実り

Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「心ある道」

「すべての道の究極はどれも同じである。どんな道を進むにせよ、大切なのは心ある道を進むことだ。その道に心がなければ、少しも楽しくはない。

心ある道は楽しく旅ができ安らぎがある。戦士は心ある道と一つになることができる。

そしてたどり着いた先で、その結果や意味について何の関心も抱かない」 カルロス・カスタネダ

1968年に出版されたカスタネダの呪術師シリーズは物質的な世界の物の見方しかしない自分たちの文化に疑問を抱いていた70年代の若者を夢中にさせました。

たちまちカスタネダの師ドン・ファンは精神世界のグルとなりました。「ドン」は名前につけるスペイン語の敬称です。

カスタネダの最初の本「呪術師と私」が出版された1968年は歴史のターニングポイントの年でした。1968年は全世界で民主化を求めて大規模なデモが発生して世界が激動・震撼した年でした。社会主義政権下のポーランドのワルシャワ大学では民主化を要求した「3月事件」、中国では文化大革命、チェコでは民主化を要求してソ連が軍事加入した「プラハの春」、パリでは学生によるゼネスト、メキシコでは民主化要求デモに警官隊が発砲し学生が200〜300人が死亡しています。

日本では成田空港建設に反対する三里塚闘争が過激化、東大紛争の発端となった東京大学医学部の無期限ストライキが勃発して全学部に拡大して69年の入試中止、さらに日本全国の大学紛争に拡大していきました。

ナイジェリアではビアフラ(Biafra)戦争により数百万人が餓死しています。

アメリカではマーティン・ルーサー・キング牧師とロバート・F・ケネディ上院議員が暗殺され、北ベトナムで「テト攻勢」が起きてかつてないほどのベトナム反戦運動の高まりが起きていました。

ヘイトアシュベリー地区では反体制の大集会「Be-In(ヒューマン・ビーイン)」がおこなわれていました。

サイケデリック革命が起き、ヒッピーが社会現象となってドロップアウトをする若者は激増し、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーを目指したのがこの頃です。

ヘイト・アシュベリー地区で資本主義社会から解放されるために原始共産社会のコミューンを作ることを目指して、無料の食料配給が行われていました。

ゴールデンゲートパークには舞台が作られ、グレイトフル・デッドやジャニス・ジョプリン、ジョージ・ハリスン等のロック・バンドやジャズ・バンド等による演奏や詩の朗読、サイケデリック革命の進行やベトナム戦争への反対を主張する演説等、様々なパフォーマンスが行われていました。

そして1968年はビートルズが精神世界を求めてインドの旅に出た年です。

若者は探求者となり、ありとあらゆるサイケデリックを試し、インドやネパール、日本に行き、ヨガ、瞑想、禅の修行に励み、エサレンやエストなどのサイコセラピーやワークショップに突き進んだのです。

70年代はカスタネダの話題で持ちきりでした。

当時20代だった私は71年にバスでソノーラ砂漠を横切る中でカスタネダを読んだ吉福さんから話を聞いたり、「気流の鳴る音」を出版した見田さん(真木悠介)のゼミに参加したこともありました。ドンファンから教わった夢の中で覚醒して自分の手を見る夢見の訓練をしたのもこのころです。

文化人類学の学生だったカルロス・カスタネダは1961年から1971年までのおよそ10年間インディオ、ヤキ族のシャーマン「ファン・マトゥス」に弟子入りして、知者の訓練の様子をフィールドノートして10冊以上の書物に残しています。

ドン・ファンは「心ある道」を歩むようにカスタネダに教えました。

文化人類学者の卵だったカスタネダはいつもペンを持ってノートを取るので、「ノートブックは、いわばおまえのひとつの呪術だ。」と呪術師にからかわれました。

ノートと筆記用具を手に持っていたカスタネダにドン・ファンは「歩くときには、手にはなにももつなと言っただろう。ナップサックを買え」と言います。

カスタネダは体の不調を訴えていました。

本当はどうしたいのか体に聞いてみなくてはいけません。

カスタネダは頭で生きていたので盟友の声を聞くことができなかったのです。

私たちが見る事を妨げているのは言葉による思考の分析作用です。

頭の中の言葉で結んだ世界を真実だと思い込んでいます。

カスタネダはおしゃべりで内的経験を損なっていました。

無意識から湧き上がる心を乱すエネルギーに出会わないように身体から頭を分離していたのです。

あるがままの自分を感じるのではなく、しゃべりまくることでそこから逃げてしまっていました。

合理的な解釈でしか世界を見ない頑固なカスタネダに呪術師のドンファンは神話世界を体験させるためカスタネダにペヨーテを食べさせました。

世界をあるがままに見ようとしないカスタネダは最初に「見る」ことを学ばなければならなかったのです。

物事を全体性の中であるがままに理解することをドンファンは『世界を止めて見る』と言いました。

ドン・ファン

「デビルズ・ウィード(幻覚性植物)は知者の秘密へのひとつの道でしかないんだからな。

他にも道はあるんだ。だが彼女の罠っていうのは、お前に道はそれだけなんだと信じこませちまうことなのさ。わしは、たったひとつの道、それに心がなかったら特に、その道のために一生をむだに生きるのはくだらんと言ってるんだ」

