https://www.keiomcc.com/magazine/review50/ 【ありのままを感じる―フォーカシングが教えてくれること―】 より
4月、桜の開花とともに、入学・入社・異動・転勤など、新しい環境で新たなスタートをきっていらっしゃる方も多いことと思う。ここ丸の内でも、真新しいスーツに身を包んだ新入社員らしき一群を見かけるとともに、プログラム修了生の方々からも異動や転勤、転職のご連絡を頂き、皆さんの新しい門出を感じている。
新しい環境に入る方も、また受け入れる方にとっても、春は、心新たに頑張ろうと、期待や希望に胸を弾ませる季節だろう。
しかし、その反面、慣れない環境、場所、人間関係のなかで、以前と同じようにスムーズにいかないことに戸惑い、悩み、疲れを感じ、自分らしさを見失いそうな方も多いのではないだろうか。
そんな皆さんの参考になれば幸いだが、私は、自分らしさを見失いそうな時、そこまで大げさでなくとも、ちょっとホッとしたい時には、空を見上げ、雲を観察するようにしている。
東京は高層ビルが建ち並び、空が狭いと言われているものの、オフィスの窓から、通勤途中の電車から、ふと見上げる空は高く広がり、刻々と変化していく雲の姿はいつまで見ていても飽きることがない。時間にしてみれば、それほど長い時間ではないかと思うが、日々の忙しさに流され、自分の目の前にあることばかりに圧倒されそうな時には、貴重なひとときである。
空を見上げ、雲を観察しながら、私はふと想う。
「いま、私は何を感じているのだろう・・・」と。
生活をしていくうえで、仕事をしていくうえで、悩みや問題、葛藤はつきものである。しかし、私達の多くが、より大きな成果をあげるため、成功をめざすため、自分の夢に邁進するためには、いつもポジティブに前向きな思考を心がけ、自分のこころの中にある悩みや問題、葛藤からくるネガティブな側面は、嫌なもの、考えてはいけないものとして奥底にしまいこみ、蓋をしているように思う。あるいは、逆にそれら悩みや問題ばかりが大きく膨らみ、他のことを考える余裕がなく、悩みや問題からくる強い気持ちや感情に押しつぶされそうになっている場合もある。
心理学のなかに、「フォーカシング」という療法がある。
1960年代初めに、シカゴ大学のユージン・ジェンドリン(1926-)という哲学者・心理学者が見いだした療法と言われているが、成功した心理療法の多くが、カウンセラーの行為よりも、相談者自身に大きな特長があるという。その特長とは、相談者が自分のなかにある何か違和感に気づき、最初は言葉にできないものであっても、その“なんとなく感じるもの”に目を背けることなく、蓋をすることなく、見つめ、引き出し、そこにあることを感じ、“なんとなく感じるもの”と対話をしてみるという力である。ジェンドリンは、成功した心理療法の相談者の多くがもつこの力を、カウンセリングの技法として「フォーカシング」と名付け、カウンセリングの場のみならず、自分自身でこころを癒すセルフヘルプ(自己援助)の技法として、また大きな決断をする際の正しいと思う選択をするための手がかりとして、創造的な仕事を生み出す際のきっかけとして活用され、広められている。
おそらく、多くの方にとってこのフォーカシングとはどのようなことなのかイメージしにくいことと思う。
例えば、時折、もやもやとした何か漠然とした不安を感じることはないだろうか。スポーツなどでストレス発散をしても、旅に出て日常の風景と違うものを見ても、それらは対処療法にしかすぎず、その“もやもやとした感じ”はいつまでも自分の中に残り続ける。フォーカシングでは、その“もやもやとした感じ”を否定したり、見て見ぬふりをするのではなく、思いきってその感じとつきあい「どのようなものなのか」味わってみようというものである。
しばらく静かに、その“もやもやとした感じ”と向き合ってみると、その感じは何かを伝えはじめる。最初は言葉にできない、単に漠然としたものが、次第に、形がみえ何かを訴えかける。
それは、もちろん人それぞれであり、一様に説明をすることは難しいのだが、私の場合、「最近、忙しくて嫌だ。何かに追われているような感じでイライラするなぁ。」といった時、肩から背中にかけて何か重いものを背負っている感じがある。それを嫌なものとして無視するのではなく、また仕事の進め方やタイムマネジメントが悪いからといったように自分を責めるのではなく、ただ単に“何か重い感じ”をじっと感じるのである。そうすると、その“何か重い感じ”は少しずつ形を変えて、姿をみせる。
