Facebook・柴田 久美子さん投稿記事·
週刊現代に取り上げていただきました。深い感謝を込めて
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83565?fbclid=IwAR2_z7KxQVG0DUI4-3l45yATakW_ydvMRxKY22BT3jK2vJ4bO1oo7nCifhA 【人が「死ぬとき」何が起きるのか? 死に「立ち会ってきた人たち」が目の当たりにした光景】より
一説によると、盂蘭盆会(お盆)の語源はペルシャ語で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」だという。この夏、家族でお墓参りに行く前に、「死とはなにか」について考えてみませんか?
【前編】「死ぬ前に知っておきたい「死の前後」に起きること〜人間、死んだら終わりではない」
(2)死ぬ瞬間にあなたが見るもの感じるもの
【苦しいのか、心地いいのか】
〈心臓が止まって、真っ暗で、苦しいっていう状態で倒れている。でもそのときはまだ体の中にいる感覚なんですよね。その次の瞬間飛び上がっているんです。で、上か斜めから、自分の顔を見ている。そのときはね、息苦しいという感覚はないんです〉(28歳男性)
〈真っ暗な、宇宙空間みたいなところがあって、そこには、きらきら光って、輝くものが散らばっているんですね。自分も浮遊しちゃって、浮かんでいる状態。だいたい時間とかの概念がないんです。無重力のような状態で、その中で泳ぐような。
ちょっと気がついたら、遠くのほうに、きらーっと光る星みたいなのが見えて、そこだけは特別にこう一点輝いていて〉(30歳女性)
死ぬ瞬間、人はなにを見、なにを感じるのか。死んだ人にしか分からない「不可知な領域」だ。しかし、限りなくリアルな死の瞬間を知る方法がある。あと少しで絶命していたという人が、死の間際にした体験、いわゆる「臨死体験」だ。
冒頭の二つのエピソードは、明治大学意識情報学研究所で臨死体験の研究を行っている岩崎美香氏が、臨死体験をした当事者から聞いたもの。
岩崎氏は、事故などの突発的な出来事で「臨死体験」をした人延べ20人に聞き取りを実施。その成果を『臨死体験による一人称の死生観の変容』という論文にまとめた(年齢は臨死体験当時のもの)。
「どんなものが見えたか」「その後、感情や生き方に変化があったか」などを詳細に記している。
興味深いのが、多くの人がその体験を「苦痛なものではなかった」と答えていることだ。岩崎氏が説明する。
「お花畑のようなところだったとか、きれいな川が流れていたとか、光に包まれたとか、心地よさを感じた人が多かったのです。また、その体験の中で誰かに迎えられたという話も多かった。
26歳の女性は『たくさんの花が咲いていて、足で跨げるぐらいの小川が流れている。そこに2~3人ぐらいの人が立って、満面の笑みで私を見守っている。なんだかそっちにフーっと行ってしまいそうになる』と語っていました」
自身の臨死体験を明かすのは「日本看取り士会」の代表で、多くの死の場面に立ち会ってきた柴田久美子氏。幼い頃から小児ぜんそくに苦しんでいた柴田氏は、小学校5年生のとき、「幽体離脱」を経験する。
「寒い冬の日のことでした。ぜんそくが悪化し、自宅に医師や看護師もやってきた。
そのとき、自分の体とそれを囲んでいる家族が俯瞰で見えたんです。当の私は暑さも寒さも感じないし、とにかく延々と心地よさが続く感じでした。
気が付くと翌朝、私は母の腕の中にいたんです。一度臨死体験をした人は、その感覚を忘れないと言いますが、私はいまでもそのときのことを鮮明に覚えています」
【「走馬灯」を見る訳】
海外でも臨死体験に関する同様の聞き取り調査がなされているが、アメリカの言語学者、リサ・スマート氏は著書の中で〈自分の体から自分が離れていくのを感じ、下の様子も見えました。突然手が下りてきて、その手はとても不思議な光を放ち、私を引き上げたのです〉という臨死体験者のエピソードを紹介している。
