生きものであること人間であること

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私たちが、ネコや、カや、ゾウや、ナノハナと同じ生きものであること。同時に、それらのどれともちがう、人間であること。このことは、私たちの日々の営みや、暮らす社会にとって、どのような意味を持っているのでしょうか。みなさんといっしょに、考えていきたいと思います。

連載1回

他人事はどこにもない──「私たち」の中の私

 今考えていることを月に1・2回書いてみませんかというお誘いを受けて、すぐに浮かんだのが「他人事はどこにもない」という言葉でした。

 私は長い間(実際の年数を書くと60年ほどになり、自分でも、えっこんなに長くと驚いてしまうほどですので、ぼかした方がいいかなと思いまして)、「生きているってどういうことだろう」と考えてきました。30年ほど前からは「生命誌」という新しい知を創ることに努めています。生きものは考えれば考えるほどわからないことがふえる一方、日常の中であっそうかと思うことも多いので、楽しみながらの「知の構築」に日々努めています。

 考えは、社会の動きにも影響されます。今年は2021年、忘れもしない2011年3月11日の東日本大震災から10年です。あの時、これで社会が変わるのではないかと直感したことを思い出します。福島県大熊町にある東京電力福島第一原子力発電所を津波が襲い、関係者が起●こ●る●は●ず●が●な●い●と言い続けていた事故が起きました。事故が決して起きないなどということはあるはずがないのですが。そこで、自然・人間・科学技術の関係を生命誌の視点から考え、やらねばならぬことを『科学者が人間であること』(岩波新書)としてまとめました。科学と自然、人間と技術などと並べて両者の関係を考えるのではなく、科学を進める人、つまり科学者が、自然の一部である人間としてどのような世界観を持ってどのように生きるかということが大事だと思ったからです。

 それから10年を経た今、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックという思●い●も●よ●ら●な●い●ことが起き、世界中の人が外出もままならない生活を送っています。東日本大震災の時は起こるはずがないと書き、今度は思いもよらないと書きました。原子力発電所は人間がつくったものであり、ウイルスは自然界のものなのでこんな風に書き分けましたが、いずれも現代人が、日々の暮らしは思い通りに動いてあたりまえと思っているために出てくる言葉です。ここに現代社会を生きる私たちの考えの片寄りがあります。

 実は、東日本大震災での事故も新型コロナウイルスと同じように自然が引き起こしたものです。日常身のまわりで使っているものはほとんどが人工物、つまり私たち自身がつくったものです。それは原則私たちの思い通りに動きます。もちろんそれだって壊れたり、うまく動かなかったりはしますけれど、通常は思い通りになると思って使っています。ところが、自然はそうはいきません。遠足や運動会の日に限って雨降りになったりしませんでしたか。テルテル坊主に願いをこめたのに、朝起きてみたら雨。ダメじゃないかとテルテル坊主に怒りをぶつけてもしかたありません。私の場合、学生時代からの仲間でテニスをしようとすると必ず雨になるというジンクスがあり、小雪の中で雪かきをしながら決行したこともあります。

 横道にそれましたが、「思い通りになるものではなく、思いがけないことだらけ」という自然と向き合って生きるという意識は、日常から非常時まで大切にしなければなりません。

 東日本大震災の後、これで社会が変わると思ったと書きましたが、10年経った今、そうならなかったと言わざるを得ません。直接被災しなかった人は、忘れているようにさえ見えます。そこへ新型コロナウイルスのパンデミックです。パンデミックですから、世界中の人が関係者というところに特徴があります。一人一人が手を洗い、マスクをし、密を避けるという日常の行動を責任をもって行うことが社会のありようをきめるのです。つまり今度は、「科学者だけでなくみんなが(自然の一部としての)人間であること」、つまり「人間が人間であること」がテーマになります。

 あたりまえ過ぎるくらいあたりまえですが、ていねいに考えていくと大事なことが見えてきます。もう一度確認します。自然と人間、人間と技術、人間とウイルスなどと間に「と」を入れて考えると、自然、人間、技術のそれぞれが独立したまったく別のものになってしまいます。そのように考えたのでは、「人間が人間であること」という課題を考えることはできません。人間は自然の中にいますし、技術は人間がつくったものです。人間とウイルスも自然の一つとして関わり合っていることは、生命科学研究で明らかになっています。これらについて追い追い考えていかなければなりません。このように、すべてを人間、つまり「私」が関わっていることとして捉えるのが、これから考えたいことです。