カスタネダ

「だけど道に心がないってことをどうやって知るんだい?」

ドン・ファン

「それを歩きはじめる前に聞いてみるんだ、この道には心があるか?とな。答えがノーならお前にはそれがわかる。そしたら別の道を選ばにゃならん」

カスタネダ

「でも、どうすればその道に心があるかどうかはっきりわかるんだい?」

ドン・ファン

「誰にだってわかるさ。ただ問題は誰も聞いてみないことだ」

ドン・ファン

「わしにとっては心のある道を旅することだけしかない。どんな道にせよ心のある道をだ。

そこをわしは旅する。そしてその端までたどりつくのが唯一価値あることなのだ。その道を目をみはって、息もせず旅して行くのだ」

この本は事実かフィクションか随分話題になりました。

本に出てくるカルロスはじれったいほど物分かりの悪い紋切型のステレオタイプとして登場するのでフィクションであることは歴然としています。

本に登場する主人公のカルロスとは作者のカスタネダに内在していた、偏狭的な近代合理主義のマインドを類型化したものだと言えます。

カスタネダが知者への道・戦士の道を歩むプロセスの方が重要なので、そのようなことでは事実かフィクションかは抹消的なことで問題にならなくなります。

カスタネダがナワールを自覚することで自分の無意識の領域、夢、恐怖、病的な神経症の状態を客観視できるようになったことは事実でしょう。

(トナールとナワールは生まれたときから働きはじめる2つの側面で、トナールはマインドが認識する世界でナワールはマインドを超えた世界)

戦士の戦いとは自分のなかのおしゃべりを止めて心のある道をあゆむことでした。

カスタネダは知者の四つの敵(恐怖、明晰、力、老い)を克服して戦士となり世界を自分の狩場に変えました。

そして自分の経歴を消し去り、決まりきった習慣をやめ、人生の課題に対し責任を取るようになったのです。

カルロス・ カスタネダは1998年4月27日カリフオルニア州の自宅で肝臓ガンのため死去しました。カスタネダの死によって著作は終了しました。

最後の著作「無限の本質」でドン・ヘナロは広大な大地を抱き締める仕草をしました。

戦士が旅で拠り所する存在は母なる大地しかないことを教えたのです。

最後の教えは「大地を愛すること」でした。

カスタネダの遺骨はソノーラ砂漠の大地に返されました。そしてこのシリーズは終わったのです。呪術師と私-ドン・ファンの教え 呪術の体験-分離したリアリティ 呪師に成る-イクストランへの旅 未知の次元-力の話 呪術の彼方へ-力の第二の環 呪術と夢見-イーグルの贈り物 意識への回帰-内からの炎 沈黙の力-意識の処女地 夢見の技法-超意識への飛翔

呪術の実践-古代メキシコ・シャーマンの知恵 無限の本質-呪術師との訣別

時の輪/古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙の思索 カルロス・カスタネダ/島田裕巳 呪術師カスタネダ/リチャード・デ・ミル+マーティン・マクマホーン

魔女の夢/フロリンダ・ドナー 呪術師の飛翔/タイシャ・エイブラー

境界を越えてーシャーマニズムの心理学/D・L・ウィリアムズ 気流の鳴る音/真木悠介


https://1000ya.isis.ne.jp/0420.html 【カルロス・カスタネダ 呪術師と私】より

 この本が刊行された1968年はのちに「ターニング・ポイント」とよばれた。

 そのことについては何度も書いているので、ここでは重ねて説明しないが、パリのカルチェ・ラタンに火が吹き、全共闘運動が日本の主要大学を活動停止に追いこんだ。欧米日におこった国際カウンターカルチャー運動の絶巓なのである。

 その後、アジアや中東、あるいは東欧や南米にはこのような運動が類似的におこったけれど、なぜか欧米や日本にはまったくおこらなくなった。このことについてはいずれよく考えてみるべきだろうが、それはここでは措いて、この年にカスタネダの第一弾が放たれたということは、この年にキューブリックの『2001年宇宙の旅』が公開されたこと、スチュワート・ブランドの『ホールアース・カタログ』が創刊されたことと並んで、いろいろ考えさせる。

 ブラジル生まれの文化人類学者というふれこみで、カスタネダがヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファンに学んだ自己体験記録書ともいうべき本書は、『呪術師と私』を嚆矢に『呪術の体験』『呪師に成る』『呪術の彼方へ』というふうに次々に続いた。

 それが、当時はヒッピーとかフラワーチルドレンとかとよばれた若者たちに、ナイーブな砂に水が滲むように波及した。たとえば、このシリーズではしばしば「セパレート・リアリティ」という言葉が使われるのだが、この言葉自体が各所で流行した。