自分の心のなかにはさまざまな部分があって、「頑張ろうという前向きな自分」「イライラしている自分」「仕事に忙殺されそうでビクビクしている自分」「ダラダラとのんびりしたい自分」・・・いろいろな面がある。これらすべてが“私”そのものなのである。
ここまで説明すると、フォーカシングとは特別なことではなく、人間誰もがもちうる力なのではないかと思われる方も多いはずだ。その通り、フォーカシングとは、誰もが自然に身につけている技能であり、新たに発見するものでも、発明されたものでもなく、ましてや特別な道具が必要なわけではない。
現在のように激しい環境の変化、数多くの情報のなかで、時代の流れに遅れまいと必死に適用し対応しようとするがあまり、私たちが従来は自然におこなっていた「ありのままを感じる」という力が弱くなっていると言われている。特に、ビジネスという具体的な成果や結果が求められるなかにおいては、ポジティブな自分ばかりを尊重し、ネガティブに考えていく自分を卑下し押しやる傾向が強い。もちろん、このポジティブな面は自分のもつ大切な一面であり、さらに伸ばしていくに越したことはないかもしれない。ところが、それを長期にわたって続けていくうちに、一方の気持ちばかり重んじるがあまり、自分が本当はいったい何をしたいのか、何を求めているのかがわからなくなり、自分の気持ちについても、ひいては他者に対しても鈍感になり感じる力の弱い人間へとなっていく。
フォーカシングという技法は、「ありのままを感じる」ことを意識的に行うことによって、日常しまい込んでいる自分の新たな一面に気づいてみようというものである。悩みや問題、葛藤のなかにある強い気持ちや感情に押しつぶされるのでも、否定するのでもなく、それを認め、ほどよい距離を置き、そこからどんな感じがするのかじっと耳を傾けることが大切なのである。問題や悩みは、それにあまりにも近く寄りすぎると全体が見えないものであるが、距離を置いて少し離れたところから見ることにより、その問題の新しい側面や、その問題に対して強い感情や意識をもっている自分に新しい発見があるかもしれない。
4月、新しい環境のなかで、何か漠然とした曖昧な気持ちを抱えているのであれば、ふと空を見上げ自分に問いかけてほしい。「いま、何を感じているのかな・・・」と。自分自身に向き合い、対話をすることによって、きっと新しい自分を見つけ出すことができ、今まで気付かなかった自分の持つ力にめぐり会えることができるはずだから。
(保谷範子)
Facebook・相田 公弘さん投稿記事
「何を持つか」 坂村真民
木は 気を持つ 石は 意志を持つ あなたは 何を持つか
「竹」
竹を見ると 一貫の道というものを 教えてくれる思いがする
朝に見る竹 夕べに見る竹 朝に聞く竹 夕べに聞く竹
「朝顔夕顔」
朝は朝顔の花のように あかるく輝いていたい
夕は夕顔のように ほんのり匂うていたい
「花仏人」
うつろいやすきを花といい つねにいますを仏といい かなしきを人という
https://xn--n8j9do164a.net/archives/7583.html 【俯瞰と客観的の違い!自分を見る時はどっちがいいの?】より
「物事を客観的に見る。」なんて良く聞きますよね。「客観的」程は耳にしないかもしれませんが、「物事を俯瞰的に見る。」という表現もありますよね。
文章も同じような感じですし、意味も似ている感じがします。これ、同じように使われていますが、何か違いがあるのでしょうか?「客観的」をちょっと難しく言っているのが「俯瞰」なのでしょうか?そんな認識で合っているのか・・・???気になってきますよね。
そこで!今回は、同じように使えて、違いが良く分からない「俯瞰」と「客観的」の違いについて紹介していきます。
それぞれの言葉の意味を見ながら、違いがあるのかどうか、掘り下げてみましょう!
それぞれの意味
それでは早速、それぞれの意味からチェックしていきましょう!
「俯瞰」とは?
まずは「俯瞰」から見ていきましょう。
馴染みがないと読み方に悩むかもしれませんが、「ふかん」と読みます。
では、意味の方はどうでしょうか?