 今、緊急の課題としている地球環境問題を例にとりあげますと、多くの人がそれを「他人事」と考えているのだと、先日ある新聞記者に教えられました。大気中の二酸化炭素は増え、海中のマイクロプラスチックの増え方はそれ以上と言われても、今の生活は当分続けられそうだ。大変なことが起きるのは先の話だろうとなり、自分とは無関係と考える人が少なくないと言うのです。そこで「他人事」になるわけですが、とんでもない話です。環境の問題は、今を生きる一人一人の生き方、考え方がその行方をきめることなのです。まさに私のことなのに、どうしてそんな風に言えるのですかとわ●た●し●(この文では、一人一人のことを私として考えますので、その時は漢字で書きます。この文を書いている私、つまり中村桂子のことを言う時はわ●た●し●と平仮名にして区別します)は疑問に思うのです。

 わ●た●し●がそのように考える理由は、長い間、生命誌という生きものを見つめる分野に携わってきたために、「人間が人間であること」という時の人間は、「生きものであり、自然の一部である」という事実を踏まえているからです。この連載では、これを基本に置き、「私たち生きもの」という意識から生まれる世界観(つまり生き方)を考えていきます。通常、私たちと言えばまず家族や友人から始まる人間関係として考えるものですが、そこから入ると現代社会の価値観が入り、家族とは何かという社会的問題から考えなければなりません。通常私たちという言葉はまず家族や友人、更には地域の人々から始まり、日本人という私たち、地球上の人類という私たちというように意識が広がっていくところを捉えていくものでしょう。最初に書きましたように、生命誌としては「生きものだって私たち」ですというところに重きをおきますので、ここではまず、「私たち生きものを考える」ところから入ります。その考え方で生きものの一つとしての人類を考え、人間社会も見ていくという順番で進めることによって、現在の社会で常識とされている、一律の価値観の中での競争に勝つことを求めるとか、効率よく事を進めることでよりよい成果が出せるというような価値観に縛られずに自由に考えることができるという利点があります。生きものから始めると、一番身近な家族に到達するまで長丁場になりますが、ゆっくりと考える時間におつき合い下さい。

 日常と言えば毎日の食事、子育て、学び、遊び、病気や介護などなど、やらなければならないことがたくさんあります。これはどれも、私たちが生きものだからこそ日々行っていることですから、話を進めていくにつれてこれらの課題が出てきますので、その都度生きものという視点で考えていきます。

 ところで、地震や津波や新型コロナウイルスを例に、「思い通りになるものではなく、思いがけないことだらけ」というのが自然であると書きました。人間は生きものですから、これから考えていく人間も思い通りになるものではなく、思いがけないことだらけとなりそうな気がします。これはちょっと面倒なことですが、一方で、きまりきったことばかりよりもこの方が面白いという見方もできます。一筋縄ではいきそうもない生きものとしての人間を考える旅です。

 この旅の案内図を書きました。私はいつも私たちの中にいます。だから、私にとって他が関わるものやことはすべて関わりあり、つまり「他人事はどこにもない」という図です。

 因みに、新型コロナウイルスの場合、感染しても無症状である場合が少なくないことから、手洗い、マスク、密を避けるなどの行為は自分の身を守ると同時に他人への感染を抑えるために必要なこととされます。自分が無症状の感染者かもしれないからです。そこで、利他の重要性が指摘されています。ここでは、そもそも私は私たちの中にいるのであり、それを基にした行動は利己でもなければ利他でもなく、私たちの中の私としての行動に他ならないというのが重要なポイントです。

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 もう一度図1を見て下さい。すでに述べたようにここでは一番外側にある「私たち生きもの」から考え始めましょう。

図1

 東日本大震災の後、よく聞かれたのが絆という言葉でした。大きな災害から立ち直る時、私は一人ではないのだと思えることがどれほど大事であるかは言うまでもありません。ですから絆という言葉が求められたのは当然です。けれどもここに少し煩わしさを感じた方も少なくなかったように思います。絆は本来、犬や馬などの動物をつなぎとめておく綱をさす言葉であることを考えると、そこにある強いつながりが同時に束縛感にもなるからではないでしょうか。

