赤尾兜子の百句

藤原龍一郎 著『赤尾兜子の百句』ふらんす堂

秋炊ぐ聖書に瓦斯の火がおよぶ  赤尾兜子

音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢  同

さしいれて手足つめたき花野かな  同


https://furansudo.ocnk.net/product/2767  【藤原龍一郎著『赤尾兜子の百句』(あかおとうしのひゃっく)[9784781413730]】より

◆異貌の多面体

秋炊ぐ聖書に瓦斯の火がおよぶ

(『蛇』所収)

第一句集『蛇』の第一部「学問」の章に置かれた一句。この章は戦争中の昭和十九年から二十三年までの作を収めてある。大正十四年生れの赤尾兜子は満年齢が、昭和の年数と一緒なので、この句は兜子が二十歳前後の作。京都大学文学部中国文学科に入学した頃か。

 兜子の年譜には特にキリスト教や聖書に興味を抱いたという記述はないので、これは教養を深めるための読書として、聖書を読んでいたのだろうか。煮炊きを待つ間に、聖書を読む学生。ガスの火の青さが青年の知への欲求を照らし出しているようだ。

(本文より)

*

赤尾兜子の俳句は異貌である。百句鑑賞執筆のためにあらためて兜子俳句を精読して、かねてから思っていたその認識は、いっそう強いものとなった。昭和三十年代、赤尾兜子の名が俳壇で知られ始める時期の俳句は、第一句集『蛇』と第二句集『虚像』に収められているが、このころの兜子の作品は伝統派の俳人はもちろん、同志であった前衛派の俳人の誰とも似ていない。前衛俳句とレッテルを貼ろうとしても、兜子の作品はそこから大きくはみ出している。それは兜子俳句としか名づけようがない異様なオリジナリティに満ちている。

この本の百句鑑賞では、あえて、編年体をとらず、まず、その異貌が感受できる兜子秀句三十三句を第一部として置き、第二部に『稚年記』から『玄玄』までの作品から六十七句を編年順に並べて鑑賞した。


https://fragie.exblog.jp/32293715/ 【藤原龍一郎著『赤尾兜子の百句』が出来上がる。】より 

赤尾兜子の作品はなかなか簡単に手にいれることができない。

そういう意味においてこの度の藤原龍一郎さんによる本書は、赤尾兜子を知る上でたいへん便利かつ貴重な一冊となった。

著者の藤原龍一郎さんは、若くして赤尾兜子の主宰する俳誌「渦」に入会(昭和49年)、「「数々のものに離れて額の花」「神々いつより生肉嫌う桃の花」といった赤尾兜子の形而上的な作品に強く魅かれる。」と著者略歴にある。直接に兜子を仰ぎその謦咳に触れた兜子の弟子である。この時の同人には、木割大雄、秦夕美、桑原三郎、柿本多映などの諸氏がいた。

本書は、編年体とはなっていない。「異貌の多面体」と題した巻末に、藤原さんは、このように書く。

赤尾兜子の俳句は異貌である。百句鑑賞執筆のためにあらためて兜子俳句を精読して、かねてより思っていたその認識は、いっそう強いものとなった。昭和三十年代、赤尾兜子の名が俳壇で知られ始める時期の俳句は、第一句集『蛇』と第二句集『虚像』に収められているが、このころの兜子の作品は伝統派の俳人はもちろん、同志であった前衛派の俳人の誰とも似ていない。前衛俳句とレッテルを貼ろうとしても、兜子の作品はそこから大きくはみ出している。それは兜子俳句としか名づけようがない異様なオリジナリティに満ちている。(略)

この本の百句鑑賞では、あえて、編年体をとらず、まず、その異貌が感受できる兜子秀句三十三句を第一部として置き、第二部に『稚年記』から『玄玄』までの作品から六十七句を編年順に並べて鑑賞した。