死ぬ瞬間に光に包まれるというのは、普遍的な現象のようだ。僧侶で作家の玄侑宗久氏は「35年ほど前、7mくらいの木から落下したことがあったが、地面に墜落するまでに、過去の思い出が次々と脳裏に映し出された」と、いわゆる「走馬灯」の体験を明かしたうえで、死の間際になぜ「光」を見るのかについて、こう推察する。
「一つには、網膜に光を感じる細胞があるんですが、この細胞は酸欠状態になっても光を感じることができるので、光の体験をする方が多いのではないかと言われています。
一方で『生まれる瞬間の、産道を潜り抜けてきたときの記憶なのではないか』という説もある。みな、生まれたときは闇の世界から光の世界に出てくる。産道から出てくるときの記憶は、われわれは覚えていなくても脳には焼き付けられている。
暗闇を通る苦しみから、光のある世界へ出る喜び、それが死の間際に再現されているのかもしれません」
死の瞬間は、生まれる瞬間と一体になっているということだろう。
ところで、なぜ死の直前に「心地よさに包まれた」と話す人が多いのか。それは、人の体には死の間際に苦痛を和らげようとするメカニズムが備わっているからだ、と在宅医療・訪問診療を専門に行う「ホームオン・クリニックつくば」の平野国美院長が説明する。
「人が死ぬ間際には、脳から脳内麻薬ともいわれるエンドルフィンが分泌されて、体全体が快楽に包まれます。これが『臨死体験』において苦痛が少ない原因だと思われます。
私の患者さんでも『意識を失って、気が付いたらお花畑を歩いていた。ふと見ると川が流れていて、その対岸で亡くなった母親が手を振っていた』という方がいらっしゃいました。
死後の世界があるのかは分かりませんが、人間の体には、死の瞬間に心地よい幻覚を見る機能が備わっているようです」
平野医師はさらに、自然死を迎える高齢者の場合、食が細くなり、体内にケトン体という物質が溜まっていくが、これもまた「多幸感」を感じさせる理由の一つだ、と付け加える。
では、「死ぬ瞬間には快楽が訪れる」と理解していいのだろうか。どうやらそうとは言いきれない。前出・岩崎氏が明かす。
「臨死体験をしたある女性は、〈目の前にムンクの『叫び』のような目の落ちくぼんだ人の顔が見え、耳元でジェット機のエンジンの隣にいるような轟音が聞こえた〉と、決して心地よいものではなかったことを証言しています」
この女性は、命に関わる薬物を過剰摂取したことで危険な状態に陥り、臨死体験をした。その後の人生でもネガティブな感情を引きずり、「他人のネガティブな想念が手に取るように感じられ、まるで自分のことのように思えた」のだという。
死の瞬間は必ずしも心地よいものではない。苦しむ場合もあるし、生き残った場合、その苦しさを引きずることもある。
自然な死や突発的な死を過剰に恐れる必要はないのかもしれないが、まかり間違っても自ら命を断とうとは思わないほうがいい、ということだ。
(3)死んでから幸せになれるのはこういう人
【赦してもらえたか】
「人は死んだらどうなるのか」
そんな非科学的なことを考えても仕方ない、と笑う人もいるだろう。しかし、僧侶で相愛大学教授の釈徹宗氏は「死後の世界」を考えることの必要性をこう説く。
「仏教的に言えば、われわれの人生も来世も前世も、すべては虚構なのです。突き詰めると『明日』というのも、私たちが『明日はある』と確信しているだけで、実際に明日が来るかどうかは分からない。でも、そう信じなければ、人は生きていくことができない。
死んだあとどうなるかもそれと似ていて、どうなるかは分からないけれど、死を超えても続くような道が開いていることで、人は『死んだら終わり』という無常と向き合うことができるのです」
死後の世界があるなら、そこでも幸せに暮らしたいと思って当然だ。実際、宗教者や医師、看取りにかかわる専門家たちは、「私は死んだあと幸せになれますか」と聞かれることがよくあるという。
難問中の難問だが、目の前で不安そうにしているこの人を安心させなければならない。