 そして今、COVID-19のパンデミックの中でよく聞くのが「利他」です。これも、今の社会の状態を考えた時に必要なことであり、大事な言葉とされて当然だと思います。感染拡大を抑制するには一人一人が手を洗い、マスクを着用し、密を避けることが求められます。これは自身が感染しないための行為であると同時に、自身が感染源にならないための行為でもあります。このウイルスは、感染しても無症状の場合が少なくないので、気づかぬうちにウイルスの媒体になっている危険がありますから。マスクをするのは、少し大げさに言うなら「利他」の行為になるわけです。ここから始まって、医療従事者、感染の危険を感じながら人中で働かなければならないエッセンシャルワーカー、経済活動がままならぬ中で職を失う人などへの思いやりとそれに基づく行動が重要であると多くの人が気づき、そこから「利他」への関心が高まったのでしょう。思いやりは、人間の特徴を考えるうえで大切なことであり、利他への関心が高まったことは評価できます。

 ただ絆や利他という言葉には、面倒なことをやらなければならないという感覚があり、そこでは孤立した個が前提になっています。今大事なのは、私という存在を、まず私たちの中にあるものと捉えることではないか、それが今強く思うことなのです。近代社会は、個の確立を強く求めました。もちろん一人一人は大切ですが、一方で人との関わりなしでの暮らしはあり得ません。私たちあっての私という方が自然です。

 「私たち」について、もう一つお断りしておきたいことがあります。私たちというと、全体が優先されて個は犠牲にされるのではないかという疑問をもつ方があるのではないかと懸念します。全体主義と呼ぶ、民主主義と対峙する社会です。全体主義が支配する社会はこれまでに実在しましたし、権力者は自分とは異なる考えを許容したくないと考えがちではあります。今ここで考えたいのは、そのような状況ではありません。独立した個人である「私」が、自分自身を常に「私たち」という広がりの中に置いている生き方です。私にこだわるよりもはるかに解放感のある、開かれた存在としての自分になれるのが、今考えたい「私たち」の中の私です。主体はあくまでも私でありながら、それがいつも私たちの中にある。この時の解放感を、わたし(中村)は多様な生きものの中に自分を置く生命誌という知を考える中で実感してきました。それを社会の基本に置きたいと思っているのです。私たちを身近な家族や友人からでなく、図の一番外側から考え始めたのはそのためです。

図2.【生命誌絵巻】協力:団まりな 画:橋本律子

 これが、「私たち生きもの」を表現した絵です。「生命誌絵巻」と呼んでいます。大学では化学を専攻し、さまざまな物質がお互いに反応するとまったく違ったものに変わるという面白さに惹かれて、実験を楽しんでいました。H2+O2→H2O 水素と酸素はそれぞれ気体ですが、それが一緒になってできた水は液体にも固体にもなるというまったく新しい性質をもちます。見えないところでこんなことが起きて世界ができていると考えるのを楽しみながら三年生になった時、先生が「最近こんな面白い構造の物質が見つかったんだよ」とおっしゃってDNAについて話して下さいました。今ではおなじみの二重らせん構造です。びっくりしました。こんな構造の物質が存在し、しかも体の中ではたらいていると言われてもすぐには信じられず、クラスメートと一緒に竹ひごと紙粘土でモデルをつくって確かめました。こうして納得したところからわたしのDNAへの旅が始まり、今に続いています。構造が美しいと思うところから興味をもったDNAですが、少し勉強してみると、これは地球上にある生きものすべての遺伝子、つまり基本物質であることがわかり、関心が深まりました。個人的なことを長々書きましたが、知りたいという気持ちの始まりは面白そうというところにあり、それがあると関心が深まっていくと感じでいるので、確かにDNAってきれいな形だなと思って下さるところから始められるとよいと思ったものですから。

 絵巻に入ります。まずここで見ていただきたいのは、扇の天(上のところ)です。ここにはさまざまな生きものが描いてあります。なにか、お好きなものを探し出して下さい。ひまわり、ゴリラ、カワセミ……地球上には数千万種とも言われる多様な生きものが、さまざまな場所でさまざまな暮らしをしています。分類され、名前がついているものが180万種ほど。まだまだ知らない生きものの方が多いのが現状です。ひまわり、ゴリラ、カワセミ……を例にあげましたが、それぞれ魅力があり、どちらの方が優れているかという比べ方をしても意味がありません。多様性を楽しむのが生きものに接する基本ですが、先述したDNAは、ここに興味深い視点を持ち込みました。これほど多様な生きもののどれもが、DNAを遺伝子としてもつ細胞から成ること、どの生きものの中でもDNAは基本的に同じはたらき方をしていることが明らかになったのです。ひまわりもゴリラもカワセミも……単細胞生物であるバクテリア(絵巻の右端に描いてあります)も基本は同じです。この事実と、生きものは進化をするというこれも生物研究によって明らかにされた事実とを組み合わせて考えると、「地球上の生物は、どれもDNAを遺伝子としてもつ一種の祖先細胞から生まれてきた」という答えが出ます。では、その祖先細胞はいつどこで生まれたのか。必ず出てくる問いであり、多くの研究が行われていますが、まだ答えは出ていません。でもそれほど遠くない将来に「生命の起源」の謎は解けそうなところまで来ていますので楽しみです。それは他の星にも生命体はいるのだろうかという問いにつながり、それを探す新しい研究も今まさに始まっているところです(また横道に入っていきそうなので、この話、つまり宇宙生物学の話はここで終わりにし、またいつか機会を見つけてお話します)。