最初に兜子の作品の特徴をなすもの33句をあげてそれを鑑賞、のこりの67句を編年体で鑑賞する。というものとなった。

その33句のうちよりの一句をまず紹介したい。

 数々のものに離れて額の花   『歳華集』

『歳華集』中の傑作の一句。強烈な孤絶感覚が漲っている。この一句のキモは「に」という格助詞の妙だ。数々のもの「に」離れてゆえの孤立無援の深さ。これが「を」であったら、離れる対象のイメージが明らかになり過ぎる。「は」や「が」であると、主客が転倒してしまう。「数々のもの」とは日常の中のあれやこれやであり、ひいては森羅万象でもある。すべてから意志的に離れる主体。それを支える額アジサイの花の密集。虚無の極致の一句である。

 ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう    『玄玄』

『玄玄』の掉尾の一句。『赤尾兜子全句集』(立風書房刊)の和田悟朗氏のあとがきによると、この句は兜子の没後に、日記から発見されたのだそうだ。まさに、最後の一句ということになる。

昭和五十六年三月十七日午前八時過ぎ、自宅近くの阪急神戸線十善寺坂踏切にて急逝。

二つの夢とは何か? 何がまったく違うのか? 真意はついに不明のままである。春を告げるフキノトウをみつめながら、そこには生きる意志は生まれてこなかったのだろうか。

 音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢    『蛇』

赤尾兜子の代表句であり、前衛俳句という文学運動の結晶である。兜子自身は自句自解で、この句の原風景を、中学時代に寂しさがつのると、河口の堤に赴いてうずくまっていたこととしているが、そんな事実を離れて、この句のイメージは屹立している。「音楽」には三島由紀夫が小説で提示した官能感覚を読み取ってもよい。「蛇の飢」の凶暴性もまた、性的象徴であろう。

一方でこの句全体を、時代を侵蝕する危機感の象徴ととることもできる。優れた表現者の鋭い感性が受け止めた危うい兆しである。

何句か鑑賞をふくめて紹介したが、以下好きな句をいくつかあげる。

 秋炊ぐ聖書に瓦斯の火がおよぶ

 帰り花鶴折るうちに折り殺す

 微熱の眼に蘆刈の人消えゆきし

 こがらしが像(かたち)のみえぬもの吹けり

 幮(かや)に寝てまた睡蓮の閉づる夢

 征きて死ね寒の没日といま別れ

 蒼白な火事跡の靴下蝶発てり

 硝子器の白魚 水は過ぎゆけり

 時雨忌に買ふや地球儀わがために

 初雁や低き机に向き直る

 俳句思へば泪わき出づ朝の李花

まだほかにもたくさん好きな句はあるが、「異貌の多面体」の下に隠されたきわめて繊細にしてひそやかなロマンティシズムの匂いをわたしは嗅ぎ取ったように思えたのだ。

巻末の解説で、藤原龍一郎さんは「俳句のとの出会い」から自死にいたるまで兜子の俳句の軌跡を丹念にたどっていく。そして、句集ごとに兜子がその前衛的手法をいかに深化させていったかをつまびらかにしていく。第1句集『蛇』の後記を引用しながら、

同年齢の三島由紀夫を意識していたということと、昭和二十三年に山口誓子を中心として創刊された「天狼」の根源俳句へのレジスタンスの意識という発言は貴重なものだと思う。根源俳句の即物的な方法論に異を唱えたということから、抽象性を大きな武器とする前衛俳句の方法論へ向かっていったということだ。

その俳句的出発は「天狼」の根源俳句へのレジスタンスであったことを明かす。また、赤尾兜子が前衛俳句の方法論として提唱した「第三イメージ論」とはいかなるものであったのか。そのことについても、句集『虚像』の作品と「あとがき」を紹介しながら検証していく。そして同世代の俳人高柳重信の兜子観などの紹介などによって、当時の俳壇における兜子の位置づけも見えて来るのである。

藤原さんは記す。

昭和五十六年三月十七日の自死まで、兜子の俳句作品は多面体として、異色の光を放ち続けていた。そして、多面体のどの面に映る容貌も、赤尾兜子でしかありえない異貌であった。(略)

読者にはこれらの句を虚心に味わっていただければと願う。百句の鑑賞とこの小論を読んでいただくことで、俳人赤尾兜子とその作品、まさに「異貌の多面体」ぶりを実感していただきたい。一人の俳人が試行錯誤し続けた俳句形式の広大な可能性も確認できるはずである。

 

  踊りの輪挫きし足は闇へゆく   兜 子

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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