制されたことをやっても放出されない。越えるべき障壁が高かったり、仮想や空想が許容される場合ほど、それらの課題を成し遂げた暁には大量に分泌され、大きな喜びが得られるのである。 だからこそ、俳句を大いに活用すればよいのである。(茂木健一郎)

脳科学者の茂木健一郎氏は、俳句とは「クオリアの言語化」だと言います。「今ここ」で感じられて、あっと言う間に過ぎ去ってしまう質感(クオリア)を松尾芭蕉や小林一茶は、五七五で表現することに成功したのです。俳句を生み出すことで、私たちは脳の可能性を引き出せるようになります。五七五の言葉に隠された世界を解き明かすことによって、脳は喜びを感じ、活性化するのです。

クオリアを留める=脳を俳句脳にすることで、自分の対する気づきがもたらされます。日常生活のさまざまな「具体」に埋没してしまうと、私たちはその「汽水域」をすっかり忘れてしまいます。俳句という一七字は日常の「具体」から生まれながらも、汽水域での発生により近いがために、私たちの感情から「普遍」を引き出す「抽象」にもなり得ると茂木氏は指摘します。具体的な言葉の中に普遍性を見出すことが、俳句における抽象的思考につながるのです。

俳句という伝統世界に身をおきながら、多くの俳人が常にそれを内側から批判し、破壊し、創造し続けることで、俳句脳をバージョンアップしてきました。この創造的な欲求がバトンパスされてきたことが、日本人にひらめきを与えてきたのです。そして、現代というソフトパワーが力を持つ時代に、この俳句脳を身につけること、精神的価値観を高めることが重要になってきました。言葉のセンスを磨くために心をくだくことは、内なる感性を磨くことと同じで、俳句脳によって、日本人のソフトパワーが強化されていくと茂木氏は指摘します。

俳句脳の特徴である「小さなものへの慈しみ」や「ふとした瞬間の気持ちを的確に捉えること」は、論理的思考を優先する西洋近代には見られない、日本独自の文化であることは間違いありません。効率化の対極にある俳句が、実は日本人の新たな強みとなるのです。

俳句脳を育む方法

「虎が涙雨」や「卯の花腐し」という雨は、人間にしかわかりません。雨のむこうにある物語や景色は、時空を超えて、日本人が受容し、伝え続けてきた美意識なのです。ポエティックな言葉を知ることで発見が増え、感性が磨かれます。磨かれた感性が言葉を探せば、必ずそれに応えるに足る多様な言葉が日本語にはあります。そして感性と言葉が出会い俳句が紡がれます。感性と語彙、これはまさに車の両輪。どちらかが回れば、片方もついてくる。俳句を詠むことは、この両輪を回し続けることです。(黛まどか)

「日本人のひらめきの原点は俳句にあり」というのが、本書のコンセプトですが、日本は季節の移ろいを様々な言葉で表現してきました。この変化を「日常の目」で見るのではなく、「表現する目」で切り取ることで、俳句脳が養えるようになると俳人の黛氏は言います。普段から俳句を詠む人は、この表現する目が冴えていて、この目を活用することで、自分の世界を広げています。

「日常の目」の他に「詠む目」(表現しようとする目)を持つことで、実体の背後にあるもの、奥底に隠されている真理、普遍的な原理、つまり実際には目に見えないものが見えてきます。目の前の自然との対話を「詠む目」を通じて行うだけでは、良い俳句は生まれません。表現する目を使い、日本語の美しい表現や季語を感じながら暮らすことが新たな発見につながります。感性と語彙という両輪を回すこと(俳句を生きる)で、脳内で化学反応が起こるのです。

日々「俳句を生きる」ことで、ふとした瞬間にユーレカが起こり、俳句というひらめきが生まれます。良い俳句には「弛緩と緊張」が必要で、「締め切りが迫った状態で髪やお皿を洗っているとき」などに、黛氏はひらめきが生まれると言います。締め切りという緊張と髪を洗うという弛緩が、ひらめきの源泉なのです。

イマジネーションが記憶をおとなう時、俳句のひらめきはやってきます。ひとつのモチーフを前にして俳句を作ろうとした時、これまでそのモチーフをめぐって積み重ねられた体験の一つ一つを、想像が訪ねていきます。そして想像とある過去が出会いを果たしこれまでにない響きを奏で合った時、ひとつの新しい世界が創造されるのです。これが俳句のひらめきです。

視点を多く持ち、様々な体験を重ねることで、自分の人生をより豊かにできます。目の前の事象から生まれたイメージと過去の体験が脳内で出会い、五七五としての表現が生まれることが俳句のひらめきなのです。多様な視点を持ち、多くの体験を重ね、豊かな人生を送ることで、俳句脳が鍛えられます。

一句を詠むことはとても苦しく、難しいものですが、それを乗り越え、良い句を生み出せた時に、脳はとてつもない喜びを感じます。「詠む目」を通じて、自己との対話を繰り返しながら、俳句と共に生きることで、人生を豊かにできるだけでなく、脳にも良い影響を与えられます。苦しみながら俳句を生み出すことで、良質なドーパミンを得られ、日常の苦しみを「幸せ」に変えられるようになるのです。


https://blog.goo.ne.jp/sawahima18/e/b9cbfd806181811b4900137f4ecadf00 【「俳句脳」を読んで!】より