「遺された家族や友人から『この人の亡くなり方は素敵だったな』と思われる人は、死後も幸せに過ごせるのではないか、と説きます」と言うのは、看取り士の柴田久美子氏だ。
「64歳の男性がん患者を看取ったときの話です。その方は子供がおらず奥様と二人で暮らしていました。最期までの時間を自宅で過ごすと決めて、かかりつけ医も、看護師も、すべて自分で選んでお願いしていました」
死の直前のこと。体が痛くて痛くてしょうがないということで、男性は医師を自宅に呼んで、モルヒネ注射をしてもらった。ところが処方の量が合わなかったのか、痛みが和らがなかったという。柴田氏が続ける。
「男性は死への恐怖から『効かないじゃないか!』と怒鳴ったんですが、お医者さんは自分を選んでくれたという使命感がありますから、『本当に申し訳ありません』と平謝りするんです。
すると男性も、薬が効かないのを医師のせいにして申し訳ないと謝って、穏やかな表情になっていった。
男性はその数日後に亡くなりましたが、遺された奥様が『主人のことを本当に理解してくださるお医者さまや看取り士の皆さんに囲まれて、この人は本当に幸せでした。私もこの人のように最期を迎えたいです』とおっしゃいました。
自分の理想とする最期を迎え、それを見届けた人の死に方にも影響を与えられたなら、その人は死んだのちも幸せなのではないでしょうか」
医師の平野国美氏は、「最期の瞬間に赦してもらえた人」は、どれだけ生前憎まれていても、幸せな「その後」を送れるのではないか、と言う。
「自宅で療養されている男性で、私にわがままを言ったり、ヘルパーさんにセクハラまがいのことをしたりして困らせていた方がいました。みなその人に疲れていて、いけないこととは分かりながらも、ちょっと憎らしい気持ちさえありました。
ところが、その人が亡くなったとき、彼の部屋を整理していると、『いままで迷惑をかけてすみませんでした。大変楽しい人生で、おかげで幸せに逝くことができました』と書いた手紙があったのです。
それを見た瞬間、みんながその人のことを赦してしまった。いまでも、あの人は幸せでやっているだろうねと話しています」
僧侶で看護士の玉置妙憂氏は、仏教的観点からこんな話をする。
「仏教では、『死ぬ瞬間にどういう心持ちでいるかが来世を決める』とお釈迦さまが明確に言っています。
亡くなる最期の瞬間に『くそぅ、死にたくない』と怒りの気持ちを持った人は、来世の人生のベースにその怒りが流れ続ける。だから、来世で幸せに生きるためにも、死ぬ瞬間の最期の心持ちをとても大事にしなさい、と言われるのです」
あくまで仏教の世界の話と玉置氏は言うが、死んだあとも幸せでいるために、穏やかで幸せな最期を迎えましょう、というのは、間違った心構えではない。
また、前項で走馬灯体験について語った玄侑宗久氏は「死ぬ間際に脳裏に映し出される映像は、過去の強烈な体験がもとになっている。苦しんだ経験が流れる人よりは、やはり素敵な場面を回想できる人のほうが、幸せな気分で死を迎えられるのではないか」と語る。
良い走馬灯を見た人が「死んでからも幸せになる人」であるなら、良い走馬灯を見る方法が分かれば、幸せな「その後」を送れるということだ。そのヒントはある。埼玉県の病院に勤める、ある医師の話。
「たとえば会社員として長く勤めたことを誇りに思っている人が、死の間際に突然『もうすぐ、会社に行かなきゃいけないね』と言ったり、あるいは家庭を大事にしていた女性が『いま、娘にセーターを編んでいるのよ』と言うように、突然、過去の出来事を思い出し、なにかをし始めることがあるのです。
これも死の直前に起こる不思議な現象として捉えられていますが、最期の瞬間に良い記憶を見ながら『あの世』に行くために、脳が過去の記憶を整理しているのではないか、とも思えるのです」
普段からできるだけ自分の人生の良い記憶を整理しておくこと。これは、誰でもできる「死んでから幸せになるための作法」の一つだ。
(4)忘れ物はないですか?死を意識したら真っ先にやっておくこと
【言葉がなによりの贈り物】