 祖先細胞に戻ります。化石研究から、少なくとも38億年前の海には細胞が存在していたことがわかっていますので、扇の要は今から38億年前。そこに祖先細胞がいたことを描いています。地球上のすべての生きものは共通の祖先をもつ仲間であるという事実を知ると、生きものを見る眼が変わりませんか。もう一つ、仲間意識をより強くする事実があります。扇の要から天までの距離は、どの場所をとっても同じです。右端に描いてあるバクテリアは生命の起源に近い頃に生まれた古くからの生きもので、たった一つの細胞として生きています。眼には見えませんが、私たちの身のまわりや体の中で生きているバクテリアは、38億年という長い時間、分裂を続けてきた結果、今ここに存在しているのです。アリやチョウなどの小さな昆虫も、38億年の進化の中で今を生きている仲間です。つまり、38億年という長い歴史を背負って生きているという点では、どの生きものも同じです。いのちの重みという言葉を使う時、そこにはさまざまな意味がこめられていますが、その一つにこの長い長い時間があることは確かでしょう。その意味でのいのちの重みは、草や昆虫でも、ライオンやゾウでも変わりません。小さな虫などは気軽に潰してしまいがちですが、38億年という時間がなければ存在しなかったものとして見ると、いのちの重みを感じます。このように、多様な生きものの背後にある共通性が明確に見えてきたのが20世紀の後半であり、21世紀はこの事実を生かしていく時代です。

 最後に、私たち人間もこの絵巻の中にいるというとても大事なことに眼を向けましょう。絵巻の左端にいる生きものはヒト、つまり私たち人間です。これまでの話の流れの中では、ここに私たちがいるのはあたりまえです。

 けれども、日常の暮らしの中ではどうでしょう。人間はこの扇の外、それも扇より上に位置していると思っているのではないでしょうか。絵巻を見ながら生きものについて語るなら、人間は多様な生きものの一つとなります。けれども日常、環境問題を語る中で生物多様性という時は、自分は扇の外にいて、”多様性を大事に“と言ってはいないでしょうか。それがよくわかるのが、”地球にやさしく”というキャッチフレーズです。とてもすばらしく聞こえますし、この言葉を口にする時の気持ちは尊重したいと思いますが、生命誌絵巻を描いた立場からは、それって上から目線ではありませんかと問いたくなります。自分も絵巻の中にいる、つまり中から目線で生きものたちを見ると、私たちを仲間としてやさしく見て欲しいと思うこともしばしばです。もちろん私たちも他の生きものへのやさしい眼ざしをもつことは大事ですが、この時上からでなく中から目線になると、さまざまな生きものたちとの仲間感覚が自ずと生まれることに気づくはずです。

 上から見ている時は、知らず知らずのうちに私たち人間の方が他の生きものより上等だと思っています。実は生物学でも以前は下等生物、高等生物という言葉を使っていました。バクテリアはたった一つの細胞で生きていますので単細胞と呼ばれますが、あまりよくものを考えない人のことを「単細胞だから」などとからかっていました。昆虫は虫けらと呼ぶなど、なんとなく軽く見ていたのです。けれどもDNA研究が進み、それぞれの生きものの生き方を調べてみると、食べ物を消化したり、体に必要なエネルギーをつくるという基本のはたらきはどの生きものも同じ遺伝子によって同じように進められていることがわかりました。しかもどの生きものもそれぞれなかなか巧みに生き、38億年という長い間いのちをつないできたことが明らかになるにつれ、下等生物、高等生物という感覚は消えていったのです。今ではこの言葉は使いません。