【この本を読んだ理由】

毎月の俳句の宿題で悩んでいた矢先、いつものように文庫本・新書本を物色していたら、「俳句脳」というタイトルが目に入ったので、思わず購入した。

俳句作りがうまくいく“きっかけ”になるのではと、ほのかな期待を込めて・・・・・。

【読後感】

「俳句脳」、“俳句をやるための特別な脳”があるのだろうか?そんなことを思いながら読んだ。著者は、脳科学者としてお馴染みの茂木健一郎。そして俳人の黛まどか。

でも、俳句を少しやっていながら、黛まどかは初めて聞いた名前だった。

この本は三部からなっている。

第一部 俳句脳の可能性  茂木健一郎

第二部 ひらめきと美意識ーーー俳句脳対談  茂木健一郎・黛まどか

第三部 俳句脳ーーーひらめきと余白  黛まどか

私には、第一部は難しくてあまりよく分からなかった。その中で、特に気になったところをピックアップしてみた。

「今、ここ」から一瞬のうちに通り過ぎていってしまう感覚を記憶に留め、言葉によって顕現化するというまさに「クオリアの言語化」が、俳句という文学なのである。”

“俳句の文字列にあるのは、輝く個性のままに屹立している一瞬の心の間であるのだから、抽象的な思考から快感を得る営みとして、俳句ほど有効なものはない。

意味の呪縛を超えたところで、言葉を知ること。

俳句観賞に求められるこうした現象は、脳の快感物質が求めていることと見事に重なるのである。”

“唐突に聞こえるかもしれないが、日本の未来はソフトパワーにかかっている。

そろそろ多くの人々がそのことに気づき始めている。

ハードウェアを中心とした「メイド・イン・ジャパン文化」が海外を席巻した時代は、科学信奉の衰弱と共に次なる波にその席をゆずろうとしている。”

これらの文章は、本文の中で解説されているが、これらの文章だけを取り出して読んでみると、やはり難しい。

でも、第二部、第三部を読み進むうちに、私の中で、もやもやしていた俳句に対するいろいろな疑問や悩みについての回答が得られたような気がした。

第二部の本文より、

“言葉の上では十七音節しか書きませんが、あとのことは余白に漂っているのです。

・・・・・・・・・・・

たまたま文字や言葉として表れたものが短いだけで、実はその余白にものすごいことを紡いで、それを隠しているというのが俳句なのですよ。”

つまり、俳句で何もかも言おうとすれば説明になるし文字数が不足するので不可能だということだ。

俳句の言葉に託されたことを俳句を読んでもらう人に想像してもらえればいいと言うことだと“余白の意味”を解釈した。

もう一つ、本文より、

“私はこの頃、「俳句を楽しみましょう」と同時に、「一緒に俳句を苦しみましょう」と言うことにしました。

・・・・・・・・・・・

さらに言いたいのは、「でも、苦しむとすごく面白いよ」なのです。”

ということは、俳人ですら、俳句作りに苦しみを感じているということなのだ。

“一句を得た瞬間の喜びを知ってしまったら、生涯俳句を止められなくなります。”

でも、いい句ができると、ドーパミンの分泌がよくなるらしく、いい気分になれるということだ。

茂木さんのお言葉をもう一つ紹介すると、

“俳句の畑を耕す脳のメカニズム

まず、習慣にならないと駄目だということですよね。

長い時間が経たないと、熟成していかない回路があります。

脳の回路とは積み上げですから。

よく若い時じゃないとできないことがあると言いますが、正確な言い方ではありません。

歳をとっても脳は変わり続けます。

ただし、それまでの人生の履歴を前提に変わり続けるんです。

三○歳が三一歳になる時は、三○年間の積み重ねを前提に変わります。

したがって、四○歳が四一歳になる時は、積み重ねたものが多い分、捕らわれる情報の多さで脳が変化しにくくなるのです。

いずれにせよ、どんな経験を日々積んでいるかで変わります。

自分の過去の全てがその人の俳句に表れるんです。

それが「耕す」ということでしょう。”

つまり、俳句は歳に関係なく楽しむことができることは確かだ。

でも、継続していくことが大事らしい。

特に、“俳句にはその人の人生が表れる”ということに、少し恐ろしさを感じた。

第三部より、

“理解ではなく納得

俳句は頭で理解するものではありません。

また理屈で組み立てるものでもありません。

たくさん作ってたくさん読んで、身体が覚えていくものです。

・・・・・・・・・・・

自転車乗りと同じです。

頭で理解するのではなく、感覚的に納得するものなのです。”

“俳句は直感

直感とは、感覚ではなく実は体験です。

体験の積み重ねから直感はやってくるものだと思います。”

“弛緩と緊張

「どんなときに俳句ができるのですか」とよく訊かれます。

絶景を前にしたとき、旅をしているとき・・・・。

・・・・・・・・・・・・・

が、残念ながらそう簡単には俳句は作れません。

・・・・・・・・・・・・・

実際「奥の細道」では芭蕉も松島の絶景を前にして一句も作っていないのです。

「絶景に向かうときは、奪われて叶わず」芭蕉の言葉です。

・・・・・・・・・・・・・

実をいえば、「締め切りが迫った状態で髪やお皿を洗っているとき」などが、俳句がひらめくときです。

つまり茂木さんが言うように、ひらめきは弛緩と緊張が必要なのですね。”

専門家の俳人すら、俳句はそう簡単にはひらめかないようだ。

これらのことを読んで、私は幾分安堵の気持ちと俳句を続けていく気持ちになれたのだった。

この本を読んで、俳句脳という特別な脳はないようだが、俳句作りの難しさを再認識させられた。

と同時に、年老いてからのスタートほど、大変であることも理解できた。

俳句は、継続して経験を積むことが大切であるので、焦らず気長に取り組むことでよいのだと思った。

そして、偶然でもいいから、いい句が出来たときの感動「アハ体験」を夢見ていこう。

これからも、俳句を続けていくために、とても勉強になった一冊である。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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