 ぼくが『遊』にスワミ・プラブッタこと星川淳に連載を依頼したときも、この言葉がタイトルに選ばれた。星川君がプラブッタという変わった名前をもっていたのは、彼がバグワン・シュリ・ラジネーシの教団に所属していたからだった。

 カスタネダの本がベストセラーになったのには、いろいろ理由がある。ひとつは初めてメキシコのネイティブ・インディアンの思索と行動を通して、その宇宙観や世界観が紹介されたことである。それは「知恵」ともいうべきものだった。この「知恵」が物質文明や技術文明に毒されている者にとってたいそう斬新だったのである。驚くべき知恵だといってよかった。

 もうひとつは、その「知恵」をヤキ・インディアンの呪術師として登場するドン・ファンがペヨーテ、ダツラ、キノコといった幻覚誘発植物をつかって"発見"したことである。

 このことにも若者は驚いた。すでにロックミュージシャンやヒッピーたちがマリファナやLSDをつかってサイケデリックな知覚イメージの拡張に耽っていることはよく知られていたのだが、ドン・ファンの「知恵」はなんら消費的な快楽と関係のないもので、まさに宇宙的実感を得るためのものだった。

 そのため、マリファナやLSDに代わって幻覚キノコが流行し、ぼくもニューヨークのジョン・ケージの家でこれを勧められたものだった。居合わせたダンサーのマース・カニングハムも音楽家の小杉武久も、それが森の神秘に直結するキノコであることを、まるで神様の提供物であるかのように丁寧に扱っていた。

 ともかくも本書の登場はひとつのセンセーションだった。ヤキ・インディアンがいるメキシコのソノラ州に行く者もふえた。ドン・ファンに会いたがる者も多かった。シャーリー・マクレーンもその一人だった。

 ドン・ファンが教える"定め"を自分の周囲に導入しようという者もふえた。この"定め"はヤキ・インディアン独自のルールによるもので、知者になるための努力をすること、盟友をもつことの重要性、独得のプログラムの実践といったことがあれこれ含まれているのだが、一言でいえば、日常のリアリティから離れて、もうひとつのリアリティに、すなわちセパレート・リアリティに入っていくことが称揚されていた。

 しかし、幻覚剤をつかっても、そんなことが容易にできるわけではない。ついついセパレート・リアリティを形骸的に真似をするだけの者も少なくなかった。そのためか、いっときは実はカスタネダはフィクションを書いただけで、実はドン・ファンなんて呪術師は架空のものだという噂までとびかった。

 そのように形骸的にセパレート・リアリティが流行してしまった原因は、著者のカスタネダにもある。

 というのも、本書は第1部では、ドン・ファンがいろいろな機会で喋ったことを1960年から日付順に報告しているのだが、第2部ではカスタネダが学者のような"まとめと分析"をしていて、発売当時から、これが知識人のあいだでは不評を買っていた。「最上の題材について書かれた最悪の本」という批評も立った。日本で最初に本書に言及した鶴見俊輔さんなどは、カスタネダが石頭だったからこそドン・ファンの貴重な話を根掘り葉掘り聞けたのであって、これはシャーロック・ホームズにおけるワトソン博士の役割として必要だったときわどく擁護したほどだった。

 ともかくもカスタネダの"整理"は、ドン・ファンを真似たい現代の若者にとっては便利でもあったらしく、この本のシリーズで急造のアシュラムやアリー(盟友)の"結社"をつくる者たちがそうとうに雨後のタケノコならぬキノコとなったのである。

 ところで、ぼくは本書を活字で読んだのではなかった。そういうこともあるのだと、いまではすっかり懐かしい体験になっているのだが、本書は何度かの会合で、そのエスキースがとても柔らかい口調で朗読されたのだ。むろん第1部だけである。

 英語であったが、なんとも心地よい。うっかりするとトリップをしそうなのである。ぼくがそのような会合に顔を出したことはすぐに知られ、その後に吉福伸逸や真崎守に誘われるようになった。わずか1、2年のことだったが、そのときに紹介されたのがさきほどの星川淳君である。

 かれらはさかんにマリファナやLSDをすすめたが、どうもぼくには効かなかった。むしろ体がゆっくりし、かえって落ち着いてしまうのだ。ほかの連中たち、たとえばミュージシャンたちにはめっぽう効いた。それも多くはバッドトリップで、たとえば日頃は仲良くしているように見える仲間どうしが、ドラッグをやるにしたがって憎しみあった。

 ぼくには効かないことを不思議がったかれらは、ぼくをとりあえずハイパートリッパーと呼んだ。もともと高速な意識をもっているとドラッグがかえって減速剤の役割をはたすという苦肉の説明だったが、その後は、この手の"実験"をしていないので、真相はわからない。

 カルロス・カスタネダ。いったいその後はどうしているのだろうか。ぼくが知らないだけなのかもしれないが、その後の噂を聞いていない。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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