 こうして多様な生きものたちの生き方を見ていくと、同じだなあと思うところ、なんて巧みに生きているんだと感心するところが次々と出てきますので、自ずと「私たち生きものの中の私」という感覚が身につきます。生きものであることが楽しくなってきます。豊かな心をもち、自由な広がりの中に自分を置くことができます。もう一度絵巻を眺めて多様性、その底にある共通性、38億年という長い歴史、その中での生きものたちの関係……そしてその中にいるヒト(人間)である私を思い描いて下さい。そこに絆や利他という言葉を越えた広がりを感じとっていただけたら嬉しいのですが。これは知識として学ぶというより感覚的にわかるものですので、押しつけてもまったく意味がありません。生命誌研究館へ何度も来て下さって、ある時「私たち生きもの」ということがストンと納得できましたと言って下さった方があり、嬉しかったのを覚えています。


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 「私たちの中の私」として自身を捉えていく時、まず「生きものという私たち」から始めると空間的にも時間的にも広いところに自分を置くことができ、大らかになれると思いますというところで前回は終わりました。

 私たちは日常さまざまな生きものと共に暮らしています。イヌやネコを初めキンギョやカメなどペットも多様です。散歩の途中に出会うさまざまな花に心慰められる方も多いことでしょう。まず「生きもの」に注目したのは特別のように聞こえたかもしれませんが、他の生きものたちのいない地球はきっとつまらないものでしょう。「私たち生きものの中の私」には、楽しさがあります。ところで今回は、このような日常とは少し違い、眼には見えず人間からは一番遠いと思われているバクテリア(細菌)に注目します。実は、それが思いもかけず近い存在であり、しかもそこにはウイルスまで関わっていることが分かってきましたので。

1.膨大な数の細菌と共生

 「私」と言う時には、他の誰でもない私、両親から遺伝子を受け継いだ私を意識するのが当然です。ただ、私たちの体には膨大な数の細菌が存在しており、それが「私」という存在に関わっていることが明らかになっています。腸内細菌という言葉はよく聞かれますし、健康との関係で関心をお持ちの方も多いのではないでしょうか。腸内での細菌のはたらきが重要なので、この言葉で代表されますが、細菌が存在しているのは腸だけではありません。皮膚、口腔、消化管(食道、胃、腸)、呼吸器系、膣など、体表面と呼ばれるところにはどこにもいます。皮膚は表面とすぐわかりますが、ここにあげた体内はすべて表面なのです。人体は、口と肛門が上下の開口部になった筒ですから、体の中も実は外とつながった表面であり(体の中が外だとは面白いですね)、そこに空中にある細菌が定着するのです。

 その数はおよそ50兆個〜100兆個、重さにして1〜2㎏あるとされます。細菌の種類も500〜1000種と多様です。私たちの体を構成している細胞数が37兆個と言われていますので、数にすれば細菌の方が多いのです。

2.腸内細菌とは何だろう

 体内に常在する細菌は、ただそこにあるというだけのものではなく、さまざまな部位にいる細菌にはそれぞれの役割があります。なかでも量が多く(90%ほど)はたらきも重要なのは腸内細菌ですので、それに注目します。ビフィズス菌、乳酸菌などなじみの名前の細菌はどれも嫌気性菌と呼ばれ、酸素のないところでしか増殖しません。

 ところで、私たちが胎児として存在する母親の子宮内は無菌です。「私」の出発点は両親から受け継いだ遺伝子のはたらきで生きている純●粋●な●「私」なのです。産道を通る時に母親の体内にある菌が入ります。産声を上げてこの世の空気を吸えば、1兆個以上の細菌が入り込み、それあっての「私」になります。成長につれて細菌の種類や数が変化し、成人型の腸内細菌叢(そう)ができあがり、加齢につれて老人型になっていくのです。加齢と共に増えるのはウェルシュ菌や大腸菌など腸内腐敗のもととなる菌なので、これを抑えてビフィズス菌が優勢な状態を保つことが老化を防ぎ、健康に暮らすためには重要であることもわかってきました。

 各人の腸内細菌叢の定着の仕方はまだわかっていません。乳児の時に乳を通して母親から受け継ぐものと食物など外から入るものとの組み合わせであるには違いありませんが、生活の場を共有している家族に必ずしも類似性は見られません。双生児でも腸内細菌叢は異なることが知られており、一人一人違っているとしか言えません。つまり、両親から受け継ぐ遺伝子も「私」として特有ですが、腸内細菌として存在する遺伝子も「私」特有なのです。両親からの遺伝子の総体をゲノムと呼ぶのに対し、腸内細菌叢など、外から来たのだけれど「私」に特有の遺伝子の総体をメタゲノムと呼びます。両者が合わさっての「私」です。