いわゆる「死に支度」は、古今東西、人間にとって不変のテーマ。あの世へ旅立つ前になにをしておくべきなのか。それによって自分自身も、遺された人々の人生もまるで違うものになる。
「実は、ほとんどの方が心の片隅では分かっていながら実行できないことがあります。ご家族に向けたラストメッセージを残すことです。
これが、当たり前のようでいて難しいもの。ですが、手紙でもメモでも、形あるものを残しておくことはとても大事なのです。
ものを言えなくなってから、書けなくなってからでは遅い。家族にとって、その人を喪ってから寄る辺のない気持ちになることほどつらいものはありません。
たとえば、『自分の人生は満足のいくものだった。ありがとう』、『病気になっても、みんなと最後の時間を過ごせて嬉しかった』、『愛してる』という一言でもいいのです。
『あの人、普段はなにも言わなかったけど、心の中ではそんなことを思っていたんだ』という気持ちが伝わればそれでいい。ご家族の方々は悲しみながらも、上手に人生の仕舞い方をサポートしてあげられたと感じることができるでしょう」(医師の奥野滋子氏)
ラストメッセージを送る相手は、なにも家族だけではない。親友や恩人に向けたっていい。他にも、辞世の句などを残しておくのも有意義な死の準備だ。
人によっては、あらたまって手紙を綴ったりメッセージを残すことに気恥ずかしさを感じ、つい先延ばしにしてしまうこともあるだろう。そういう人は、かかりつけ医など身近な医療関係者や知人に自分の最後の言葉を託しておく、という選択肢もある。
実際、奥野氏が看取ってきたなかでも、「いま家族に本心を伝えるとお互い寂しくなって、別れがたい気持ちになってしまう。だから、私が死んだら伝えてほしい」と密かにメッセージの言付けを頼む人もいるという。
【最後の願いは何か】
意思表示という意味では、自分にとって望ましい死に方とはなにかをイメージして周囲に伝えておくことも肝心だ。
「自分はこうやって人生を終えたい、というのを家族に前もって伝えておく。それは日常のなかの些細な会話で充分です。
たとえば、自宅で一緒にテレビや映画を見ているときでもいい。死について語り合うきっかけは、そこかしこにあります。
普段の生活のシーンで『私はこう思うけど、あなたはどう?』、『自分だったら、こんなふうに死にたいな』と話すことにはとても意味があります」(前出・奥野氏)
それは、どんなに卑近でありふれた願いでもいい。たとえば、こんな例もある。30年以上にわたってケアマネージャーとして人の死に立ち会ってきた女性の談。
「あれは3年前。本当にお酒が好きな鹿児島出身の80代男性がいました。彼は晩年、体調を崩してお酒はおろか、食事すら満足に摂れていなかった。
でも、ことあるごとに奥さんに『人生の最後はお前と一緒に故郷の焼酎が飲みたい』と話していたんです。
いざ臨終を間近にして、自宅でその方を看取るときでした。奥さんが『あんなに言っていたから』と、お猪口に焼酎を注いで持たせてあげたんです。もちろん、お酒なんて飲める状況じゃない。
でもその瞬間、ずっと苦しそうな表情だった男性の顔がホッと和らいだんです。その方が眠るように息を引き取ったのは、30分後のことでした」
こうやって人は家族にメッセージを残し、死に近づいていく。そして最後に見つめるのは他でもない、自分自身だ。僧侶の釈徹宗氏は語る。
「病や死というものは、いくら準備をしても最終的には自分でデザインできないもの。いつだって思わぬ状況に身を置く可能性があるわけです。その意味では、死に際して不安が消えることなどありません。
むしろ大事なのは、どんな状況であってもその不安を受け入れ、死にゆく心を養うこと。それが本当の意味での死への準備なのでしょうね」
死は誰にでも訪れるが、その先に何があるのか、どこへ行くのかは誰からも学ぶことはできない。あなたにとって最後の旅となるあの世への出発、忘れ物はないだろうか。
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