「俯瞰」の意味 高い所から見下ろすこと。全体を上から見ること。「俯瞰」だけだと、上のような意味になります。「上から見下ろしている」って感じですよね。
「客観的」とは意味がちょっと違いますよね。
でも、「俯瞰的に見る」「俯瞰して見る」と言った表現になると、ちょっと意味に広がりが出てきます。
「俯瞰的」の意味
広い視野でものごとを見る。大局的な視野に立つ。客観的に全体像をとらえる。
これだと、かなり「客観的」っぽいですよね。
でも「似てる」とか言う前に、「客観的」の方も意味を確認しておきましょう。
客観的とは?「俯瞰的」と似ている感じのする「客観的」。
敢えて意味を調べることって、あまり無いかと思います。
そんな言葉こそ、意味を確認しておくのも大事なものです。
「客観的」の意味 主観または主体を離れて独立に存在するさま。
特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。
「特定の立場にとらわれない」と言うのがポイントですよね。
ただ「他人の立場に立って考える」というのは「客観的」とは言わないんですね・・・
さて、「俯瞰的」との意味の違い、分かりましたか?
次の項目でまとめていきましょう。
俯瞰的と客観的の違い
それでは、「俯瞰的」と「客観的」の違いについて見ていってみましょう。
先ほど、「客観的」の意味を紹介した時に触れたポイント。
そのポイントに違いに繋がるものがあるんです。
物事を見る時に、「特定の立場にとらわれない」のが「客観的」というお話をしましたよね。
例えば、AさんとBさんが喧嘩をしていたとします。
どちらに非があったのかをCさんに聞いたとしますよね。
CさんはAさんの立場にも立たず、Bさんの立場にも立たずに単純にどちらに非があったかを述べたとします。
これが「客観的」ということです。
これは、「第三者の立場に立って物事を見る」ということでもありますよね。
一方で、「俯瞰的」のほうは「全体を見ている」ことですよね。
言い換えれば、「誰の立場にも立っていない」んです。
先ほどのAさんとBさんの喧嘩の話で例えるなら、二人の喧嘩の原因や、Aさんが怒るに至った背景、Bさんが怒るに至った背景まで見た上で、どちらに非があったのかを見るのが「俯瞰的」ということなんです。
客観的に見たらAさんに非があったかもしれないけれど、俯瞰的に見たらBさんに非があった。なんてことも有り得そうですよね。
自分を見る時はどっちがいいの?
さて、生きていると色々な場面で自分を省みることが出てきますよね。
そんな時、自分を客観視する 自分を俯瞰するどちらを使うのか、悩みませんか?
上で紹介した意味や違いを見ても、自分に当てはめる時はどっちでもいいような、どっちも大事なような、そんな気がしてきますよね。
ですが、結構良く言われるのは、俯瞰力というやつなんです。
自分を俯瞰する力のことを「俯瞰力」と表現したりします。
この「俯瞰力」、身につけられるとバランスよく生きて行けそうですよね。
人間関係や、その場の状況、仕事の配分・・・
色々な事を上から眺めて見れれば、余計なトラブルを回避したり、仕事がスムーズに進んだり、良い事がたくさんありそうです。
そして、おそらくですが、「この人は頭のいい人・・・!」という評価が貰えそうですよね!
まとめ
今回は「俯瞰」と「客観的」の違いについて紹介しました。
パッと見はとても似ているのですが、微妙に違う意味合いの言葉でしたね。
言葉遊び感もあって、こんがらがってくるので、ちょっと違いをまとめておきましょう。
「俯瞰(的)」と「客観的」の違い
俯瞰(的):誰の立場にも立たずに、広い視野で全体を考えること。
客観的:第三者の立場に立って考えること。
「客観的」からもう一歩掘り下げたのが「俯瞰」と言った感じですよね。
自分のことを見る時は、「客観視する」といった感じでも使えますが、より広い視野で自分のことを考える力を「俯瞰力」とかって言います。
この俯瞰力を身につけるのは、とても良さそうですよね。
俯瞰力をいきなり身につけるのは難しいですが、日常の中でちょっと考える癖をつけていくと徐々に俯瞰力が磨かれていきます。
常に疑問を持つこと
物事の目的や理由を考える
感情で動かない
広い知識を持っている
物事を多角的に見る
こういったことをなるべく意識していると、俯瞰力を磨く訓練になります。
意外と難しいのですが、何か行動を起こす前に一呼吸置いて、「何か考え足りていないかな?」「この行動を起こすと、周りの人たちはどう動くかな?」と考える時間を持つ癖をつけるのもいいかもしれません。
物事をきちんと分析する習慣も付いていって、色々と良い影響が期待できそうですよね。
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