 私たち生きものの一つとして最も早くから登場し、最後に登場した人間とは遠く離れた存在と位置づけられる細菌を内に存在させた状態でしか私は存在せず、しかも細菌叢は一人一人違って「私」を成しているというのですから、生きものの世界は面白いです。「私たち生きものの中の私」という視点の大切さを感じとっていただけたでしょうか。

3.細菌とのつき合いの歴史

 生きものは多様であり、人類は長い間それを利用してきました。けれども細菌は見えませんので、その存在は長い間知られていませんでした。16世紀の終わり、顕微鏡が発明され、透明に見える池の水の中に小さな生きものたちがたくさんいることを知った人々は驚きました。興味深いことに、顕微鏡を最初につくったのは眼鏡屋のヤンセン父子、それを使って微生物を観察したのは市民でした。今でも、顕微鏡観察を楽しむ方はありますが、でも生物学者という専門家の研究器具とされてはいないでしょうか。これが、皆で私たち生きもの仲間を楽しむ道具として登場したことを忘れないようにしたいものです。

 それから100年近くたった17世紀後半になって研究者の視野に入ってきた細菌は、19世紀になって病原体として同定されます。1860年代、フランスのルイ・パストゥールが、煮沸した肉汁に空気が入らない工夫をしておけば腐らないこと、しかも空気が入った途端腐り始めることを見つけました。空気中の微生物が肉汁の中で増えたのです。これは「生物がないところから生物は生まれない」、逆に言うなら「生物は生物からしか生まれない」という重要な発見となりました。

 病気になるのを一種の腐敗ではないかと考えていた当時の人々は、病気も細菌で起きるのではないかと考えるようになりました。具体的な答えを出したのはやはりパストゥールでした。当時家畜で流行し、時に人間にも感染していた炭疽(たんそ)病の原因が細菌であることを示したのです。同じ頃、ドイツでもロベルト・コッホが同じ病気の原因を探っていました。このように、まったく新しい研究が同時に別のところで始まる例は少なからず見られます。研究も社会とつながっており、今必要なことは何かを鋭く感じ取る能力をもつ研究者が大事な仕事をすることを示す事実です。実はこの頃、熊本にいた少年北里柴三郎が後にコッホの弟子になり、破傷風菌という嫌気性で扱いの難しい細菌を病原菌と同定するみごとな研究をします。北里については語りたいことがたくさんありますが、ここでは省略します。

 このように人間と細菌のつき合いを研究の歴史から見ると、長い間病原体と位置付けられてきました。以前は黴(ばい)菌と言って、そこにはどこか悪いもの、汚いものというニュアンスがあったのはそのせいでしょう。細菌は決してそういうものではなく、私たち生きものの仲間であり、人体に不可欠なものとして常在している。最近はこう理解されるようになりました。病原菌への対処が重要であることはもちろんですけれど。

4.腸内細菌叢の役割

 腸内細菌叢は、私たちの健康を支えてくれる存在です。大量に存在していますので、ヒト本来の遺伝子の数25000ほどに対し、細菌のそれは330万と言われ、それがさまざまな代謝産物をつくっています。血液中の物質の三分の一ほどが細菌生産のものであったという報告もあります。その中にはビタミンや短鎖脂肪酸などの有用物質があり、健康を支えています。もっとも発がん促進物質などの生産も見られます。腸が深く関わっている免疫系、肥満、更には精神疾患、学習などの脳機能への影響など、生きることのすべてに関わっているとしかいえない報告が次々なされています。食べ物、運動などの日常が細菌叢の状態をきめます。人間のありようを決めるのは「遺伝か環境か」という問いが古くからありましたが、現在の答えは「遺伝も環境も」であり、むしろ「環境を通しての遺伝」となります。

 「私」は、体内常在菌叢まで含んでの私であり、まさに「私たちの中の私」として見ていくことでその本質が見えてくると言えましょう。実は最近、ウイルスも常在していることが分かってきました。ウイルスもあらゆる臓器にあり、とくに神経系が注目に値します。その数380兆個といわれ、細菌を上回ります。体内の細菌に感染するウイルス(ファージ)も多く、これまで以上に「私」は複雑になっています。ウイルス研究は今後急速に進むでしょう。どのような姿が見えて来るでしょうか。「私」はなかなかダイナミックな存在です。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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